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一燈照隅

日本が好きな日本人です

安倍総理靖国神社参拝。

2013年12月29日 | 靖国神社
26日に安倍総理が靖國神社を参拝しました。
このことに対して大部分のマスコミは批判的な論調です。

総理大臣が靖國神社を参拝することは、日本国総理大臣であれば説明するまでもありません。

各マスコミの批判の内容は、ほとんどが支那、韓国との関係が悪くなるです。
しかし、今の日本との関係を悪くしているのはどこの国でしょうか。
安倍首相はいつでも支那、韓国と会う用意があるとメッセージを送っています。

それに対して会うどころか話をしようともしません。
関係を悪くしているのはどちらか誰でもが分かるでしょう。

それを知っていながら、靖國神社を参拝したから支那、韓国との関係が悪くなると言うのはちゃんちゃらおかしな話です。

安倍総理の参拝で英霊達はおそらく「やっと、まともな総理大臣が来たか。」と思われたことでしょう。

平成二十六年からの我が国が良くなっていく、そのような気分にしてくれた参拝でした。




強引に曲げようとする古賀遺族会会長。

2008年08月20日 | 靖国神社
古賀誠遺族会会長が又も分祀論を発言しています。
よっぽど支那の指令が強いのだろうか。
2年前にも同じような発言をして、安倍官房長官(当時)に注意されています。


安部官房長官、古賀氏を牽制(平成16年5月18日)
「分祀は靖国神社の自主判断」古賀提言に安倍長官  

安倍晋三官房長官は18日午後の記者会見で、自民党の古賀誠元幹事長が「A級戦犯」の分祀(ぶんし)を盛り込んだ政策提言を示したことについて、「信教の自由に基づき靖国神社が自主的に判断すると思う。神社、ご遺族が静かに話し合うべき問題で、政府がコメントすべきではない」と述べた。  
靖国問題を自民党総裁選で争点化させる動きには「さらに政治、外交問題化することにつながり、そうすべきではない」と牽制(けんせい)した。
(05/18 20:08) sankei web


古賀氏は人権擁護法案といい道路公団民営化反対といい野中広務路線を歩んでいるようです。
以前にも靖国神社参拝は支那・韓国に配慮するべきと言って、遺族会から反発を受けたはずです。
逆に総理大臣は靖国神社に参拝するべきと言うべき立場ではないでしょうか。


54年4月19日朝日新聞夕刊
日本遺族会福祉事業部長の末広栄さんは「A級戦犯の方々が靖国に合祀されたという話は前に聞いたことがある。遺族会としては議論の対象にしていないが、個人的には大変結構なことだと思う。

戦犯に対してはA級とかB級とかいうが、これは我が国の憲法の中で決められたものでなく、勝った者が負けた者を罰し、彼らが勝手につけたものだ。あの戦争が起こったゆえんから論争すべきだ。

あの当時、日本の置かれた立場からやむを得ず始められた戦争だ。当時の国民感情としてはああならなければかえって危険な情勢にあったのではないかと思う。だから、指導者とか一兵士と言って区別するほうがおかしい。その意味では、合祀は、A級でも一兵士でも同じ事だ。」


古賀氏は靖国神社参拝を、反小泉に利用しているようにしか見えない。






今年もゾンビが徘徊する。

2008年08月17日 | 靖国神社
8月15日の前後になると、ゾンビのように日本軍や靖国神社を貶めようとする発言が出てきます。
今年は遺族会会長が頑張っているようです。
しかしその発言は余りにも稚拙で、とても国会議員の発言とは思えません。


平成18年8月21日記事 堺事件と靖国神社の所謂戦犯合祀
靖国神社に所謂戦犯が合祀されていることを問題にしている発言があります。最近知ったのですが、似たような合祀のしかたは大東亜戦争の前にもありました。
慶応四年(1868年)二月十五日に堺で起きた、隊旗をうばって逃げようとしたフランス水兵を、土佐藩志が殺害する事件が起きました。
フランスは当然のように事件に関係した者20人を死刑にしろと言ってきました。
当時の情勢からすると、日本が西洋諸国に文句を言える立場ではありませんでした。(東京裁判当時の日本と同じです)
籤引きで20人が選ばれ、堺の妙国寺で切腹します。
この時11人まで切腹が行われ、フランス側の立会人が席を立ったためそこで終わります。
この時、切腹をした11人が大正9年に靖国神社に合祀されることになりました。

時は慶応四年(一八六八年、九月八日が明治改元)の二月十五日(旧暦)のことである。戊辰戦争の発端であつた正月早々の鳥羽伏見の戦に敗れた徳川慶喜の軍は一月六日海路大阪から江戸に撤退し、新政府は一月十五日付で各國に王政復古を通告した。現政権が倒れて新政府が樹立されたといふ意味ではこれは革命にひとしい事態だつたが、この革命政府は旧政権たる徳川幕府の締結した國際条約は継承して遵守する旨を締結各國にいち早く通告したから、米・英・仏・蘭・伊・独(プロイセン)の諸國軍隊は、革命政府の出方に一応信を措き、新政府と旧政府問の戦争に関しては局外中立の立場をとることを宣言した。幕府軍が撤退した後、大阪、兵庫、堺の三海港都市にはそれぞれ薩摩、長門、土佐の藩兵が新政府の命令を受けて駐留し、治安の維持に当ることになつた。堺事件とはこの時、堺港市に於いて臨時に一種の軍政を布いてゐた土佐藩の歩兵隊とフランス海軍との間に生じた衝突事件である。

二月十五日にフランス軍艦デュプレックス号の水兵がボートを下して勝手に堺の町に上陸し、不遠慮に市中を見物して廻つた。堺は南蛮時代からの伝統を有する古い港町ではあるが、安政の条約による開港場ではなかつたから、当時の市民は西洋人との接触が初めてで何かと小さなトラブルが起る。土佐藩の歩兵は手真似でフランス水兵達を本艦に帰らせようとしたところ、中の一人が、ふとしたいたづら心であらう。歩兵隊の隊旗をさらつて逃げ出した。旗をとられては軍隊としての名誉にかかはる。歩兵隊に傭はれて旗持をしてゐたこの町の鳶職の頭の者が旗を奪つた水兵を追ひかけ、ボートに逃げのらうとした水際で追ひついて鳶口で強かにその脳天を打つた。

詳しいことはわからないがもし鳶口の刃先で打つたとすればそれは明らかに一命にかかはる殺人行為である。

ボートのフランス兵がこれを見て驚いて一斉にピストルを撃ち出した。埠頭に駆けつけてゐた土佐の歩兵隊の六番、八番の両小隊は隊長の命令で一斉射撃を以てこれに応戦し、一瞬時銃撃戦が展開されたのだが、ボートから撃つピストルと陸上からの小銃射撃とでは勝負にならないこと明らかである。土佐の歩兵隊や傭の鳶の者に死傷者はなかつたのに対し、フランス水兵側には十三人の死者が出た。後にフランス側が土佐藩兵二十人の死刑を要求したところから察するに、軍艦に帰りついてから傷が悪化して死んだ者を入れて犠牲者は二十人に達したのかもしれない。

この事件は直ちに、発足したばかりの新政府にとつて厄介な外交問題となつた。フランス海軍は局外中立を宣言してゐる。幕府側を支援し、幕府に気脈を通じてゐることは周知の事実で新政府磨下の土佐藩もフランス人に悪感情を懐いてゐるが決して國際法上の敵対國ではない。フランス兵達は無許可で上陸したのではあるが市内で特に乱暴狼籍をはたらいたわけではない。藩の隊旗をさらつて逃げたのは軍隊に対する侮辱行為ともいへようが、謂つてみれば喧嘩沙汰ですませておけばよいほどのことであり、それだけで殺傷行為に及んだのは何としてもゆきすぎであらう。

発砲したのはフランス側が先であつたが、これは同僚が打ち倒されたのを見たからで、緊急避難の挙であり、所謂正当防衛と見てよささうである。此に対して土佐の歩兵隊は隊長の命令で一斉射撃の挙に出たのだからこれは明らかに軍隊としての戦闘行為に及んだものである。その上二人の小隊長は上司の命令乃至許可を待つことなく、独断専行で部下の隊員に射撃を命じたのである。公然たる戦争状態にある(徳川慶喜追討の朝命が下つてゐたのだから)幕府軍に対してならともかく、中立國の軍隊に対する処置としては明らかに軽率であり失策である。

そして事件は予想された通りの厳しい外交問題に発展した。つまりフランス側から新政府につきつけられた要求は三項、藩主山内豊範が自身フランス軍艦に出向いて謝罪すること、下手人二十人の死刑、殺されたフランス水兵の遺族に対し計十五万ドルの慰籍料の支払ひ、である。当時まだ実力も政治力も微弱であり、まして西洋諸國の國際世論を向うに廻して自分達の主張を貫く自信のない、謂はば大義を保有してゐないことを自覚する新政府としてはこの要求を全面的に呑むより他に途はない。藩主の謝罪と犠牲者の遺族への補償のことはともかくとして、難しいのは下手人二十人の死刑といふ要求の処理である。射撃を命令した二人の小隊長とその副隊長に当る小頭といふもの、計四人の、地位から発する責任の件は一応筋が通る。彼等とても、隊旗に加へられた侮辱、相手方が先に発砲したのだから―といふ言分はあるのだが、その抗辮は強大な國際世論と新政府の辛い立場といふ、圧倒的な「時勢」の前には如何にも無力である。この四人は上司から独断専行を答められた時に既に死を覚悟して頭を垂れるより他なかつた。

然し、二十人を要求された死刑の人数のうち上の四人を差引いた十六人をどうして決めるかは難題である。突如発生した銃撃戦の中で、誰の弾丸によつて誰が死んだかなど所詮検証できるものではない。あと十六人の刑死予定者がどうして決定されたかといふ経緯は小説『堺事件』を読んで知つて頂くのが近道であるが、結論だけ言へば、要するに籤引である。隊長と小頭を除く十六人の顔ぶれは堺の稲荷の杜で引いた籤によつて決つた。この人々にとつては引いた当り籤が即ち死刑宣告書となつたわけである。

抽籤といふ方法に就いては納得した挙句のこととはいへ、この当選者達がそのまま黙つて首の座に就いたとしたらその方が奇怪である。十六人はその夜土佐藩大目付のもとへ押しかけて談判に及ぶ。以下小説『堺事件』から引用する。

「我々は朝命を重んじて一命を差し上げるものでございます。併し堺表に於いて致した事は、上官の命令を奉じて致しました。あれを犯罪とは認めませぬ。就いては死刑といふ名目には承服が出来兼ねます。果して死刑に相違ないなら、死刑に処せられる罪名が承りたうございます。」

「……兵卒が隊長の命令に依つて働らくには、理も非理もござりませぬ。隊長が撃てと号令せられたから、我々は撃ちました。命令のある度に、一人々々理非を考へたら、戦争は出来
ますまい。」

「堺での我々の挙動には、功あつて罪はないと、一同確信してをります。どう言ふ罪に当るといふ思召か。今少し委曲に御示下さい。」

かうした詞を読むと、私達は昭和二十年代の前半といふ頃、これと基本的に共通の論理に発する、切々たる、肺腑をゑぐる様な叫びを幾度か到る処で伝へ聞いた様な覚えがある。さうなのだ。二人の隊長の立場が、今次大戦後に於ける「B級戦犯」の立場であるとすれば、十六人の士卒のこの訴へは、「C級戦犯」の大部分のものに共通する論理によつて発せられてゐるのである。

歩兵六番小隊の隊長箕浦猪之吉は当時二十五歳の青年ながら、十六歳にして藩公山内容堂の侍読を勤め、地元高知の文館で助教を勤めたほどの教養人であつた。配下の士卒達は身分からいへば平民である。だから二人の小頭が四十近かつたのを始め、概して隊長よりは年長で三十前後のものが多く、年齢からくる分別は十分にある。それに思想的には既に完全に近代であつた徳川時代の老熟期に人と成り、まして開明的な土佐藩の空気を吸つてその公務に服してゐる彼等であれば、法なくして罪なく、法なくして刑なしといふほどの法意識、むしろ法意識以前の健全な直感的判断力の如きものは十分に身に具へてゐる。

自分達の死刑宣告に先立つて裁判のないことはもとより、行為の実情に就いての詳しい訊問もなければ辮疏の機会も与へられず、あるのはただフランス海軍の要求とそれに対する新政府外國事務係の無条件の屈服だけであつた、しかも自分達は籤を引き当てたばかりに死ぬのである、此は事実上刑ですらない、敵方の復讐心の犠牲となる代罪羊の役割であると、かうした不条理に就いての明白な認識がなかつたはずがない。だから土佐藩大目付の言分、〈……隊長が非理の指揮をしてお前方は非理の挙動に及んだのぢや〉といふ極めつけに対しては〈我々領解いたし兼ねます〉と詰めよる他ないのである。

土佐藩奉行衆もこの理詰めの談判には困惑した。そこで一同評議の上やつと考へ出した説得の趣旨は、一言で言へば笵蠡(はんれい)の所謂「君辱しめらるれば臣死す」の論理である。事実藩主山内豊範は病気中であつたので髪を結ぶ暇もなく、甚だ威儀調(ととの)はぬ姿のままフランス軍艦に謝罪に出向き、その上水兵どもの喧嘩沙汰の代償に十五万ドルを払はせられるのである。まさに屈辱であつた。

それに付加へて大目付はかういふ意味の説得をも提起した。即ち相手方の押しつけてきた非理に潔く服することによつて此方側からは理以上の何ものかを見せ、以て相手を圧倒する、といふ策である。具体的には死刑の執行方法を不名誉な打首などではなくて切腹とする。そしてフランス側の立会人の前で一同見事に切腹してみせて相手方の度肝を抜き、以て〈皇國の士氣を顯す〉やうにせよ、といふのである。切腹といふ形式をとる以上は死者は侍でなくてはならない。即ち切腹を仰せ付けられたことによつて十六人の平民出の兵卒達は士分に取立てられたことにもなる。

この名誉はたしかに彼等の士気を振ひ立たせた。一同は「君辱臣死」の故事を以て翻然己等の不条理の死に納得してしまふ。そして自分達はフランス人に殺されるのではなくて皇國の風儀を外夷に示さんがために死ぬ、つまりは國威発揚のために死ぬのだとて勇み立つことになる。

堺表の妙國寺に於ける二十人の切腹は事件後八日目の二月二十三日のことであつた。その情景の始終はやはり小説『堺事件』の記述に譲ることとする。二人の隊長から始めて十一人目まで処刑が進んだ時、フランス側の立会人(小説では公使とされているが実際は、事件を起した水兵達の艦の艦長だつた様である)が棲惨な処刑の進行を目にして畏怖と不安の情に堪へ切れなくなり、逃げる様にして退席し、日本側に挨拶もなく軍艦に帰つてしまつた。艦長に附き従つてゐた二十余人の兵卒も同じく後を追つて逃げ帰り、死刑執行は自然に中断の状態になつた。見事に死んで見せてフランス人の度肝を抜いてやるといふ土佐の歩兵達の覚悟はまさに目論見通りの効果を発揮したわけである。

死に遅れた九人については、やがてフランス側から公使を通じて助命の申し出があり、死一等を免ぜられて改めて流刑といふことになつた。九人の者達は此に対しても、自分達は罪人ではない、死は國家の名誉を恢弘せんがために不条理を覚悟して選んだ途であつて、それが偶然に免ぜられた以上は無罪放免たるべきであり、改めての科刑には承服できぬ、と抗議したが、先に死んだ十一人の同僚の死の苦痛に殉ずる処分であると説諭せられて引退つた。

切腹の場であつた妙國寺には「英士割腹跡」と刻んだ石碑が建てられた。死んだ十一人の者の墓は近くの宝珠院にあり、死に遅れた九人の者の遺骸を収めるはずだつた甕棺は事件後も暫く本堂の背後に伏せたまま置かれてあつた。堺の町の人々は十一人の烈士の墓碑を「御残念様」と呼んで永く香華を手向けることを怠らなかつたが、残つた九つの空の甕を「生運様」と名づけて同様に参詣の対象とした。

これが堺事件の概略である。この様に地元堺の人々には強い印象を与へ、長く後世の話題となつた出来事であるが、これが全国的にみてどの程度世人の記憶に留つたことであるのか、今となつては少々測定が難しい。

明治二十六年、佐々木甲象が「生運様」たる生残りの士卒数人の記憶や手記に取材し、多くの公文書や私史料をも斟酌し、『泉州堺烈撃始末』と題する詳細な研究を著したことにより、事件の始終は信頼すべき文献を以て後世に伝へられることになつた。森鴎外の小説『堺事件』はそれから更に二十年の後、大正三年に佐々木氏の研究に基づいて執筆され、半世紀近い過去の事件を新たに又世人の記憶に甦らせたものである。作家の主観的な賦色を洗ひ落して、より客観的な史実のみを詳細に知りたいと思ふ向きは佐々木甲象の研究を播けばよいわけだが、ここで私が指摘しようと思ふ事件の意味に就いては鴎外の小説を読んで頂くだけでも十分に用は足りる。

その意味といふのは、堺事件の日本側犠牲者の刑死は今次大戦直後に生じた戦争犯罪裁判によつて刑殺された人々の運命と甚だよく似てゐる、といふことである。彼等の上に課せられた死が司直の手による刑の執行によるものであつたことは明白な事実である。しかしその刑を結果することになつた罪は國内法の中には規定がない。法に照してみる時は彼等を処刑すべき罪名は見当らない。

罪刑法定主義の大原則を知らないわけでは決してない日本政府が、ではどうして彼等を処刑したか。他ならぬ外國の要求によつてである。力関係の上で、到底拒否しきれない圧倒的な実力(武力)を以て我國に迫つてきた西洋列強の要求に屈したまでのことである。フランス側からみれば、彼等は何の咎もない水兵達を殺害した犯人であり、文明の風儀を蹂躙した野蛮な殺人者である。裁判にかけるまでもなく罪状は明白なのだから直ちに処断することが応報の正義を実現する所以だと思つたことであらう。土佐の歩兵隊士は謂つてみれば文明の名に於いて裁かれ、正義と人道のためにその罪を処断されたことになる。当世風に言へば、まあ「戦犯」だつたのである。

彼等の事蹟は、すでに記した様に、明治二十六年と大正三年の少くとも二度に亙つて、哀惜と痛恨を以て世間から回想されることになつた。このことが、特に大正三年の鴎外による注意の喚起が果して影響したか否か、俄かには測定し難いけれども、それより更に六年を経た大正九年の四月、十一人の土佐の烈士の霊は靖國神杜の祭神として合祀ざれることになつた。刑死者である事実に変化が生じたわけではなく、ただそれが「國事殉難」の例であると認定されたが故である。

彼等の死の年から実に五十二年を経過してゐる。半世紀の年月にも拘らず靖國神杜は彼等の死を埋没に任せてはおかなかつた。彼等の霊も又、國を靖からしめ、同胞の平和と安寧を守護する霊威を有するものと考へた。この霊威はしかし後世の者が杜に祀り、祭をなすことによつて初めて生ずるのである。半世紀を経てどこかに霊験が顕れた故にこの杜に祀つたといふわけのものではない。

この様にして、靖國神杜が、國際紛争の相手國から見れば犯罪人以外のものではないが、國内法にはそれに相当する罪名がなく、たしかに刑死ではあるが、日本國からみれば國事殉難者である、といふ死者の霊を祀るのは、今次大戦後の所謂「戦犯」が初めてではない。この種の霊祀には斯様な歴とした先例があるわけである。紳杜としてはこの先例に従ふのが最も自然である。しかも昭和殉難者達の霊の場合、これが戦死に相当することを決めたのは國會決議をふまへた上での政府決定であつた。具体的に言ふと、昭和二十八年八月、第十六特別國會に於いて「法務関係遺族」(戦争犯罪裁判の結果の刑死者遺族のこと)にも一般戦残者遺族と同等に遺族援護法及び恩給法を適用すべく同法の一部改正を議決したのがその契機である。かくて昭和の動乱が終熔し、各種の殉難者の名簿の整理が進んでゆくにつれて、戦闘中の公務死に入らない、停戦後の法務死による昭和の「御残念様」の霊祀も又徐々に実現して行つたのである。このことに今更疑ひを挿むいはれは全くない。

「新版靖國論集・日本の鎮魂の傳統のために」江藤淳 小堀桂一郎編

安部官房長官、古賀氏を牽制



戦没者追悼への非難は傲慢

2008年07月25日 | 靖国神社
2年前の記事を再掲します。
最近のテレビを見ていると、比較的保守的だと思われているコメンテーターでも政権交代が有った方が良いという発言があります。
しかし、政権交代したときに主になる民主党は、靖国神社から所謂A級戦犯の排除や外国人参政権成立を主張しています。
これらコメンテーターは、政権交代したとき本当にそのようになっても良いと思っているのでしょうか。


以下再掲
戦没者追悼への非難は傲慢
今年ほど、靖国神社が話題になっていることはないでしょう。靖国神社に反対する勢力は、そこまで追いつめられているのかと思へます。
また余りにも低俗的な議論でアホらしすぎる。

最初靖国神社が問題にされたのは、首相の参拝が憲法違反になるかだけです。
次に問題にされたのは、支那・韓国が文句を言うから。
そして、今問題にしているのは所謂A級戦犯が合祀されている。(ちなみに現在A級もB・C級も国会決議によって日本には一人もおりません。いない者の話しをしても結論が出るはずがない)
靖国神社を貶めようとする輩は、結局は次から次へと言ってくるでしょう。


台湾の声【靖国参拝の考察】戦没者追悼への非難は傲慢 

産経新聞 2006年8月5日

                 トーマス・スニッチ氏 


 この7月、サッカーのワールドカップ決勝戦をテレビで観戦するうち、ふっと靖国論議を思った。決勝の試合はヒトラーが1936年にベルリン五輪を開き、侵略や虐殺につながる国威発揚の大演説をしたオリンピック競技場で催されたからだ。だが「大虐殺を働いた独裁者が政治利用した場所での競技は人民の感情を傷つける」と非難する声はどこにもなかった。

 中国の靖国非難は「靖国が軍国主義の精神拠点だったから」という主張が基盤となっているようだ。その種の主張を拡大すると、ベルリン競技場のいまの使用もけしからんということになりかねない。その主張のもう一つの基盤は日本が過去に中国に対し悪事を働いたから、中国は日本の戦没者の追悼の方法など命令や指示をする資格がある、という思考のようだ。だがこの世界に過去に他国への何の悪事も働いたことのない国など存在しない。国際社会での各国は悪事へのそれなりの制裁や自省の後はみな相互に妥協し、許容していくことが基本である。

 私は日本の首相を含む国民の靖国神社参拝は信仰かつ礼拝であり、日本自身が判断することであって、米国も中国も韓国も介入すべきではない、と考える。私は妻とともに自分たちで選んだ教会に毎週、通う。私たちの隣人は教会にはまったく足を向けない。だが、お互い何も干渉しない。これこそ米国で最も深く保たれる礼拝や信仰の自由なのだ。他国の人たちに信仰の有無を問い、求めることはない。

 日本の首相や国民が靖国を参拝することはこの信仰や礼拝の自由に基づく慣行であり、他者がその方法を非難すべきではない。とくに死者を悼む行為は悼む側には重大かつ深遠であり、外部の押しつけがあってはならない。

 靖国神社はある面でワシントンにある国立のベトナム戦争記念碑に似ている。同記念碑にはベトナム戦争の死者の名がすべて刻まれ、遺骨などは埋葬されていない。私は時折、友人やいとこの霊を悼むために記念碑を訪れる。私個人の信仰や礼拝だといえる。記念碑の友人たちの名に祈りをささげても、ベトナム戦争全体への礼賛や支持を意味はしない。ベトナム戦争に反対する人が私の祈りを止めることもできない。同様に一国の政府が自国の基準だけで他国の指導者や国民の戦没者の追悼に文句をつけることは、不当であり傲慢(ごうまん)だと思う。

 私は長年、軍備管理とともに中国をも研究してきたが、中国には一面、自国を中華帝国として世界の中心にみる傾向が強く、物事への対応にしても「中国方式でなければ間違った方式だ」という思考が消えていない。外国の言動に満足するということが少ないのだ。日本の首相が靖国参拝の停止を言明すれば、中国が満足するという主張は無知に近い。中国は必ず日本に対し他の案件を指摘し、抗議や要求をぶつけてくる。だから日本側は日中関係全体を人質にとっての靖国攻撃という中国側の戦術の危険に陥ってはならない。

 中国では毛沢東主席が数千万の中国人の死に責任を有することはいまや明白だろう。日本のA級戦犯も他者を死に追いやったという点では毛氏の軌跡には足元にも及ばない。中国は国家全体でその毛主席に弔意を表明し、日本の指導者が靖国の戦没者の霊に弔意を表することは許せないというのだ。矛盾といわざるを得ない。中国には日本の戦没者追悼に対し一定の方法を命令する権利はないのだ。

 米国の一部にも日本の首相に靖国参拝を停止することを求めるべきだと主張する人たちがいる。首相が参拝をやめれば、日中関係が改善されるという前提だろうが、その前提が間違っている。日中関係は靖国問題をはるかに超える、きわめて複雑な利害や権益のからみあいなのだ。米国にとっていまの日本は全世界でも最も信頼のできる貴重な民主主義の同盟パートナーである。その日本が自国の判断で決めた方法で戦没者を追悼することを米国も中国も尊重すべきだ。(談)

                  ◇

【プロフィル】トーマス・スニッチ

 1970年代にアメリカン大学で中国問題や軍備管理の研究で修士号と博士号を取得。同大学の助教授を経て81年から87年まで米国政府軍備管理軍縮局上級顧問(核兵器管理、アジア安全保障担当)。現在は科学技術調査企業「リトルフォールズ・アソシエイツ」社代表。




李登輝前台湾総統、兄と再会

2007年06月07日 | 靖国神社
李登輝氏が靖国参拝 戦死の実兄しのぶ

 来日中の李登輝前台湾総統(84)は7日午前10時すぎ、亡兄の李登欽氏が「岩里武則」の日本名で合祀(ごうし)されている東京・九段の靖国神社を初参拝した。

 クリスチャンである李登輝氏は政治、歴史、宗教を切り離し、フィリピンで戦死した兄を持つ私人として、実兄の英霊に一礼した。

 李氏は到着殿から曾文恵夫人らを伴って内部に入り、靖国神社側によると「(本殿で)昇殿参拝をした。遺族として参拝された」という。また、同行した作家の曽野綾子さんによると、李氏は靖国側の指示に従い、おはらいを受けた後に本殿で一礼した。

 参拝には、日本側からは曽野さんの夫、三浦朱門さん、西村真悟・衆院議員らが同行。台湾側から台湾独立建国連盟の黄昭堂主席らが付き添った。

 李氏は参拝を前に宿泊先のホテルで記者会見し、「靖国神社に参ります。62年間、会ったことのない兄を靖国神社で合祀し、遺霊を守ってくれることに感謝してきます。これは個人的な立場であり、政治的にも歴史的にも(関連づけて)考えないでください」と目頭を押さえて、実兄を思う弟の気持ちを訴えた。


靖国神社で久しぶりの兄弟再会です。
お兄さんもさぞかし喜ばれていることでしょう。




靖国神社参拝、原告の控訴棄却(福岡高裁那覇支部)

2006年10月13日 | 靖国神社
「沖縄靖国訴訟、2審も憲法判断せず…原告の控訴棄却」

 小泉前首相の靖国神社参拝は政教分離を定めた憲法に違反するとして、沖縄戦の遺族や宗教関係者ら80人が、国と前首相を相手取り、1人当たり10万円の慰謝料を求めた訴訟の控訴審判決が12日、福岡高裁那覇支部で言い渡された。

 小林正明裁判長は、「原告らの法的利益が侵害されたと認められない」と述べ、違憲性や参拝の公務性については判断せず、原告の請求を棄却した1審・那覇地裁判決を支持、原告側の控訴を棄却した。原告側は上告を検討する。

 判決で、小林裁判長は「原告らが沖縄戦の悲惨な体験から、参拝に対し、不快感を抱いたとしても、信教の自由について強制や不利益を受けた事実は認められない」と述べた。

 小泉前首相の靖国参拝を巡る集団訴訟は全国6地裁で8件起こされ、原告の請求はすべて棄却された。ただ、福岡地裁判決(2004年4月)、大阪高裁判決(05年9月)が違憲判断して確定している。

 最高裁は今年6月、一連の訴訟では初めて「参拝によって、損害賠償の対象となる法的利益が侵害されたとは言えない」との判断を示し、今回の判決はこれに沿った内容となった。

 訴訟の対象となったのは、小泉前首相の6回の参拝のうち、01年8月と02年4月の2回。前首相は公用車を使って訪れ、「内閣総理大臣小泉純一郎」と記帳して参拝、献花した。

 昨年1月の那覇地裁判決は、地上戦や集団自決など沖縄の特殊性について言及しながらも、「参拝で原告の法的権利が侵害されたとは言えない」と指摘した。
(2006年10月12日15時45分 読売新聞)


いつまで首相の靖国神社参拝反対勢力はこんなことやるのでしょうか。社民党がよくやる一坪地主を形を変えたようです。

いい加減にしたら。





富田メモその後

2006年08月25日 | 靖国神社
最近はニュースとして取り上げる必要があるのかと思う、ジョンベネ事件が一般のニュースでも大きく取り上げられています。
一週間前は各マスコミ共連日、靖国、靖国だったのが嘘のようです。
特に日経新聞はどうしたのでしょうか。富田メモの一部だけを公表したままで立ち消えのようです。
それとも、首相の靖国神社参拝を阻止できなかったので、都合の良いところだけを次に公表しようと探しているのでしょうか。

ところで、富田メモに書かれていた「参拝……」のぶんは徳川侍従長の発言ではないかとも言われています。
その辺の所を分かる範囲で素人なりに見てみます。

徳川侍従長ですが、4月12日の新聞各紙に13日付で侍従長を辞められる記者会見の記事が載っています。
26日新聞には、辞められた徳川前侍従長が侍従長職参与とすると書かれています。「今後、非常勤で陛下の歌づくりや、ご病気の鷹司和子さんら両陛下のお子様がたのお世話をする」とのことです。
最近のマスコミ報道に寄れば、28日から侍従長職参与として出勤されています。
日経新聞が8月3日に、4月28日に富田メモに書かれていた粗筋を公表しています。

まず、日経が4月28日の1枚目のメモの写真を載せています。
鷹司さんのことが書かれています。公式にはこの日から徳川侍従長職参与のお世話を見ることになっていますが、12日付の新聞で既に鷹司さんを見ることになっていたので、28日までに何回か鷹司さんにお会いしていると思うのが自然ではないでしょうか。

その下に、礼宮殿下(現秋篠宮殿下)のことが書かれていますが、日経が一番最初に公表した問題の文の写真の左のページ(4月26日)に同じ内容が書かれています。
富田メモが、人の喋ったことをメモしたのなら4月26日に皇太子殿下(今上陛下)がおっしゃられたことと、4月28日に富田氏がメモした相手が喋ったことが同じ内容であり得るだろうか。
考えられるのは、26日に聞いたことを、28日に天皇陛下に話されて陛下の答を◎で書いたのではないでしょうか。だから、スケジュール手帳の予定には「言上」と書かれてあるのではないでしょうか。

問題の4ページ目は富田氏の発言も書かれています。
それは「=は富田氏の発言を示すメモの特徴」と日経が書いています。となると「=奥野は…」以下の文は富田氏本人の発言になります。
富田氏のメモから分かるのは、言上すべき事と自分の発言と昭和天皇、或いは誰かの発言を書いてると言うことです。

この事から問題の文は日経が公表している内容だけでは、昭和天皇とは言いきれないのではないでしょうか。
特に私が最初から気になっていたのは、「余り閣僚も知らず そうですがが多い」の部分です。
もし、問題の文に対してこの言葉が掛かるなら、問題の文を知っている人が他にもいることにならないだろうか。
そうすると、昭和天皇の御発言だとすると、25日に会見された「そのことは、人の、人物の批判とかそういうものが加わりますから、今、ここで述べることは避けたいと思うています」と言われた昭和天皇の御発言に富田氏が背いていることになります。
しかし、これが昭和天皇の御発言でなく誰か他の人だったらどうでしょうか。
そうすれば富田メモに書かれている内容と合うように思えます。

いずれにしろ、前回も言いましたが富田メモを公表しない限り誰の発言かは特定できないことです。
それと、スケジュール手帳に書かれた28日夜の新聞記者が何を富田氏から聞いたかです。なぜその時の新聞記者は誰も出てこないのでしょうか。

元宮内庁長官メモの疑問。



堺事件と靖国神社の所謂戦犯合祀

2006年08月21日 | 靖国神社
靖国神社に所謂戦犯が合祀されていることを問題にしている発言があります。最近知ったのですが、似たような合祀のしかたは大東亜戦争の前にもありました。
慶応四年(1868年)二月十五日に堺で起きた、隊旗をうばって逃げようとしたフランス水兵を、土佐藩志が殺害する事件が起きました。
フランスは当然のように事件に関係した者20人を死刑にしろと言ってきました。
当時の情勢からすると、日本が西洋諸国に文句を言える立場ではありませんでした。(東京裁判当時の日本と同じです)
籤引きで20人が選ばれ、堺の妙国寺で切腹します。
この時11人まで切腹が行われ、フランス側の立会人が席を立ったためそこで終わります。
この時、切腹をした11人が大正9年に靖国神社に合祀されることになりました。

時は慶応四年(一八六八年、九月八日が明治改元)の二月十五日(旧暦)のことである。戊辰戦争の発端であつた正月早々の鳥羽伏見の戦に敗れた徳川慶喜の軍は一月六日海路大阪から江戸に撤退し、新政府は一月十五日付で各國に王政復古を通告した。現政権が倒れて新政府が樹立されたといふ意味ではこれは革命にひとしい事態だつたが、この革命政府は旧政権たる徳川幕府の締結した國際条約は継承して遵守する旨を締結各國にいち早く通告したから、米・英・仏・蘭・伊・独(プロイセン)の諸國軍隊は、革命政府の出方に一応信を措き、新政府と旧政府問の戦争に関しては局外中立の立場をとることを宣言した。幕府軍が撤退した後、大阪、兵庫、堺の三海港都市にはそれぞれ薩摩、長門、土佐の藩兵が新政府の命令を受けて駐留し、治安の維持に当ることになつた。堺事件とはこの時、堺港市に於いて臨時に一種の軍政を布いてゐた土佐藩の歩兵隊とフランス海軍との間に生じた衝突事件である。

二月十五日にフランス軍艦デュプレックス号の水兵がボートを下して勝手に堺の町に上陸し、不遠慮に市中を見物して廻つた。堺は南蛮時代からの伝統を有する古い港町ではあるが、安政の条約による開港場ではなかつたから、当時の市民は西洋人との接触が初めてで何かと小さなトラブルが起る。土佐藩の歩兵は手真似でフランス水兵達を本艦に帰らせようとしたところ、中の一人が、ふとしたいたづら心であらう。歩兵隊の隊旗をさらつて逃げ出した。旗をとられては軍隊としての名誉にかかはる。歩兵隊に傭はれて旗持をしてゐたこの町の鳶職の頭の者が旗を奪つた水兵を追ひかけ、ボートに逃げのらうとした水際で追ひついて鳶口で強かにその脳天を打つた。

詳しいことはわからないがもし鳶口の刃先で打つたとすればそれは明らかに一命にかかはる殺人行為である。

ボートのフランス兵がこれを見て驚いて一斉にピストルを撃ち出した。埠頭に駆けつけてゐた土佐の歩兵隊の六番、八番の両小隊は隊長の命令で一斉射撃を以てこれに応戦し、一瞬時銃撃戦が展開されたのだが、ボートから撃つピストルと陸上からの小銃射撃とでは勝負にならないこと明らかである。土佐の歩兵隊や傭の鳶の者に死傷者はなかつたのに対し、フランス水兵側には十三人の死者が出た。後にフランス側が土佐藩兵二十人の死刑を要求したところから察するに、軍艦に帰りついてから傷が悪化して死んだ者を入れて犠牲者は二十人に達したのかもしれない。

この事件は直ちに、発足したばかりの新政府にとつて厄介な外交問題となつた。フランス海軍は局外中立を宣言してゐる。幕府側を支援し、幕府に気脈を通じてゐることは周知の事実で新政府磨下の土佐藩もフランス人に悪感情を懐いてゐるが決して國際法上の敵対國ではない。フランス兵達は無許可で上陸したのではあるが市内で特に乱暴狼籍をはたらいたわけではない。藩の隊旗をさらつて逃げたのは軍隊に対する侮辱行為ともいへようが、謂つてみれば喧嘩沙汰ですませておけばよいほどのことであり、それだけで殺傷行為に及んだのは何としてもゆきすぎであらう。

発砲したのはフランス側が先であつたが、これは同僚が打ち倒されたのを見たからで、緊急避難の挙であり、所謂正当防衛と見てよささうである。此に対して土佐の歩兵隊は隊長の命令で一斉射撃の挙に出たのだからこれは明らかに軍隊としての戦闘行為に及んだものである。その上二人の小隊長は上司の命令乃至許可を待つことなく、独断専行で部下の隊員に射撃を命じたのである。公然たる戦争状態にある(徳川慶喜追討の朝命が下つてゐたのだから)幕府軍に対してならともかく、中立國の軍隊に対する処置としては明らかに軽率であり失策である。

そして事件は予想された通りの厳しい外交問題に発展した。つまりフランス側から新政府につきつけられた要求は三項、藩主山内豊範が自身フランス軍艦に出向いて謝罪すること、下手人二十人の死刑、殺されたフランス水兵の遺族に対し計十五万ドルの慰籍料の支払ひ、である。当時まだ実力も政治力も微弱であり、まして西洋諸國の國際世論を向うに廻して自分達の主張を貫く自信のない、謂はば大義を保有してゐないことを自覚する新政府としてはこの要求を全面的に呑むより他に途はない。藩主の謝罪と犠牲者の遺族への補償のことはともかくとして、難しいのは下手人二十人の死刑といふ要求の処理である。射撃を命令した二人の小隊長とその副隊長に当る小頭といふもの、計四人の、地位から発する責任の件は一応筋が通る。彼等とても、隊旗に加へられた侮辱、相手方が先に発砲したのだから―といふ言分はあるのだが、その抗辮は強大な國際世論と新政府の辛い立場といふ、圧倒的な「時勢」の前には如何にも無力である。この四人は上司から独断専行を答められた時に既に死を覚悟して頭を垂れるより他なかつた。

然し、二十人を要求された死刑の人数のうち上の四人を差引いた十六人をどうして決めるかは難題である。突如発生した銃撃戦の中で、誰の弾丸によつて誰が死んだかなど所詮検証できるものではない。あと十六人の刑死予定者がどうして決定されたかといふ経緯は小説『堺事件』を読んで知つて頂くのが近道であるが、結論だけ言へば、要するに籤引である。隊長と小頭を除く十六人の顔ぶれは堺の稲荷の杜で引いた籤によつて決つた。この人々にとつては引いた当り籤が即ち死刑宣告書となつたわけである。

抽籤といふ方法に就いては納得した挙句のこととはいへ、この当選者達がそのまま黙つて首の座に就いたとしたらその方が奇怪である。十六人はその夜土佐藩大目付のもとへ押しかけて談判に及ぶ。以下小説『堺事件』から引用する。

「我々は朝命を重んじて一命を差し上げるものでございます。併し堺表に於いて致した事は、上官の命令を奉じて致しました。あれを犯罪とは認めませぬ。就いては死刑といふ名目には承服が出来兼ねます。果して死刑に相違ないなら、死刑に処せられる罪名が承りたうございます。」

「……兵卒が隊長の命令に依つて働らくには、理も非理もござりませぬ。隊長が撃てと号令せられたから、我々は撃ちました。命令のある度に、一人々々理非を考へたら、戦争は出来
ますまい。」

「堺での我々の挙動には、功あつて罪はないと、一同確信してをります。どう言ふ罪に当るといふ思召か。今少し委曲に御示下さい。」

かうした詞を読むと、私達は昭和二十年代の前半といふ頃、これと基本的に共通の論理に発する、切々たる、肺腑をゑぐる様な叫びを幾度か到る処で伝へ聞いた様な覚えがある。さうなのだ。二人の隊長の立場が、今次大戦後に於ける「B級戦犯」の立場であるとすれば、十六人の士卒のこの訴へは、「C級戦犯」の大部分のものに共通する論理によつて発せられてゐるのである。

歩兵六番小隊の隊長箕浦猪之吉は当時二十五歳の青年ながら、十六歳にして藩公山内容堂の侍読を勤め、地元高知の文館で助教を勤めたほどの教養人であつた。配下の士卒達は身分からいへば平民である。だから二人の小頭が四十近かつたのを始め、概して隊長よりは年長で三十前後のものが多く、年齢からくる分別は十分にある。それに思想的には既に完全に近代であつた徳川時代の老熟期に人と成り、まして開明的な土佐藩の空気を吸つてその公務に服してゐる彼等であれば、法なくして罪なく、法なくして刑なしといふほどの法意識、むしろ法意識以前の健全な直感的判断力の如きものは十分に身に具へてゐる。

自分達の死刑宣告に先立つて裁判のないことはもとより、行為の実情に就いての詳しい訊問もなければ辮疏の機会も与へられず、あるのはただフランス海軍の要求とそれに対する新政府外國事務係の無条件の屈服だけであつた、しかも自分達は籤を引き当てたばかりに死ぬのである、此は事実上刑ですらない、敵方の復讐心の犠牲となる代罪羊の役割であると、かうした不条理に就いての明白な認識がなかつたはずがない。だから土佐藩大目付の言分、〈……隊長が非理の指揮をしてお前方は非理の挙動に及んだのぢや〉といふ極めつけに対しては〈我々領解いたし兼ねます〉と詰めよる他ないのである。

土佐藩奉行衆もこの理詰めの談判には困惑した。そこで一同評議の上やつと考へ出した説得の趣旨は、一言で言へば笵蠡(はんれい)の所謂「君辱しめらるれば臣死す」の論理である。事実藩主山内豊範は病気中であつたので髪を結ぶ暇もなく、甚だ威儀調(ととの)はぬ姿のままフランス軍艦に謝罪に出向き、その上水兵どもの喧嘩沙汰の代償に十五万ドルを払はせられるのである。まさに屈辱であつた。

それに付加へて大目付はかういふ意味の説得をも提起した。即ち相手方の押しつけてきた非理に潔く服することによつて此方側からは理以上の何ものかを見せ、以て相手を圧倒する、といふ策である。具体的には死刑の執行方法を不名誉な打首などではなくて切腹とする。そしてフランス側の立会人の前で一同見事に切腹してみせて相手方の度肝を抜き、以て〈皇國の士氣を顯す〉やうにせよ、といふのである。切腹といふ形式をとる以上は死者は侍でなくてはならない。即ち切腹を仰せ付けられたことによつて十六人の平民出の兵卒達は士分に取立てられたことにもなる。

この名誉はたしかに彼等の士気を振ひ立たせた。一同は「君辱臣死」の故事を以て翻然己等の不条理の死に納得してしまふ。そして自分達はフランス人に殺されるのではなくて皇國の風儀を外夷に示さんがために死ぬ、つまりは國威発揚のために死ぬのだとて勇み立つことになる。

堺表の妙國寺に於ける二十人の切腹は事件後八日目の二月二十三日のことであつた。その情景の始終はやはり小説『堺事件』の記述に譲ることとする。二人の隊長から始めて十一人目まで処刑が進んだ時、フランス側の立会人(小説では公使とされているが実際は、事件を起した水兵達の艦の艦長だつた様である)が棲惨な処刑の進行を目にして畏怖と不安の情に堪へ切れなくなり、逃げる様にして退席し、日本側に挨拶もなく軍艦に帰つてしまつた。艦長に附き従つてゐた二十余人の兵卒も同じく後を追つて逃げ帰り、死刑執行は自然に中断の状態になつた。見事に死んで見せてフランス人の度肝を抜いてやるといふ土佐の歩兵達の覚悟はまさに目論見通りの効果を発揮したわけである。

死に遅れた九人については、やがてフランス側から公使を通じて助命の申し出があり、死一等を免ぜられて改めて流刑といふことになつた。九人の者達は此に対しても、自分達は罪人ではない、死は國家の名誉を恢弘せんがために不条理を覚悟して選んだ途であつて、それが偶然に免ぜられた以上は無罪放免たるべきであり、改めての科刑には承服できぬ、と抗議したが、先に死んだ十一人の同僚の死の苦痛に殉ずる処分であると説諭せられて引退つた。

切腹の場であつた妙國寺には「英士割腹跡」と刻んだ石碑が建てられた。死んだ十一人の者の墓は近くの宝珠院にあり、死に遅れた九人の者の遺骸を収めるはずだつた甕棺は事件後も暫く本堂の背後に伏せたまま置かれてあつた。堺の町の人々は十一人の烈士の墓碑を「御残念様」と呼んで永く香華を手向けることを怠らなかつたが、残つた九つの空の甕を「生運様」と名づけて同様に参詣の対象とした。

これが堺事件の概略である。この様に地元堺の人々には強い印象を与へ、長く後世の話題となつた出来事であるが、これが全国的にみてどの程度世人の記憶に留つたことであるのか、今となつては少々測定が難しい。

明治二十六年、佐々木甲象が「生運様」たる生残りの士卒数人の記憶や手記に取材し、多くの公文書や私史料をも斟酌し、『泉州堺烈撃始末』と題する詳細な研究を著したことにより、事件の始終は信頼すべき文献を以て後世に伝へられることになつた。森鴎外の小説『堺事件』はそれから更に二十年の後、大正三年に佐々木氏の研究に基づいて執筆され、半世紀近い過去の事件を新たに又世人の記憶に甦らせたものである。作家の主観的な賦色を洗ひ落して、より客観的な史実のみを詳細に知りたいと思ふ向きは佐々木甲象の研究を播けばよいわけだが、ここで私が指摘しようと思ふ事件の意味に就いては鴎外の小説を読んで頂くだけでも十分に用は足りる。

その意味といふのは、堺事件の日本側犠牲者の刑死は今次大戦直後に生じた戦争犯罪裁判によつて刑殺された人々の運命と甚だよく似てゐる、といふことである。彼等の上に課せられた死が司直の手による刑の執行によるものであつたことは明白な事実である。しかしその刑を結果することになつた罪は國内法の中には規定がない。法に照してみる時は彼等を処刑すべき罪名は見当らない。

罪刑法定主義の大原則を知らないわけでは決してない日本政府が、ではどうして彼等を処刑したか。他ならぬ外國の要求によつてである。力関係の上で、到底拒否しきれない圧倒的な実力(武力)を以て我國に迫つてきた西洋列強の要求に屈したまでのことである。フランス側からみれば、彼等は何の咎もない水兵達を殺害した犯人であり、文明の風儀を蹂躙した野蛮な殺人者である。裁判にかけるまでもなく罪状は明白なのだから直ちに処断することが応報の正義を実現する所以だと思つたことであらう。土佐の歩兵隊士は謂つてみれば文明の名に於いて裁かれ、正義と人道のためにその罪を処断されたことになる。当世風に言へば、まあ「戦犯」だつたのである。

彼等の事蹟は、すでに記した様に、明治二十六年と大正三年の少くとも二度に亙つて、哀惜と痛恨を以て世間から回想されることになつた。このことが、特に大正三年の鴎外による注意の喚起が果して影響したか否か、俄かには測定し難いけれども、それより更に六年を経た大正九年の四月、十一人の土佐の烈士の霊は靖國神杜の祭神として合祀ざれることになつた。刑死者である事実に変化が生じたわけではなく、ただそれが「國事殉難」の例であると認定されたが故である。

彼等の死の年から実に五十二年を経過してゐる。半世紀の年月にも拘らず靖國神杜は彼等の死を埋没に任せてはおかなかつた。彼等の霊も又、國を靖からしめ、同胞の平和と安寧を守護する霊威を有するものと考へた。この霊威はしかし後世の者が杜に祀り、祭をなすことによつて初めて生ずるのである。半世紀を経てどこかに霊験が顕れた故にこの杜に祀つたといふわけのものではない。

この様にして、靖國神杜が、國際紛争の相手國から見れば犯罪人以外のものではないが、國内法にはそれに相当する罪名がなく、たしかに刑死ではあるが、日本國からみれば國事殉難者である、といふ死者の霊を祀るのは、今次大戦後の所謂「戦犯」が初めてではない。この種の霊祀には斯様な歴とした先例があるわけである。紳杜としてはこの先例に従ふのが最も自然である。しかも昭和殉難者達の霊の場合、これが戦死に相当することを決めたのは國會決議をふまへた上での政府決定であつた。具体的に言ふと、昭和二十八年八月、第十六特別國會に於いて「法務関係遺族」(戦争犯罪裁判の結果の刑死者遺族のこと)にも一般戦残者遺族と同等に遺族援護法及び恩給法を適用すべく同法の一部改正を議決したのがその契機である。かくて昭和の動乱が終熔し、各種の殉難者の名簿の整理が進んでゆくにつれて、戦闘中の公務死に入らない、停戦後の法務死による昭和の「御残念様」の霊祀も又徐々に実現して行つたのである。このことに今更疑ひを挿むいはれは全くない。

「新版靖國論集・日本の鎮魂の傳統のために」江藤淳 小堀桂一郎編

東條由布子さんの健闘

2006年08月19日 | 靖国神社
【ソウルからヨボセヨ】 東条さんの健闘(08/19)

 A級戦犯として処刑された故東条英機首相の孫娘の由布子さん(67)が韓国のテレビに出演し大健闘した。KBS(韓国放送公社)テレビが「8・15」特集番組として13日夜に放送したドキュメンタリー「靖国との戦争-靖国と3人の女性」で、番組の最後に行われた討論の際、靖国神社反対運動を展開している韓国と台湾の女性を相手に静かに堂々と反論を展開し、戦没者慰霊をめぐる日本人の立場と“気持ち”に理解を求めたのだ。

 台湾代表は反日活動家の国会議員で韓国代表は戦没者の遺族。由布子さんはとくに韓国代表に対し「日本人として共に戦って亡くなられたお父さんの御霊(みたま)を靖国神社からはずすなどということを、果たしてお父さんは喜ばれるでしょうか。当時のお父さんの気持ちをもっと大切にしてあげるべきではないでしょうか」と語りかけた。台湾代表は手を振り上げ演説調の日本糾弾に終始し、韓国代表は興奮して座を立ってしまった。

 放送後の視聴者の反応は「日本人の主張には同意しないが討論は日本人の勝ち」というものだった。そして感情むき出しでしか対応できなかった韓国代表に歯ぎしりし「もっとちゃんとした討論者をなぜ出さなかったのか」とテレビ局へのおしかりが多かったとか。(黒田勝弘)


今朝の産経新聞にもコラムとして載っていました。
東條由布子さんの毅然とした態度にはいつも敬意を表します。
ただ当たり前のことを当たり前に言っているだけなんですが。それを理解しない人間が多すぎます。
当たり前のことを言っているから屁理屈でしか反論出来ないのが現実でしょう。


※記事の「靖国神社反対運動を展開している台湾の女性」は、編集部が調べ
たところによると高金素梅氏である。韓国にまで「台湾の恥」をさらすの
はやめていただきたい。(台湾の声より)




毅然として靖国神社参拝

2006年08月15日 | 靖国神社
小泉総理の靖国神社参拝に敬意を表します。
これが本当なんです。しかし、おかしなマスコミが日本国総理の主張より、支那の主張を当たり前のように支持するから拗れてしまったのです。
日本人は事勿れ主義の所があるので、マスコミがあまりにも支那の言葉を大きく伝えるから、それなら 遠慮するべきではないかと思う一般人が出てきます。
しかし、それは支那の属国になることを意味しています。
今回その事に毅然とした態度を取った小泉総理を評価したい。

また、参拝後の記者会見も良い内容です。

小泉総理インタビュー

平成18年8月15日

【質疑応答】

【質問】 総理、今回はどのような気持ちで参拝されましたでしょうか。

【小泉総理】 これは毎回申し上げているのですが、日本は過去の戦争を踏まえ反省しつつ、二度と戦争を起こしてはならない。 そして今日の日本の平和と繁栄というのは、現在生きている人だけで成り立っているのではないと。 戦争で尊い命を犠牲にされた、そういう方々の上に今の日本というのは今日があると。 戦争に行って、祖国の為、また家族の為、命を投げ出さなければならなかった犠牲者に対して、心からなる敬意と感謝の念を持って靖国神社に参拝しております。 今年もこの気持ちに変わりはありません。

 今までの過去5年間の私の靖国神社参拝に対する批判をね、よく考えて見ますと、大方、3点に要約されるんじゃないかと思います。 まず一つはね、中国・韓国は不愉快であると反発しているからやめろという意見。 これはどうですかね、私は日中・日韓友好論者なんです。就任以来、現に中国や韓国との友好交流、様々な分野で拡大を続けております。 そういう中で、どの国ともね、一つや二つ意見の違い、対立あります。 それで、一つの意見の違いがある、不愉快なことあると、それによって首脳会談を行なわないことが良いのかどうかと、私はいつでも首脳会談を行う用意があると言っているんですよ。 しかも、靖国神社参拝を条件にしてね、この参拝をしなければ首脳会談を行うと、するならば首脳会談行わないというのが、果たして良いのかどうか。 私は、これはよろしくないと思っています。

 日本の首相というのは、民主的な手続によって選ばれた首相であります。 日中間、日韓の間には様々な課題もある。私は今までの日中首脳会談、日韓首脳会談においても、未来志向で友好を図っていこうと、お互い、相互互恵、相互依存関係、これを深めていこうと、中国の発展、韓国の発展というのは日本に脅威というよりも、むしろ日本にとってもチャンスなんだという事をはっきり表明して、未来志向で友好、交流を進めていこうということを申し上げているんです。 それに対して、私を批判する方、これは、しかし中国が嫌がっていることはやるなと、突き詰めて言うと、中国・韓国が不快に思うことはやるなということでしょ、これについて批判する方をどう思うか。

 もし私が一つの問題で私が不愉快に思う、仮にね、中国・韓国が日本の安保理常任理事国入りに反対しています。 これは日本にとっては不愉快だと、だから私は中国・韓国と首脳会談行わないといったらどちらを批判するでしょう。 私は中国が反対しても、韓国が反対しても、首脳会談いつでも行いましょうと言っているんですよ。 今回もそうですね、私が拒否しているんじゃないんです。という事は、中国の嫌がることは止めなさいというのが靖国参拝批判の一つですね。 中国に不快な思いをさせちゃいけません。中国のいうことを聞きなさい、韓国のいうことを聞きなさい、そうすればアジア外交が上手くいきます。私は必ずしもそうじゃないと思いますね。 一つや二つ、どの国も意見の違いや対立あります、そういうのを乗越えて未来志向で友好関係を進展させていくのが、日本としても他国にしても大事じゃないでしょうか。

 中にはね、小泉はアメリカと親しいと、アメリカのブッシュ大統領が靖国参拝するなと言えばしないだろうと。 そんなことはありません、ブッシュ大統領が靖国参拝するなと私に言ったとしても、私は行きます。 もっともね、ブッシュ大統領はそんな大人気ないことは言いませんけどね。

 もう一つはね、A級戦犯が合祀されているから行っちゃいかんという議論。 これはね、私は、特定の人に対して参拝しているんじゃないんです。この戦争でね、苦しい思いをされ、できれば避けたかった、戦場に行きたくなかった多くの兵士がいるんです。 そういう方々の気持ちを思ってね、何という苦しいつらい体験をせざるを得ない時代に生まれたのだろうかと、そういう犠牲者に対してね、心からやっぱり哀悼の念を表すべきだなと、これ日本の文化じゃないでしょうか。 特定の人がいるから後の人のことは考えなくていいと、一部の、自分では許せない人がいるから、それより圧倒的多数の戦没者の方々に対して哀悼の念をもって参拝するのが何故いけないのか、私はA級戦犯の為に行っているんじゃないですよ。 多くの戦没者の方々に哀悼の念を表す。二度とこのような苦しい戦争をさせてはいけない、そういう気持ちで参拝しているんです。

 それと第3点、憲法違反だから靖国神社参拝しちゃいかんという人がいます。これもね、憲法第19条、第20条、これを良く読んで頂きたい。 私は神道奨励するために靖国神社行っているんじゃありません、今説明したように。 また過去の戦争を美化したり、正当化したりするために行っているんじゃありません。 また軍国主義を称揚する、そういうような気持ちで行っているのではありません。 今申し上げたように、二度と戦争を起こしてはいけないと、戦没者に戦争に行って斃れた方々、こういう方々の犠牲を片時も忘れてはいけないと、そういう気持ちでお参りしているんです。 そして、第19条の思想及び良心の自由はこれを侵してはならない。これどう考えますか、正に心の問題でしょ。これを日本の首相が日本の施設にお参りする、お祈りする、それを、外国の政府もっともだといって、小泉はいかん、小泉を批判する。これが本当に良い事なのかどうか、今の日本の誰にでも許されている自由という問題をどう考えるのか。

 私は伊勢神宮にも毎年参拝しています。その時には何名かの閣僚も随行しています。 別に私は強制していません。そして、皆さんの前で神道形式に則って伊勢神宮に参拝しています。 その時に憲法違反という声起こりませんね。何故なんでしょうか。私はこういうことから、賛否両論あっていいんです、日本は言論の自由認められていますから、今までもこういう事を私は答弁なり、普段の話でしているんです。 今回も全くその同じ気持ちで参拝しているんです。

【質問】 何故、今回、終戦の日の8月15日を選ばれたのでしょうか。

【小泉総理】 これはね、最初、多くの方々が8月15日だけはやめてくれと、様々な方から言ってまいりましたね。そういう方々の意見も聞かなきゃいかんなということでね、敢えて15日を避けて参拝してきました。8月13日、或いは4月、10月、1月と、しかし、8月15日を避けても、いつも批判や反発、そして何とかこの問題を大きく取り上げようとする勢力、変わらないですね。いつ行っても同じです。ならば、今日は適切な日ではないかなと。これから戦没者の追悼記念式典もおこなわれます。私はこれから千鳥が淵の戦没者墓苑にお参りをします。戦没者の追悼式典にも出席します。適切な日だなと判断いたしました。

【質問】 去年、参拝した際は、昇殿をせずに、記帳もしませんでした。今回の参拝では、モーニング姿で、内閣総理大臣と記帳して、昇殿もしたということなんですけれども、その理由についてお聞かせください。

【小泉総理】 今、お話したようにね、今日は戦没者の追悼式もありますし、千鳥ヶ淵の戦没者の墓苑にもお参りしますし、その時にはこの服装で行きますしね、私は、きっちりと昇殿、本殿に参拝した方が、今日は皆騒いでいますから、あのような、去年みたいな形でいくと警備の方も大変でしょ。皆さん、大勢の方々が見えてるしね、そういうことも考えて本殿に参拝するのが適切じゃないかなと思いました。

【質問】 2回目の参拝の時の所感の中では、総理は、終戦記念日やその前後の参拝にこだわって、再び内外に不安や警戒を抱かせることは、私の意に反するとしていました。今日の参拝は、その所感と矛盾するのではありませんか。

【小泉総理】 矛盾しません。それは過去5年を踏まえて、いつ行っても問題にして、混乱にしようとする勢力があるんです。 それは仕方ないんです。そういうことを踏まえて、過去の経験が生きてきたんですね。 いつ行っても参拝に、なんとか争点にしようとか、混乱させようとか、騒ぎにしようとか、国際問題にしようとかいう勢力があるんです。 これに対してね、いけないと言ったって、それは、日本は言論の自由が認められてるんですから、どうにもなりません。 ですから、いつ行ってもこういう騒ぎにしようという勢力があるんですから、8月15日に行っても、適切じゃないかなと。

 また、むしろこだわっているのは、毎回、こだわろうという勢力がいるんですよ、私が、今まで靖国神社の問題も、質問された時以外は答えたことがないんですよ。 自ら、靖国問題をこうだああだと言ったことはなくて、いつも皆さんの質問に答えて言っているわけです。 いろいろな説明や他のことも言いたいんですけれども、一番マスコミが取り上げるのは靖国参拝のことでしょ。 そういうのは、やめた方がいいと言っても聞かないですから、マスコミは。 いつでもこだわっているのはマスコミじゃないでしょうか、或いは、私に反対する方々じゃないでしょうか。 そういうのも踏まえてね、これはいつ行っても同じだなと思いました。

【質問】 来月のご退陣の前に、直接、不戦の誓いと戦没者追悼の意で参拝なさっているんだということを、中国、韓国の首脳と会って、理解を求めるためにご説明する意向はないのですか。

【小泉総理】 今までの日中首脳会談、日韓首脳会談においても、その考えを伝えてあります、何回でも。いつでも会えば、中国側が、韓国側が、靖国参拝するなと言えば、いつも、中国側、韓国側の考えと私は違うということを説明している、今、お話したような考えを説明しております。これは平行線です、外交カードにはしないと、一つの条件をつけられて、これに従うか、従わないか、それで首脳会談をする、しないを判断するというのは、私はよろしくないと思っております。私は、これからも中国、韓国と友好的に発展しようと、未来志向でね、考えた方が良いんじゃないかということを、再三、申し上げております。この考えに変わりはありません。

【質問】 今回は記帳されていますが、総理大臣の立場としての参拝ということでしょうか。

【小泉総理】 総理大臣である、人間、小泉純一郎が参拝しているんです。

【質問】 公式な参拝と受け取ってよろしいのですか。

【小泉総理】 職務として参拝しているものではありません。

【質問】 今回の参拝が、総裁選に与える影響についてはどのようにお考えですか。

【小泉総理】 それは総裁候補自体の考え方と、マスコミの皆さんが争点にしたがっている面が強いですから、それいかんでしょうね。

【質問】 改めて、靖国神社に合祀されているA級戦犯の戦争責任については、どうお考えになるか、お願いいたします。

【小泉総理】 それは戦争の責任をとって、戦犯として刑を受けているわけでしょう。それは本人達も認めているし、それはあると思いますが、それとこれとは別です。何回も申し上げているように、特定の人のために参拝しているんじゃないです。戦没者全体に対して、哀悼の念を表するために参拝しているんです。今、言った、主な3点、靖国参拝批判する人、よく考えていただきたい。考えは自由です。






戦没者追悼への非難は傲慢

2006年08月14日 | 靖国神社
今年ほど、靖国神社が話題になっていることはないでしょう。靖国神社に反対する勢力は、そこまで追いつめられているのかと思へます。
また余りにも低俗的な議論でアホらしすぎる。

最初靖国神社が問題にされたのは、首相の参拝が憲法違反になるかだけです。
次に問題にされたのは、支那・韓国が文句を言うから。
そして、今問題にしているのは所謂A級戦犯が合祀されている。(ちなみに現在A級もB・C級も国会決議によって日本には一人もおりません。いない者の話しをしても結論が出るはずがない)
靖国神社を貶めようとする輩は、結局は次から次へと言ってくるでしょう。


台湾の声【靖国参拝の考察】戦没者追悼への非難は傲慢 

産経新聞 2006年8月5日

                 トーマス・スニッチ氏 


 この7月、サッカーのワールドカップ決勝戦をテレビで観戦するうち、ふっと靖国論議を思った。決勝の試合はヒトラーが1936年にベルリン五輪を開き、侵略や虐殺につながる国威発揚の大演説をしたオリンピック競技場で催されたからだ。だが「大虐殺を働いた独裁者が政治利用した場所での競技は人民の感情を傷つける」と非難する声はどこにもなかった。

 中国の靖国非難は「靖国が軍国主義の精神拠点だったから」という主張が基盤となっているようだ。その種の主張を拡大すると、ベルリン競技場のいまの使用もけしからんということになりかねない。その主張のもう一つの基盤は日本が過去に中国に対し悪事を働いたから、中国は日本の戦没者の追悼の方法など命令や指示をする資格がある、という思考のようだ。だがこの世界に過去に他国への何の悪事も働いたことのない国など存在しない。国際社会での各国は悪事へのそれなりの制裁や自省の後はみな相互に妥協し、許容していくことが基本である。

 私は日本の首相を含む国民の靖国神社参拝は信仰かつ礼拝であり、日本自身が判断することであって、米国も中国も韓国も介入すべきではない、と考える。私は妻とともに自分たちで選んだ教会に毎週、通う。私たちの隣人は教会にはまったく足を向けない。だが、お互い何も干渉しない。これこそ米国で最も深く保たれる礼拝や信仰の自由なのだ。他国の人たちに信仰の有無を問い、求めることはない。

 日本の首相や国民が靖国を参拝することはこの信仰や礼拝の自由に基づく慣行であり、他者がその方法を非難すべきではない。とくに死者を悼む行為は悼む側には重大かつ深遠であり、外部の押しつけがあってはならない。

 靖国神社はある面でワシントンにある国立のベトナム戦争記念碑に似ている。同記念碑にはベトナム戦争の死者の名がすべて刻まれ、遺骨などは埋葬されていない。私は時折、友人やいとこの霊を悼むために記念碑を訪れる。私個人の信仰や礼拝だといえる。記念碑の友人たちの名に祈りをささげても、ベトナム戦争全体への礼賛や支持を意味はしない。ベトナム戦争に反対する人が私の祈りを止めることもできない。同様に一国の政府が自国の基準だけで他国の指導者や国民の戦没者の追悼に文句をつけることは、不当であり傲慢(ごうまん)だと思う。

 私は長年、軍備管理とともに中国をも研究してきたが、中国には一面、自国を中華帝国として世界の中心にみる傾向が強く、物事への対応にしても「中国方式でなければ間違った方式だ」という思考が消えていない。外国の言動に満足するということが少ないのだ。日本の首相が靖国参拝の停止を言明すれば、中国が満足するという主張は無知に近い。中国は必ず日本に対し他の案件を指摘し、抗議や要求をぶつけてくる。だから日本側は日中関係全体を人質にとっての靖国攻撃という中国側の戦術の危険に陥ってはならない。

 中国では毛沢東主席が数千万の中国人の死に責任を有することはいまや明白だろう。日本のA級戦犯も他者を死に追いやったという点では毛氏の軌跡には足元にも及ばない。中国は国家全体でその毛主席に弔意を表明し、日本の指導者が靖国の戦没者の霊に弔意を表することは許せないというのだ。矛盾といわざるを得ない。中国には日本の戦没者追悼に対し一定の方法を命令する権利はないのだ。

 米国の一部にも日本の首相に靖国参拝を停止することを求めるべきだと主張する人たちがいる。首相が参拝をやめれば、日中関係が改善されるという前提だろうが、その前提が間違っている。日中関係は靖国問題をはるかに超える、きわめて複雑な利害や権益のからみあいなのだ。米国にとっていまの日本は全世界でも最も信頼のできる貴重な民主主義の同盟パートナーである。その日本が自国の判断で決めた方法で戦没者を追悼することを米国も中国も尊重すべきだ。(談)

                  ◇

【プロフィル】トーマス・スニッチ

 1970年代にアメリカン大学で中国問題や軍備管理の研究で修士号と博士号を取得。同大学の助教授を経て81年から87年まで米国政府軍備管理軍縮局上級顧問(核兵器管理、アジア安全保障担当)。現在は科学技術調査企業「リトルフォールズ・アソシエイツ」社代表。



宮内庁長官、富田メモの公表に批判

2006年08月11日 | 靖国神社
陛下のお言葉公表は「慎重に」 宮内庁長官が見解述べる
2006年 8月10日 (木) 19:10 asahi.com

 宮内庁の羽毛田信吾長官は10日の定例記者会見で、昭和天皇が靖国神社によるA級戦犯合祀(ごうし)に不快感を示したとされる富田朝彦・元宮内庁長官のメモについて、「長官という職にあるものとして言えば、こうした事柄を公表するには余程慎重でなければならない」との見解を述べた。そのうえで、「富田元長官も公表をお考えにならなかったと思う」「(公表されることになれば)陛下自身が長官にものを言いにくくなる」との考えを示した。


上の朝日の記事を読んで、文藝春秋の半藤一利・秦 郁彦・保阪正康の富田メモの検証記事と合わなくなってきます。
文藝春秋の中で半藤氏は
「日経によると、記事を出す前日には、宮内庁を通じて今上天皇にも、富田元長官のメモを報じることと靖国メモの内容をお伝えしたそうです。宮内庁からは、わかりましたという返事があったという。…」
と発言しています。
この記事からすると、宮内庁も今上陛下も事前に昭和天皇の御発言と思われる部分も了解していたことになるが、羽毛田長官のコメントによると公表に全く了解していないことになる。
これはどちらが正しいのだろうか。普通で考えれば宮内庁長官が嘘をつくはずがない。
それとも、日経は富田氏のメモを公開するとだけ言って、肝心の部分は言わなかったのだろうか。
どちらにしろ日経は半藤氏に嘘をついたことにならないか。




ブラジルの中高生からの手紙

2006年08月04日 | 靖国神社
外国人の言いなりになるのは間違っている
ハイザ理恵鈴川  (十六才)

戦争があるたびに、たくさんつみのない人が死んでいきます。

たくさん、わかい人たち、私たちと同じ年齢の人やお父さんた

ちが、戦争に行ってなくなります。

神風になって、国のために、戦って死んでいきました。

靖国神社には、そのようななくなった人たちのたましいが静か

に住んでいらつしゃいます。だから、とてもたいせつなところ

なのです。

なくなった方々の家族の方々は、靖国神社へおがみに行きます。

でも、もう一つの施設をつくれば、長い間に、日本人たちは、

靖国神社を忘れていくでしょう。

それでいいのですか。

朝鮮や中国の人々が文句を言うから、場所をかえるのですか、

あなたたちは日本人の誇りがないみたい。

中国人もたくさん日本人を殺しました。

日本人もたくさん敵を殺しました。

でも、これが戦争なのです。

そして、そのために、たくさんの人たちが、けがしたり、心を

きずつけられたり、死んだりします。

そして、その結果は、戦争が終わったあとでしかわかりません。

外国人のいいなりになって場所をかえたらはずかしいと思いま

せんか。

私はまちがっていると思います。

日本人の皆さん考えなおして下さい。

「日本の皆様、靖国神社を守ってください」より






元宮内庁長官メモの疑問。

2006年07月26日 | 靖国神社
インターネットの世界では富田元宮内庁長官のメモの分析が行われています。
私も新聞に掲載されていた文の前後と、前後のページに何が書かれていたか興味がありました。
それで、今までに分かっている事から、私なりの考えを書いてみます。

メモの日付の翌日、昭和63年4月29日各新聞が昭和天皇の記者会見を掲載しています。
その中から毎日新聞の記事を掲載します。(天皇陛下の記者会見はどれも内容は同じと思っていたが、各紙少しずつ違いがありました。その中で毎日が一番詳しく書いていた。)一部省略

会見は二十五日午後、皇居、の休所「林鳥亭」で行われた。一問一答は次の通り。

―五十年以上、陛下にお仕えした徳川(義寛前侍従長)さんが退任しました。徳川さんをめぐる思い出を。

「徳川侍従長に対しては思い出も深いのでありますが、特に終戦の時に録音盤をよく守ってくれたこと、戦後、全国を巡遊した時に、岐阜の付近で歓迎の人波にもまれて、ろっ骨を折ったことがあります。よく裏方の勤務に精励してくれたことを私は感謝しています。ヨーロッパやアメリカの親善紡問の準備のために語学力を利要して、それに準備をよくしてくれたので、親善訪間はだいたい成功したように思われます」

―陛下が即位(昭和三年十一月に即位式)されてから六十年日に当たります。この間一番大きな出来事は先の大戦だったと思います。改めて大戦についてお考えを。

なお、(前の質問に)付け加えておきたいことは、侍従長の年齢のために、このたび辞めることになりまして、私は非常に残念に思っています(このあたりで目をしばたたかせ、左目に光るものが見えた)。今の質問に対しては、なんと言っても大戦のことが一番いやな思い出であります。戦後、国民があい協力して平和のために努めてくれたことをうれしく思っています。今後も国民がそのことを忘れずに平和を守ってくれることを期待しています」

―陛下は今、戦後四十数年を経て振り返られ、日本が戦争への道を突き進んでしまった最大の原因は何だったとお考えでしょうか。

「そのことは、人の、人物の批判とかそういうものが加わりますから、今、ここで述べることは避けたいと思うています」

―沖縄訪問について、お気持ちを。

「私が病気のために、沖縄の旅行を中止したことを今も残念に思っていますが、その時に暫ったことですが、『健康が回復したならば、なるべく早い時に旅行したい』と考えを述べましたが、今日もその精神に関しましては何も変わっていません」


毎日新聞にはこの記者会見の裏事情も書いていました。
天皇陛下の記者会見を前に、宮内庁と宮内記者会の間で"綱引き"があった。
日本人記者が初めて陛下と会い、言葉を交わしたのは敗戦後間もない二十年末。その後、宮内記者会と陛下の会見は数回あり、三十六年からほぼ年一回が定例化、六十年からは誕生日前に約三十分間行われてきた。
今回は宮内庁側から、会見は十分間程度で、質問も五項目ぐらいに、と要望があり、関連質間も遠慮して欲しいと非公式に意向が紀者会に伝えられた。記者会では質問事項を取りまとめ、総意で六問を選んだ。手術、沖縄ほか、天皇陛下が米軍の沖縄占領継続を望んだのではないか、と国会でも取り上げられたいわゆる「天皇メッセージ」問題、戦争責任や広島への原爆投下についてもお考えをお尋ねしようという内容。二・二六事件についてなど五項目は、文書で回答を頂きたい、と申し入れた。
しかし、宮内庁は「これでは会見は実現できない」と、変更を求めた。記音会は論議を重ね、緒局、会見を実現するため質問を作り直すことを決めた。会員の一部には「会見実現のために譲歩した方がよい」との意見もあったが、表現を変え戦争についても質問することになった。
最終的に同庁もこれを受け入れ、会見が実現したが、手術の際のお気持ち、星后さまのご体調、戦争の最大の原因についての質問は文書提出していない関連質間だった。
会見で陛下は「先の大戦」について「いやな思い出」と述べられた。内部の事前打ち合わせでは「つらい思い出」とお答えになる予定だったという。会見は十七分間だった。


次に、富田元宮内庁長官の問題の文の前のページの解析したものを見てみます。

63.4.28 ●

☆Pressの会見
①  昨年は 
  (1) 高松薨去間もないときで心も重かった 
  (2)メモで返答したのでつくしていたと思う 
  (3) 4:29に吐瀉したが その前でやはり体調が充分でなかった 
  それで長官に今年はの記者印象があったのであろう 
  =(2)については記者も申しておりました         
                    
②  戦争の感想を問われ嫌な気持を表現したがそれは後で云いたい  
   そして戦後国民が努力して平和の確立につとめてくれたことを云いたかった    
  "嫌だ"と云ったのは 奥野国土庁長の靖国発言中国への言及にひっかけて

<<次ページ>>
                    4.28 ④
前にあったね どうしたのだろう中曽根の靖国参拝もあったか
   藤尾(文相)の発言.
   =奧野は藤尾と違うと思うが
   バランス感覚のことと思う単純な復古ではないとも.
  私は 或る時に.A級が合祀され その上松岡.白取 までもが、
   筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが 
   松平の子の今の宮司がどう考  
   えたのか 易々と松平は平和に強い考が
  あったと思うのに 親の心子知らずと思っているだから 私あれ以来参拝
  していない.それが私の心だ

  ・ 関連質問 関係者もおり批判になるの意

※余り閣僚も知らずそうですかが多い


記者会見は4月25日に行われているが、富田メモは4月28日の日付になっている。
なぜ3日後の日付なのだろうか。普通なら当日に書くだろう。
もし4月25日付のメモが有れば何が書かれているか知りたい。25日付で書かれていたら28日になって書かれたこのメモは不自然です。
25日の一番大きな出来事は、天皇誕生日に発表する記者会見だからです。

記者会見記事を読んで気づくのは、徳川侍従長に対して他の質問にお答えになる前にも、侍従長について述べられるぐらいかなりの思いがあられたようです。
大戦についてのお考えのお答えは、富田メモに書かれた[2]と合いますし、この時期奥野発言で国会はもめていました。藤尾前文相の発言も出ています。


(1)の高松薨去ですが、これは昭和天皇も昭和62年4月21日の記者会見で使われています。
(3)4.29に吐瀉したが… 前年の昭和62年4月29日に宮中で吐瀉されています。
前のページに書かれていることは、記者会見の内容とほとんど合います。
問題のページの=奥野までと、最後の関連質問も記者会見の内容と合います。
問題の文は、誰の考えなのかは分かりません。

メモには通し番号が書いてます。しかし、①②④になっています。
③が抜けています。③に何が書かれてあるのか、②の続きが書いてあると思います。問題文の前のページは下までいっぱいに書かれてあります。
メモの貼り方も右開きに貼ってます。手帳は普通左開きです。左開きの手帳に右開きで貼れば開きにくくなります。
問題の文自体も不自然さが感じられます。
もし本当に所謂A級戦犯合祀で行幸されないのなら、宮司を出す事はないでしょう。この文は宮司まで批判していることになります。


1)メモの出所が日経の記事に書かれていない。重要な資料が見つかると普通は○○さん所有とか書いてあるのですが、報道発表の記事には日経新聞が入手したとしか書かれていません。これは富田氏の遺族から入手した事が書かなくても分かると判断したからなんでしょうか。(それとも出所を書かないこともあるのかな)AERAによると富田元長官の奥様からと書いてあった。
2)一番不思議に思えるのは文です。
自分の意に沿わない人間が祭神として祀られているからとしても、それ以外の300万以上もの英霊に対しても同じように御拝礼されないということが考えられるでしょうか。誰々が気に入らないから行かないと言われるでしょうか。
まして、靖国神社への行幸は戦後宮内庁が判断するはずです。

私は、今のところ徳川侍従長の発言を富田長官がメモに書かれたのではないかと思います。
じゃあ、徳川侍従長は自分の思いを言ったのか、他の人の言葉を言ったのか、それが不明です。
このメモは戦前の田中上奏文のようです。

今回、富田メモで一番批判されることは、たとえメモに書かれたことが昭和天皇の御発言だったとしても、記者会見でお述べになられた「そのことは、人の、人物の批判とかそういうものが加わりますから、今、ここで述べることは避けたいと思うています」とのお言葉を無にしたことです。



元宮内庁長官のメモ!?

2006年07月20日 | 靖国神社
昭和天皇、靖国のA級戦犯合祀に不快感
≪元宮内庁長官、発言メモ書き残す≫

 昭和天皇が靖国神社のいわゆるA級戦犯合祀に不快感を示していたことを示すメモが表に出たことについて、安倍晋三官房長官は20日午前の記者会見で、「政府としてコメントする事柄ではない」と述べた。だが、自民党内は現在、戦没者の追悼をめぐって、A級戦犯分祀(ぶんし)論、国立追悼施設の建設や千鳥ケ淵戦没者墓苑の拡充論など百家争鳴状態にあり、波紋が広がるのは間違いなさそうだ。

 政府は、小泉純一郎首相の靖国参拝に関しては「首相自身が判断するもの」(安倍長官)との姿勢だが、首相の参拝に反対する勢力が、今回のメモ発見を利用し、勢いを増すことも想定される。またメモ発見が、首相の靖国参拝に反対している中国の高官が、「A級戦犯分祀論」を唱える自民党の古賀誠元幹事長に賛意を示したばかりというタイミングの問題もある。

 ただ9月の自民党総裁選に向けて「公になった言葉ではなく、非公式な会話メモで判断するのは、昭和天皇の『政治利用』につながりかねない」(百地章・日大教授)との懸念も出ている。

 政府筋は「(故・富田朝彦宮内庁長官のメモだけでは)昭和天皇が本当に不快感を示すご発言をしたかどうかは、誰も分からないだろう」とも指摘する。

 また、仮に内心がどうであれ、昭和天皇も現天皇陛下も春秋の例大祭には靖国に勅使を派遣するなど、靖国重視の姿勢を示し続けてこられた事実は重い。靖国の現宮司の南部利昭氏は就任に際して「天皇陛下から『靖国のこと、よろしく頼みます』と直接、言われている」(関係者)ともいう。

 今回のメモ発見でも、「戦没者追悼の中心施設は靖国」(小泉首相)という事実には何ら変わりはない。

 ■「政治利用」に懸念も

 昭和天皇が昭和63年、靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)について「あれ以来参拝していない。それが私の心だ」などと不快感を示されたとする当時の宮内庁長官、富田朝彦氏(故人)のメモが残されていることが20日、分かった。昭和天皇は50年以降、靖国神社を参拝されていない。A級戦犯合祀は昭和53年。

 関係者によると、富田氏は昭和天皇のご発言などを手帳などに書き留めており、63年4月28日付で靖国参拝に関するメモが残っていた。昭和天皇が「私は或(あ)る時に、A級が合祀され、その上、松岡、白取までもが」「だから私(は)あれ以来参拝していない。それが私の心だ」などとお話しになったとしている。

 「松岡」「白取」はA級戦犯として祭られている松岡洋右元外相、白鳥敏夫元駐イタリア大使を指すとみられる。

 ほかに「筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが。松平の子の今の宮司がどう考えたのか、易々(やすやす)と。松平は平和に強い考(え)があったと思うのに、親の心子知らずと思っている」などの記述もあった。

 「筑波」はA級戦犯の合祀をしなかった筑波藤麿・靖国神社宮司(故人)、「松平」は最後の宮内大臣の松平慶民氏(同)、その「子」は長男でA級戦犯合祀をした当時の松平永芳宮司(同)とみられる。

 富田氏は昭和53年から63年まで宮内庁長官を務めた。

【2006/07/20 大阪夕刊から】

(07/20 16:00)産経新聞

私は或る時に、A級が合祀されその上
松岡、白取までもが
筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか易
々と松平は平和に強い考があったと思う
のに親の心子知らずと思っている
だから、私あれ以来、参拝していないそ
れが私の心だ(原文のまま)
富田メモ・靖国部分全文


今朝の日経新聞に、元侍従長のメモが報道されていました。
内容の真偽のほどは不明ですが、
あまりにもタイミングが良いように思えます。
支那がA級戦犯分祀に発言した翌日の報道、しかも反日マスコミとは云え日経新聞。
これが、朝日か毎日だったら捏造かと思う人がかなり居るでしょう。

内容も疑問点が残ります。