聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

マルコ福音書 シリア・フェニキアの女の信仰 その2

2008年09月02日 | 新約聖書日記
つづき

ここの聖書箇所の解釈は、3つの注解本によってかなり異なります。イエス様の少々冷たく感じられる態度や言葉の解釈が難しいなあと思います。


新約聖書略解 日本基督教団出版局 を、まとめて。
『「ティルス」は、明白な非ユダヤ人地域である。
まずイエスの隠れて留まろうとする明白な意志が示される。その姿勢は、非ユダヤ人の女性に対する否定的な姿勢にも通じる。

27節この論理は一方を「子供」、他方を「犬」と比較するところから始まる。
この比較を許すのは唯一、神によるイスラエルの選びという救済史的観点からである。イエスはイスラエルに遣わされた者として、異邦の女に対して明白に拒絶的である。

28節しかしその女は、子供のパンを犬から守ろうとするイエスに、彼が子供との関係を損なうことなく、犬と比較された者にパンを与える可能性を指示する。
食卓からこぼれるパンくずを犬が食べることを否定する理由は無いからである。

29節この言葉がイエスの拒絶を解かせる。「それほど言うなら、よろしい」の原文は「この言葉のゆえに」である。

非ユダヤ人を「異邦人」とする救済史的差別はゆるがず、その破棄はまだ視野に入っていない。
だが、その枠内にあっても、イエスが非ユダヤ人に対して自らを隠す必要はないことを、ひとりの女性が捨て身で示した物語である。』


新約聖書注解Ⅰ 日本基督教団出版局 を、まとめて。
『「ギリシア人」はここではギリシア語を使うなど文化的にギリシア的な生活をしていた非ユダヤ人を指す。

27~28節「子供たち(ユダヤ人)のパン(救い)を取って、小犬(異邦人)にやってはいけない」という比喩は異邦人伝道に消極的なユダヤ人キリスト教徒の立場を端的に表しているように思われる。
ユダヤ人は異教徒を犬と呼んだが、ここでは指小辞「子犬」―子供と同じように家の中で食物をもらうペット―が使われ、軽蔑的な意味合いはあまり感じられない。
27節aの発言は「まず」ユダヤ人、次に異邦人という救いの救済史的順序を述べており、27節bとはニュアンスが異なる。
27節aは27節bを修正するために伝承の過程かマルコの編集の段階で付加されたのではなかろうか。
機知に富んだ女の返答もむしろ27節bに対応する。

29節~30節イエスは女の熱意と信仰を喜び、娘の救いを約束し、その救いは実現する。
われわれのペリコーペ(☆)は異邦人伝道に対する一部のユダヤ人キリスト教徒の消極的姿勢を越えて、
救済史におけるユダヤ人の特別の地位を認めた上で、
異邦人の信仰を予期して、異邦人伝道を進めるべきであるという教会の考え方を表している。
マルコは言い伝えに固執してイエスに心を開かないユダヤ教指導者たちの姿を背景に、イエスの救いを熱心に求める異邦人の信仰を鮮やかに描き出している。』

☆ペリコーペ・・・もとは礼拝での朗読のために区切られた聖書の段落。すでにユダヤ教会での礼拝で、このような段落での区分がなされていた。
今日では、ある程度まとまった聖書の段落を指す聖書学の用語。



新聖書講解シリーズ マルコの福音書 いのちのことば社 へつづく


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