一燈照隅

日本が好きな日本人です

南京虐殺の虚構

2007年01月27日 | 支那事変
「パール判事の日本無罪論」を書かれた田中正明氏が、平成6年に南京事件について講演されその内容が本に書かれています。

真説・南京攻防戦

さて、これから南京事件についてお話し申しあげます。
これが南京の城壁でございます(南京の地図を指しながら)。この面積はどのくらいあるかと申しますと、南京は首都ではありますが、極めて狭いのです。東京世田谷区の五分の四の広さです。世田谷区よりも狭いのです。東京で言うと大田区、都市で言うと鎌倉市の大きさ、四十平方キロメートルです。私はここへ何遍も行きましたが、中華門から氾江門という揚子江へ出る門。これが幹線道路です。中山路。中山というのは孫文の名前です。この山(紫金山)に孫文のお墓、中山陵があります。
南から北まで歩いて一時間半で行けます。これが横の幹線道路。この中山門からこの漢中門まで歩いて一時間で行けます。こういう狭いところです。これだけ憶えておいてください。
十二月十三日が陥落の日です。昭和十二年十二月十二日に、西南の城壁の一角に日の丸の旗を立てます。南の各門が破れたのは十三日の朝でございます。松井大將は十二月九日の朝、飛行機でビラをまいて、「この中には女・子供もおり、外国の権益もある。開城して平和降伏をしなさい。十日の正午まで待つ。十日の正午までに、返事がなければ総攻撃する」。唐生智軍に勧告しました。
その前に南京市長の馬超俊は、十二月一日に全市民に命令して、寝具や食器を持参して市内中央の官庁街に設けられた「南京国際安全区」内に移住すべしと命じました。この南京安全区というのは、アメリカ人七人、イギリス人四人、ドイツ人三人、デンマーク人一人の十五人の第三国人によって管理されている避難地域です。ここには金陵大学もあるし、米国の大病院もあるし、高等法院もある。日本の領事館、その他、官庁の建物がいっぱいあるから、そこへ入れと馬市長は命令したのです。そうしてこの十五人の国際委員会に馬市長は、米と麦と塩とお金と若干のお巡りさんを預けます。「これで食わしてやってください」と。
だから、この安全区にいれば飯も食えるし、危険もないし、残留の全市民は、みんなここに入ったわけです。それが公称二十万人と委員会の記録にあります。
それから十二月七日、八日、この間に蒋介石はじめ、何応欣など、いわゆる国民党の軍部も政府も公務員も金持ちも全部揚子江をわたって漢口へ逃げてしまう。あるいは飛行機で逃げてしまう。そして最後には市長の馬超俊も市の公務員とともに逃げてしまう。もちろん市役所も税務署も、お巡りさんたちも警察も裁判所もみんな逃亡して、南京は無政府状態になるのです。残ったのは零細な市民と十五人の国際委員会、及びこの委員会が中心になって、YMCAや紅卍字会の青年たちが動員されて給食したり、難民の世話をしていたのです。
一方、十日正午の期限が来ても平和降伏の軍使は来ない。十日の正午から総攻撃に移ります。激戦は十三日未明まで続きます。日本の軍隊がずーっとほとんど取り巻いています。鹿児島の四十五連隊が城壁の西側から揚子江に沿って北上する。東側からは佐々木支隊と、三十三連隊が北上して下関(シャーカン)に出る。完全に包囲されたのです。そこで十三日朝に南の中華門とか光華門、中山門が破れる。そうすると、今まで守備していた約三万と言われているんですが、その兵隊たちが一斉に北へ逃げてしまう。軍司令官の唐生智は、すでに前夜逃亡しており、支那軍は全くの無統制、無秩序の状態です。
それで逃げるだけならいいんですよ。中山路一帯に軍服を脱ぎ、軍靴を脱いで、そうしてこの安全区の中へ逃げ込む。これを便衣兵と言います。つまり、軍服や軍靴を脱いで、そして鉄砲は隠して常民、いわゆる普通の住民たちの服を奪い取る、奪い取るために中国兵が抵抗した中国人を殺している。それを外国人が見ているのです。
とにかく、そういうことで敗残の便衣兵大体五、六千人は安全区内に遁入したとみられるのです。脱いだ軍服の数から見ても分かる。安全区の中に入ったのが五、六千人。そして大部分は揚子江に向かって逃げるのです。ここが混江門。これは三つ門があって、大きな門です。ところが、唐生智は勝手に支那兵が逃げ出さないようにというので門を塞いでしまったんです。
そこでどうしたかというと、城壁に上がりまして、城壁から飛び降りなければならないのですから、軍服をつないだり、ゲートルをつないだりしてぶら下がって降りる。パニックが起きまして、この下で二、三百人死んでいます。又城内では督戦隊にやられて相当死んでいます。
この難関をのりこえて出たところを、佐々木支隊が機銃掃射する。そのためここで大変な支那軍が戦死するわけなんです。そこを逃れた敗残兵は、つかまるものは何にでもつかまって揚子江を渡って浦口へ逃げようとする。小舟や筏はもちろんのこと、机でも椅子でも何でも浮かぶものがあったらつかまって、揚子江を渡ろうとする.そこへ第三艦隊が遡江してきてこれを撃つ。そのためここには死体がたくさんあった。これが後に南京に虐殺があったのではないかという噂をうむのですが、これは戦争です。
それから殺されないでうまく逃げた一隊が、揚子江に沿って南下してくる。これが新河鎮で鹿児島の四十五連隊とぶつかるわけです。堤防の上でものすごい戦争になるんです。日本軍も中隊長以下、八十名ほどがここで戦死しています。敵は三千人ほどの死体を残して逃亡します。この近くの江京門にのちに中共政府が作ったのが、三十万人虐殺の記念館であります。大きなガラス張りの中に骨をいっぱい入れて、これが虐殺された骨だと言うんですが、何のことはない、それは新河鎮での戦死者の遺骨なんです。その他幕府山で大量の捕虜を捕らえた程度で南京戦は終わります。
中山陵は孫文の墓ですから、立派なものです。皆さん、いったらご覧になることがあるかもしれませんが、日本の神社などというものではない。立派な大理石の壮大な建造物です。近くには明の孝陵もあります。
松井大將は中山陵のある紫金山を攻撃するのに大砲を撃ってもいかんというので、日本軍は大変苦労してここを攻めるのです。つまり、中山陵に鉄砲が当たったり、大砲が当たると壊れてしまいますから、そういうことまでして守ったんです。

二十万市民は安全であった

さて、この安全区には金沢の七連隊が入りまして、松井大將の命により安全区のすべての出入口に歩哨を立てまして、無用な者は入れなかった。そして十四日、この中に逃げ込んだ敗残兵(便衣兵)を摘出しなければならない、これは皆さんよく憶えておいて下さい。これは捕虜ではないんです。日本の教科書には「銃を置いた兵」と書いてある。「銃を置いた兵」というのは便衣兵ということで、便衣兵というのは戦時国際法によって即時処断されても至当であるとされているのです。
軍隊である、軍人であるということには条件が四つあります。一つは制服・制帽、揃った服を着ていなくてはいけない。二つは司令官、統率者がなくてはいけない。三つには軍紀、軍律がなくてはいけない。それから武器・兵器はあらわに持っていなくてはいけない。手榴弾を隠して持っていて、油断させておいて裏から投げる。こんなことは絶対許されない。これをなす者はいわゆる軍人ではない。だから、捕虜の資格はない。だから、処断されてもやむをえない。日本軍はこれを摘発して殺しました。
十四日にこの安全区の中から二百五十人を引っ張りだした。ところが、調べてみるとみんな兵卒ばかりである。将校はうまく逃げている。
それから調べましたら、この安全区の中から小銃や機関銃がぞくぞくと出てくる。速射砲が出てくる。郷弾筒が出てくる。手榴弾が出てくる。
いわゆる武器が続々と出てきた。だから、これは危ないと十五日は休んで、十六日にもう一度摘発します。日本の記録には千二百人になっています。この千二百人を引っ張りだして射殺します。そのときは支那人の通訳づきで、そしてここ(額)に軍帽の日焼けの後があるとか、銃タコがあるとか、若くて軍隊人らしき者とか、それから広東なまりの者……。つまり、南京守備隊には広東兵が多かったですから、そういった基準で選びだした。間違って普通の人が入っていたかもわからん。しかし、そういうことがあるからこそ、いわゆる便衣兵というのは絶対に許してはならないのです。戦時国際法が厳しく禁止しているゆえんです。
さらに十二月二十四日、三回目に約二千人を摘出しますが、この二千は捕虜収容所に入れています。
十二月十三日から翌年の二月九日まで五十八日間、この安全区国際委員会の十五人は毎日毎日、日記を書き、毎日毎日、日本の領事館に、日本軍の犯罪行為を告発しています。それによると、側聞まで含めて、
殺人四九件
傷害四四件
強姦三六一件▽多数三件▽数名六件
連行三九〇件▽多数一件▽数名二件
掠奪その他一七〇件
となっている。殺人わずか四十九件である。大虐殺などどこにもありません。
この中には松井大將の厳命で安全区内には一件の火事もなく、鉄砲の撃ち合いもなく、爆撃もなかった。ここに居住した公称二十万人の市民は全員無事だったのです。
ラーべというドイツ人の国際委員長が、「安全区は火事一つなく、鉄砲も撃ち込まれずに安全でございました。ありがとうございました」という感謝状を日本軍に出しているんです。ということは、市民は全員安全だったんですね。
しかも国際委員会の記録によると、公称二十万人の市民は約一カ月のち、一月十四日になると今度は公称二十五万人になっているのです。五万人増えているんです。なぜか、今まであちこちに隠れていた避難民が、平和が回復したから帰ろうというのでどんどん帰ってきたんです。

大虐殺は全くの作り話

皆さん、私の書いたこの本『朝日新聞が報道「平和甦る南京」の写真特集』を見てください。戦後朝日新聞は南京に大虐殺があった、あったということを書き通し、大キャンペーンをしたために、南京大虐殺が教科書に載るようになり、いまだに南京大虐殺はあったことになってしまっている。当時の朝日は、占領での南京の様子を忠実にちゃんと組み写真にして一カ月の間に五回にわたって、報道している。十二月十三日の入城から五日後には既に五枚の写真を新聞半ぺージ大に出している。十日目にはまた四枚の写真を半ぺージ大に出している。
占領五日目には中国の避難民が続々と帰ってくる写真、畑で農夫が耕しており、街頭では床屋が店をだし、子供が遊んでいる平和な写真です。十日目の写真は中国の捕虜にご飯をやっているところとか、中国の傷病兵を看病しているところとか、兵隊さんが中国の子供と楽しそうに遊んでいる写真です。これらは南京事件の第一級史料ですよ。
南京陥落の十二月十三日に一緒に入城したカメラマンと新聞記者、雑誌記者、いわゆるマスコミが百二十人入城して取材にあたっています。
そのほかに、時間的には若干遅れたりしますが、皆さんよくお名前は知っているでしょうが、大宅壮一という評論家、詩人の西条八十、草野心平、それに、杉山平助、木村毅、林芙美子、小林秀雄、野依秀一、石川達三という小説家や評論家が入城して取材にあたっている。百二十人のカメラマン、新聞記者、評論家がこの狭い南京市内に入っているんです。
その彼らの誰一人として死体の山も血の川も見ていないんです。一人も虐殺しているところを見たという人はいないんです。これはどういうことですか。大虐殺はなかったということでしょう。
それから私は申しあげたい。日本だけがなかったと言っているのではありません。南京戦を戦ったのは国民党軍です。その一番頂点にいたのが何応欽上将、つまり大將ですね。日本で言うと陸軍大將で総司令官と陸軍大臣を兼ねている。これが軍事報告書を出しています。この報告書にも南京虐殺は出てこない。
このころの国民党や共産党の雑誌や、新聞や、報告書には詳しく戦況や被害状況などが出ています。しかしいくら探しても、南京で虐殺があったということは書いていないんです。
当時、国際連盟というのがありました。今の国際連合の前身です。国際連盟は殆んど全員あげて反日援蒋で、中国の味方でした。昭和十二年八月、国連第八回総会の時シナは北支事変を提訴し「日本に抗議する対日宣言文」まで採択されました。さらに翌十三年一月には、英・仏・ソ・中の四力国による「支那事変問題の小委員会」をつくりまして、そして日本が広東・南京で軍事施設でないところに爆弾を落とした、けしからんと言って抗議までしているんです。しかし、一行も南京虐殺などということは書いていない。
五年前に天安門事件があったでしょう。あのときの騒ぎはどうですか。世界中の新聞、ことに人権を重んずるアメリカやイギリス等の新聞は、人権無視の行為だと言ってじゃんじゃん書きたてました。天安門事件の死者は僅か数百名であの騒ぎです。いわゆる南京大虐殺については一言の抗議もないんです。日本の教科書には当時、世界的な非難を浴びたと書いてある。私は外務省の藤田アジア局長と一時間半論争しました。「どこから抗議があったか、その証拠を見せてくれ。非難されたのなら非難された文章があるだろう」と。私が外務省の資料館で調べた限りにおいては南京虐殺に対する非難も抗議もない。資料を見ると、アメリカ大使館の自動車が日本の兵隊のために盗られた、あるいは傷つけられたといってその弁償までしています。しかし、虐殺があったというこ
とは一つもない。
阿羅(健一)君という私の同志が「ニューヨーク・タイムズ」、ロンドンの「タイムズ」、それからアメリカの有名な週刊雑誌に「タイム」というのがあります。あれは当時最も反日的な雑誌で、日本の悪口ばかり書いてました。それから「サンデー・エクスプレス」。この四つを十二月十三日から翌年の二月の終わりまでずーっと調べてみたと言うのです。社説に南京大虐殺は出てこない。記事の中にも日本軍が、虐殺したの、女・子供をどうしただの、そんなことは一つも出ていないと言うのです。
アリソンというアメリカの大使が、日本の兵隊に殴られたという事件がありました。それから皆さんご存じのように、米艦パネー号、英艦レディバード号に支那軍が乗って逃げた。それを砲撃した。そのために船が沈み、日本ではその船の賠償をしたり、大変な事件が起きました。そういう事件はたくさん書いてあるけれども、虐殺事件に関する記事は一行もないと言うのです。ところが、八年後日本が敗戦して東京裁判が始まると、とにかくニカ月間にわたって浴々と日本軍は南京で悪魔のような軍隊であった。女と見ればみんな強姦した。男と見れば銃殺した。品物を見れば奪って逃げた。家があれば放火した……と。
ただただ日本国民は恥じ入って小さくなっているばかりでした。当時GHQの言論統制は厳しく、それはウソだ、でたらめだと抗議することなど絶対に許されなかったのです。当時テレビはございません。ラジオです。毎晩毎晩、「真相はこうだ!」という放送を聞かされました。これはGHQがシナリオを書いて全国民に聞かせたのです。その「真相はこうだ!」のシナリオは、実に聞くに耐えない残虐な日本軍隊の姿でした。そうしなければ六百万人も殺したアウシュヴィッツに匹敵することはできなかったからです。
残念なことに、この東京裁判史観がいまだに日本国民の頭脳にしみ込んでしまって、中国のいう白髪三千丈式の戦時宣伝をいまだに信ずる人が多いということです。

東京裁判へでっちあげ報告

今度は東京裁判の話をしましょう。東京裁判は南京大虐殺のネタをどうしてつくったかと言いますと、昭和二十年十一月中国は南京に「南京敵人(日本軍)罪行調査委員会」というのをつくったんです。その調査委員会には警察はもちろん、弁護士会、医師会、商工会議所、青年団、それから紅卍字会、自治委員会など十四の団体が集まりまして、日本軍が南京を占領した時の被害状況を告発するよう市民に呼びかけました。
殺しを見たとか、何でもいい日本軍の悪いことを言いなさい、言いなさいといくたびも宣伝し勧誘したが、誰も言わない。その状況をこう書いています。中国語の原文で、「冬の蝉のごとく口を襟みて言わず」と書いてある。言わないということは要するになかったんですよ。なかったから言えないわけです。そこで手を変え、品を変えて、そうして何とか数字をつくらなければいけない。そこでどうしたか。
そこで、まずこの紅卍字会という団体が死体を埋葬した。どこでいくら埋葬したかということを作文して一覧表を作りました。これが大体四万五千人ぐらいの死体を葬った。これを全部虐殺死体であるとしたのでした。
もう一つ、崇善堂という葬儀屋があるんです。これがなんと十一万二千数百人葬ったと言うんです。当時、ブルドーザーもないし、トラックもないんですよ。どうやって十一万人の人間を穴を掘って埋めたと思いますか、これはもう常識で考えてもおかしいんです。しかも、八年後(八ヶ月後)に東京裁判が始まるというのでつくった統計表です。どこどこで幾ら殺しがあって、うち女は幾ら、男は幾ら、子供は幾らといった統計表をつくったんです。そんなものが信用できると思いますか。
東京裁判が終わってからのちに、とうとう化けの皮がはがれました。
産経新聞にも大きく出ましたが、評論家の阿羅君が、中国で発行していた南京市政府の書類の中に、この崇善堂という団体は当時、つまり、昭和十二、三年頃は休業していて活動はしていないというのがわかったんです。だから、この十一万二千数百人というのは全然でたらめな嘘の数字なんです。
皆さん、これはまた笑い話なんですが、「私は一人で日本軍が中国の婦人や子供を含めて五万七千八百十八人殺すのを見ました」。どうやって数えますか(笑)。「五万七千八百十八人殺すのを見ました」と言う男が現れた。それを麗々しく証拠にしているんですよ。
それから先程、ここ(新河鎮)で戦争があったと言いましたでしょう。戦争があって日本の中隊長も死んでいるんですが、敵の死体が約三千三百人。ここは湖南省の材木屋が筏を積んできて材木を下ろすところらしいんです。そこを見に行った二人の材木屋が沢山の支那兵の死体を見ておどろいた。この二人が「私どもは新河鎮で二万八千七百三十名の死体を埋葬しました」と申し出た。つまり三千人が三万人に十倍にふくらんだのです、しかもそれを二人で葬りました。どうやって二人の人間が三万人の死体を葬ったんでしょうか。こんなデタラメな嘘っぱちが重なって三十四万人殺したという数字を出しているんです。そのほか項目は三つほどあるんですが、それらの数を私が算盤を入れてみても三十四万人にはならないんです。二十五万三千三百人です。簡単な加え算の算盤さえも違っているのです。
これを受けた東京裁判の検察側も判事たちも、これをそのまま日本軍の犯罪とは言えないので、どうしたかと言うと、割り引きにしたんです。
多数判決、これを清瀬さんは六人組判決と言っています。十一人の判事の中の六人組アメリカ、イギリス、ソ連、中国、ニュージーランド、カナダの六力国の判事が集まって決めた判決なんです。そうすると、あとの判事はどうしたか。あとの判事は意見があったら書面で申し出よというのです。フランスのベルナール判事は十一人の判事が一堂に集まって罪名をどうするか、誰を処刑するか、罪を何等にするのかということを相談したことは一度もない、と内面暴露をしています。
それからオランダのローリング判事は、「広田弘毅という人は平和な立派な人格者だ。オランダ大使の時オランダ人はみな崇拝した。オランダにはヒロタというチューリップの名まである。そのヒロタを死刑にするとは何事か、あれは無罪である。あとの六人も死刑は不当、減刑せよ」と意見が分かれた。
肝心のオーストラリアのウエッブ裁判長も、六人組から除け者なんです。彼も、ナチス・ドイツの戦犯に比べて刑量が重すぎるという意見を出しています。
パール博士は「全員無罪。こんな裁判は裁判として成り立たない」と言っておられます。そのパール判事の言うのは、ただ感情論で言うのではなしに、「侵略とは何か」「戦犯とは何か」といった問題を提起して、世界中の国際法学者の今までの論文を引用し、そうして六人組が出した多数判決よりも、権威のある判決文です。六十万語と言われていますが、皆さん、もしお読みになるのでしたら、講談社の学術文庫で上下二巻で出ております。
要するに、十一人の判事のうちで六人組の六人だけが相談して有罪としただけで、あとの五人はそれぞれの意見を出しているわけです。東京裁判とはこういう裁判だったのです。裁判にあらざる裁判であります。
しかも六人組は、南京事件は日本軍が中国軍民を二十万人以上虐殺したと判決した。しかるに松井大將に対する判決はどうでしょう。貴官が統率した南京の日本軍は十万人以上を虐殺した、とさらに半分にねぎっているのです。こんなデタラメな裁判なんてあるでしょうか。一人の将軍を絞首刑に処するというのに、虐殺数を二十万だと言い、十万だと言う、これが東京裁判の正体なのです。
最後にパール判決文の最後の言葉を引用して講演を終わりたいと思います。
「時が熱狂と偏見をやわらげ、また、理性が虚偽からその仮面を剥ぎとったあかつきには、そのときこそ、正義の女神はその秤の平衡を保ちながら、過去の賞罰の多くに、そのところを変えることを要求するであろう」
まさにパールさんの言う「その時」は来たのです、いな来さしめなくてはならぬと存じます。
まだいろいろお話ししたいことはありますが、ちょうど時間になりましたので一応これをもって私の話を終わります。もしご質問がございましたら、どうぞよろしくお願いいたします。お粗末さまでした。
(拍手)
「大東亜戦争の総括」展転社より引用


近現代史評論家の田中正明氏死去