今年記事に書こうと思っていて、記録していた本の抜粋が有ったのですが出来ず仕舞いでした。
そのままにしておくのも何か惜しいので、抜粋部分だけ掲載します。
そのままにしておくのも何か惜しいので、抜粋部分だけ掲載します。
日本の頼りなさ
―ムードとムーヅ―
こんなことで一體日本はどうなつてゆくのだらうかとは、この頃いたる處でさゝやかれてゐる言葉である。それも口や筆では日本の繁榮を謳つてゐるが、この内心の不安は掩ひきれないものがあるのである。
第一餘り文化生活が奢侈になり、多忙になつて、ゆつくり物を考へる餘裕がない。そこにムードなるものが支配する様になる。氣分である、支配的雰園氣である。平和ムード、中共ムード等々、絶えずムードによつて動かされる。ムードといふものは、人々にとつて何の自主性もないお天氣の様なものであるから、こんな頼りないものはない。原語の moodも複数形になると、即ちムーヅ moods になると、むら氣といふ意味から、不機嫌、氣欝、肝癪といふ様な意味に使はれる。現代はムード時代、ムーヅ時代といつてよからう。
かういふ時は必ずスローガンを愛用する。萬事むつかしい理論より、簡輩なスローガンを掲げて、やつてゆかうとする。スローガンといふものは、なるほど分り易く、耳に留まり易いものであるが、それは複難で分りにくい現實の事態を、簡單にかたづけた標語にすぎないから、確乎とした内容がない。個々人の内面に何等の自立的な力を與へるものではない。イデオロギーなるものもさういふものである。自ら思索し信念を打立てゝ、始めてさういふものを理解し活用することもできる。自ら内に何にも持たないものが、その代りにかういふものでごまかすことほど危なかしいものはない。いつの時代でも優れた指導者は敦れもその當時の安價なムードやスローガンなどに動かされなかつた人々である。
民主的といふことも今や眞剣に反省されねばならない。日本の知識人にルソーを愛する人々が多い。主権在民を唱へた民主主義政治の偉大な先覚と言ふが、その實、一知半解の人々が多い。彼はその杜會契約論に於て、もし神々から成る人民があれば、その人民は民主政を採るであらう。そんな完全な政府は人間には適しないと云つてゐる。人間の民主政は非常に小さい國家で、そこでは人民を容易に集めることができ、その人民は相互によく相知ることができること、第二に、習俗がごく簡單で、多くの事務や面倒な論議を省けること、第三に、地位や財産がほぼ平等であること、でないと権利と権威に於る平等が永續することはありえない。最後に贅澤が極めて少いか、又は全く存在しないことである。そのわけは、贅澤といふものは、富の結果であるか、又は富を必要とするものだからである。贅澤は金持を財産によつて、貧乏人を物欲によつて、腐敗させる。贅澤は祀國を柔弱と虚榮とに賣渡す。贅澤は凡ての市民を國家から奪つて、ある市民を他の市民に從屬させ、又すべての市民を偏見の奴隷にする。民主政もしくは人民政治ほど内乱内紛の起り易い政治は無く、烈しくしかも絶えず政體が変わり易い。その存續の爲には常に警戒と勇氣とが要求される―と論じてゐる。
日本は人民を紳々ならしめる用意と努力とを一向にしなかつた。一億に近い大衆國家で、しかもその統制紀律が一向に出來てをらない。長い戦爭中の耐乏生活から急激に経濟復興を達成して、驚くべき奢侈贅澤に走つてしまつた。虚榮と惰弱は風を成し、内紛内爭は深刻を加へてゐる。知識階級はイデオロギーの甚だしい偏見に捕はれ、殆んど國家を他國に賣渡して恥ぢない情況である。これらの危機に臨んで、まるでさういふことに無關心な人々も指導階級にすら少くない。ムードとムーヅ、時代の狂躁、人間の無恥、共産革命勢力の横行等、アジアも、日本も、實に重大な危機てある。
スローガンの流行
―もっと着實に―
世の中の萬事が大衆化し、問題が複雑となり、諸事忙しくなるにつれて、ますますスローガンが流行する。
スローガンといふものは、複雑でわかりにくい問題、精確に解明しにくい間題などを、簡單明瞭に標示するものである。それは目にとまり易く、耳に入り易いので、誰も一寸わかつた様な氣がするが、實は一向内容の無いもので、少し経験を積んだ人々、思慮の深い人々にとつては、つまらないものである。平和を守れ! これは誰も異存はない。軍備など以ての外だ。そんなものを持つと、使つてみたくなる奴が出る。安保条約など結んで、アメリカのお先棒に使はれることなど眞平御免だ。これなら誰にもよくわかる。
「確かに平和は戦爭の放棄を意味するが、同時に戦爭を放棄しない他國の儀牲になる意味も含まつてゐる。それは平和の願と共に始まり、禍が隣國を襲つただけで、誰も手を出さぬといふ事實と共に終る」「平和主義とは生來非平和主義者に支配を委ねることである」と嚴しい現實論者のO・シュペングラーも指摘してゐる。と言はれてみれば、その例はなるほど澤山ある。たとへば悲劇のハンガリー、あの十月反乱にソ連の戰車がブタペストを蹂躙した時、ラヂオは「ハンガリーを救つて下さい」と悲鳴哀訴を傳へた。然し「どこの國も國連も、ハンガリーを救ひに來てくれない。私共は見すてられた民族でせうか」と亡命作家セバスチァン・ジョルジが痛嘆したのに私は胸の痙くのを感じたことを忘れない。香港の時代評論誌は西藏避難民の惰報を採り上げて、中共が北京・西安・成都・蘭州等で洗脳訓練した西藏人を使つて、所謂民族主義・地方主義分子として良民に極端な弾壓を加へ、根を引抜け!といふスローガンで、十才以下の子供を隔離集結して共産教育を行ひ、女子には中國人との強制結婚を強ひ、掠奪結婚を許してゐると傳へた。
中共がチベット國境に十三、四ヵ師を動員した時、故ネール首相は、臨時議會を開いて、中共は今や世界の他の地域からは無くなつた侵略的帝國主義的路線を取つてゐる。我々はこの様な侵入を過去の遺物と考へ、過去五年間の中共の國境侵犯も、現在の様な大規模侵入に立至るとは豫想しなかつた。これは印度の歴史のみならず、アジア・世界の歴史に於ける轉回點であると演説した。
かういふなまなましい事實の前に、ただ平和・平和といふスローガンのいかに無力であり無内容であるかを實感せざるを得ない。それだから平和といふことを止めようといふのではない。平和の爲に、もつと眞劍に、現實に徹して考へねばならぬといふのである。
最近のタイム誌によると、南米全體にわたつて、各國出身の共産主義者が、キューバでテロやスパイ活動の訓練を受け、それぞれの国へ帰つて、ソ連のイタリア経由援助資金で破壊活動を行つてゐるといふ。中共もアジアで同じことを行つてゐる。
米FBI.のフーバー局長は過般下院の委員會に出て、米國に於けるソ連のスパイ活動について、ソ連スパイは外交官・科學者・學生などに紛れこみ、ソ連の派遣する文化代表團・貿易代表についても同様で、滞米中の新聞記者の半数以上がスパイであることを報告してゐる。中共についても同様である。どうしてこんなことをせねばならないのか。良民は解するに苦しむであらうが、現實はこの通りなのである。ヴェトナムが今やアメリカ攻撃の主因になつてゐるが、タイも亦北部に中共の操縦するタイ・コンが動いて、次のヴエトナムになりかけてゐるといふ惰報が頻りである。
道徳的氣魂の喪失、困難に向つて直面することを厭ふ氣風、相封抗する二つの勢力の間をできるだけ巧く渡らうといふ惰弱・狡猜・頽廃的享樂気分、さういふものを尤もらしいスローガンでごまかすやうなことは断乎として排脱せねばならぬ。
人間の四要素
人間をアトム化してしまひ、機械化・動物化してしまへば簡箪でありますが、人間は本來人格的存在である。萬物の霊長である。これが人の人たる特質であります。その意味において、人間といふものは、大體どういふ要素から成り立つてをるかといふことを、この際つきつめて考へてみますと大きく四種に分けることができます。
第一は、一番大事な人間たる本質、人格としての人間たる本質と申すべき徳性といふものであります。たとへば心の明かるさ、清さ、それから人として人を愛する、助ける、人に盡(つく)す、恩を知る、恩に報いる、正直、勇氣、忍耐等さういふ貴い心の働きであります。かういふものを徳性と申します。これらが一番大事な要素で、その次に知性。知能といふものがあります。これあるによつて、人が動物よりぬきん出ることができたのであります。その次に技能でありまして、人間が他動物よりも發達したのは、前足を手としたことからだと言うこともできます。
しかし、この知能とか技能とかいふものを、先ほど申しました徳性に比べたら、どつちが大切であるかといふことは、おのづから判明いたしませう。知識だの技術だのといふものは、有るに越したことはありません。これを發達させたから、偉大な今日の文明も生じたのであります。人類もいろいろの幸福を享受することができたのでありますが、しかしこれがなかつたからというて、つまり知識や技術が少々未開發であるからというて、人間たることに、さう根本的な價値の影響はありません。早い話が、我々の偉大な先輩が明治維新を断行して、世界の奇蹟といはれるやうな近代世界に大飛躍をとげた、その維新の人物を例にとりませう。西郷南洲とか、大久保利通とか、あるひはさかのぼつて吉田松陰とか、橋本左内とかいはれるやうな人が、太陽が東から上つて西に沈むんぢゃなしに、地球が西から東へ回りながら太陽の周圍を回つてをる。つまり自轉しつつ公轉してをるのだ。
これは今日、小學校の生徒でもよく知つてをることですけれども、さういふことを西郷・大久保も、松陰・左内もよく知らなかつた。しかし、さういふ今日の小學生でも知つてをることを、あの人々が知らなかつたからといつて、彼等をバカだと考へますか。絶封に考へないでせう。さういふことを考へるものがをつたら、その方がバカでありまして、賢い人ほどさやうなことは考へません。今日、中學校の生徒でも水はH2Oであるといふことぐらゐ常識であります。こんなことは弘法大師も日蓮上人も知りはしませんでした。しかし水がH2Oだくらいのことを知らんやうでは、日蓮も弘法もバカだと誰が言ひますか。そんなことは人間の偉さには關係のないことです。それはその時代の知識といふ文化的問題であつて、人間たる本質の問題ではありません。知つてをるに越したことはありませんが、知らなくてもいゝのです。娘や息子が、うちのお母さんは何もわからん。幾何も代敷もフランス語もドイツ語も知らない。だからうちのお母さんはバカだとは考へないのです。そんなことを考へる娘や息子があつたら、大バカでありまして、そんなことは母たる本質に一向關係がないのです。だから、いくら便利な價値のあるものであつても、知能だの技能だのといふものは、これは属性的價値しかないのです。本質的價値は今申しましたやうに徳性にある。知識や技術は少々未開發であらうが、低開發であらうが構ひませんが、人を愛することを知らない、人を助けることを知らない、人に報いることを知らない、勇氣がない、不潔である、暗い、陰惨であるなどといふことは、これは大變なことでありまして、これではどんなに知能や技能があつたつて、話になりません。だから同じ要素と申しましても、やはり徳性が第一、これが本質。それからいくら必要であつても、知性や技能(性は静的用語、能は動的用語)といふものは附属的なもの。
第四に、往々人が輕く見過すものですが、徳性に準じて非常に大切な意味のあるものがあるのです。これは慣習・習慣といふものであります。習慣は第二の天性であるといふ格言は周知のことです。スイスの美しい心の詩人・哲人であつたアミエルはその日記の中に、人生は習慣の織物であると書いてをります。人生といふものを一つの美しい織物とすれば、この織物は美しい習慣から織られてをるのです。これは第二の天性・徳性をなすものであります。よい習慣をつけるか、悪い習慣をつけるか、即ちしつけによつて、まつたく人間が變って参ります。
そこで人間といふものは、第一に徳性。これに基づく習慣、それから知能、技能。かういふものから成り立つてをるわけであります。ところでかういふものが、人と生まれて、どういふ風に發達してくるかといふ過程を、教育學、倫理學、心理學、社會學、醫學等いろいろ專門家の研究によつて、これらを綜合観察いたしますと、われわれの常識に比べまして、恐ろしい結論が出てをるのであります。人間從來の常識から申しますと、子供は幼稚であり、大人は成人であるから發達してをる。だから子供にはあまりいろいろなことを要求してはいけない。子供はそっとしておいて、自由にのびのびと育て、だんだん年をとるに從つて、教へればよい。かういふことに観念してをつたのであります。
をとるに從つて、教へればよい。かういふことに観念してをつたのであります。
日本の独立自衛
悪の力に対する根本的覚悟
講和条約の締結、主権と独立自由の回復につれて、安全保障・再軍備問題に関する論議が紛糾しております。こういう問題は根本を忘れて、枝葉末節に亘れば亘るほど解決はつくものではありません。
われわれはまず人間として暴力に対する根本的態度を決定して置かねばならない。これに五種を挙げることが出来ます。
第一は、自然界に行われている弱肉強食の現象で、この場合、弱者は唯泣き寝入り、敗北か敗死があるばかりであります。
第二に、一寸の虫にも五分の魂という諺がある。まして人間である。悪の力がいかに強大であっても、その言いなり次第になって泣き寝入り、あるいは敗死する羊や兎のようで済むものではない。それは良心と気概が許さない。これに基づいて、すなわち本能的に、暴力には暴力を以て返報しようとするもの。これは世間に最もありふれた復讐的態度です。しかしこの野性的精神行動は人間にいつまでも平和と向上とをもたらすものではありません。
第三、しかるに、ここに弱者であって、暴力に返報するだけの勇気も暴力も持たず、さりとて泣き寝入りするには忍びず。もっともらしい理屈を見つけて、自己の惰弱卑屈を飾り、自己の良心を偽り、人前の体裁を作ろうとする。欺購的態度とでもいいましょうか。そういう者が必ず引用するのは次の宗教的態度であります。
第四、宗教的態度。すなわち、孔子の仁とか、釈迦の慈悲とか、キリストの愛とか、ガンジーの無抵抗主義とか、宮本武蔵の丸腰の心境などです。講和後の再軍備について、知名の人々の間に、宮本武蔵やガンジーを引用して、日本の交戦権放棄、無抵抗主義を主張する者が少なくなかったが、無知よりもなお悪い浅見です。武蔵は自ら記している通り、生涯六十余度の勝負に一度も負けたことはなく、錬達の果てに五十過ぎから段々宗教的境地に進んでの丸腰で、青二才やヘロヘロ武士の丸腰とまるで違うことは言うまでもありません。日本を武蔵に擬するなら、日清・日露の戦から始めて、米英中ソ皆打ち負かした果てに戦争放棄を自発的に主張した場合でなければ当りません。ガンジイズムに至っては、無抵抗主義という俗訳を鵜呑みしたとんでもない誤解で、実は非暴力的徹底抵抗主義です。真のガンジイズムは不殺生 ahimsa の信念に基づく真理の体現 satya-graha を旨とし、
英国の支配に対する独立運動に発しては、スワラジ運動 swaraj となり、英国に対するあらゆる協カ、法令に対する服従、納税、通貨、教育、表彰等一切を拒否するものであり、そのためには投獄も死も意としない。そしてスワデシ運動 swadeshi すなわちインド人はインドの国産で生活しよう。英国の恩恵によっては一切生活しまいというのです。もし日本でガンジイズムを実行しようというのなら、ソ連が来ても中国が来ても、あらゆる妥協を斥け、一切の服従を拒み、そのためには国民皆死の覚悟でなければなりません。現代日本の平和主義者にそんな覚悟の片鱗でもあるでしょうか。
そこで結局、
第五、に存する尚武的態度であります。これは暴力的復讐的態度とちがって、あくまでも暴力を否認し、人間の平和と幸福とを願うが故に、どこまでもこれを妨げようとする暴力の罪を憎んで、その人を憎まず、むしろその人をも救う為に、その暴力を懲らしめて封じ去ろうとするものです。武という文字が即ち凶器を意味する「戎」と「止」めるの二字から成り立つものとするのが通解であります。だから本来武備とは他国を侵略する用意ではなくて、防衛の手段であります。武備の中には兵力・機械力・経済力・政治力・精神力がすべて含まれねばならない。その中兵力や機械力ばかりを重視して、経済力に比較し、日本の経済力では到底ろくな武備は出来ぬから、いっそせぬ方がましであるという無責任な説もあるが、経済力の許す範囲でする兵力や機械力の足らぬ所は政治力・精神力(教育力)で補うことが出来る。そこに友国との政策問題があり、さらにフィンランドやガンジー等の事実のあることを省察せねばなりませぬ。そして正しく全智全能を尽くして、なおかつ暴力の侵略を受け、いかなる抵抗も力及ばなかったなら、曽子が厳に断言した通り、「吾れ何をか求めんや。吾れ正を得て斃れなば斯に已まん」のみです。
大衆の堕落は国を亡ぼす
そういう意味で今や本当に革新の時期でありますが、然しまことの革新は厳しい問題で、殊に現代の日本人は、保守に辛く、革新に甘いようです。何か保守というとひけ目を感じ、革新というと善し悪しを問わず魅力を感じる、というのが民衆心理であります。革新派などというと、一応みんなが好意を持ちますが、保守派というと、何だか振いません。こうなるのには色々原因理由もありますが、一番大きな影響源は何と言ってもマスコミの左傾であります。
今年は参議院議員の選挙が行われるために、参議院選挙だけをとりあげて問題にしておりますが、実は全国で沢山な地方選挙が行われます。地方自治体の選挙は大事な選挙でありますのに関心が薄く、候補者をみておりますと、保守党の候補者が、自ら保守党を称することに何か二の足を踏んだり、おじけづいて、凡そ意気地がありません。幾つかの市長選挙、或は知事選挙で、自民党でありながら自民党を標榜したのでは損だというので、故意に無所属の看板をかけたり、中でも最もひどかったのは、この間の名古屋市長選挙であります。然も候補者は現職市長であります。田中総理も応援にかけつけて演説しておりますが、本人は、自分は自民党ではない、無所属だ、ということをしきりに陳弁これ努めております。まことにおかしな話で、このような考え方、態度というものは、ただ煮え切らぬとか遠慮だとかいう問題ではなく、卑屈・卑劣であります。人として信念や識見のないことを表しております。今日は、自民党か、革新野党かのどちらかなのですから、無所属などというのは甚だあいまいでよくありません。はっきりしなければなりません。こういうことが許されないということを本年の干支も教えておるわけですから、堂々と自分の所属を明らかにして、そうして幸いに当選の暁には、その所属する党を立派にするために情熱を傾けるべぎであります。
又今日は、革新ということが野党の独占、専売になっております。然るに野党の称する革新政党というものをみますと、これが甚だ甲寅の甲に犭偏をつけた犭狎の状態になっております。日本もそうですが、日本が何でもお手本とするヨーロッパ諸国を見ても明瞭であります。現にヨーロッパ各国に亘って労働党、社民党、社会党の衰退が顕著になっております。一時彼等の言う大衆の時代ということが世界の流行になっておりました。然しこの大衆が、堕落してしまって、とっくに新鮮な意義を失い、当局者ばかりでなく、野党もみな狎(な)れになって、寅(つゝし)みを失い、進歩がなく、スペインのオルテガの指摘しました通り、大衆的人間は旧来のものに何でも反対で、その上道徳も法律も秩序も無視し、所謂「四患」の偽・私・放・奢の第三の放になって、大衆政党を通じてゆすりの世の中にしてしまいました。所謂高福祉政策はその疲弊に堪えられなくなり、もう福祉国家というものは最近ヨーロッパではすっかり廃れてしまいました。
そして政治の偽善と、大衆の後に隠れた好民たちの横暴は目にあまるものがあります。時々みかける公害等の補償運動でも、本当の罹災者、患者は後へやられてしまって、前に立って頑張るのは殆んど専門の運動屋です。こういう大衆を利用する好民の横暴が大衆国家を破滅に駆りたてておるのです。韓非子に「乱弱は阿(おもねり)に生ず」と論じております。従って先づ、参議院選挙を始めとして二百近く行われる今年の選挙について、これを寅(つゝし)み清めることは至難であろうが、実際問題としてこれをやりませんと、急速に時局は乱れて、国民生活は混乱に陥り、国際間の問題も一層紛糾した難局にはいってゆくと考えられます。
世界はデモクラシーが政治屋に堕落させたそんな政治家にくたびれてゐる。
(ディスレーリ)
イギリスの大宰相であったディスレーリの名言であります。いかにも政界の長老、経験者らしい言葉です。
今日、我が国も議会制民主主義政治を採用しておりますが、これを一言にして言いますと、議会政治・選挙政治でありまして、その根抵は民主主義であります。然し議会制民主主義というものはどんなものであるかという少しく深い知識、自覚になると、民衆は殆んどこれを知りません。これは日本ばかりでなく、アメリカでも、更に最も先駆者であり、ヨーロッパにおける議会制民主主義政治の本山であるイギリスにおいても、識者はこの問題に悩んでおります。アメリカは最近選挙権者の年齢を十八歳に下げました。そのために二千五百万人という有権者がふえました。この連中に議会制民主主議政治(デモクラシー)とは何ぞや、政治の使命は如何、有権者の責任は等とたずねても、それこそナンセンスで一向に通じません。そこでこの若者達の票をいかにして集めるかという問題になりますと、次第に政治が堕落するわけであります。民主々義国家の政治の堕落をみこして共産主義国家は全体主義・権力支配主義・能率主義的迫力でもってこのデモクラシー国家の弱点をついて、積極攻勢に出ております。今後はこの両者の熾烈な戦いであって、既に階級やイデオロギー等は過去の物語となりました。そして現代世界の政治学者、社会学者の等しく肯定しておる結論は、この共産主義政権の攻勢に対して妥協するか、どこまでも非妥協でゆくか、という二つの問題に限られてきたということでありますが、日本人はこういう問題についても深く考えない。甘い。油断がある。従って非常に危険であります。
そこでいかにして日本の政治家を政治屋に堕落させずに、立派な政治家に育てるかということが日本を救う道であります。