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一燈照隅

日本が好きな日本人です

お天道様が見ている。

2012年02月11日 | 日本の心
「目に見えぬ神に向かいて恥じざるは人の心のまことなりける」
明治天皇




私が子供の頃には「誰も見ていないと思って悪いことをしてもお天道様が見てる」と言われたものです。
最近の色々な事件を見ていると、暗雲が垂れ込めているのか人の心が荒んで卑しくなっている。

持てる者が持てない者に手をさしのべる、このような精神が無意味と思われるようになってきているように感じます。 自分が稼いだ物は総て自分の物。自分一人で稼いだとの思い上がった考えがあるのでしょう。

しかし自分一人で生きることが出来ないように、自分一人で稼いで億万長者なることは出来ません。それは稼ぐにしても、買ってくれる人が居なければ稼げません。また売る物を作らなければなりません。作る材料も仕入れなければなりません。会社が大きくなれば社員も増えます。しかしながら往々にしてその事を忘れがちです。

しかも金儲けのためには何でもするようなことがまかり通る世の中になってきている。 自分のことしか考えない視野の狭い人間が社会をダメにすると言っても過言ではないでしょう。

このような社会から暗雲を取り払うには日本人としての心を取り戻さなければならない。

2006-3-10再掲







力士憲章

2007年12月12日 | 日本の心
日本相撲道

力士憲章

一 相撲は日本の國技と稍され、國史に伴なひ、時運を反映して來たものである。

二 相撲は日本國民の趣味と情熱、勇氣と練磨を象徴する力と技の精華である。

三 相撲は勝負を競うて勝負の上に出で、

四 力士は古來恩義に厚く、禮節を尚ぶ。

五 力士は居常健康に留意し、力と技より進んで道に入る。特に師恩友盆を奪重する。
行持を愼み、鍛錬陶冶を怠らず、各自天分の大成を期する。

双葉山道場


元横綱の双葉山は70連勝の懸かった対戦で、安藝ノ海に敗れ69連勝で止まりました。
その時、双葉山の言った言葉に「未だ木鷄たりえず」と言うのがあり、荘子にある木鷄の物語で有名ですね。
この時、双葉山は右目が見えなかったと言います。それでいて横綱になってしかも69連勝です。この記録は未だに破られていません。

双葉山は現役時代から弟子の育成をし、双葉山道場を開きました。
その時に双葉山が安岡正篤に頼んで作ってもらったのが、吉田松陰先生の「士規七則」に倣っての「力士規七則」です。それがこの「力士憲章」です。

引退して親方になったときの名が「時津風」です。
時津風部屋には今もこの「力士憲章」が掛かっているはずです。
相撲界全体がこの憲章を読み返す時のようです。



八重桜

2007年04月16日 | 日本の心
桜も「染井吉野」は花びらがほとんど散りましたが、八重桜はこれからが本番ですね。

いにしへの 奈良の都の 八重桜
   けふ九重に にほいぬるかな
伊勢大輔

その昔、奈良の都に咲いていた八重桜が、今日は九重の宮中に咲き匂っているのです。


この八重桜、奈良県庁の前に植えられています。そこの説明書きには四月二十日過ぎ頃に咲くように書かれていたと思います。
http://urano.org/kankou/topics/yae/index.html

桜も三月から咲き出して四月まで品種が変わって咲いていくので、一月は楽しめます。
桜は本当に美しいですね。花が薔薇やボタンのように大きくはなく、どこか可憐さを感じます。





会津士魂

2007年01月07日 | 日本の心
昨日、今日と朝日放送で「白虎隊」が放送されています。
朝日が「白虎隊」とはと正直思いました。
年代を基督暦で示していたので、分かりにくい。ちゃんと和暦で表してもらいたいですね。
幕末から戊辰戦争における、会津藩のことは早乙女貢氏が書いた小説「会津士魂」を読めば詳しくわかります。
白虎隊が切腹したのは、旧暦の明治元年(慶応四年)八月二十三日です。

昨年六月二十六日の記事を掲載します。
http://blog.goo.ne.jp/misky730/e/f926229943e40cb61e18580da29fac7b
「なよ竹の風にまかする身ながらもたわまぬ節はありとこそきけ」
西郷千重子

弱いなよ竹のように吹く風に連れてゆれ動くばかりの弱い女の身だが、そのなよ竹にはどんな強風にも曲がらない節があると聞く。私も節義に殉じて一死を選ぶ。

西郷千重子は会津藩家老西郷頼母の妻。
戊辰戦争で兵力で勝る新政府軍は会津にも攻めてきました。慶応四年八月二十三日新政府軍は会津城下に侵入してきました。
この時兼ねてからの合図である士族家族の入城を告げる鐘の音が鳴り響きました。
しかし、西郷頼母邸では、家を守る母と妻千重子が子女に向かって「お城に入って殿様に従いたいが、子連れではかえって足手まといになるやもしれぬ、むしろ自刃して国難に殉じたい」と伝え、長子吉三郎のみを城に入れ、頼母の母律子、妻千重子、妹眉寿子、由布子、長女細布子、次女瀑布子、三女田鶴子、四女常磐子、五女季子、他縁者の計二十一名が自決しました。
この時に千重子が残した辞世がこの「なよ竹…」です。

二十年ぐらい前、年末の民放番組で「白虎隊」を放送したのを見たのですが、その中でこの自刃の場面が描かれていたのを思い出します。
武士の妻と言うか、本来の日本女性の気持ちを表しているように思へます。
私は偉そうに言えませんが、今は男女問わず、この辞世と逆な人が多いのではないでしょうか。


引用
「名歌でたどる日本の心・スサノオノミコトから昭和天皇まで」
国民文化研究会・小柳陽太郎編 草思社


追記
※明治に改元したのは、慶応4年9月8日であるが「慶応4年をもって明治元年とする」としているため旧暦1月1日に遡って適用される。
http://ja.wikipedia.org/wiki/明治



弟橘媛

2006年08月13日 | 日本の心

弟橘媛は、日本武尊の妃である。尊は蝦夷征伐に向かうため、相模国(神奈川県)から海路で上総へ渡ろうとして、走水と呼ばれていた今の浦賀水道を横断中、平常でも潮流の速い所で暴風雨にあい、船が覆りそうになった。そこで、尊に従われていた弟橘媛は、尊の御身を心配され、海神の怒りを鎮めようとして、怒濤の海に身を投じられたところ、波はおさまった。その際媛は、

さねさし相模の小野に燃ゆる火の
火中に立ちて問ひし君はも

とお詠みになった。焼津で猛火に囲まれたとき、尊が命がけで励ましの声をかけて下さったことを思い出されてのお歌である。その七日後、媛の御櫛が海辺に流れ着いたので、それを遺品としてお墓が作られたという。純愛の極致が文字どおり献身という自己犠牲として示された悲しくも尊い物語である。
こうして尊は、無事安房国(千葉県)へ着き、ほどなく東国の蝦夷を平定する使命を果たされた。そこで大和へ戻ることになり、群馬の碓氷峠から関東平野を望まれた尊は、亡き弟橘媛を偲ばれて「吾妻はや」(ああ、私の妻よ)と詠嘆された。これが関東のことを「吾妻」「東の国」と呼ぶようになった由来です。

「名画に見る國史の歩み」より


「子供時代の読書の想い出」皇后陛下



情緒

2006年08月05日 | 日本の心
「国家の品格」を書いた藤原正彦は数学者として有名ですが、同じ数学者で岡潔と言う方が居ます。
岡潔は、人間において情緒の大切さを述べられています。最近は、情緒という言葉自体聞くことがありません。それが社会における、最近の犯罪と関係している一つの要因ではないかとさえ言えるかもしれません。
また日本において「善行といえば少しも打算を伴わない行為のことである」として、橘媛命(たちばなのひめのみこと)が、海を静めるために荒海に飛び込まれた事をだされて説明されています。
これは、偶然にも皇后陛下も同じ事を話されていました。(第26回IBBYニューデリー大会基調講演)

人の情緒と教育

私はなるべく世間から遠ざかるようにして暮らしているのだが、それでも私なりにいろいろ感じることがあり、世間の人に聞いてほしいと思うこともある。それを中心にお話ししてみよう。
これは日本だけのことでなく、西洋もそうだが、学問にしろ教育にしろ「人」を抜きにして考えているような気がする。実際は人が学問をし、人が教育をしたりされたりするのだから、人を生理学的にみればどんなものか、これがいろいろの学問の中心になるべきではないだろうか。しかしこんな学問はまだないし、医学でも本当に人を生理学的にみようとはしていない。それをめざしているのかもしれないが、それにしては随分遅れている。
人に対する知識の不足が最もはっきり現われているのは幼児の育て方や義務教育の面ではなかろうか。人は動物だが、単なる動物ではなく、渋柿の台木に甘柿の芽をついだようなもの、つまり動物性の台木に人間性の芽をつぎ木したものといえる。それを、芽なら何でもよい、早く育ちさえすればよいと思って育てているのがいまの教育ではあるまいか。ただ育てるだけなら渋柿の芽になってしまって甘柿の芽の発育はおさえられてしまう。渋柿の芽は甘柿の芽よりずっと早く成育するから、成熟が早くなるということに対してもっと警戒せねばいけない。すべて成熟は早すぎるよりも遅すぎる方がよい。これが教育というものの根本原則だと思う。
戦後、義務教育は延長されたのに女性の初潮は平均して戦前より三年も早くなっているという。これは大変なことではあるまいか。人間性をおさえて動物性を伸ばした結果にほかならないという気がする。たとえば、牛や馬なら生まれ落ちてすぐ歩けるが、人の子は生まれて一年間ぐらいは歩けない。そしてその一年間にこそ大切なことを準備している。とすれば、成熟が三年も早くなったのは、人の人たるゆえんのところを育てるのをおろそかにしたからではあるまいか。
ではその人たるゆえんはどこにあるのか。私は一にこれは人間の思いやりの感情にあると思う。人がけものから人間になったというのは、とりもなおさず人の感情がわかるようになったということだが、この、人の感情がわかるというのが実にむずかしい。赤ん坊の心の大きくなり方を観察しても、最も難渋をきわめるのがここのところで、なかなか感情のわかるまでにならない。人類が人の感情がわかるようになるまでには何千年どころではなく、無限に近い年月を要したに違いないと思われるくらいにわかりにくい。数え年で三つの終りごろから感情ということがややわかるが、それはもっぱら自分の感情で、他人の感情がかすかにわかりかけるのは数え年で五つぐらいのころからのようだ。その間二年ばかり足踏みしていることになる。しかし、そのデリケートな感情がわからないうちは道義の根本は教えられない。
私も最近、最初の孫を持って、無慈悲を憎む心や思いやりの気持を持たせようと思い、感情がいつわかるようになるかと手ぐすねひいて待っているが、なかなかわからない。といって、いわゆるしつけは一種の条件反射で、害あって益のないものだからやりたくないが、あまり気ままの雑草が生い茂っても困るのでしつけをせねばならないのだろうかと悩んでいる。やはり心を育てる時期はあるに違いない。それは植物でも茎、枝、葉が一様に平均して育つのではないのと同じことである。ある時期は茎が、ある時期は葉が主に伸びるということぐらいは、戦時中みんなカボチヤを作ったから知っているはずだが、人間というカボチヤも同じだとは気がつかず、時間を細かく切ってのぞいて、いいとか悪いとか、この子は能力があるとかないとかいっている。
どうもいまの教育は思いやりの心を育てるのを抜いているのではあるまいか。そう思ってみると、最近の青少年の犯罪の特徴がいかにも無慈悲なことにあると気づく。これはやはり動物性の芽を早く伸ばしたせいだと思う。学問にしても、そんな頭は決して学問には向かない。夏目漱石の弟子の小宮豊隆さんと寺田寅彦先生の連句に、小宮さんが「水やればひたと吸い入る墓の苔」と詠み、寺田先生がこれに「かなめのかげに動く蚊柱」とつけたのがある。小宮さんはこれを評して寅彦のつけ方のふわっとしていることは天下一品だといっているが、それはともかく、ちょうどこんなふうに、乾いた苔が水を吸うように学問を受け入れるのがよい頭といえる。ところが、動物的発育のためにそれができない頭は、妙に図太く、てんで学問なんか受け付けない。中学や高校の先生に聞いても、近ごろの子はそんなふうに教えにくいといっている。
いま、たくましさはわかっても、人の心のかなしみがわかる青年がどれだけあるだろうか。人の心を知らなければ、物事をやる場合、緻密さがなく粗雑になる。粗雑というのは対象をちっとも見ないで観念的にものをいっているだけということ、つまり対象への細かい心くばりがないということだから、緻密さが欠けるのはいっさいのものが欠けることにほかならない。長岡半太郎さんが寺田寅彦先生の緻密さについてふれていたが、文学の世界でも、寺田先生の「薮柑子集」特にその中の「団栗」ほどの緻密な文章はもういまではほとんど見られないのではなかろうか。
「わが人生観」岡潔著 昭和44年発行


以前は心の成長と体の成長が伴っていましたが、最近は体の成長ばかり早くなって、心の成長とのバランスが崩れてきているのが大きな問題でしょう。
何故このようになってきているのか、テレビゲームが出てきてから、子供は外で遊ばなくなったことに原因の一つがあるように思へます。
食事の栄養事情は良くなっているので体の成長も良くなっています。
しかし、普段から外で遊ぶ事をしないから何が危ないか、何をしたらケガをするかが判断できないのではないだろうか。
と同時に見た目よりもヤワな体になっている。
また、人に不快感を与えることをしてはいけない当たり前の事も分からなくなっています。

先日のボクシング、醜い日本人がでていました。(名前を出すのもアホらしい)
醜い行動はショーの一部だと言う者が居ます。しかしそれにも限度があるでしょう。衣食足って礼節を忘れたチャンピオンです。



連合艦隊解散の辞

2006年07月02日 | 日本の心
日露戦争終結後戦時体制でいた連合艦隊の解散式が明治38年12月20日行われました。
その時に東郷平八郎は解散の辞を読み上げましたが、今も名文として残っています。


「二十閲月(えつげつ)の征戦已(すで)に往時と過ぎ、連合艦隊は今や其の隊務を結了(けつりょう)して茲(ここ)に解散する事となれり。然れども我等海軍軍人に責務は決して之が為に軽減せるものにあらず、此戦役の収果を永遠に全くし、尚ほ益々国運の隆昌(りゅうしょう)を扶持(ふうじ)せんには時の平戦を問はず、先づ外衝(がいしょう)に立つべき海軍が常に其武力を海洋に保全し、一朝緩急に応ずるの覚悟あるを要す。而(しこう)して、武力なるものは艦船兵器のみにあらずして、之を活用する無形の実力にあり。百発百中の一砲能(よ)く百発一中の敵砲百門に対抗し得るを覚(さと)らば我等軍人は主として武力を形而上に求めざるべからず。近く我海軍の勝利を得たる所以(ゆえん)も至尊霊徳に由る処多しと雖(いえど)も抑(そもそも)亦(また)平素の練磨其因を成し、果を戦役に結びたるものして若し既往を以って将来を推すときは征戦息(や)むと雖(いえど)も安んじて休憩す可らざきものあるを覚ゆ。惟(おも)ふに武人の一生は連綿不断の戦争にして時の平戦に依り其責務に軽重あるの理(ことわり)無し。事有らば武力を発揮し、事無かれば之を修養し、終始一貫其本分を尽さんのみ。過去一年有余半彼(か)の波濤(はとう)と戦い、寒暑に抗し、屡(しばしば)頑敵(がんてき)と対して生死の間に出入(しゅつにゅう)せし事、固(もと)より容易の業(わざ)ならざりし、観ずれば是亦(これまた)長期の一大演習にして之に参加し幾多啓発するを得たる武人の幸福比するに物無く豈(あに)之を征戦の労苦とするに足らんや。

 苟(いや)しくも武人にして治平に偸安(ゆうあん)せんか兵備の外観巍然(ぎぜん)たるも宛も沙上(さじょう)の楼閣の如く暴風一過忽ち崩倒するに至らん。洵(まこと)に戒むべきなり。

 昔者(むかし)神功皇后三韓を征服し給ひし以来、韓国は四百余年間我統理の下にありしも一度(ひとたび)海軍の廃頽(はいたい)するや忽ち之を失ひ又近世に入り徳川幕府治平に狃(な)れて兵備を懈(おこた)れば挙国米船数隻の応対に苦しみ露艦亦(また)千島樺太を覬覦(きゆ)するも之に抗争する能(あた)はざるに至れり。翻って之を西史に見るに十九世紀の初めに当たり、ナイル及びトラファルガー等に勝ちたる英国海軍は祖国を泰山の安きに置きたるのみならず爾来後進相襲(あいつい)で能(よ)く其武力を保有し世運の進歩に後れざりしかば今に至る迄永く其(その)国利(こくり)を擁護し、国権を伸張するを得たり。蓋(けだ)し此の如き古今東西の殷鑑(いんかん)は為政の然らしむるものありしと雖も主として武人が治に居いて乱を忘れざると否とに基づける自然の結果たらざるは無し。我等戦後の軍人は深く此等(これら)の事例に鑑(かんが)み既有の練磨に加ふるに戦役の実験を以ってし、更に将来の進歩を図りて時勢の発展に遅れざるを期せざるべからず。若し夫(そ)れ常に聖諭(せいゆ)を奉戴(ほうたい)して孜孜奮励し、実力の満を持して放つべき時節を待たば庶幾(こいねがわ)くは以って永遠に護国の大任を全うする事を得ん。神明は唯(ただ)平素の鍛練に力(つと)め、戦はずして既に勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に一勝に満足して治平に安(やすん)ずる者より直(ただち)に之を奪ふ。

 古人曰く勝て兜の緒を締めよ・・・と

明治三十八年十二月二十一日 連合艦隊司令長官 東郷 平八郎」


この「連合艦隊解散の辞」を知ってセウォドア・ルーズベルト大統領は米国海軍に広めました。
「勝って兜の緒を締めよ」言うは易く、行うは難しです。どうしても調子が良いと驕りというか油断が出てしまいます。
それに気がつけばいいのですが、失敗するまで気がつかないのが人間でもあります。
この精神を忘れて驕るようになると、自ら身の破滅となりかねないと言えるでしょう。

「驕る平家は久しからず」






なよ竹の…

2006年06月26日 | 日本の心
「なよ竹の風にまかする身ながらもたわまぬ節はありとこそきけ」
西郷千重子


弱いなよ竹のように吹く風に連れてゆれ動くばかりの弱い女の身だが、そのなよ竹にはどんな強風にも曲がらない節があると聞く。私も節義に殉じて一死を選ぶ。

西郷千重子は会津藩家老西郷頼母の妻。
戊辰戦争で兵力で勝る新政府軍は会津にも攻めてきました。慶応四年八月二十三日新政府軍は会津城下に侵入してきました。
この時兼ねてからの合図である士族家族の入城を告げる鐘の音が鳴り響きました。
しかし、西郷頼母邸では、家を守る母と妻千重子が子女に向かって「お城に入って殿様に従いたいが、子連れではかえって足手まといになるやもしれぬ、むしろ自刃して国難に殉じたい」と伝え、長子吉三郎のみを城に入れ、頼母の母律子、妻千重子、妹眉寿子、由布子、長女細布子、次女瀑布子、三女田鶴子、四女常磐子、五女季子、他縁者の計二十一名が自決しました。
この時に千重子が残した辞世がこの「なよ竹…」です。

二十年ぐらい前、年末の民放番組で「白虎隊」を放送したのを見たのですが、その中でこの自刃の場面が描かれていたのを思い出します。
武士の妻と言うか、本来の日本女性の気持ちを表しているように思へます。
私は偉そうに言えませんが、今は男女問わず、この辞世と逆な人が多いのではないでしょうか。


引用
「名歌でたどる日本の心・スサノオノミコトから昭和天皇まで」
国民文化研究会・小柳陽太郎編 草思社


すなほなるをさな心

2006年05月25日 | 日本の心
「すなほなるをさな心をいつとなく忘れはつるが惜しくもあるかな」
                             明治天皇


「素直」と言うことが最近は言われなくなってきているように感じます。
最近は「素直」さよりも、「抜け目なさ」「賢さ」などが言われるのではないでしょうか。
最近のクイズ問題もひねくれた解答が多いように見えます。そのような番組が、子供に見せたい番組の上位にランクされるのは私はよいとは思えません。

人間、大人になって行くと子供の頃の素直な気持ちを忘れてしまいがちです。
特に社会に出れば、騙されないようにしよう、正直者は馬鹿を見ることのないようにどこか構えたようになりがちです。
間違いをしたら、それを認めたくないため、取り繕うために嘘に嘘を重ねることもあるかもしれません。

しかし、大人になっても素直な心を忘れていない人は、たとえ出世していなくてもどこか魅力を感じる事があると思います。
素直な心で見れば、今まで見えていなかったものが見えてくるかもしれません。


日本の女が世界第一立派であった

2006年05月21日 | 日本の心
昨日は東條英機の遺書を掲載しましたが、今日は「昭和の遺書、南の戦場から」辺見じゅん編から、フィリピンで戦犯として処刑された上田貢氏の妻と産まれてから顔を見たことのない娘宛の遺書を掲載してみたいと思います。

上田貢(憲兵曹長 30歳)が戦犯とされたのは、昭和十七年七月六日、レイテ島タクロバンの俘虜収容所から逃走した米人将校一名、比島人三名を部隊で処刑した折に、憲兵として立ち会いを命ぜられたこと。もう一つは、同年八月十四日、レイテ州知事よりの依頼で比人死刑囚十名を処刑させたとのことによる。
第一の事件では確かに現場にいたが、直接の命令を下したのは、上田さんの上官の将校であったという。第二の事件の折は、セブ市に出張していて、不在であった。
しかし不幸なことに、当時の中隊長、また事件に関与した将校等が行方不明だったり、戦死していた。そこで、二つの事件の責任を上田さん一人に負わせたようだ。上田さんは無罪(とくに第二の事件は誰が見ても冤罪)を主張したが起訴され、昭和二十一年三月四日、死刑の判決を受けた。
そして三ヵ月後の六月六日、刑死。

最愛なりし愛子へ
(一)
1.余と結び、日時短少なりといへども、よく余につかへ、命征きし後、恵子の養育にこれ務めたるを、心より感謝に堪へず、然るに余、君を遇するに足らざるありたるを恥づ。
2.尚、我逝きし後、君に対する苦難の道多々あるを思ふ。ねがはくは大和撫子の真髄を発揮し、君が希望せらるゝ道を邁進せられん事を。
3.君が処生上、若し恵子、重荷となる事あらば、我が両親にこれを托せよ。

(二)
未だ見ざりし恵子へ
1.お前の父さんは、国に忠義な立派な人だよ。
2.お前の祖父母さんや母さんも立派な日本人です。父さんが無くても、祖父母や母さんのお教へを良く守り、勉強して、立派な人になるのだよ。
3.お前が学校へ行く頃は、アメリカ流の教育になつてゐると思ふが、アメリカ流でも、良いところは進んで習ひ、人に負けてはいけないが、日本人だといふ事を寸時も忘れてはいけない。
お父さんは永い間外国に居て、外国の女は少しも偉いとは思はなかつた。やはり女の人は、日本の女が世界第一立派であつたと思ひます。
だから大きくなつたら、立派なお母さんになつて、立派な日本男子を沢山生んで、父さんがアメリカと戦つて、立派な戦死をした事を伝へて下さい。
昭和二十一年四月二十三日
於マニラ


死刑の判決以後、獄中から妻、両親、未だ見ぬ我が子に宛てた手紙も書かれていました。 それを読むと、胸にこみ上げるものがあります。

「新聞、其の他で既に公表して居ると思ひますが、私の戦犯事実が如何に伝へられても、決してお嘆き下さいますな。私の行為は、日本軍人として、当然なすべき事を行つたに過ぎず、何にも人に卑下すべき、恥づかしき行為はありません。
又、戦犯事実がなくとも、この大敗後に、然も数名の部下を戦ひ死なした自分として、申し訳にも生きては居れません」 と書いたあと、「恵子の顔が一度見たかつたが、今となつては仕方がない」と綴っている。
判決を受けてニケ月後の手紙には、
「男として、軍人として、当然受けねばならぬ敗戦の罪か? 逝く私はともかく、後に残る君等の将来が、実に気にかかつて仕方がない」
と記し、切々たる妻への愛の歌を添えていた。

獄内に溜りし水に指をつけ  妻といふ字をそつと書きたり






生きることとは よいことと知る

2006年05月06日 | 日本の心
雨降って 今日一日を 生きのびる
生きることとは よいことと知る
三日前 彼らの前には 完全なゼロしかなかった
その境遇
その無念さを思えば
私たちはまだまだ恵まれている
困難な問題の山積みする現代だが
しかし 活路がゼロではない
そして 一パーセントでも活路があるということは
百パーセントの活路への道が開けることにもなる
ゼロしかなかった彼らの無念さを思うとき
私たちの生きる力が蘇る


20年ぐらい前に読んだ本に書いてあった言葉です。 ノートに書いてあったのですが、何という題名の本だったか忘れてしまいましたが 、ある特攻隊員の遺書のようです。
力が蘇るような言葉です



目に見えぬ神

2006年04月18日 | 日本の心
「目に見えぬ神に向かいて恥じざるは人の心のまことなりける」
明治天皇


私が子供の頃には「誰も見ていないと思って悪いことをしてもお天道様が見てる」と言われたものです。
最近の色々な事件を見ていると、暗雲が垂れ込めているのか人の心が荒んで卑しくなっている。

持てる者が持てない者に手をさしのべる、このような精神が無意味と思われるようになってきているように感じます。 自分が稼いだ物は総て自分の物。自分一人で稼いだとの思い上がった考えがあるのでしょう。

しかし自分一人で生きることが出来ないように、自分一人で稼いで億万長者なることは出来ません。それは稼ぐにしても、買ってくれる人が居なければ稼げません。また売る物を作らなければなりません。作る材料も仕入れなければなりません。会社が大きくなれば社員も増えます。しかしながら往々にしてその事を忘れがちです。

しかも金儲けのためには何でもするようなことがまかり通る世の中になってきている。 自分のことしか考えない視野の狭い人間が社会をダメにすると言っても過言ではないでしょう。

このような社会から暗雲を取り払うには日本人としての心を取り戻さなければならない。


君民は親子に似た関係。

2006年03月10日 | 日本の心
日本における天皇陛下と国民は制度では君民の関係ですが、たとえて言えば親子のような関係だと思っています。
親は子供のことを常に気に掛け、子供は親の事を気遣いながら成長していく。親子の関係だからこそどんな事があっても国体は変わらなかったのではないでしょうか。
平成10年の天皇誕生日の記者会見で天皇陛下は次のようにお言葉を述べられています。


 日本国憲法で,天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であると規定されています。この規定と,国民の幸せを常に願っていた天皇の歴史に思いを致し,国と国民のために尽くすことが天皇の務めであると思っています。天皇の活動の在り方は,時代とともに急激に変わるものではありませんが,時代とともに変わっていく部分もあることは事実です。私は,昭和天皇のお気持ちを引き継ぎ,国と社会の要請,国民の期待にこたえ,国民と心を共にするよう努めつつ,天皇の務めを果たしていきたいと考えています。

「皇國の学者のあやしき癖」

2006年01月03日 | 日本の心
皇室典範改正問題が今年の一番大きな問題になると思います。そこで最近、本居宣長の著書を読んでみています。現代文でないので分かりにくいところもありますが、大まか理解できます。

本居宣長と言えば「古事記伝」が有名ですが、その他にもいろいろ書かれています。 例えば「玉勝間」にこのような文があります。

「皇國の学者のあやしき癖」
すべて何事も、おのが國のことにこそしたがふべけれ、そをすてて、他ヒトの國のことにしたがふべきにはあらざるを、かへりて他ヒトの國のことにしたがふを、かしこきわざとして、皇國のことにしたがふをば、つたなきわざとこゝろえためるは、皇國の学者の、あやしきくせ也、…


日本には伝統や風習がありその事に従うべきでしょう。それをしないで他所の国の風習に従うべきではない。そうではなく他所の国の事を採り入れて日本の風習は遅れている(間違っている)と言うのが日本の学者のおかしいところです。

学者に限らず、本居宣長が書いたような人が日本には多くいるでしょう。 しかし、まず最初に考えなければならないことは、自国、日本の歴史を読み調べて見ることでしょう。
万世一系の天皇が二千六百六十五年も続いているのか。


訳文は管理人にて、拙き訳はご了承下さい。

「文化防衛論」三島由紀夫

2005年11月25日 | 日本の心
「文化防衛論」 三島由紀夫
「天皇の起原」林房雄著 より抜粋

「ただ文化を守れということでは非常にわかりにくい。文化、文化というと、それがお前自身の金儲けにつながっているからだろう―といわれるかもしれない。文化とは特殊な才能を持った人間が特殊な文化を作り出しているのだから、われわれには関係がない。必要があれば金で買えばいい、守る必要なんかない―と考える者もいるだろう。
しかし、文化とはそういうものではない。昔流に表現すれば、一人一人の心の中にある日本精神を守るということだ。しかし、その純粋な日本精神は、目に見えないものであり、形として示すことができないので、これを守れと言っても非常にむずかしい。
だから私は、文化というものを、そのようには考えない。文化は目に見える、形になった結果から判断していいのではないかと思う。したがって日本精神というものを知るためには、目に見えない、形のない古くさいものと考えずに、形のあるもの、目にふれるもので、日本の精神の現れであると思えるものを並べてみろ、そしてそれを端から端まで目を通してみろ、そうすれば自ら明らかとなる。そしてそれをどうしたら守れるか、どうやって守ればいいかを考えろ、というのである」


「歌舞伎、文楽なら守ってもいいが、サイケデリックや“おらは死んじまっただ”などという頽廃的な文化は弾圧しなければならない―というのは政治家の考えることだ。私はそうは考えない。古いもの必ずしも良いものではなく、新しいもの必ずしも悪いものではない。
江戸末期の歌舞伎狂言などには、現代よりもっと頽廃的なものがたくさんある。それらをひっくるめたものが日本文化であり、日本人の特性がよく表れているのである。日本精神というものの規準はここにある。しかしこれから外れたものは違うんだという規準はない。良いも悪いも、あるいは古かろうが新しかろうが、そこに現れているものが日本精神なのである。
したがってどんなに文化と関係ないと思っている人でも、文化と関係のない人間はいない。歌謡曲であれ浪花節であれ、それらが頽廃的であっても、そこには日本人の魂が入っているのである」


「日本人の色々な行動(例えば特攻隊の行動)について、日本人が考えることと、西洋人の評価とはかなり違っている。彼らから見ればいかにばかげたことであろうとも、日本人が立派だと思い、美しいと思うことはたくさんある。
西洋人から見てばからしいものは一切やめよう、西洋人から見て蒙昧なもの、グロテスクなもの、美しくないもの、不道徳なものは全部やめようじゃないか―というのが文明開化主義である。西洋人から見て浪花節は下品であり、特攻隊はばからしいもの、切腹は野蛮である、神道は無知単純だ、とそういうものを全部否定していったら、日本には何が残るか―何も残るものはない。
日本文化というものは西洋人の目から見て進んでいるとかおくれているとか判断できるものではない。……西洋の後に追いつくことが文化だと思ってきた誤りが、もうわかっていい頃だと思う」


「この文化論から出発して、“何を守るか”ということを考えなければならない。私はどうしても第一に、天皇陛下のことを考える。天皇陛下のことを言うと、すぐ右翼だとか何だとか言う人が多いが、憲法第1条に掲げてありながら、なぜ天皇のことを云々してはいけないのかと反論したい。
天皇を政治権力とくっつけたところに弊害があったのであるが、それも形として政治権力とくっつけたことは過去の歴史の中で何度かあった。しかし、天皇が独裁者であったことは一度もないのである。それをどうして、われわれは陛下を守ってはいけないのか、陛下に忠誠を誓ってはいけないのか、私にはその点がどうしても理解できない。
ところが陛下に忠誠をつくすことが、民主主義を裏切り、われわれ国民が主権をもっている国家を裏切るのだという左翼的な考えの人が多い。しかし天皇は日本の象徴であり、われわれ日本人の歴史、太古から連続してきている文化の象徴である。そういうものに忠誠をつくすことと同意のものであると私は考えている。
なぜなら、日本文化の歴史性、統一性、全体性の象徴であり、体現者であられるのが天皇なのである。日本文化を守ることは、天皇を守ることに帰着するのであるが、この文化の全体性をのこりなく救出し、政治的偏見にまどわされずに、『菊と刀』の文化をすべて統一体として守るには、言論の自由を保障する政体が必要で、共産主義政体が言論の自由を最終的に保障しないのは自明のことである」


「政府は、最後の場合には民衆に阿諛する事しか考えないであろう。世論はいつも民主社会における神だからである。われわれは民主社会における神である世論を否定し、最終的には大衆社会の持っているその非人間性を否定しようとするのである。」
「では、その少数者意識の行動の根拠は何であるか。それこそは、天皇である。われわれは天皇ということをいうときには、むしろ国民が天皇を根拠にすることが反時代的であるというような時代思潮を知りつつ、まさにその時代思潮の故に天皇を支持するのである」


「なぜなら、われわれの考える天皇とは、いかなる政治権力の象徴でもなく、それは一つの鏡のように、日本の文化の全体性と、連続性を映し出すものであり、このような全体性と連続性を映し出す天皇制を、終局的には破壊するような勢力に対しては、われわれの日本文化伝統をかけて戦わなければならないと信じているからである。」

「われわれは自民党を守るために闘うのでもなければ、民主主義社会を守るために闘うのでもない。……終局目標は天皇の護持であり、その天皇を終局的に否定するような政治勢力を、粉砕し、撃破し去ることでなければならない」