聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

マルコ福音書 8章 ファリサイ派の人々とヘロデのパン種 その2

2009年05月19日 | 新約聖書日記
つづき

新約聖書略解 日本基督教団出版局 を、まとめて。
『15節弟子に向けた「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種」に対するイエスの警句が導入される。
パン生地の中で酵母を発酵させた「パン種」を混ぜて焼くと、パンは大きく膨らむ。
注意すべきパン種も、今は小さく、秘められているが、やがて大きく膨らんで顕在化するものであろう。
マルコの中でファリサイ派とヘロデ派ないしヘロデは、イエスを殺す意図で一貫する。

ここでもパンの奇跡がイエスと彼を通して実現される神の国を理解する鍵とされている。
21節そして「まだ理解しないか」と問われる。
ここで理解すべきは6・52からみると、イエスの、「神の子」としての権威を与えられた本質であろう。
従って、オープンな形で終わる問いかけは8・29のペトロのキリスト告白と繋がっている。
しかし特に第一のパンの奇跡は、終末完成の日に現実となる神の国の先取りであった。
するとキリストの本質への理解は、彼を通して実現される神の国の秘密の理解と不可分離に結合している。』


新聖書講解シリーズ2 マルコの福音書 いのちのことば社 を、まとめて。
『向こう岸に渡る舟の中で、イエスと弟子たちは、一つの問答を交わした。
弟子達がパンを一個しか持ってこなかったことがきっかけで問答が始まった。
パンのことにこだわって議論する弟子達と、そこから霊的な教訓を与えようとされるイエスとの間に微妙な食い違いを見せながら、問答は繰り広げられる。
 話の発端は、15節のイエスの警告であった。
「パン種」は、他に悪影響を与えるものの比喩で、イエスはパリサイ派の誤った批判精神とヘロデの世俗主義にくれぐれも気をつけるようにと警告されたのである。
パン種はほんのわずかでも、粉のかたまり全体を大きくふくらませる。
彼らの批判精神や世俗主義もそれと同じで、少しでも人の心に入ると、イエスを誤解させたり、宣教の働きを徹底的に破壊させる危険を含んでいた。
 この警告には、もう一つの意味がある。
マルコの福音書は、ローマのクリスチャンの求めによって書かれたといわれているが、このことばはユダヤの宗教的勢力とローマ帝国の権力に対する初めての警告とも受け取れる。
二つともこの世で栄えている権力集団であるが、それらの危険と限界をイエスはそれとなく暗示されたのであろう。
 さて、イエスのことばをめぐって弟子たちの議論が始まった。まず彼らにはイエスの警告の意味が分からなかった。
それには二つ理由があった。一つは、食べるパンの方に心が奪われていたからである。
二つ目は、イエスにパリサイ人とヘロデの危険がいかに迫っているかに、弟子達が少しも気づいていないためであった。
パリサイ人は、本格的にイエスを陥れようと謀り始めていた。弟子達はその深刻さに気がつかず、のんきにパンのことで議論していた。
 私たちも、しばしばこれと同じ過ちを犯す。問題の本質も、危機が差し迫っていることも知らずに、目先の現象に心を奪われていたずらに議論を繰り返すのである。
 そんな弟子達に対してイエスは、警告の意味を説明された。
「悟らないのですか」ということばを二回も使って、弟子達の霊的理解の鈍さを厳しく戒めている。
「二回にわたるパンの奇跡を思い起こしなさい。わたしは必要ならいつでもパンを与えることができる。だからわたしはあなたがたがパンを持ってくるのを忘れたことなど問題にしているのではない。
それよりあなたがたは、パリサイ人の悪意に満ちた批判精神とヘロデの世俗性に染まらないようにくれぐれも気をつけなさい」。
イエスはそう言っているのである。』



新約聖書注解Ⅰにつづく


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