一燈照隅

日本が好きな日本人です

孝明天皇例祭

2007年01月30日 | 皇室
澄ましえぬ我身は水にしずむとも
猶にござじな万くに民
         孝明天皇


1月30日は孝明天皇例祭にあたります。
上記の歌は、我が身にかえてでも国の平安を願うという意味になります。
孝明天皇は16歳で即位され、当時は黒船来航による開港問題や幕末の動乱時代にあたりました。
その時代において上記の御製です。
何時の時代に於いても、天皇陛下は国民のことを思われています。



南京虐殺の虚構

2007年01月27日 | 支那事変
「パール判事の日本無罪論」を書かれた田中正明氏が、平成6年に南京事件について講演されその内容が本に書かれています。

真説・南京攻防戦

さて、これから南京事件についてお話し申しあげます。
これが南京の城壁でございます(南京の地図を指しながら)。この面積はどのくらいあるかと申しますと、南京は首都ではありますが、極めて狭いのです。東京世田谷区の五分の四の広さです。世田谷区よりも狭いのです。東京で言うと大田区、都市で言うと鎌倉市の大きさ、四十平方キロメートルです。私はここへ何遍も行きましたが、中華門から氾江門という揚子江へ出る門。これが幹線道路です。中山路。中山というのは孫文の名前です。この山(紫金山)に孫文のお墓、中山陵があります。
南から北まで歩いて一時間半で行けます。これが横の幹線道路。この中山門からこの漢中門まで歩いて一時間で行けます。こういう狭いところです。これだけ憶えておいてください。
十二月十三日が陥落の日です。昭和十二年十二月十二日に、西南の城壁の一角に日の丸の旗を立てます。南の各門が破れたのは十三日の朝でございます。松井大將は十二月九日の朝、飛行機でビラをまいて、「この中には女・子供もおり、外国の権益もある。開城して平和降伏をしなさい。十日の正午まで待つ。十日の正午までに、返事がなければ総攻撃する」。唐生智軍に勧告しました。
その前に南京市長の馬超俊は、十二月一日に全市民に命令して、寝具や食器を持参して市内中央の官庁街に設けられた「南京国際安全区」内に移住すべしと命じました。この南京安全区というのは、アメリカ人七人、イギリス人四人、ドイツ人三人、デンマーク人一人の十五人の第三国人によって管理されている避難地域です。ここには金陵大学もあるし、米国の大病院もあるし、高等法院もある。日本の領事館、その他、官庁の建物がいっぱいあるから、そこへ入れと馬市長は命令したのです。そうしてこの十五人の国際委員会に馬市長は、米と麦と塩とお金と若干のお巡りさんを預けます。「これで食わしてやってください」と。
だから、この安全区にいれば飯も食えるし、危険もないし、残留の全市民は、みんなここに入ったわけです。それが公称二十万人と委員会の記録にあります。
それから十二月七日、八日、この間に蒋介石はじめ、何応欣など、いわゆる国民党の軍部も政府も公務員も金持ちも全部揚子江をわたって漢口へ逃げてしまう。あるいは飛行機で逃げてしまう。そして最後には市長の馬超俊も市の公務員とともに逃げてしまう。もちろん市役所も税務署も、お巡りさんたちも警察も裁判所もみんな逃亡して、南京は無政府状態になるのです。残ったのは零細な市民と十五人の国際委員会、及びこの委員会が中心になって、YMCAや紅卍字会の青年たちが動員されて給食したり、難民の世話をしていたのです。
一方、十日正午の期限が来ても平和降伏の軍使は来ない。十日の正午から総攻撃に移ります。激戦は十三日未明まで続きます。日本の軍隊がずーっとほとんど取り巻いています。鹿児島の四十五連隊が城壁の西側から揚子江に沿って北上する。東側からは佐々木支隊と、三十三連隊が北上して下関(シャーカン)に出る。完全に包囲されたのです。そこで十三日朝に南の中華門とか光華門、中山門が破れる。そうすると、今まで守備していた約三万と言われているんですが、その兵隊たちが一斉に北へ逃げてしまう。軍司令官の唐生智は、すでに前夜逃亡しており、支那軍は全くの無統制、無秩序の状態です。
それで逃げるだけならいいんですよ。中山路一帯に軍服を脱ぎ、軍靴を脱いで、そうしてこの安全区の中へ逃げ込む。これを便衣兵と言います。つまり、軍服や軍靴を脱いで、そして鉄砲は隠して常民、いわゆる普通の住民たちの服を奪い取る、奪い取るために中国兵が抵抗した中国人を殺している。それを外国人が見ているのです。
とにかく、そういうことで敗残の便衣兵大体五、六千人は安全区内に遁入したとみられるのです。脱いだ軍服の数から見ても分かる。安全区の中に入ったのが五、六千人。そして大部分は揚子江に向かって逃げるのです。ここが混江門。これは三つ門があって、大きな門です。ところが、唐生智は勝手に支那兵が逃げ出さないようにというので門を塞いでしまったんです。
そこでどうしたかというと、城壁に上がりまして、城壁から飛び降りなければならないのですから、軍服をつないだり、ゲートルをつないだりしてぶら下がって降りる。パニックが起きまして、この下で二、三百人死んでいます。又城内では督戦隊にやられて相当死んでいます。
この難関をのりこえて出たところを、佐々木支隊が機銃掃射する。そのためここで大変な支那軍が戦死するわけなんです。そこを逃れた敗残兵は、つかまるものは何にでもつかまって揚子江を渡って浦口へ逃げようとする。小舟や筏はもちろんのこと、机でも椅子でも何でも浮かぶものがあったらつかまって、揚子江を渡ろうとする.そこへ第三艦隊が遡江してきてこれを撃つ。そのためここには死体がたくさんあった。これが後に南京に虐殺があったのではないかという噂をうむのですが、これは戦争です。
それから殺されないでうまく逃げた一隊が、揚子江に沿って南下してくる。これが新河鎮で鹿児島の四十五連隊とぶつかるわけです。堤防の上でものすごい戦争になるんです。日本軍も中隊長以下、八十名ほどがここで戦死しています。敵は三千人ほどの死体を残して逃亡します。この近くの江京門にのちに中共政府が作ったのが、三十万人虐殺の記念館であります。大きなガラス張りの中に骨をいっぱい入れて、これが虐殺された骨だと言うんですが、何のことはない、それは新河鎮での戦死者の遺骨なんです。その他幕府山で大量の捕虜を捕らえた程度で南京戦は終わります。
中山陵は孫文の墓ですから、立派なものです。皆さん、いったらご覧になることがあるかもしれませんが、日本の神社などというものではない。立派な大理石の壮大な建造物です。近くには明の孝陵もあります。
松井大將は中山陵のある紫金山を攻撃するのに大砲を撃ってもいかんというので、日本軍は大変苦労してここを攻めるのです。つまり、中山陵に鉄砲が当たったり、大砲が当たると壊れてしまいますから、そういうことまでして守ったんです。

二十万市民は安全であった

さて、この安全区には金沢の七連隊が入りまして、松井大將の命により安全区のすべての出入口に歩哨を立てまして、無用な者は入れなかった。そして十四日、この中に逃げ込んだ敗残兵(便衣兵)を摘出しなければならない、これは皆さんよく憶えておいて下さい。これは捕虜ではないんです。日本の教科書には「銃を置いた兵」と書いてある。「銃を置いた兵」というのは便衣兵ということで、便衣兵というのは戦時国際法によって即時処断されても至当であるとされているのです。
軍隊である、軍人であるということには条件が四つあります。一つは制服・制帽、揃った服を着ていなくてはいけない。二つは司令官、統率者がなくてはいけない。三つには軍紀、軍律がなくてはいけない。それから武器・兵器はあらわに持っていなくてはいけない。手榴弾を隠して持っていて、油断させておいて裏から投げる。こんなことは絶対許されない。これをなす者はいわゆる軍人ではない。だから、捕虜の資格はない。だから、処断されてもやむをえない。日本軍はこれを摘発して殺しました。
十四日にこの安全区の中から二百五十人を引っ張りだした。ところが、調べてみるとみんな兵卒ばかりである。将校はうまく逃げている。
それから調べましたら、この安全区の中から小銃や機関銃がぞくぞくと出てくる。速射砲が出てくる。郷弾筒が出てくる。手榴弾が出てくる。
いわゆる武器が続々と出てきた。だから、これは危ないと十五日は休んで、十六日にもう一度摘発します。日本の記録には千二百人になっています。この千二百人を引っ張りだして射殺します。そのときは支那人の通訳づきで、そしてここ(額)に軍帽の日焼けの後があるとか、銃タコがあるとか、若くて軍隊人らしき者とか、それから広東なまりの者……。つまり、南京守備隊には広東兵が多かったですから、そういった基準で選びだした。間違って普通の人が入っていたかもわからん。しかし、そういうことがあるからこそ、いわゆる便衣兵というのは絶対に許してはならないのです。戦時国際法が厳しく禁止しているゆえんです。
さらに十二月二十四日、三回目に約二千人を摘出しますが、この二千は捕虜収容所に入れています。
十二月十三日から翌年の二月九日まで五十八日間、この安全区国際委員会の十五人は毎日毎日、日記を書き、毎日毎日、日本の領事館に、日本軍の犯罪行為を告発しています。それによると、側聞まで含めて、
殺人四九件
傷害四四件
強姦三六一件▽多数三件▽数名六件
連行三九〇件▽多数一件▽数名二件
掠奪その他一七〇件
となっている。殺人わずか四十九件である。大虐殺などどこにもありません。
この中には松井大將の厳命で安全区内には一件の火事もなく、鉄砲の撃ち合いもなく、爆撃もなかった。ここに居住した公称二十万人の市民は全員無事だったのです。
ラーべというドイツ人の国際委員長が、「安全区は火事一つなく、鉄砲も撃ち込まれずに安全でございました。ありがとうございました」という感謝状を日本軍に出しているんです。ということは、市民は全員安全だったんですね。
しかも国際委員会の記録によると、公称二十万人の市民は約一カ月のち、一月十四日になると今度は公称二十五万人になっているのです。五万人増えているんです。なぜか、今まであちこちに隠れていた避難民が、平和が回復したから帰ろうというのでどんどん帰ってきたんです。

大虐殺は全くの作り話

皆さん、私の書いたこの本『朝日新聞が報道「平和甦る南京」の写真特集』を見てください。戦後朝日新聞は南京に大虐殺があった、あったということを書き通し、大キャンペーンをしたために、南京大虐殺が教科書に載るようになり、いまだに南京大虐殺はあったことになってしまっている。当時の朝日は、占領での南京の様子を忠実にちゃんと組み写真にして一カ月の間に五回にわたって、報道している。十二月十三日の入城から五日後には既に五枚の写真を新聞半ぺージ大に出している。十日目にはまた四枚の写真を半ぺージ大に出している。
占領五日目には中国の避難民が続々と帰ってくる写真、畑で農夫が耕しており、街頭では床屋が店をだし、子供が遊んでいる平和な写真です。十日目の写真は中国の捕虜にご飯をやっているところとか、中国の傷病兵を看病しているところとか、兵隊さんが中国の子供と楽しそうに遊んでいる写真です。これらは南京事件の第一級史料ですよ。
南京陥落の十二月十三日に一緒に入城したカメラマンと新聞記者、雑誌記者、いわゆるマスコミが百二十人入城して取材にあたっています。
そのほかに、時間的には若干遅れたりしますが、皆さんよくお名前は知っているでしょうが、大宅壮一という評論家、詩人の西条八十、草野心平、それに、杉山平助、木村毅、林芙美子、小林秀雄、野依秀一、石川達三という小説家や評論家が入城して取材にあたっている。百二十人のカメラマン、新聞記者、評論家がこの狭い南京市内に入っているんです。
その彼らの誰一人として死体の山も血の川も見ていないんです。一人も虐殺しているところを見たという人はいないんです。これはどういうことですか。大虐殺はなかったということでしょう。
それから私は申しあげたい。日本だけがなかったと言っているのではありません。南京戦を戦ったのは国民党軍です。その一番頂点にいたのが何応欽上将、つまり大將ですね。日本で言うと陸軍大將で総司令官と陸軍大臣を兼ねている。これが軍事報告書を出しています。この報告書にも南京虐殺は出てこない。
このころの国民党や共産党の雑誌や、新聞や、報告書には詳しく戦況や被害状況などが出ています。しかしいくら探しても、南京で虐殺があったということは書いていないんです。
当時、国際連盟というのがありました。今の国際連合の前身です。国際連盟は殆んど全員あげて反日援蒋で、中国の味方でした。昭和十二年八月、国連第八回総会の時シナは北支事変を提訴し「日本に抗議する対日宣言文」まで採択されました。さらに翌十三年一月には、英・仏・ソ・中の四力国による「支那事変問題の小委員会」をつくりまして、そして日本が広東・南京で軍事施設でないところに爆弾を落とした、けしからんと言って抗議までしているんです。しかし、一行も南京虐殺などということは書いていない。
五年前に天安門事件があったでしょう。あのときの騒ぎはどうですか。世界中の新聞、ことに人権を重んずるアメリカやイギリス等の新聞は、人権無視の行為だと言ってじゃんじゃん書きたてました。天安門事件の死者は僅か数百名であの騒ぎです。いわゆる南京大虐殺については一言の抗議もないんです。日本の教科書には当時、世界的な非難を浴びたと書いてある。私は外務省の藤田アジア局長と一時間半論争しました。「どこから抗議があったか、その証拠を見せてくれ。非難されたのなら非難された文章があるだろう」と。私が外務省の資料館で調べた限りにおいては南京虐殺に対する非難も抗議もない。資料を見ると、アメリカ大使館の自動車が日本の兵隊のために盗られた、あるいは傷つけられたといってその弁償までしています。しかし、虐殺があったというこ
とは一つもない。
阿羅(健一)君という私の同志が「ニューヨーク・タイムズ」、ロンドンの「タイムズ」、それからアメリカの有名な週刊雑誌に「タイム」というのがあります。あれは当時最も反日的な雑誌で、日本の悪口ばかり書いてました。それから「サンデー・エクスプレス」。この四つを十二月十三日から翌年の二月の終わりまでずーっと調べてみたと言うのです。社説に南京大虐殺は出てこない。記事の中にも日本軍が、虐殺したの、女・子供をどうしただの、そんなことは一つも出ていないと言うのです。
アリソンというアメリカの大使が、日本の兵隊に殴られたという事件がありました。それから皆さんご存じのように、米艦パネー号、英艦レディバード号に支那軍が乗って逃げた。それを砲撃した。そのために船が沈み、日本ではその船の賠償をしたり、大変な事件が起きました。そういう事件はたくさん書いてあるけれども、虐殺事件に関する記事は一行もないと言うのです。ところが、八年後日本が敗戦して東京裁判が始まると、とにかくニカ月間にわたって浴々と日本軍は南京で悪魔のような軍隊であった。女と見ればみんな強姦した。男と見れば銃殺した。品物を見れば奪って逃げた。家があれば放火した……と。
ただただ日本国民は恥じ入って小さくなっているばかりでした。当時GHQの言論統制は厳しく、それはウソだ、でたらめだと抗議することなど絶対に許されなかったのです。当時テレビはございません。ラジオです。毎晩毎晩、「真相はこうだ!」という放送を聞かされました。これはGHQがシナリオを書いて全国民に聞かせたのです。その「真相はこうだ!」のシナリオは、実に聞くに耐えない残虐な日本軍隊の姿でした。そうしなければ六百万人も殺したアウシュヴィッツに匹敵することはできなかったからです。
残念なことに、この東京裁判史観がいまだに日本国民の頭脳にしみ込んでしまって、中国のいう白髪三千丈式の戦時宣伝をいまだに信ずる人が多いということです。

東京裁判へでっちあげ報告

今度は東京裁判の話をしましょう。東京裁判は南京大虐殺のネタをどうしてつくったかと言いますと、昭和二十年十一月中国は南京に「南京敵人(日本軍)罪行調査委員会」というのをつくったんです。その調査委員会には警察はもちろん、弁護士会、医師会、商工会議所、青年団、それから紅卍字会、自治委員会など十四の団体が集まりまして、日本軍が南京を占領した時の被害状況を告発するよう市民に呼びかけました。
殺しを見たとか、何でもいい日本軍の悪いことを言いなさい、言いなさいといくたびも宣伝し勧誘したが、誰も言わない。その状況をこう書いています。中国語の原文で、「冬の蝉のごとく口を襟みて言わず」と書いてある。言わないということは要するになかったんですよ。なかったから言えないわけです。そこで手を変え、品を変えて、そうして何とか数字をつくらなければいけない。そこでどうしたか。
そこで、まずこの紅卍字会という団体が死体を埋葬した。どこでいくら埋葬したかということを作文して一覧表を作りました。これが大体四万五千人ぐらいの死体を葬った。これを全部虐殺死体であるとしたのでした。
もう一つ、崇善堂という葬儀屋があるんです。これがなんと十一万二千数百人葬ったと言うんです。当時、ブルドーザーもないし、トラックもないんですよ。どうやって十一万人の人間を穴を掘って埋めたと思いますか、これはもう常識で考えてもおかしいんです。しかも、八年後(八ヶ月後)に東京裁判が始まるというのでつくった統計表です。どこどこで幾ら殺しがあって、うち女は幾ら、男は幾ら、子供は幾らといった統計表をつくったんです。そんなものが信用できると思いますか。
東京裁判が終わってからのちに、とうとう化けの皮がはがれました。
産経新聞にも大きく出ましたが、評論家の阿羅君が、中国で発行していた南京市政府の書類の中に、この崇善堂という団体は当時、つまり、昭和十二、三年頃は休業していて活動はしていないというのがわかったんです。だから、この十一万二千数百人というのは全然でたらめな嘘の数字なんです。
皆さん、これはまた笑い話なんですが、「私は一人で日本軍が中国の婦人や子供を含めて五万七千八百十八人殺すのを見ました」。どうやって数えますか(笑)。「五万七千八百十八人殺すのを見ました」と言う男が現れた。それを麗々しく証拠にしているんですよ。
それから先程、ここ(新河鎮)で戦争があったと言いましたでしょう。戦争があって日本の中隊長も死んでいるんですが、敵の死体が約三千三百人。ここは湖南省の材木屋が筏を積んできて材木を下ろすところらしいんです。そこを見に行った二人の材木屋が沢山の支那兵の死体を見ておどろいた。この二人が「私どもは新河鎮で二万八千七百三十名の死体を埋葬しました」と申し出た。つまり三千人が三万人に十倍にふくらんだのです、しかもそれを二人で葬りました。どうやって二人の人間が三万人の死体を葬ったんでしょうか。こんなデタラメな嘘っぱちが重なって三十四万人殺したという数字を出しているんです。そのほか項目は三つほどあるんですが、それらの数を私が算盤を入れてみても三十四万人にはならないんです。二十五万三千三百人です。簡単な加え算の算盤さえも違っているのです。
これを受けた東京裁判の検察側も判事たちも、これをそのまま日本軍の犯罪とは言えないので、どうしたかと言うと、割り引きにしたんです。
多数判決、これを清瀬さんは六人組判決と言っています。十一人の判事の中の六人組アメリカ、イギリス、ソ連、中国、ニュージーランド、カナダの六力国の判事が集まって決めた判決なんです。そうすると、あとの判事はどうしたか。あとの判事は意見があったら書面で申し出よというのです。フランスのベルナール判事は十一人の判事が一堂に集まって罪名をどうするか、誰を処刑するか、罪を何等にするのかということを相談したことは一度もない、と内面暴露をしています。
それからオランダのローリング判事は、「広田弘毅という人は平和な立派な人格者だ。オランダ大使の時オランダ人はみな崇拝した。オランダにはヒロタというチューリップの名まである。そのヒロタを死刑にするとは何事か、あれは無罪である。あとの六人も死刑は不当、減刑せよ」と意見が分かれた。
肝心のオーストラリアのウエッブ裁判長も、六人組から除け者なんです。彼も、ナチス・ドイツの戦犯に比べて刑量が重すぎるという意見を出しています。
パール博士は「全員無罪。こんな裁判は裁判として成り立たない」と言っておられます。そのパール判事の言うのは、ただ感情論で言うのではなしに、「侵略とは何か」「戦犯とは何か」といった問題を提起して、世界中の国際法学者の今までの論文を引用し、そうして六人組が出した多数判決よりも、権威のある判決文です。六十万語と言われていますが、皆さん、もしお読みになるのでしたら、講談社の学術文庫で上下二巻で出ております。
要するに、十一人の判事のうちで六人組の六人だけが相談して有罪としただけで、あとの五人はそれぞれの意見を出しているわけです。東京裁判とはこういう裁判だったのです。裁判にあらざる裁判であります。
しかも六人組は、南京事件は日本軍が中国軍民を二十万人以上虐殺したと判決した。しかるに松井大將に対する判決はどうでしょう。貴官が統率した南京の日本軍は十万人以上を虐殺した、とさらに半分にねぎっているのです。こんなデタラメな裁判なんてあるでしょうか。一人の将軍を絞首刑に処するというのに、虐殺数を二十万だと言い、十万だと言う、これが東京裁判の正体なのです。
最後にパール判決文の最後の言葉を引用して講演を終わりたいと思います。
「時が熱狂と偏見をやわらげ、また、理性が虚偽からその仮面を剥ぎとったあかつきには、そのときこそ、正義の女神はその秤の平衡を保ちながら、過去の賞罰の多くに、そのところを変えることを要求するであろう」
まさにパールさんの言う「その時」は来たのです、いな来さしめなくてはならぬと存じます。
まだいろいろお話ししたいことはありますが、ちょうど時間になりましたので一応これをもって私の話を終わります。もしご質問がございましたら、どうぞよろしくお願いいたします。お粗末さまでした。
(拍手)
「大東亜戦争の総括」展転社より引用


近現代史評論家の田中正明氏死去









議員のレベルは国民のレベルを表す。

2007年01月25日 | Weblog
その国の国会議員のレベルは、国民の中から選ばれた代表ですから国民のレベルを表すと思います。
国会議員や地方議員の金についての問題が表面化し、鬼の首でも取ったように報道しています。しかし、この事は同じように国民にも言えることです。
給食費の未納問題などその例でしょう。
それ以外にも、自分の物は大切に扱い人の物や公共施設は雑に扱う人も多く見られます。
noblesse oblige 今の日本人にはこの事が無いようです。
自分さえよければいい。自分の金は自分の物。人になんかびた一文やらない。

議員をまともにするには国民の意識がまともにならない限り、議員の不祥事は今後も続くでしょう。
また、官僚も同じです。

給食費未納、親のモラル低下深刻 督促に“逆ギレ”も
平成17年度の1年だけで総額22億円の未納が明らかになった学校給食費。高知県の小中学校の全児童・生徒(約5万人)の給食費1年分にあたり、事態は深刻だ。全国調査は、未納者への対応に苦慮する声が相次いだことから実施されたものだが、「まさかここまで…」と絶句する教職員も。「払いたくないから払わない」。社会人としてのモラルに欠ける親たちへの対策はあるのか。

 「ブランド品で着飾った母親が集金袋にお金を入れない。子供が教室で泣いている」「高級外車を乗り回したり、携帯電話代を何万円も払っているのに、給食費は払わない親がいる」。最近の教育現場で、実際にあった報告だ。

 「頼んでない」「(給食を)止められるものなら止めてみろ」。督促に“逆ギレ”するケースもある。悪質なケースについて同省は「法的措置を講じた事例を参考としつつ対応する」としている。今回の調査の結果、強制執行などの法的措置を実施した学校は281校もあり、厳しい対応は今後も増えそうだ。

 広島県庄原市は、3人の子供の給食費77カ月分(約70万円)を滞納した保護者を相手取り本訴を起こした。困窮していないのに給食費だけでなく保育料や税金まで滞納していた保護者は裁判で、「義務教育だから払わない」などと持論を展開。これらの反論は認められなかったが、広島地裁は昨年12月、督促の時効(2年)分を除いた約10万円の支払いを保護者に命じた。

 未納者対策では、東京都葛飾区のように生活保護世帯に加算される給食費援助を校長の口座に直接振り込む措置を取ったり、神奈川県城山町のように集金袋を復活させたうえ、保護者に徴収を任せて未納率を下げた自治体もある。

 同省の調査では、未納を減少させた対策として、保護者との個人面談や家庭訪問などを通じたねばり強い説得が半数以上を占めた。しかし、これらの対策は、現場の教師の負担が大きい。

 一方、未納があったために、4000校が食材の質や量を落としていた事態も判明。自治体や学校が補填(ほてん)したケースもある。同省学校健康教育課は「一人くらいという気持ちが他の子供たちに影響を与えることに気づいてほしい」と注意を喚起した。

(2007/01/25 08:26)産経新聞


映画「南京の真実」制作へ

2007年01月24日 | Weblog
米映画「南京」は捏造! 保守系有志ら“真実”の映画製作へ

昭和12年、旧日本軍が日中戦争で南京を攻略した際、「南京大虐殺があった」との立場で描いた映画「南京」の上映が今月18日から米国の映画祭で始まった。これに対し、保守系の有志らが「南京大虐殺は政治的陰謀のでっちあげ」とするドキュメンタリー映画「南京の真実」の製作に乗り出す。
 映画「南京」は事件当時、現地に滞在していたドイツ人ビジネスマン、ジョン・ラーベ氏の残した日記を踏まえ、製作された。映画では犠牲者の数が「20万人以上」とされている。今年はほかにも中国系米国人作家、故アイリス・チャン氏のベストセラー「ザ・レイプ・オブ・南京」を下敷きにした米英中の合作映画など、5本程度の「南京大虐殺」映画が封切られる予定だ。
 ただ、チャン氏の著作に対しては、「掲載された写真は中国国民党の宣伝担当による捏造(ねつぞう)で、南京大虐殺を証拠立てるものは存在しない」(東中野修道亜細亜大教授)など保守論壇からは否定的な見方が相次いでいる。
 映画「南京」のストーリーに反発する、衛星放送テレビ局「日本文化チャンネル桜」(東京都渋谷区)社長で映画監督の水島総さん(57)は「ありもしない『南京大虐殺』が歴史の『真実』とされるのは納得がいかない。このまま何の手も打たず、日本の国際的なイメージが悪化するのは見過ごせない」と映画の製作を思い立った。
 水島さん自らがメガホンを取り、当時の生存者の証言やフィルムなどをまとめ、今夏までに完成させる。今年は南京攻略から70年。南京が陥落した12月に合わせ、劇場公開と世界への配信を目指す。水島さんは「国内外の誤った歴史認識を改める道を切り開きたい」と話している。24日に映画の製作委員会を発足させ、製作資金の支援を一般に求める。問い合わせは同委員会準備室((電)03・5464・1937)。


映画「南京の真実(仮題)」公式サイト

「南京、日本軍の入城によって治安が確保される」





支那、朝鮮に行く政治家は伊企灘になれ

2007年01月22日 | 時事問題
韓国(からくに)の城(き)の上(へ)に立ちて大葉子は領布(ひれ)振らすも日本(やまと)へ向きて
大葉子


『日本書紀』によれば、第二十九代・欽明天皇二十三年(五六二)、朝鮮半島におけるわが国の拠点、任那は新羅によって滅ぼされた。その後も凄惨な戦いが続くが、その折、日本軍の猛将、伊企灘が捕らえられ袴を脱がされて尻を日本に向け「日本の将よ、わが尻を食らえ」と大声で叫べと強制される。だが伊企灘はそれに耳を傾けることなく、「新羅の王よ、わが尻を食らえ」と絶叫して殺され、並みいる将兵たちに深い感銘を与えた。
この歌は、『日本書紀』では、そのとき、夫とともに捕らえられた伊企灘の妻、大葉子が詠んだ歌と記されているが、歌詞によれば韓国の城の上に立って、遠い日本に向かって領布を振って別れを惜しむ大葉子の姿を第三者が詠んだ歌ではあるまいか。とすれば「韓国の城の上に立って、大葉子は夫、伊企灘の死を悼みつつ日本に向かって領布を振って別れを告げていることよ」の意であろう。「振らす」という敬語の中に人々の大葉子への畏敬の気持ちが示されている。「領布」は古く婦人が正装のときに肩にかけた白い布のこと。古代の朝鮮半島で戦った将兵の心情を偲ぶ貴重な一首である。
「名歌でたどる日本の心」より


伊企灘の話しは知っている人が多いと思います。

最近与党議員の支那訪問が増えています。これらの人達は何をしに行っているのでしょうか。
日本の国益を損なうことをやってないでしょうか。どうしても行くなら、自国を中心に考えて、支那を利用する考えで行ってほしい。
単に友好と言う名目で行くほど目出度い議員は、国会議員を辞めてくれ。
支那が他国の議員を招待するのは、支那にとって利用するためにしているだけです。
しかし、先日NHKのニュースで、二階氏と漆原氏が訪中するについて、四月に来日する温家宝が国会演説をすることで政府と調整中と報道していました。
もし、政府がこの事を認めているのなら、先日の安倍総理がEU各国で言ってきた、自由、民主主義、基本的な人権、法の支配の四つの基本は何だったのかとなってしまう。
支那はまさにこの四点が無い共産党の一党独裁国家です。このような国の首相に国会演説をさすのは謝罪決議以来の汚点です。
二階氏は、江沢民の銅像を造れなかったので、変わりに国会演説をしようとしているのではないか。
国会議員には支那、朝鮮に汚染されている者がかなり居る。
日本国の国会議員なら伊企灘のようになれ。


野党応援のマスコミ。

2007年01月18日 | 時事問題
先週、先々週とマスコミが騒いでいた「事務所費問題」いつの間にか騒がれなくなっています。
しかも、騒がれなくなったのが、民主党小沢代表の事務諸費問題が出てきて以後です。
それまでは蜂の巣を突っついたように騒いでいました。なぜ騒がなくなったのでしょうか。不思議です。
16日に毎日新聞が記事にした、民主党角田氏の裏金問題など、テレビでは全くと言っていいほど報道されていません。
2001年の参議院選なので既に時効が成立しているのでしょうか。それなら佐田前大臣と同じです。しかしあの時は大臣の責任問題ばかりでした。
角田氏の件は何故問題にしないのでしょうか。しかも朝鮮総連系からも金を受け取っています。政治資金規正法で外国人団体からは寄付を受けることが禁止されています。

これから分かることは、自民党は取り上げ野党は軽く触れる程度で、マスコミは露骨に安倍政権を潰そうとしているのでしょう。

角田参院副議長:陣営、寄付2517万円「裏金処理」 01年参院選

 ◇外国人団体からも

 参院の角田義一副議長(群馬選挙区)が3選を果たした01年夏の参院選で、民主党群馬県連などでつくる総合選挙対策本部に「陣中見舞い」などとして寄付された個人・団体献金計約2517万円が、同県連や角田氏らの政治資金収支報告書に記載されていないことが16日、分かった。毎日新聞は寄付を記した裏帳簿を入手。中には寄付を受けることが禁止されている外国人団体も記載されていた。当時の会計担当者は裏帳簿作成と報告書などへの未記載を認め「指示を受けて作成した。すべて裏金として処理された」と話しており、政治資金規正法などに抵触する可能性がある。

 裏帳簿などによると、角田氏の総合選対本部は参院選前後の01年5~8月、企業・団体約90団体、個人約130人から献金を受けた。しかし、当時、角田氏が代表を務めていた民主党県連と党群馬県参院選挙区第1総支部、角田氏の資金管理団体や後援会などいずれの報告書にも献金の記載はなかった。政治資金規正法は政党や政治家の資金管理団体などが献金を受けた場合、政治資金収支報告書への記載を義務付けている。また、公職選挙法は選挙に伴う寄付を選挙運動費用収支報告書に記載するよう義務付けている。当時の会計担当者はこれらの報告書作成を担当していたという。

 帳簿に記載されている団体は、連合群馬(前橋市、1000万円)、群馬県教職員組合(同、600万円)などのほか、社民党県連(同、30万円)も含まれる。また、政治資金規正法で寄付を受けることが禁止されている外国人団体で朝鮮総連系の「在日本朝鮮群馬県商工会」(前橋市、50万円)もあった。このうち、全国社会保険労務士政治連盟(東京都)や群馬県興農政治連盟(前橋市)、同県税理士政治連盟(同)が10万~30万円を寄付したことを報告書に記載している。同県庁職員労働組合(同)は3万円の献金を認めている。

 連合群馬と県教職員組合は「担当者が不在でコメントできない」とし、社民党県連は「当時の資料がなく分からない」と話している。在日本朝鮮群馬県商工会は「事実関係は分からない」としている。角田氏の事務所は16日、「党群馬県参議院選挙区第1総支部、角田義一後援会もしくは(資金管理団体の)角田義一政治経済研究会について調査したところ、ご指摘の献金の入金の事実がありません。他の団体については、角田義一は分かりません」と文書でコメントした。【杉本修作】

毎日新聞 2007年1月16日 東京夕刊


12年目の鎮魂の日

2007年01月17日 | 時事問題
救えなかった命かみしめ 元自衛官の神職・高橋さん

    
陸上自衛隊員だった一九九五年、阪神・淡路大震災の現場に入り救助活動に当たった後、神職になった三重県鈴鹿市の高橋洋司さん(44)が十七日、神戸で追悼行事に参列し、木板に異人館街や灘の酒蔵をあしらった手作りの灯ろう百個をささげる。

 底冷えの一月、たき火に明かりと暖を求めていた被災者。「あの光とぬくもりを届けたい」。ささげ続けた鎮魂の灯ろうは今年で七百個を超える。十七日、震災から十二年の朝がくる。

 九五年一月十九日未明、神戸市東灘区。旧三重県久居市(現・津市)の第三三普通科連隊で二等陸曹だった。目にしたのは、街を覆う暗闇と不気味な静寂だった。

 「生存者はいるのか」。地震から二日以上が経過し、半信半疑のまま、夜明けとともに救助活動を始めた。「うー…」。ヘリコプターのごう音やサイレンに混じって、全壊した木造二階建て住宅の奥から女性のうめきが漏れてきた。

 身長一五五センチの高橋さんが、壁の約三十センチのすき間から、ほふく前進した。ベッドの上に仏壇と食器棚が覆いかぶさっていた。ベッドと床のすき間にうつぶせに倒れていたお年寄りが声を絞り出した。「水がほしい」

 同連隊が救ったのは六人。路上には毛布に包まれた多くの遺体が横たえられていた。陸自派遣要請の遅れも人命救助を難しくした、と思う。

 無力さを思い知り、救えなかった命の尊さをかみしめた。「自然の厳しさを世に伝えることが天職だ」。震災の翌年、自衛隊を辞め、以前から持っていた資格を生かし神職へ転じた。神主として新築工事の地鎮祭に立ち会う際、周辺を走る活断層や津波被害の怖さを施主に必ず説明する。

 身をもって経験した自然の力への畏怖(いふ)と鎮魂の思いを背負い、高橋さんは祈り続ける。
(神戸新聞)


阪神淡路大震災から今年で12年経ちました。
震災の年に生まれた子が、小学校6年生になっているのですね。来年からは小学校は、震災以後に生まれた子供だけになるのですね。
年々マスコミも取り上げが小さくなってきていますが、震災直後の惨状のビデオを見ると今でも涙が出てきます。
当時、NHKのアナウンサーが放送途中で涙を流して言葉に詰まったのを今でも覚えています。
この時、国も県もしっかりしていたら、犠牲者を減らすことが出来ただろう。

阪神・淡路大震災から11年。いきなり揺れは来た!


ローマ法王が所謂ABC級戦犯を慰霊

2007年01月16日 | 大東亜戦争
最近出版された本に、「東京裁判の亡霊を撃て」(展転社)というのがあります。
今日購入したとこなのでこれから読みますが、名越二荒之助氏が推薦の言葉を書かれているので、その言葉を掲載します。

アジア独立のメッカは靖国神社―イドリスノ特派員のことば
昨年の八月十五日には、靖国神社に二十万五千人の人々が参拝した。その時例年のように境内で、大規模な慰霊集会が開催された。何人かの登壇者の中で、世界イスラム連盟東京特派員のイドリスノ・マジッド師の発言が忘れらない。彼は言う。

「大東亜戦争によって、アジア諸国はすべて独立した。命をかけて独立に献身した人は誰か。言わずと知れた靖国の神々である。靖国神社は我々アジア人にとって独立のメッカである。我々は毎日五回ずつ、靖国神社に向かって祈りを捧げなければならない」

私は聞きながら想起した。メッカは他にもある。ビルマ独立のメッカは、静岡県浜松ではないか。
鈴木敬司大佐は開戦前、ビルマからオンサンやラミヤンを自分の郷里・浜松に招いて、独立の秘策を練った。まず三十人志士を養成し、開戦と同時に彼らを先頭にして、ビルマ国内に進撃することで独立の波を一挙に高める。この戦略は見事に成功し、いま浜松の大草山頂に記念碑が建っている。それではフィリピン独立のメッカはどこか。愛知県の三ヶ根山には比島観音がある。いやフィリピン人に聞けば、「それは特攻隊発進基地があったマバラカットだ。そこには銅像と記念碑もある」と答えるかもしれない。

独立を忘れた国・日本―ビル・トッテン氏のことば
そんなことを連想しながら、また別のことを思い出していた。それは平成十四年の九月に、参議院議員会館でビル・トッテンというアメリカ人の事業家の講演を聴いたことだ。彼の発想は日本人がとても及ばないくらいずば抜けていた。

「大東亜戦争によってアジアのみならず、アフリカ諸国までようやく独立した。世界史の大転換であり、いくら評価しても、し過ぎることはない。その中でまだ独立していない国が一つだけ残っている。その未独立の国は、外国製の憲法を今も有難がっている。隣国から教科書の書き直しを要求されたら、オタオタしながら従っている。日本人にとって最も神聖な靖国神社だが、首相が参るべきかどうかをめぐって、内輪喧嘩をしている。第一、国家の総力を挙げて戦った自国の戦争に『侵略』のラベルを貼り、それを首相談話に盛り込み、教科書にまで書き連ねている。こんな国が世界のどこにあるか。愛すべきミスター・ニッポンよ。サッカーの時だけ『ニッポン、ニッポン』と言わずに、歴史認識や国家観の中にニッポンを盛り込まなければ、独立国とは言えない」

彼があまりにもうまいことを言うので、質問するのを忘れていた。もしあの時私が、「日本の独立を奪ったのは、アメリカである。東京裁判といい、憲法の押し付けといい、まずアメリカから謝罪すべきではないか。一つだけ例を挙げよう。東京都品川区に品川(ほんせん)寺という真言宗のお寺がある。そこの仲田順和住職が、ローマ法王に会ったことがある。『東京裁判をどう思うか』と聞いてみた。法王は『連合国が自分のした事を棚に上げて、日本だけを裁いたのが、東京裁判である。私は恥かしいことだと思っている。処刑された人々を慰霊したい』と述べた。住職は法王の願いに応えて昭和五十五(一九八O)年、ABC級戦犯といわれる千六十八柱の位牌を、別製の五重塔に詰め、ローマまで持参した。五月二十一日、法王拝謁の大集会の時、法王は荘厳なる鎮魂のミサを捧げた。

このことはイタリアの新聞に写真入で報じられている(詳しくは拙著『昭和の戦争記念館第三巻』展転社刊を参照のこと)。ローマ・カトリックは歴史も古く、信者も十億を超えている。さすが法王である。不当な裁判で処刑された日本軍人に鎮魂のミサを捧げたのである。それに対してアメリカは直接手をくだした下手人である。処刑された遺族には、一人当たりウン億円の慰謝料を払ったらどうか」と言ったら、トッテン氏は何というであろう。

「初めて聞く話だ。こういう問題は私ではなく日本の国会が取り上げるべきだ。アメリカが日本の独立を奪ったと言うが、責任をアメリカに転嫁するようでは、真の独立国にはなれないよ。独立を奪われたというなら独力で跳ね返すべきだ。日本はかつて教育勅語を衆議院で排除決議を行い、参議院は失効決議を行った。東京裁判についても、衆参両院で排除・失効決議を行えばよいではないか。憲法とて同じ事である。マッカーサーが作ったコンスティテューションだから、それを破棄して、新しい自前の憲法を作ればいい。話しはそれからだ」と答えるのではないか。
(赤文字管理人)


太文字の部分ですが、ローマ法王(ヨハネ・パウロ2世)が、いわゆる戦犯とされた方々の鎮魂のミサを捧げていたのをこの本で始めて知りました。
カトリックの総本山であるバチカンが、昭和殉難者の慰霊をしているのなら、日本のカトリック信者が、首相の靖国神社参拝を違法と言うのは法王に逆らっているのではないか。
また、支那はバチカンと友好を結ぼうとしているが、支那も首相の靖国神社参拝に反対するのは矛盾するではないか。
元々支那は、日本のマスコミが騒ぐから利用しているだけに過ぎない。

このローマ法王の慰霊のことは「反日ワクチン」さんのブログに「昭和殉難者のミサ」として詳しく書かれていますので、そちらをご覧下さい。
http://vaccine.sblo.jp/article/1850309.html


歌会始

2007年01月15日 | 皇室
歌会始の儀 今年のお題は「月」

 新春恒例の「歌会始の儀」が15日、皇居・宮殿「松の間」で開かれた。今年のお題は「月」。天皇、皇后両陛下、皇太子ご夫妻はじめ皇族方のお歌のほか、天皇陛下に招かれた召人(めしうど)で歌人の大津留温さん(85)や、一般応募で入選した10人の歌などが、古式ゆかしい発声と節回しで朗詠された。

 宮内庁によると、天皇陛下は、宮殿で認証官任命式を終え、御所に戻るときの情景を詠まれた。皇后さまは毎年元日の明け方、宮中祭祀(さいし)に出られる陛下を見送り、ご自身も御所の外で拝礼する際に、年ごとに月や星の位置や満ち欠けが異なるのを楽しみにしながら、空を見上げる気持ちを歌にされたという。

 皇太子さまは、ほおを刺すような寒さと静けさに包まれたスキー場で、明るい月の光が注がれ、雪をかぶった木の茂みがくっきりと浮かび上がってくる様子を詠まれた。雅子さまは、昨秋のお月見のころ、「お月様がみたい」という愛子さまのお誘いで、一緒に東宮御所の庭に出て、手をつないで月夜を見上げながら、幼い愛子さまと過ごす日々の幸せを歌に込められたという。

 昨年9月に悠仁さまを出産された秋篠宮妃紀子さまは、入院中の病院で、家族の元を離れて入院生活を送る子供たちと、その子供たちを見守る医師や看護師に思いをはせて詠まれたという。
(産経新聞)


御製(天皇陛下のお歌) 
 務め終へ歩み速めて帰るみち月の光は白く照らせり

皇后陛下御歌 
 年ごとに月の在(あ)りどを確かむる歳旦祭(さいたんさい)に君を送りて

皇太子殿下お歌 
 降りそそぐ月の光に照らされて雪の原野の木むら浮かびく

皇太子妃殿下お歌 
 月見たしといふ幼な子の手をとりて出でたる庭に月あかくさす

文仁親王殿下お歌
 モンゴルを走る列車の車窓より見えし満月大地照らせり

文仁親王妃紀子殿下お歌
 月てらす夜半の病舎にいとけなき子らの命を人らまもれり

正仁親王殿下お歌
 望月の光あまねき草生(くさふ)よりかねたたきの声しづかに聞こゆ

正仁親王妃華子殿下お歌
 をとめらは夏の祭りのゆかた着て月あかりする山の路ゆく

崇仁親王妃百合子殿下お歌
 ならび立つ樹氷を青く照らしつつ蔵王(ざわう)の山に月のぼりたり

仁(ともひと)親王妃信子殿下お歌
 澄みわたる月の光をあふぎみて今の世思ひ次の世を思ふ

憲仁親王妃久子殿下お歌
 知床の月のひかりに照らされて梢にとまるしまふくろふ見ゆ

□お歌について


選歌(詠進者生年月日順)

岡山県  高原康子
 有明けの月照る畑に総出して出荷のアスター千本を切る

愛知県  奥村道子
 黒板に大き三日月吊されて園児らはいまし昼寝のさなか

徳島県  金川允子
 台風に倒れし稲架(はさ)を組みなほし稲束を掛く月のあかりに

秋田県  田村伊智子
 月光をたよりて屋根の雪をきる音かすかして子の丈みえず

広島県  杉田加代子
 弓張の月のかたぶくころほひに携帯メールはひそやかに来ぬ

北海道  藤林正則
 サハリンを望む丘のうへ放牧の牛千頭を照らす満月

秋田県  山中律雄
 映像に見し月山の朝のあめ昼すぎてわが町に移り来

東京都  藤田博子
 月の庭蒼き梢に目守られて昨日となる今日今日となる明日

東京都  一杉定恵
 実験のうまくゆかぬ日五ヶ月の胎児動きてわれを励ます

大阪府  吉田敬太
 帰省した兄とボールを蹴りに行く土手一面に月見草咲く

毎年ニュースの映像だけですが、今年はビデオに録画して後で見ました。
静かさの中の講師の独特の詠み。何となくですが風を感じました。
静かな中で厳粛な感じで行われるようで、自然と正座して背筋が伸びていました。

ところで、同じ事を言いますが、全マスコミに言えることですが、皇族方の正しい敬称を何故使わないのでしょう。変に親しみを覚えるからとか、開かれたなどの理由で使わないのでしょうか。
ちゃんと皇室典範に書かれています。
 「天皇、皇后、太皇太后及び皇太后の敬称は、陛下とする」
 「前項の皇族以外の皇族の敬称は、殿下とする」
マスコミもそろそろ、まともに成るべきです。

宮中歌会始がどのような感じなのか「宮中物語」から見てみます。
平安朝に遡る「歌会始」

宮中諸行事のなかで、いかにもそれらしき文化的雰囲気をもつものが、歌会始である。毎年一月十日前後に、あらかじめ公表したお題によって、広く国民の応募を求めた入選短歌の優秀作を公にする行事であるが、宮中文化というものの代表的な行事であろうか―。
昭和五十八年のお題「島」による歌会始の儀を見てみると、三万五千二百通のなかから選ばれた十首が(これを預選歌(よせんか)と呼んでいる)天皇陛下の御前で披講(ひこう)されるのである。(皇后陛下はご健康がすぐれず五十七年以降、ごく例外的な場合を除いていっさい公式行事にはお出になられなくなった)。応募作は広く米国、欧州、南米、アジアまで含む全世界から寄せられ、そのなかから優秀作を選ぶことになっている。
式場は宮殿松の間であり、歌会始委員、預選者、ついで各界および一般の陪聴者、さらに一部閣僚、議員、歌人、文化人その他約百名が着席する。このあと、この儀の司会役である読師(どくじ)(進行係でもある)、講師(こうじ)(読み上げ)、発声(独唱)、講頌(こうしょう)(合唱)およびそれぞれの控の方がたが着席、また陛下から特に歌を詠進するよう(召歌という)求められた召人(五十八年度は国学院大学、桑田忠親名誉教授)が出席する。
こうして一同が黒塗り枠の透かし背もたれに菊紋散らしを施した、紫布地の小椅子に着席を終ったのち、皇族各殿下および預選歌の懐紙が式場中央の披講席の卓上に準備され、さらに侍従が皇后陛下のご懐紙を捧持して式場に入り、空席のままの皇后陛下のお机の上に置く。
このあと天皇陛下がお出ましになられ、皇太子殿下、同妃殿下、浩宮殿下、常陸宮殿下、同妃殿下が従われる。ついで侍従が陛下ご着席の、菊紋模様の金欄地卓布を掛けた机上に御製の御懐紙を置き、このあと読師が参進して披講席について、歌会始の儀式が始まるのである。
式次第は選歌、召歌(召人の歌)、皇族、浩宮、皇太子妃、皇太子、皇后陛下御歌、陛下御製とつづくのである。講師が「年の始めに―ということをおおせごとによりてよめる歌」、つづいて「青森県、佐藤の春夫」といった前置きで懐紙を捧げてふしをつけずに詠み流す。読み終って発声に入り、古式にのっとったのどかで低い、しかし朗々たるよく透る声で、独特の節をつけて第一句を朗唱し、第二句目から講頌の四人が合唱風にのびやかに読み上げて、一首を終るのである。
朗唱が終り、預選者は一礼して着席、順次同じように(ただし二首目から「年の始めに」の言葉を省略する)繰り返されたあと、皇族の歌がつづく。このあとの皇后陛下の御歌の場合は、講師が御懐紙を卓上からいただいて戻り、読師とともに起立して黙読、「島、ということをよませ給える妃の宮の御歌一」と言い終るとともに参列者一同起立、講師の拝読ののち、二回の朗詠で終るのである。
次に講師は陛下の御前に進み、お机の上のご懐紙をいただいて披講席に戻り、起立したまま読師とともに黙読、次いで拝読、一同起立して御製を三度朗唱し終って着席となるのである。

講師はこのあと懐紙を折り畳み、御前に進んで卓上に戻し、陛下のご退場となる。
ついで両陛下机上のご懐紙をそれぞれの侍従が捧持して退出ののち、参列者一同の退場となる。この間、式次第の一部始終は松の間両側の高天井から落ちる照明のもとで、壁にはめこまれた薄墨色のガラス窓のなかのテレビ席から、全国に中継されているのである。
このあと関係者に対して陛下よりのお言葉があり、また記念品の伝達、記念撮影、記者会見、お祝いの食事(「賜饒」と呼んでいる)がつづき、さらに懇談会や記帳などがあって行事を終るのである。なお参列者はすべてモーニングコートまたは相当和服である。
ちなみにこの年の御製は、
「凪ぎわたる朝明の海のかなたにはほのぽのかすむ伊豆の大島」
であり、御歌は、
「島人のたつき支へし黄八丈の染めの草木をけふ見つるかな」
であった。





「親子で歌いつごう 日本の歌100選」決まる。

2007年01月14日 | 日本の文化
日本の歌百選にさくらさくらやSMAP

 文化庁は14日、公募の中から選んだ「親子で歌いつごう 日本の歌100選」を発表した。「さくらさくら」など古くから広く親しまれている曲や、平成15年にSMAPが歌いヒットした「世界に一つだけの花」(作詞作曲・槙原敬之)など、世代を問わずに口ずさめる曲が並んだ。

 河合隼雄文化庁長官(病気休職中)が「歌を通じて家族のきずなを確かめるきっかけに」と発案し、昨年9~11月に全国からはがきや電子メールなどで公募。歌手の由紀さおりさんらが委員を務める選考委員会が計6671通、895曲の中から101曲を選んだ。

 入選作には「お正月」「赤とんぼ」「めだかの学校」など童謡や民謡が目立つが、「いい日旅立ち」や「上を向いて歩こう」など昭和のヒット曲も入った。

 応募曲にまつわるエピソード募集では、両親から買ってもらったピアノをめぐる親子の思い出をつづった東京都目黒区の40歳代の女性に大賞、ほか15人が特別賞を受賞。

 100選の一部は14日午後、都内で開催したコンサートでお披露目された。文化庁は近く入選作を楽曲集として冊子にまとめる方針で、「音楽の副教材などとして学校現場でも活用してもらいたい」としている。



 日本の歌100選に選ばれた曲は次の通り。

 仰げば尊し/赤い靴/赤とんぼ/朝はどこから/あの町この町/あめふり/雨降りお月さん/あめふりくまのこ/いい日旅立ち/いつでも夢を/犬のおまわりさん/上を向いて歩こう/海/うれしいひなまつり/江戸子守歌/おうま/大きな栗の木の下で/大きな古時計/おかあさん/お正月/おはなしゆびさん/朧(おぼろ)月夜/思い出のアルバム/おもちゃのチャチャチャ/かあさんの歌/風/肩たたき/かもめの水兵さん/からたちの花/川の流れのように/汽車/汽車ポッポ/今日の日はさようなら/靴が鳴る/こいのぼり/高校三年生/荒城の月/秋桜/この道/こんにちは赤ちゃん/さくら貝の歌/さくらさくら/サッちゃん/里の秋/幸せなら手をたたこう/叱られて/四季の歌/時代/しゃぼん玉/ずいずいずっころばし/スキー/背くらべ/世界に一つだけの花/ぞうさん/早春賦/たきび/ちいさい秋みつけた/茶摘み/チューリップ/月の沙漠/翼をください/手のひらを太陽に/通りゃんせ/どこかで春が/ドレミの歌/どんぐりころころ/とんぼのめがね/ないしょ話/涙そうそう/夏の思い出/夏は来ぬ/七つの子/花(喜納昌吉作曲)/花(滝廉太郎作曲)/花の街/埴生の宿/浜千鳥/浜辺の歌/春が来た/春の小川/ふじの山/冬景色/冬の星座/故郷/蛍の光/牧場の朝/見上げてごらん夜の星を/みかんの花咲く丘/虫のこえ/むすんでひらいて/村祭/めだかの学校/もみじ/椰子(やし)の実/夕日/夕やけこやけ/雪/揺籃(ゆりかご)のうた/旅愁/リンゴの唄/われは海の子/(50音順)

(2007/01/14 19:31)産経新聞


文化庁が募集していた、「親子で歌いつごう 日本の歌百選」が決まりました。
中島みゆきの「時代」や槇原敬之の「世界に一つだけの花」は百選に選ばれるほどの歌だろうかと思うのですが、子供の頃学校で習った唱歌が多いのが何となく安心します。
唱歌を聞けば、日本の自然の美しさ、四季の移り変わりが奇麗に表現されています。

♪菜の花畠に、入日薄れ、
   見わたす山の端 霞ふかし…

まだ他に入れて欲しい唱歌はありますね。でも百選ですから仕方ないです。私としては軍歌も選んでもらいたかったけど。
しかし、このような日本の歌を子供達はもっと知ってもらいたいです。



筍子の人妖論

2007年01月13日 | たまには読書
筍子の人妖論
このような思想が近頃特に盛んになって参りましたが、文明というものは高度の発達をしますと、頽廃して、時には異常性を帯びてくる。この状態を東洋の哲学用語では「妖」という字で表現しております。今日、世界はもとより、日本の文明も著しく妖性を帯びて参りまして、由由しい一大事となっております。

ところがこういうことも歴史を調べておりますと、近代の哲学者、思想家ばかりでなく、はるか昔の東洋の哲学者も遣憾なく論じておるのであります。その代表は孔子、孟子でありますが、孔子の歿後、孟子と並び称せられて、時にはこちらの方が権威者であったといわれる人に荀子があります。この筍子に「人妖の論」というものがありますので、本日はこれについて解明をいたします。


筍子・人妖の論
禮義不修。内外無別。男女淫亂。父子相疑。則上下乖離。寇難拉至。(天論)

禮義修まらず、内外別無く、男女淫乱にして、父子相疑へば、則ち上下乖離(くわいり)し、寇難並び至る。

苛子は天論篇の中に人妖を説いて、以上の六つをそのままにしておくと、必ず国は滅びると痛論しております。

礼義不修
「礼義不修」。礼義は礼と義にわけると、礼とは調和で、つまり社会生活、国家生活における組織・秩序であり、その中にあって人間がいかになすべきかという思想・行動の原則が義であります。従って礼義修まらずとは私達の国家生活、或は社会生活の組織・秩序とそれに即した思想・行動がおさまらないということです。ちょうど現代の日本がこれにあてはまりましょう。

内外無別
「内外無別」とは、内と外との区別がつかぬ、自分の心内と心外、家庭の内と家庭の外、国内と国外の区別がないということです。今日の日本は正にその通りですね。「兄弟内に牆に閲(せめ)げども、外その侮を防ぐ」と申しますが、その意味で幕末維新の日本人は偉かったと思います。アメリカは勿論のこと、イギリス、フランス、オランダ、ロシアに至るまで、それぞれ国内の佐幕派、勤皇派に働きかけて誘惑しました。然し感心なことに両派とも外国に頼ることを厳として拒否しました。これは大変立派です。ヨーロッパの歴史を見ますと、外国の政策に乗ぜられておるか、或はそれを悪用して事態が一層紛糾しておる、といった例が殆んどであります。これをよく実証しておるのがフランス革命です。ルイ十六世が宮殿を逃げ出したのが辛亥の年であり、これを捕えてギロチンにかけ、あの惨澹たる恐怖政治を始めたのは癸丑の年からでありますが、彼等は目的のためには手段を選ばず、外国勢力でも何でも利用しておる。利用するというよりは、むしろ外国勢力によって操縦されております。

これはひとりフランス革命ばかりではありません。日本も今後これを最も警戒しなけれぽなりません。大にしては国家間のことかち、小にしては家庭のことに至る迄、すべてが然りであります。家庭というものは国民生活の核心でありますから、家庭から内外の別がなくなるということは重大な問題です。ところが昨今の新聞を見ておりますと、その家庭の乱れは実に目にあまるものがあります。どんなに外の生活が混乱しておっても、むしろ混乱しておればおるほど、われわれは家内―家庭生活だけは清く正しく堅持しなければなりません。

男女淫乱
「男女淫乱」。男女関係が乱れるということは民族滅亡の一番の近道です、ところが昨今日本もこれが非常に乱れまして、週刊誌等は挙ってこの種の記事を面白おかしく書いておりますが、大変なことになったものであります。

父子相疑
「父子相疑」。これは今日最も深刻にして根本的な問題であります。父子相疑とは何ぞや。母子相疑でなくて父子相疑と書いたところに萄子の見識があります。教育ママという言葉が表現するように終戦後子供の教育は専ら母親がこれにあたり、父親はその責任から解除されました。これが現在日本の一つの大きな失敗であります。子供の教育について考えますと、父と母とは非常に違い、父の任務は子供の人格を決定する教育を擔当することにあります。そこで父は子供の「敬」の対象にならなければなりません。子供は愛だけでは駄目であります。愛は犬や猫でももっておりますが、特に人の子は生れてもの心づく頃から「敬」することを知って、始めて「恥」づるということを知ります。言いかえると人格というものができるのです。

この敬―恥の原理から、道徳とか信仰等という世界がひらげて、民族が進歩してゆくのであります。
その国民道徳の基盤である父子―親子が相疑うようになる。おやじのいうことがどうも信用出来ぬ、あんなことでおやじはいいのだろうか、等と子供が父に疑をもつ。また父も、どうせ時世が違うのだ、おれの言うことなど聞かないし、聞いてもわかるまい。一体子供は何を考えておるのだろうか、というわけで子供を疑うわけです。そうなると子供は父にそむき離れます。

上下乖離
それが「上下乖離」ということです。乖離ということはただ離れるだけではありません。ただ離れるだけですと、又結合することができますが、これは再び元にもどすことができないという決着の言葉です。いま日本は各方面において「上下乖離」しております。その最たるものが政府即ち内閣に対する乖離であります。大阪弁で「頼みまっせ」、「頼りにしてまっせ」と言いますが、父親とか為政者というものは国民大衆から頼りにされ、尊敬されなければいけません。これが行われぬということはそもそも為政者の責任ですけれども、又為政者に対してそういう国民の反感を煽るような議論にも責任があります。これは言論機関にある者の第一に慎むべきことです。さて、上下が乖離するようになると最後は、

寇難並至
「寇難並至」、いろいろ寇難が並び起って来る。「寇」は外敵、外国からの攻撃。「難」は国内のむつかしい問題です。つまり国の内外を問わずいろいろ厄介な問題が並び起って来るわけです。

これが筍子・人妖の名論といわれておるものであって、歴史的にも間違いのない原理・原則です。これを何とかしてもう少し常識的・良心的に健康にもどさなければ、日本は正に歴史の教える通り寇難並び至ることをわれわれは覚悟しなければなりません。いかすればよいかということはこれらの古典が十分に教えておりますから・問題はこれを今日の時世にいかに適用するかということであります。

幸か不幸か今年は時局が一層悪化して、所謂危局になるということは免れ得ないと思います。その代りこれに善処すれば日本は一段と躍進するでしょう。その重大な岐路が本年でありまして、これは指導者、指導層の責任であります。政府でいうならば総理大臣を始め各省大臣、会社でいうならば社長を始め各重役、こういう人達は「揆」におる人ですから、この人達の責任としなければなりません。世の中が世の中だから、マスコミが騒ぎ立てるから、等というのは逃げ口上でありまして、今まではそれですみましたが、これからはそれではすまなくなりました。もうそういう逃げ口上、憶病な引っ込思案、卑屈な回避は許されないのであります。

いつも申し上げますように、日本ぐらい国際政治学上微妙な位置に存在する国はありません。西と北には共産義象の中共、ソ連、それに北鮮が並び、また海を隔て、東にはアメリカがあります。アメリカは現在一番の友好国でありますが、ついこの間までは大戦争をやった敵国です。ということは率直に言うて、日本がしっかりとしておって始めて友好国であるということで、一度弱体を暴露いたしますと、どうなるかわかりません。だから若し日本が揆を誤るようなことになると、恐らく世界のどこの国にもないような国難、混乱、悲劇が始まることは明らかであります。

われゝゝはどうしてもこれを避けなければなりません。勿論それにはやはりそれだけの国民的自覚が必要であります。これは少くとも心ある人々が意識し始めている問題でありまして、事業の経営なども今後はますます変化が激しくなってむつかしくなると思います。従って皆さんは文字通り揆を一にして、大いに事業を確立し、堅実に発展するよう努力されることが肝腎であります。現在多くの人々がそういうお手本を待ち望んでおります。どこかによい手本がないかと皆考えているときでありますから、非常な共鳴力がありましょう。それ以外に今日の日本を救う道はないと信じます。(昭和四十八年二月二十三日)
「時世と活学」安岡正篤著より





有本恵子さんの母 山崎氏を厳しく批判

2007年01月13日 | 拉致
有本恵子さんの母 山崎氏を厳しく批判

自民党の山崎拓前副総裁が北朝鮮を電撃訪朝したことについて、同国に拉致された神戸市出身の有本恵子さん=当時(23)=の母嘉代子さん(81)は十二日、同市長田区の自宅で神戸新聞社の取材に応じた。この日は、恵子さんの四十七歳の誕生日。嘉代子さんは「(拉致や核問題の解決の糸口を探ったとされるが)何を考えているのか。自分の功名心のためではないか」と話し、同国に利用されかねない行動と、厳しく批判した。(森 信弘)

 嘉代子さんは、「これまでずっとあの国を見てきたが、日本をなめ切っているのだから対話は無理」と強調。それが分からないのなら、議員の資格はない」と憤った。

 二〇〇二年の小泉前首相の訪朝では、被害者五人の帰国が実現したが、多くの被害者を残したまま、北朝鮮は問題を幕引きしようとした。嘉代子さんは「何人かだけ帰ってくるというのは、受け入れられない。自分の娘だけ帰ればいいとも思わない。すべての人を帰せと言い続けるしかない」と訴えた。

 その一方で、「(恵子さんのように)北朝鮮が死亡したと発表している被害者は、帰さないかもしれない」と不安をみせ、「いくら死んだと聞いても、納得はしない」と力を込めた。

 この日は、これまでと同じようにケーキと赤飯を用意し、夫の明弘さん(78)と二人で祝った。異国で暮らす娘の体を案じるが、自身も高齢に。「何とか元気なうちに帰ってきてほしい。政府は圧力を強め、できることを着々としてほしい」
(神戸新聞 1月13日)


山崎拓が支那で記者会見をしました。内容は何もなく、北朝鮮の発言をそのまま言ってるだけでした。
北朝鮮に行く前から予想された通りの結果です。
それとも公表できない土産を持って来てるのでしょうか。先ず有り得ないでしょう。北朝鮮がしているのは、日本国内の分断化です。
安倍首相の訪欧に合わせたのか、北朝鮮が単に利用しただけです。
逆に安倍首相は訪問国で、北朝鮮に対して強い合意を取っています。完全に北朝鮮の思惑が外れたと見るべきでしょう。
やはり、山崎拓は日本に帰ってこなくて良い。(私費で行ってないだろうし)
平沢勝栄もそろそろいい加減にするべきです。


海底にトルコ軍艦(エルトゥールル号)遺品

2007年01月13日 | Weblog
トルコ軍艦「エルトゥールル号」の遺品の鍋に目印を付けるダイバー=12日、和歌山県串本町沖(トルコ海底考古学研究所提供)

海底にトルコ軍艦遺品

和歌山県串本町沖で1890年に沈没したトルコ軍艦「エルトゥールル号」の遺品引き揚げに向け、トルコの民間研究機関「トルコ海底考古学研究所」などが12日、潜水調査を始め、海底で多数の遺品を見つけた。
この日は沈没地点付近にトルコの研究者と日本人ダイバー計6人が潜水。海底で、鉄砲の先に取り付ける刀の柄やボルト、金属片、鍋などを見つけ、刀の柄を回収した。
同研究所のトゥファン・トゥランル所長(54)は「遺品は思ったより多く、今後が期待できる」と話した。
エ号は、オスマントルコ時代の木造軍艦で全長76㍍。帰国途中で暴風雨に遭い沈没。乗組員約650人のうち、69人が地元住民に助けられ、この出来事がきっかけで串本町とトルコの友好が続いている。(1月13日産経新聞)


今朝の産経新聞大阪版の一面に掲載されていた記事です。
今朝の一面は、小沢代表の事務所費4億円が大きかったので見落とした方も居るかもしれませんね。
小沢代表の金の動きを調べれば、いろんな物が出てくるでしょうね。

その事は置いといて、トルコは親日国です。
トルコが親日になった原因が、日露戦争で日本がロシアを破った事と、このエルトゥールル号の遭難事件があります。
エルトゥールル号の遺品が多く見つかれば良いですね。

十九世紀末、日本では明治新政府が誕生したころのことです。「天皇を中心とした新しい政府をつくるため、政治や社会の改革をすすめました。この改革を明治維新といいます」(小学校社会科教科書より)

このこのころオスマン・トルコ帝国も日本と同じような立場にありました。両国とも同じように国内の改革を進め、対外的にはヨーロッパ列強に対し、平等な扱いを認めさせようと努力していました。当時のアブドル・ハミトニ世は明治天皇への特派使節としてオスマン・パシャ提督を選び、日本に派遣することを決めました。

トルコの使節団総勢六百五十人はエルトゥールル号に乗り込み、約一年をかけ遠路はるばる航海して、一八九〇年(明治二十三年)六月五日に横浜に到着しました。一行は上陸すると盛大な歓迎を受け、明治天皇に拝謁して晩餐会が催されました。
目的を果たした一行は、九月十五日に帰国の途に就くことになりました。

ちょうど台風シーズンに当たるこの時期に出港するのは危険だとして日本の関係者は帰国を遅らせるよう勧めましたが、オスマン・パシャ提督は「私たちはアラーの神に守られ、インド洋の荒波を越えてやってきたのです。心配には及びません」といって出発してしまったといわれています。

運命のいたずらか、エルトゥールル号は神戸に向かって航行中台風に遭い、和歌山県大島の樫野崎沖において難破・沈没してしまったのです。オスマン・パシャ提督を含む五百八十七人が死亡するという大惨事でした。生存者は六十九人で、翌日の未明にかけて岸に流れついた人々は、地元大島の村人に救われました。

この大惨事に対して日本は生存者の救助、介護、犠牲者の遺体・遺品の捜索、船の引き揚げなど事後措置を官民あげて手厚く行いました。義援金の募金が広く行われ、樫野崎に慰霊碑も建てられました。生き残った六十九人は軍艦「金剛」「比叡」により丁寧に送還されました。

イスタンブールの海軍博物館には、今もエルトゥールル号の遺品や日本で作られた追悼歌の楽譜などが展示されています。
この日本の手厚い事後処置にトルコの人達は感激しました。これ以来、今日まで日本とトルコは深い友情で結ばれているのです。(安達弘)
(「教科書が教えない歴史」より引用)



やはりこれはインターネット版“人権擁護法”でした!!

2007年01月12日 | 時事問題
くちべた日本人さんからのコメントを転載します。

やはりこれはインターネット版“人権擁護法”でした!!
ネット規制ガイドラインです.
反対の声を集めて断固阻止しましょう!!


【ガイドライン全文】
http://www.telesa.or.jp/consortium/provider/pdf/20070110_provider_guideline_2.pdf

上記でガイドラインが確認できます。
やはり絶対容認できません。
下記に意見募集さきがあります。
できるだけ多くの反対意見を集めなければなりません。
ブログ等でご紹介いただけるようにお願い致します。

総務省03-5253-5111
http://www.soumu.go.jp/opinions/opinions.html

さらに下記にも、反対意見を多く集めるべきだと思います。

首相官邸03-3581-0101
http://www.kantei.go.jp/jp/forms/goiken.html

http://www.jimin.jp/jimin/goiken/index.html
03-3581-6211(代)(自民党)

http://www.telesa.or.jp/consortium/provider/2007/20070110.htm
【これより引用URL全文です】

プロバイダ責任制限法ガイドライン等検討協議会

「プロバイダ責任制限法 発信者情報開示関係ガイドライン(案)」に係る意見募集について

 「プロバイダ責任制限法ガイドライン等検討協議会」は、プロバイダ責任制限法の施行( 平成14年5月27日)以来、プロバイダ等がインターネット上の権利侵害情報に対応するにあたり、第3条(損害賠償責任の制限)に関する対応の指針となる「名誉毀損・プライバシー関係ガイドライン」、「著作権関係ガイドライン」及び「商標権関係ガイドライン」を公表し、プロバイダ等に対しガイドラインに沿った対応が期待されることを啓発して参りました。

 一方で、第4条(発信者情報の開示請求等)に関する対応については、第4条の要件を満たす場合には裁判外において発信者情報を開示することも可能ですが、プロバイダ等が判断を誤って発信者情報の開示を行った場合には発信者に対して損害賠償責任を負うこととなるなどから、第4条にもとづく慎重な対応が行われてきております。

 昨今、発信者情報開示に関する請求が増加していること、また、発信者情報の開示が認められた裁判例等も見られることから、昨年9月に、協議会の下に発信者情報開示関係ワーキンググループを設置し、法律の専門家もまじえて検討を重ねて参りました。このたび、発信者情報開示関係ガイドラインの案が取りまとめられましたので、広く皆様のご意見をいただきたく、下記の要領により、意見募集を行うことといたしました。
なお、いただいたご意見については、今後の取りまとめの参考とさせていただきます。

●「プロバイダ責任制限法 発信者情報開示関係ガイドライン(案)」の概要

①特定電気通信による情報の流通によって権利侵害を受けた者からの発信者情報の開示請求が出された場合の判断基準を可能な範囲で明確化
②発信者情報開示請求する際の一連の手続を整備

(注)プロバイダ責任制限法関連の情報につきましては
    http://www.isplaw.jp/ を参照ください。

【意見募集要領】
(1)意見募集対象
 プロバイダ責任制限法 発信者情報開示関係ガイドライン(案)

(2)資料入手方法
 当ウェブページで閲覧に供しているほか、協議会の事務局である社団法人テレコムサービス協会の事務局と協議会の構成メンバーである社団法人電気通信事業者協会、社団法人日本インターネットプロバイダー協会の各事務局で配布しています。

(3)意見提出方法
  住所、氏名、所属団体名又は会社名を明記の上、日本語にて、以下のいずれかの方法によりご提出ください。

①電子メールの場合
  電子メールアドレス:jimukyoku@telesa.or.jp

②FAXの場合
  FAX番号:03-3597-1096
  社団法人テレコムサービス協会内
  プロバイダ責任制限法ガイドライン等検討協議会事務局
  意見募集係 宛

 *意見を FAXで提出する場合、以下により、別途意見の内容を記録したフロッピーディスクの提出をお願いいたします。なお、送付いただいたフロッピーディスクについては、返却が出来ませんのであらかじめご了承願います。

③郵送の場合
  〒105-0003
  東京都港区西新橋1-4-10 西新橋3森ビル
  社団法人テレコムサービス協会内
  プロバイダ責任制限法ガイドライン等検討協議会事務局
  意見募集係 宛

 *意見を郵送で提出する場合、以下により、その内容を記録したフロッピーディスクを添えて提出くださるようお願いいたします。なお、送付いただいたフロッピーディスクについては、返却が出来ませんのであらかじめご了承願います。

 ◆フロッピーディスクのフォーマット等
 フロッピーディスクに内容を記録するときは、次のフォーマット等でお願いします。また、フロッピーディスクには、提出者の氏名、提出日及びファイル名を記載したラベルを添付してください。

 フロッピーディスク :3.5インチ、2HD
 フォーマット形式  :1.4MBのMS-DOSフォーマット
 ファイル形式    :テキスト

(4)意見提出期限
 平成19年2月9日(金)正午

(5)意見提出上の注意
 寄せられた御意見については、氏名等を含め、公表することがあります。また、御意見に対して個別に回答はいたしかねますので、その旨御了承願います。

<問い合せ先>
 協議会事務局((社)テレコムサービス協会内
                     担 当:矢上
 TEL:03-3597-1092/FAX:03-3597-1096

【資料】
・報道資料
・プロバイダ責任制限法 発信者情報開示関係ガイドライン(案)

※追記
プロバイダ責任制限法発信者情報開示関係ガイドライン(案)テキスト版
こちらにもアップされています

http://yy28.60.kg/test/read.cgi/demo/1168623995/l50

こちらの方が見やすくなっています



安倍総理、EUの対支那武器輸出に反対表明。

2007年01月10日 | 時事問題
日英首脳会談、対北で結束確認

 【ロンドン=佐々木類】安倍晋三首相は9日午後(日本時間10日未明)、政府専用機でロンドンに到着、首相官邸でブレア首相と会談した。両首脳は、北朝鮮の核、ミサイル問題について国際社会が一致結束して対処する必要性を確認するとともに、拉致問題の早期解決に向けて協力していくことで合意した。

 安倍首相は、拉致問題について「極めて重大な問題であり、早期に解決する必要がある」と強調し、核開発問題については「グローバルな不拡散体制に対する重大な挑戦だ」と述べた。ブレア首相は北朝鮮問題に対する日本の立場を完全に支持する考えを示した。

 安倍首相はまた、経済成長の著しい中国について言及し「中国の発展は国際社会全体にとり、大きな好機だ」と歓迎する意向を表明。その一方で、「国防費の増大や知的所有権などで不透明性の問題もある。中国が地域や国際社会においてより責任ある役割を果たすよう働きかけていくことが重要」と指摘した。

 さらに、欧州連合(EU)内で浮上している対中武器禁輸の解除の動きについて「反対する」と明言。ブレア首相は「中国の武器は注意が必要。中国との関係はその動きを十分、客観的に注視していくことも重要だ」と日本の立場に理解を示した。

 両首脳は会談後、イラクや北朝鮮問題での緊密協力を盛り込んだ日英共同声明を発表した。

 安倍首相はこの後、次期英首相候補と目されるブラウン財務相、キャメロン保守党党首らの表敬訪問を受け、国際社会における日英の緊密連携の必要性を確認した。
(2007/01/10 09:22)産経新聞


日英首脳、北への国際圧力強化で一致
2007年1月10日(水)10:40

 【ロンドン=林博英】欧州訪問中の安倍首相は9日午後(日本時間10日未明)、ロンドンの首相官邸で、ブレア首相と約1時間10分会談した。両首脳は北朝鮮の核、ミサイル、拉致問題解決へ向け、北朝鮮に対し国際的圧力を強めていくことが必要との認識で一致した。

 安倍首相の就任後、日英首脳会談は初めて。安倍首相は北朝鮮問題について、「拉致問題は極めて重要な問題だ。核、ミサイル問題は不拡散体制への重大な挑戦として、国際社会が一致団結して取り組む必要がある」と指摘し、英国の協力を求めた。ブレア首相は「日本の立場を完全に支持し、協力したい」と応じた。

 また、安倍首相が欧州連合(EU)の対中武器禁輸措置の解除が「東アジアの安全保障に影響を及ぼし得る」として反対する考えを伝えたのに対し、ブレア首相も、「中国の動きには注意が必要だ」と述べた。イランの核問題についても両首脳は「深刻な懸念」を表明した。


山崎拓が北朝鮮に行きました。 帰ってこなくて良いです。そのまま北朝鮮に引き取ってもらいたい。
安倍政権誕生後も、山崎拓は日本国国会議員とは思えない発言をしています。
「対話と圧力で朝鮮半島の非核化を」の中で次のように書いています。

又、小泉政権で完全に行き詰っていた中韓両国との外交関係を打開すべく両国を訪問し、首脳会談を行って局面を打開したことは高く評価されます。但し、両国は安倍首相が在任中は靖国神社に参拝しないものと受け止めており、この期待にそむけば再び政冷経熱状態に戻るでしょう。


安倍総理に対して、中韓の期待に“背けば”とは何事か!
日本国総理は支那・韓国の配下ではありません。“背く”とは、命令や指示に対して逆らう、従わない事です。
支那・韓国の臣下と考えている山崎拓は、もう我が国に帰ってこなくて結構です。一つ自民党の掃除が出来ます。それと今回の件では平沢勝栄も処分する必要があります。

上記新聞記事ですが、テレビのニュースでは太字の部分は報道しないでしょうね。
この部分が肝心なんですが。
支那に対してのEUからの武器輸出は、支那の軍事力増強に繋がる為我が国にとって脅威になります。
この事に今までの首相は支那の顔色を伺って、はっきりとは発言してこなかったのがほとんどです。これについて支那が反応するかどうか楽しみでもありますが。

フランスは大統領選挙の結果によっては、武器輸出を再開しかねません。有力候補なのがフランス初の女性大統領になるかもしれないロワイヤル氏です。社会党なのでおそらく親中派でしょう。対する与党のサルコジ氏は日本を見下した発言をしています。
この国はEUで今後一番不安です。

安倍総理がこのような時期に訪欧したことで今後の情勢に期待したい。