聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

エステル記3章 その3

2007年08月26日 | 旧約聖書日記
つづき

「新聖書講解シリーズ エズラ記・ネヘミヤ記・エステル記 勝原忠明・工藤弘雄著いのちのことば社」を、まとめて。つづき。
『さて、本章において第一に学ぶべきことがらは、神とサタンとの激突についてである。
先に見たように、モルデカイがハマンを拝まなかった理由は、彼がハマンの地位に対して払うべき尊敬を払うのを嫌ったからとか、王の命令に不従順であったからとかという個人的なものではなかった。
結局それは、モルデカイがユダヤ人であるという宗教的理由から来るものであった。
ユダヤ人のユダヤ人たるゆえんは、唯一神信仰にあった。
ユダヤ人にとっては「あなたには、わたしの他に、ほかの神々があってはならない」は絶対至上の命令であった。
初代キリスト者たちも、ローマ帝国において断固としてカイザル礼拝を拒否し、殉教の道を選んで行った。
まさに偶像礼拝は、唯一神信仰者の信仰的生命にかかわる死活問題であった。
第二次世界大戦中、日本のキリスト者たちも、天皇神権、神社参拝においてその信仰が厳しく試されたが、この問題は今日のキリスト者にとっても避けて通ることのできない問題である。

ハマンの怒りは、結局は、モルデカイを彼たらしめているユダヤ人の唯一神信仰に対して向かった。
このようにその怒りを唯一神信仰の民に向けさせ、その民とその信仰を根絶やしにしようとしたのは、実はハマンではなくサタンであった。
この世の君、やみの夜の主権者であるサタンの姿がハマンの背後にちらついている。
われらの目には、モルデカイとハマンとの対立と見えるが、それは実は、神とサタンとの激突なのである。

本章における第二の教訓として剛毅なる信仰について教えられたい。
モルデカイの信仰の剛毅さは、神の民への永遠の鏡となった。
ハマンの礼拝拒否は、モルデカイの信仰的良心がそれを許さなかったのである。
彼がいかに自らの信仰的良心に忠実であったかは注目に値する。いつの時代でもキリスト者の価値は、自らの信仰的良心にいかに忠実であるかにかかっている。

キリスト者の信仰的良心への忠実さといえば、われらはすぐかのヴォルムス国会におけるマルティン・ルターのそれを思い起こすであろう。
「わたしはここに立っている。わたしはこうするほかはない。神よ、助けたまえ、アーメン」居並ぶ権威者たちの前で、ルターは自らの信仰的良心に堅く立ってこのように告白したといわれる。中世の暗黒の中に、人間の崇高なる「個の価値と自由」がさん然と輝いた一瞬であった。
言うまでも無くこのルターの自由は「わたしの良心は神の言葉にとらえられている」という神のことばへの絶対服従の自由であった。それは自立的独裁的人間の自主性では決してなかった。
同じくこの「信仰的良心の自由」と「個人の価値と尊厳」が高らかに宣言されたのは、内村鑑三のあの「不敬事件」の一瞬においてであった。
鑑三は教育勅語が拝礼の対象となった時、その拝礼を拒否した。それは一瞬の出来事ではあったが、永遠に価値のある出来事となった。
その時の心境を鑑三はこのように記している。
「小生ハ小生ノ基督信徒ノ良心ニ取テ安全ナル方ノ途ヲ取レリ」
彼はやがて職を失い、妻を亡くし、健康を損ない、国からも捨てられたのである。
内村鑑三は愛の対象であった妻や国や仕事といったいつも貴いものの安全よりも、キリスト者としての良心の安全の方を優先させたのである。
こうして彼は、真理の敵に対しては勇敢無比、されど私の敵に対しては無抵抗という「勇ましく高尚な生涯」を「後世への最大遺物」としたのである。

真の神の民の特質について
真の神の民の特質は、第一に「離散して、一つの民」である。
第二に「神のみことばに生きる民」である。
第三に「唯一神信仰の民」である。』



お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
唯一であり、わたしを愛してくださる神さま、
神さまのみことばに立つことができますように。
信仰が与えられますように。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。
アーメン


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