一燈照隅

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新年祝賀の儀

2007年01月01日 | 皇室
皇居で「新年祝賀の儀」 両陛下に首相らお祝いの言葉

 天皇、皇后両陛下が皇族や三権の長らから新年のお祝いを受ける恒例の「新年祝賀の儀」が1日、皇居で開かれた。

 天皇陛下は「新しい年を共に祝うことを誠に喜ばしく思います。年頭に当たり、国の発展と国民の幸せを祈ります」とあいさつされた。

 午前10時から宮殿で皇太子ご夫妻や秋篠宮ご夫妻らが両陛下に祝賀。両陛下は皇族方とともに宮殿内を巡られ、安倍晋三首相や閣僚、衆参両院議長、最高裁長官らからお祝いの言葉を受けられた。午後は各国駐日大使らの祝賀を受けられる。

 皇太子妃雅子さまは両陛下への祝賀には参列したが、その後の行事は欠席された。

 2日は一般参賀が行われる。

(2007/01/01 12:59)産経新聞


元旦は、天皇陛下にとっては一番お忙しい日ではないでしょうか。
宮中祭祀の「四方拝」「歳旦祭」から始まり、ご公務の「新年祝賀の儀」までお忙しい一日です。
昭和天皇の式部官であった武田龍夫氏が「宮中物語」中公文庫に、どのような形なのか詳しく書かれています。

さてその新年行事は一月一日早暁、まず皇居内神嘉殿の南庭で行なわれる四方拝から始まる。すなわち陛下おんみずから伊勢神宮はじめ、天神地祇ならびに四方の神々と山陵を遥拝、あわせて国家の隆盛と皇室の繁栄を祈られるのである。
この祭の拝礼の仕方は「両段再拝」というもので、四方に向って、立って祈り、座って祈る、を繰り返すものである。(四方拝の儀は昭和五十六年以来「黄櫨染御抱(こうろぜんのごほう)」の浄衣の代りにモーニングを召されることとなり、また儀場は神嘉殿前庭から吹上御苑で行なわれることになった。ご高齢の陛下のお体への配慮からである)。

右ののち、賢所では歳旦祭が行なわれる。ご高齢の陛下は、さすがに厳冬の午前五時、六時の行事にはご臨席できなくなり、今は代理として掌典職(宮中祭儀の執行に当り、内廷に属している)が行なうが、原則としては天皇が行なわれるものである。

いずれにしても平安朝時代から続いている祭儀の一つであって、庭火を赤々と焚き、脂燭の揺らめくなかで行なわれる厳粛な雰囲気のものであり、皇祖皇宗、天神地祇を祭ってその加護を祈るものである。祭儀は玉串の奉献と拝礼によって終るのであるが、これが元旦の最初の公的行事となる。だがこれは相当にきつい行事である。

何しろ真冬の早暁のことである。厚地の黒オーバーを着用していても、それでも身を切るような寒気である。それに午前五時六時の祭儀ともなれば、前夜からろくに寝る時間とてない。除夜の鐘もそこそこに数時間の仮眠ののち、暁闇をついて宮中賢所に急ぐこととなるので、数多い宮中行事のなかでも、もっとも辛いものの一つとなっている。

そして午前九時~十時。まず各皇族、旧皇族および親族の方がたの新年祝賀の儀が行なわれる。新年祝賀の儀は、宮殿内のほとんどすべての各間を使って行なわれる。各間にはそれぞれ花器や花瓶に盛り立てられた松、椿、つつじ、菊、梅、千両、霞草、百合、雪柳その他の花木が絢瀾馥郁(ふくいく)たる香りを放ち、いかにも華やいだ祝典的な雰囲気を漂わせている。

陛下は式部官長ご先導のもとに長官、侍従長を伴われて宮殿松の間にお出になられる。そして陛下とともに、女官長にお手を引かれて、おぼつかないお足どりで低いお立ち台の上に立たれる皇后様の、また何という魅力的な微笑みのご表情―いわゆるエンプレススマイルとして知られる「ファーストレディー」の気品と優雅と、内なる人間性の美しさがそのまま花弁の開くような微笑の表情となって外に表われた感じなのである。実際、皇后様のおそばにいるだけで、誇張でなく何か優しい春の微風が吹く感じなのだ。ただご高齢によるご腰痛のお姿が、痛々しく思われるのみである。
(略)

やがて皇族、元皇族、ご親族の方がたが順次、松の間に参入されて祝詞を申しあげ、そのまま後じさりしながら間外に出られるのであるが、ちょうど両陛下を頂点として逆V字形で進み、かつ退くわけである。
私はその次第を間外で配立しながら見ているが、賀陽宮、竹田宮、伏見宮と続かれ、やがて東久邇宮のお姿を認める。介添役を従え、杖をつかれ、歩行も目もご不自由であり、すっかりご高齢である。終戦のとき、凛々しい軍服姿の内閣首班であられたときのことが、戦後青春の日々の記憶とともに思い出されてくる。
皇族、旧皇族、御親族の方がたは、このあと廊下に並んで新年の祝賀を申しあげる侍従、女官にご挨拶され、連翠の間に向われて新年の祝酒を交されるのである。

内閣、外交団の拝賀
ついで十一時~十一時三十分。内閣総理大臣および閣僚、最高裁長官および判事、国会議員(の一部)および両院議長、ならびに各省次官、知事らの拝賀に移る。内閣は梅の間、両院議員は松の間、最高裁判事は竹の間(時刻をずらして次官、知事らは松の間)に整列して、両陛下のお出ましをまつわけである。この場合、一同はいずれも控えの間である春秋の間、松風の間より誘導されて所定の各間に入るのである。したがって両陛下は、梅の間より始められて竹の間で終ることになる。(各間は内扉で連結されている)。

このとき梅の間の内閣総理大臣は、「天皇皇后両陛下におかれましてはご機嫌うるわしく新年をお迎えになられ、まことに慶賀の至りに存じます。ここに両陛下のご健康を祝し、皇室のご繁栄を祈り、国民を代表して謹んでお祝いの言葉を申しあげます」と述べるのであり、陛下は「新年おめでとう。年頭に当り国家の繁栄と国民の幸福を祈ります」とお答えになられるのである。

そして各間での同様の拝賀ののち一同は順次、豊明殿にすすみ、ここで祝酒が供されるのである(内閣、国会、最高裁、次官、認証官、知事ら約五七〇席前後)。

午後に入り、十四時三十分より外交団の拝賀がある。通例、毎年百三十人前後の各国大使・同夫人、ないし代理大使・同夫人が最高の礼装でやってくるのである。

服装は燕尾服、モーニングコート、紋付羽織袴またはこれらに相当する民族衣裳(婦人はローブデコルテ、ローブモンタント、白襟紋付またはこれらに相当する民族衣裳)、そして勲章佩用であるが、なかには金モールの大礼服に勲章を吊り下げ、ナポレオンのかぶるような金ピカの礼帽を小脇にした、まるで仁丹の広告のような大使もいる。また、ふわりとした緑色の寛衣スタイルに布サンダルばきの大使や、赤青黄色の賑やかな色彩もまぶしいナショナルコスチュームもあり、婦人もまたこれに劣らぬ色、スタイルとりどりの衣裳で妍(けん)を競い、まるで豪華な宮廷古典劇の舞台場面でも眺めているようだ。とにかく中東、南米、アフリカ、アジアそして西欧と、世界各地域各国の、鮮やかで色彩豊かな民族の衣裳くらべとでもいったところである。

そして各国代表は松の間外から国名をよばれて(たとえば「フィンランド共和国ハルコネン大使、同夫人」というように)、順次夫妻一組ずつ参進して深く黙礼したのち、そのまま斜めにステップバックして間外に出る。夫人によっては足を引いて頭を垂れるコーティシー(高貴の人に対して婦人が右足を後ろに引いて腰を下げ頭を垂れる最敬礼)を行なう人もいる。
一同はこれより、あいついで石橋の間に移って、ここで祝酒とお祝いの折詰めに箸をつけ、余りは包んでもらってそれを手に退出するのである。

このようにして、歳旦祭から外交団拝賀に至るまでの新年祝賀の儀は終了するのであるが、この頃には私たちはすでに疲れ果ててゲンナリしている。もとより八十何歳というご高齢の陛下にとっても、朝からの儀式ないし行事の連続がお楽であろうはずはない。しかし陛下は、たとえば百三十人以上もの大使夫妻の入れ替り立ち替りの祝賀の挨拶を受けられている間じゅうも、微動だにしない直立不動の姿勢で御起立しておられるのである。私など十分もしないうちに、鼻を掻いたり足を出したり首を動かしたりするに違いない。

おそらくお若い頃に軍人としての訓練を受けられて、お身をお鍛えになられたことも一つの理由ではあろうが、さらには帝王学的人間修練のたまものなのかもしれない。
いずれにしても、まことにご立派なことである。(八四年よりご高齢を考え、外交団拝賀は中休みをおいて二回に分けて行なわれている)。



初春のお喜びを申し上げます。

2007年01月01日 | 今日は何の日
     

新年あけましておめでとうございます
 今年もよろしくお願いいたします
皇紀二千六百六十七年


     

平成19年の新年に当たり天皇陛下のご感想
 昨年も,大雪や豪雨,台風,竜巻などの自然災害で,150人もの人命が失われたことは痛ましいことでした。新潟県や福岡県では,地震災害のため,この冬も仮設住宅で暮らしている人々のことが心にかかっています。
 また,台風による潮風害などで稲作などに大きな被害を受けた地域もあり,農家の人々の心痛が察せられます。

 新しい年の始めに当たり,我が国と世界の人々の幸せを祈り,皆が,互いに信頼し合って暮らせる社会を目指し,力を合わせていくよう,心から願っています。