一燈照隅

日本が好きな日本人です

眠り続ける理性。

2011年08月13日 | 大東亜戦争
8月15日が近づいてくると、毎年マスコミでは反戦平和の扱いが多くなってくる。
内容は何時も同じ。
戦争は悲惨。弱者が一番被害を受ける。二度と戦争をしてはいけない。
しかし世界では、戦争はいつかは起こるものと思っていなければなりません。

平和を維持するには何故戦争が起きるか、この事を知らなければ成りません。
病気を防ぐには病気の発生原因を突き止めなければいけないのと同じです。

しかし、現在の日本では反戦平和以外で戦争のことを言えば、マスコミに忽ち叩かれます。
起こっては困ることは考えない。考えるから起こってしまう。
これでは日本はこれから起こるかも知れない戦争を防ぐことが出来ないか、外国の言いなりになる奴隷国に成ってしまうでしょう。


昭和二十年九月二日、戦艦ミズーリの艦上で降伏調印が行われました。
この時、ペリーが浦賀に来た船の艦上に翻っていた星条旗を掲げていた事を知っている人はほとんど居ません。
この事が何を意味するのか、米国の新聞は「我々は初めてペリー以来の願望を達した。もはや太平洋に邪魔者はいない。これで中国大陸のマーケットは我々のものになる」と書いています。

世界地図を見れば分かりますが、支那から東を望めば日本が邪魔になる。米国から西を望めばやはり日本が邪魔になる。
これは戦前も現在も変わりません。
大東亜戦争はペリーの来航まで見なければいけないことを米国は知っていたのです。



(一)独立を守るために他に道があつたのか

三番目に出しました問題、それは君が代も日の丸もふくめてそれらは過去の軍国主義につながるからいけないといふ考へですが、これも天皇の問題と同じく明治、大正、昭和を通して過去の日本が歩んできた道はすべて間違ひであつたといふ固定的な考へがその背景をなしてゐるわけです。特にお隣りの中国に対しては申し訳ないことばかりやつてきた、近代日本が行つた戦争はすべて侵略戦争であつたときめてかゝつてゐる。その前提は誰も疑はうとはしない。君が代も日の丸も、その上に立つて評価されてゐるのです。だがその前提自体が果して正しいのか、私はこれもまた天皇の場合と同じく幻想にすぎないと思ふのです。

勿論過去の日本が行つたことがすべて正しかつたといふわけではありません。しかし日本の独立を守るためにはこのやうにせざるを得なかつたといふことも沢山あつたはずで、それを考へることなく、戦争であればすべてこれを否定するといふやうな単純な論法で過去を裁くことは許されないと思ふのです。

例へば、林房雄さんなどはペルリがやつてきた時から敗戦まで、この百年間は結局日本が世界の袋叩きにあつた百年であつたと言はれてゐますが、侵略戦争一辺倒の歴史観から一歩はなれて、かういふ見方もあるといふこと位は考へてみる必要があるのではないでせうか。

明治維新以来、国の独立を守るためには日清、日露の戦はどうしても避けることが出来ないきびしい現実だつた。そして私たちの祖先はその現実に実に勇敢にとりくんできた。特にロシアを相手にした戦では文字通り薄氷を踏むおもひでしたが、見事に勝利を収めることが出来たのです。ところが、辛うじて勝利を手にした時にはすでにアメリカは日本を仮想敵国として考へ、その銃口は太平洋を越えて日本にむけられてゐたのです。かうしてアメリカはその後ワシントン条約(大正十年)、ロンドン条約(昭和五年)と次々に日本に手かせ足かせをはめてくる。

日米が戦争に突入したのは昭和十六年ですが、実は日米戦争は明治三十八年、日本がロシアに勝利を収めたその日にはじまつてゐたと言つても過言ではないのです。かうして遂に昭和二十年八月十五日、敗戦を迎へました。その間日本の歩んだ道は試行錯誤のじぐざぐの道であつたし、個々の場面では反省すべきことも数多くあつたでせう。しかしおほまかに言へばやはりそれは民族のすべてをかけて独立を守りぬいた道だつたと思ふのです。

もしこのやうな明治以後の日本の歩みが間違ひだつたといふのなら、では一体日本の独立を守るために、他にどんな方法があつたのか、その具体的な方策を日教組の先生方に教へてもらひたいと思ふのです。かうすれば戦争といふ手段に訴へないで日本の独立を保つことが出来たはずだといふことがあるならその答を出してもらひたい、さうではなく、単に悪かつた悪かつたといふ感情論ではどうにもならないのです。

しかもこのやうな考へは、文部当局の検定を受けたはずの、れつきとした歴史教科書の中にも露骨に示されてをり、そのために、子供たちは折角明治以後の歴史を学んでも、何一つ感激をおぼえず、それどころか徒らに罪悪感にとらはれてゐるといふのが、悲しむべき教育界の現状なのです。さういふ意味で申し上げたいことは沢山ございますが、ここでは昭和の歴史の中の二、三の問題点をとりあげて若干お話しておきたいと思ひます。

(二)支那事変を操つた共産主義者の謀略

先づ第一に昭和十二年に勃発した支那事変は一体どのやうにしてはじめられたかといふことについて簡単にふれておきませう。
一般にその発端となつた廬溝橋事件は一方的に日本から仕掛けた戦争だといふことになつてゐるやうですが、実はその前年西安事件をおこして蒋介石を監禁した中共が勢にのつて国府軍を動かして仕掛けたワナだつたのではないかといふ見方もあるのです。すなはち、日本を中国と戦はしめ、奥地へ奥地へと戦線を拡大せしめ奔命につかれしめて、遂に日本を破滅に導かうといふ遠大な計画が中国共産党とその背後にある国際共産主義勢力によつて巧妙に仕組まれてゐたらしいといふのですが、それは決して根拠のない臆測ではないと思はれます。現に当時のソ連の外務人民委員、すなはち外務大臣にあたるポストにゐたリトヴイノフがジユネーブにおける会談の折に、フランスの首相ブルムに語つた言葉は明らかにそれを裏書きしてゐます。リトヴイノフは支那事変についてかう言つてをります。

「ソ連にとつて日本が支那を攻撃したことはよろこびにたへない。日本は財政的にも経済的にも弱まり、かつ征服した支那を同化するには多大の困難をもつであらうから、今後数年間極東における平和は保証されたと確信してゐる。ソ連は支那と日本の戦争が出来るだけ長びき、かつ日本が出来るだけ多く支那を併呑するやうな結果になることを希望する。」

このリトヴィノフの言葉は、現代の常識では全く考ヘられないおどろくベき言葉ですが、実は時期は少々ずれますが戦争末期、例のゾルゲのスパイ事件で死刑になつた共産主義者尾崎秀実の口供書における発想と全く同じなのです。尾崎秀実はかう述べてをります。

「私の立場から言へば、日本なり独逸なりが簡単に崩れ去つて英米の全勝に終るのは甚だ好ましくないのであります。此の意味に於て、日本は戦争の始めから米英に抑圧させられつゝある南方諸民族の解放をスローガンとして進むことは大いに意味があると考へたのでありまして、私は従来とても南方民族の解放を『東亜新秩序』創建の絶対条件であるといふことをしきりに主張して居りましたのは、かゝる含みを籠めてのことであります。」

「私の立場から言へば」とはいふまでもなく共産主義の立場から言へばといふことです。

その立場からすればすべての価値判断の基準は世界共産主義革命の成就にあるわけですから、彼は日本がその矛先をソ連にむけないやうに積極的に南進政策を鼓吹し、英米と日独の双方が共倒れになる時を待つてゐたといふのです。尾崎秀実といへば現代ではあたかも反戦主義者のやうに考へられ、英雄扱ひにされてゐる人物ですが、実は彼の心中には反戦どころか、革命のためにはあへて日米を戦はしめようとするしたたかな計算が出来上つてゐたのです。

要するにリトヴイノフも中共も尾崎秀実も、日本が大陸に或いは南方に深入りし、戦線を果てしなく拡大してどうにもならない泥沼に落ちこむ日を虎視耽々と狙つて一挙に世界共産革命が成就する日を待つてゐたのです。しかもその狙ひはまことに正しく戦後中国大陸は見事に共産主義国家に生れ変つたではないか。勿論日本が支那に戦線を拡大したのがすべて彼等のせゐだとは申しませんが、彼等の謀略が大きく左右してゐたのは疑ひやうのない事実ではないでせうか。過去の日本を侵略主義国家であるときめつけて、中国の人民に申し訳ないことをしたといふ、ただそれだけの目で過去を見てゐる人々は、このやうな共産主義者の動きを一体どう考へてゐるのでせうか。

(三)日米開戦の真相

もう一つ、これはすでに御承知の方も多いと思ひますが、大東亜戦争が勃発した時の情勢です。これも日本を一方的な悪者に仕立てあげた東京裁判の見方が圧倒的に多いやうですが、これは全く違ふ。これこそ日本を戦争にひきずりこむ為にアメリカとイギリスが打つた大芝居であることは、むしろ世界の常識とさへ言へるのではないでせうか。その常識が通用しないのは日本だけなのです。

当時ドイッの攻勢の前に一番苦しかつたのはイギリスでした。イギリスはどうにかしてアメリカが対独戦争に加はつてほしいと思つた。アメリカもこれに同調してチヤーチルとルーズベルトとの間にはすでに約束が出来てゐたのです。しかしルーズベルトが大統領になる時に、戦争に参加しないことを公約にかゝげて当選したいきさつから、アメリカはなかなか戦争にふみきることが出来ない。それでむこうから戦争をしかけてくれるやうにドイツを挑発するけれどもドイツは乗つてこない。それで今度はドイツと同盟を結んでゐる日本を挑発にかxるのです。だからこそアメリカは昭和十六年七月には在米日本資産を凍結、八月には石油輸出を全面的に禁止し、日米交渉の最後には日本が絶対呑むことのあり得ないハルノートをつきつけて日本を戦争に追ひこんでゆくのです。現に当時のアメリカ陸軍長官スチムソンは、ハルノートが出された前日の十一月二十五日の日記に「問題はわれわれがあまり大きな危険に曝されることなしに、いかにして日本を最初の攻撃の火蓋を切らせるやうな立場に追ひ込むかといふことであつた」と書いてゐるのです。

かうして十二月八日、ついに真珠湾攻撃が開始された。その時イギリスやアメリカがどんなによろこんだか、イギリスの首相チヤーチルは「第二次大戦回顧録」の中で、次のやうに述べてゐるのです。
「私はその夜感動と感謝の気持で胸いつばいになり、ベツドに行き、救はれ、感謝に満ちた気持で眠りについた」

さらに、先ほどのスチムソンは
「日本がわが国を攻撃したといふニユースが最初に着いた時、未決定は終り、危機が全国民を団結させるやうな方法で到来したので、私が先づ感じたのは救はれたといふことであつた」
と記してゐます。これがイギリスやアメリカの首脳部の考へであつたことはよくよく記憶してゐなければなりません。

現在日本の常識とされてゐる真珠湾攻撃に対する見方からは、彼らのよろこびの言葉はどうして想像できるでせうか。しかしそれらの言葉が疑ひやうのない事実である以上、当然、現代の常識は反省されなければなりますまい。現代の常識、それはいふまでもなく、東京裁判的なものの見方から生まれたものです。東京裁判のことについてお話する時間はございませんが、ただ東京裁判において唯一人日本の無罪を主張したインドの代表判事、R・パールが、その陳述「日本無罪論」の最後に書きとどめた一節だけは是非ここで読んでおきたいと思ひます。

「時が、熱狂と、偏見をやはらげた暁には、また理性が、虚偽からその仮面を剥ぎとつた暁には、そのときこそ、正義の女神はその秤(はかり)を平衡に保ちながら過去の賞罰の多くに、その所を変へることを要求するであらう。」

パール判事は、「時が熱狂と偏見をやはらげた暁には」と書いてをりますが、あれから三十年、未だに、熱狂はともかくとして偏見は全く同じ姿勢で続いてをります。「理性が虚偽からその仮面を剥ぎとつた暁には」とありますが、いまだに理性は眠りつづけてゐるではないか、そのために未だに女神はその秤を平衡に保つことが出来ないでゐるのです。

(四)近代日本に与へられた苛酷な運命

ただこのやうに申し上げれば、明治以後日本のたどつた道はすべて正しかつたのだ、日本をいはば袋叩きにした欧米諸国がすべて悪かつたのだといふやうに言つてゐるとお考へかもしれませんが、私が申し上げようと思ふことは必ずしもさうではないのです。もし大雑把な言ひ方が許されるなら、どの国も、どの民族も自分が生きてゆくためにすべて必死だつた―さう言つていいと思ふのです。特に日本はその間にあつて、実に苦しい戦ひを戦ひぬいて生きてきた。東洋の民族が次々に植民地化されてゆく中にあつて、日本だけは見事に独立を守りぬいた。最後は遂に悲惨な敗戦に終つたけれども、その間の私たちの父祖の足跡は、後世の史家に特筆されるべき栄光に満ちてゐたのです。日の丸を忌はしい戦争を思ひ出させるといつて日教組の人々は否定しようとしますが、むしろ日の丸は日本にとつてだけではなく、東洋の民族全体にとつても西洋の侵略を防ぎとどめることが出来た、栄光のシンボルであつたといつてもいいのです。

しかし今の世の常識は過去の日本に限り、これを徹底的に責めて責めて、責めぬくのです。そしてこのやうな「国際情勢を生きぬいてきた日本」といふ視点をことさらに無視して、日本が戦争をしかけることさへなかつたら戦争もおこらず万事うまく事が運んだやうにいふのです。そしてすべてを軍国主義のせゐにしてしまふのです。そのやうな粗雑な、感情的な歴史に対する接し方では歴史は全くわからないといはなければなりません。しかも彼らがここで口にする軍国主義といふのは一体何をさすのか。人々は軍部によつて政治が勝手に動かされた過去の日本を軍国主義と呼んでゐるやうです。たしかに軍部の独断と専権はあつた。しかしその場合でも、軍部は明確な一つのイズムとそれに見合ふ意志があつて動いたのではなく、むしろ軍部内の意見の不統一が国家全体に統一を失はしめ、混迷の度を深めて行つたといふのが事実ではなかつたか。一体それをしも「軍国主義」と呼ぶことが出来るかどうか、いづれにせよ実体がまことに曖昧な「軍国主義」といふものにすべての責を負はせて過去を裁く、それでは歴史は全くわからなくなるのです。

くりかへし申し上げますが、私は過去の日本は過つてゐたといふ常識に対して、単にさうではない、正しかつたのだといつてゐるのではないのです。私たちは間違つてゐたとか正しかつたといふやうな判断以前の、もつと厳粛な、近代日本に与へられた苛酷な運命そのものを直視しなければならない。そしていたづらに罪悪感にとらはれることなく、正確に歴史をかへりみなければならない、さうして日本民族としての活力を蘇らせなければいけない。私は痛切にさう思ふのです。
「戦後教育の中で」小柳陽太郎著 昭和五十五年四月「久留米市教育クラブ」における「国歌『君が代』否定論の背景」講演より抜粋