一燈照隅

日本が好きな日本人です

国を売る政治家

2006年04月30日 | Weblog
靖国神社参拝に所謂A級戦犯が合祀されているからとして支那が文句を言ってくるが、所謂A戦犯合祀が報道されたのが昭和54年(この時国会でも取り上げられています)。中曽根参拝で文句を言ってきたのが昭和60年、この間首相が靖国神社参拝しても、支那は文句を言ってきていません。
では、なぜ中曽根の時になって支那は文句を言ってきたのでしょうか。 その事について、日中友好議員連盟会長の元外相高村正彦が書いています。


江沢民主席はどちらかといえば抗日戦争勝利、共産党の歴史に重きを置いた人だろう。かつて胡耀邦という総書記がいたが、彼はどちらかといえば経済をよくすることに重きを置いた人だった。中曽根元総理が靖国神社を公式参拝された。その時の胡耀邦総書記は、経済に重きを置いていたから、中曽根総理の靖国参拝にたいへん抑制的な対応をした。   

日本人のお節介な人が北京に行って、胡耀邦総書記に「なんてもっと怒らないのか」と言った。  

それでも胡耀邦総書記は抑制的だった。そしたらその人たちが、旧満州に行き、またそういうことを言った。それで中国全土に広がり、胡耀邦総書記は政治運営が難しくなった。胡耀邦が危ないぞというので、中曽根さんは靖国公式参拝をやめた


ようするに、靖国参拝を中曽根政権の政治問題にするために日本側から支那政府を焚き付けたと言うのが真相のようです。
このお節介な政治家ですが、この人はその後も北朝鮮への謝罪文や南京虐殺記念館の建設に関わったようです。

教科書問題と同じで日本人が支那に言って問題化しているのが現実です。 また、中曽根が参拝を止めた為に支那は利用できると学習したのです。
国内の政治を外国に広めるようなことをするのは以ての外です。

今回もサマーワに行かないのか?

2006年04月29日 | Weblog
小泉首相、アフリカ・北欧歴訪へ出発
2006年 4月29日 (土) 11:01 Yomiuri online  

小泉首相は29日、エチオピアとガーナ、スウェーデン3か国訪問ため、政府専用機で羽田空港を出発した。  
出発に先立ち、首相は首相公邸前で記者団に「アフリカの安定は世界の平和と発展に大きく影響してくる。自立するための支援策を協議したい。スウェーデンは少子化、高齢化を日本より早く経験しており、参考になる点は多いのではないか」と語った。  

首相は最初の訪問国のエチオピアで、アフリカ53か国が加盟するアフリカ連合(AU)のコナレ委員長と会談。アフリカ内での感染が問題となっている鳥インフルエンザ感染防止対策への支援や、AUが平和維持活動を担っているスーダン西部ダルフール地方の紛争解決に向けた支援を表明する見通しだ。


小泉総理、今回こそサマーワの自衛隊駐屯地に激励に行くべきです。日本の閣僚は皆近くまで行くのに誰一人として(大野前防衛庁長官以外)誰もサマーワに行かない。
危ないから行きたくないのか、もしそれなら閣僚としての責任感がなさすぎる。
小泉総理サマーワに行くべきです。

戸塚校長出所

2006年04月29日 | Weblog
出所の戸塚校長、怪気炎 「体罰は教育」
            
服役していた静岡刑務所を出る戸塚ヨットスクールの戸塚宏校長=29日午前9時5分、静岡市葵区  

訓練生2人が死亡するなどした戸塚ヨットスクール事件で、傷害致死罪などが確定し、静岡刑務所(静岡市)で服役していた同スクールの戸塚宏校長(65)が29日、刑期を終えて同刑務所を出所した。  

同市内で開かれた記者会見で戸塚校長は「スクールはそのまま続ける」と指導現場への復帰について意欲を示した。また戸塚校長はほおを紅潮させ「体罰は教育」と持論を展開。検察庁やマスコミ批判を繰り返した。  

死亡した訓練生らへの気持ちを聞かれると、「悼む気持ちは散々言っている」と述べた。  

事件は昭和55年から58年にかけ、愛知県美浜町の同スクールによるスパルタ式のヨット訓練で訓練生2人が死亡、2人が行方不明になるなどした。  

戸塚校長は二審の名古屋高裁で平成9年、懲役6年の実刑判決を言い渡され、14年に確定した。  

同スクールには現在、中高生ら7人の訓練生が在籍している。
(04/29 13:27) Sankei Web


戸塚宏校長の刑期満了での出所は喜ばしいことです。
産経の記事を読む限りでは、戸塚校長が悪事をはたらいたような記事になっています。
私も最初は戸塚ヨットスクールて悪いところやなと思いましたが、渡辺昇一氏などが本に書いていたのを読んでどのようなところなのかを知りました。

親はなぜ戸塚ヨットスクールに連れてくるのか、家庭内暴力や登校拒否などの情緒障害児を治すためです。 親が自分で手に負えなくて戸塚ヨットスクールに連れてくるのです。表現が悪いかもしれませんが親に見捨てられてると言ってもいいかもしれません。
当時、家庭内暴力が急増していました。戸塚校長の言う通り教育に体罰は必要です。

昭和の日

2006年04月29日 | 今日は何の日
4月29日は昭和天皇誕生日です。

よろこびもかなしみも民と共にして年はすぎゆきいまはななそぢ
昭和天皇御製

今年は、みどりの日ですが来年から「昭和の日」になります。
「昭和の日」推進国民ネットワーク

「第2次大戦に敗けて、日本は全国焦土となった。その瓦礫の中から立ち上がったのに、30年あまりで、かくの如く復興、繁栄した。そのわけがどうしてもわからなかった。ところが今度、日本へきて、その謎がすっかりとけた。これはあの天皇陛下のお力によるものですよ。この言葉を置土産にして私は国へかえります」
(「昭和天皇を惟う」梶山茂著より)



「伝統と創造の会」靖国神社参拝

2006年04月28日 | 靖国神社
自民新人21人が靖国参拝 「次期首相も継続すべき」

             
靖国神社の参拝を終えた「伝統と創造の会」の稲田朋美会長(中央)ら=28日午前、東京・九段北  

自民党の新人衆院議員による勉強会「伝統と創造の会」(稲田朋美会長)のメンバー21人が28日、東京・九段北の靖国神社を参拝した。昭和27年の同日がサンフランシスコ講和条約発効の日で、「日本が主権を回復した記念すべき日」(稲田氏)を選んで集団参拝した。  

稲田氏は参拝後、記者団に、小泉純一郎首相の今年8月15日の参拝を求めたうえで、9月の党総裁選における靖国問題の争点化について「国家の指導者の国家観を知る上で非常に重要な問題だ」と指摘。次期首相も靖国参拝を継続すべきだとの考えを示した。 (04/28 19:32) sankei wab


英霊たちも朋ちゃん達の参拝を喜んでいることでしょう。

独立記念日

2006年04月27日 | 日本の戦後
風さゆるみ冬は過ぎてまちまちし八重桜咲く春となりけり
昭和天皇 御製


独立記念日です。
敗戦後の昭和26年9月8日にサンフランシスコで調印された「日本国との平和条約(通称サンフランシスコ講和条約)」が、昭和27年4月28日に発効されました。この事によって日本は7年間に亘る占領国から独立国になりました。
この日のことを学校では教えません。その為何の日か知らない人が大勢います。
5月4日を休日にするくらいなら、4月28日を祝日にするべきでしょう。

先日書店で「戦勝国は日本だった」安農豊著 柏艫舎 という本が目に付きさっそく読んでみました。
あらすじは、
「雪氷学者中谷宇吉郎の孫弟子そして漱石から5代目の弟子に当たる物理学者、田中俊彦は世界で初めて吹雪の風洞シミュレーションに成功し、米陸軍に招請される。日本の閉鎖的且つ封建的な学会の風土に嫌気がさしていた俊彦は祖国日本を捨て渡米、しかし、そこで見たものは白人優越主義と有色人種蔑視の現実、日本民族の誇りを捨て白人達に媚びる日本人研究者達の姿であった。 そして、俊彦に与えられた仕事、それは冬期間の核爆発に関する研究であった。人種差別と不本意な軍事研究の狭間で悩む俊彦に、中国人研究者のワン博士が忠告したことは?・・・・・・・・・」

この本の中で、ベトナム戦争で負傷した男の父親が言っている言葉があります。
「せっかく日本に勝って、アジアの戦争は終わったと思ったら、それどころか朝鮮戦争が始まって、朝鮮がおさまったと思ったら、今度はベトナム戦争が始まって、結局アメリカは敗北して、その間、戦争に負けたはずの日本がその後戦争せずに大国になって、平和を謳歌している。戦争前、日本が押さえ込んでいたアジアの共産勢力の台頭をアメリカが肩代わりして、何万人ものアメリカ兵が死んで、それで、本当にアメリカは日本に勝ったのか、もしかしたら太平洋戦争の勝者は日本で、アメリカが敗戦国だったのではないか」



皇室改革とはいい加減にしろ!

2006年04月27日 | 皇室典範
皇室典範の勉強会の内容は新聞が書かない。インターネットで知る以外ほとんどの人は知ることが出来ません。
自民党は皇室を破壊したいのだろうか。
皇室改革など共産主義者の言う言葉そのものです。
自民党なら改革でなく伝統の継承と言うべきです。
無知な小泉総理のような馬鹿げたことを言うものではない。
皇室典範改悪は着々と進行しているようです。


■ 女系天皇容認は「皇室改革の入り口」――皇室伝統の断絶を目論む女系容認論者の「本音」  
自民党内閣部会・第5回勉強会
Date: 2006-04-27 (Thu) 日本政策研究センター  

去る4月25日、皇室典範改正問題に関する自民党内閣部会の勉強会(第5回目)が開かれ、女系容認論の立場から笠原英彦慶応大学教授が意見を述べた。関係者によると、笠原教授は、「男系継承を維持することは非常に困難であり、有識者会議の結論の方向での改正は避けられない」と述べる一方、女系容認の典範改正は「皇室改革の入り口」との見解を明らかにし、皇室を「より開かれた、より国民に近いものとすることが必要」などと主張した。以下、勉強会の概要を紹介するとともに、若干のコメントを付けておきたい。  

笠原教授はまず、「男系継承は重い伝統ではあるが、側室制度が認められない現状では、皇室典範は構造的欠陥を抱えており、改正は急務」とした上で、「7割近い賛成を得ている女系天皇を容認すべきだ」と訴えた。また、旧皇族の皇籍復帰について、「現皇室の系統と分かれて600年の歳月が流れ、皇籍離脱から60年近く経過しており、非現実的。国民の理解も得にくいし、この方策を強行すると国民の皇室離れという別の危機を招来しかねない」と断じ、「戦前回帰のアナクロニズムを感ずる」とも述べた。さらに、「皇婿」の選定について、「本人の意思が最大限尊重されるべきであり、旧皇族の子孫から選定するのは余りにも政略的」とする一方、「皇婿選びも、お后選び同様難航が予想される」として、その意味でも「より開かれた、より国民に近い皇室にすること」の必要性を指摘。典範改正は「皇室改革の入り口」だと結論付けた。  

一方、出席した議員からは「旧皇族の皇籍復帰を考えている議員に、戦前回帰を考えている者はいない。認識を改めてほしい。また皇室が国民と同じになれば、存在の必要がなくなってしまう」「600年経とうが、(皇位継承者の備えとしての)宮家の存在意義は変わらない。なぜ皇籍復帰を追求せず、女系容認に走るのか理解できない」「まず男系維持の方法を考えるべきだ」といった批判や疑問が続出。これに対して笠原教授は、「実は自分も男系維持を期待はしているが、女系を容認しないと皇位継承が危ういという危機感がある」とか「戦前回帰という言葉は適切ではなかった」などと弁明じみた回答をした。  

ところが、今回も内閣部会を仕切る立場の甘利政調会長代理が、「皇統をつなげることが一番大切。元皇族の復帰をしても男系継承はいずれ困難になる」との持論を述べ、「『つなげる』ための方法をどんどん提案して欲しい」とまとめ、勉強会は終わった。  

さて、今回の勉強会で改めて明らかになったのは、いわゆる女系天皇容認論者が何を目論んでいるかということだ。笠原教授は皇室典範改正は「皇室改革の入り口」だと位置づけている。つまり、女系天皇の容認は「入り口」に過ぎず、さらにその先があるということだ。それが何かということはこの勉強会では触れられていないけれども、「世論」や「憲法」を基本線としてさらに「皇室改革」を推し進めるということであることは間違いない。そこには皇室を皇室たらしめている伝統などは出て来ない。これではいずれ天皇制度は解体してしまうと言える。  

甘利政調会長代理は「『つなげる』ための方法をどんどん提案して欲しい」と言ったが、本気でそう考えているのなら、「天皇制度解体」につながる女系容認論の勉強会など、もういい加減に止めるべきだ。責任ある与党に求められるのは、「如何にすれば万世一系の伝統を守ることができるのか」を前提とした議論以外の何物でもない。


旧皇族の復帰に対して「現皇室の系統と分かれて600年の歳月が流れ、皇籍離脱から60年近く経過しており、非現実的」と言っているが、完全に話が逆で、600年も守り通してきたものが今まで必要性がなかったが、ここに来て必要とされるようになったのです。
もし60年前に臣籍降下していなかったら、女系天皇論が出てくるでしょうか。

○安倍国務大臣 
皇位継承順位につきましては、有識者会議におきましてもいろいろな議論があったというふうに承知をしております。  
最終的には、親から子に、世代から世代へと伝わる直系継承が皇位継承のあり方としてはふさわしく、また出生順に順位が決まるという制度のわかりやすさや、国民の期待や、御養育の方針が早期に定まるという安定性を重視して、いわゆる長子優先が適当であると、この有識者会議においては判断されたものというふうに認識をしています。  
いずれにいたしましても、ただいま委員が御指摘されたような観点を踏まえまして、まず何といっても皇位の安定的な継承を図らなければならない、と同時にまた、皇室は他に比類なき長い伝統と、また文化をも体現しているわけでございまして、そうしたことを踏まえながら、そしてまた当然このたびの御慶事も念頭に置き、また踏まえながら、ただいま与党におきまして御議論をいただいているところでありますが、慎重にかつ冷静に、国民各層の賛同が得られるように取り組んでいきたい、こう思っております。

平成18年4月14日 衆議院内閣委員会

教育勅語謹解 Ⅲ

2006年04月27日 | 日本の教育
-是ノ如キハ濁リ朕力忠良ノ臣民タルノミナラス-
「以上述べた徳目をよく守れば、それが日本人として忠良な国民となるわけで、そればかりでなく」という意味です。
ここで大事なことは、教育勅語のなかの「忠」という意味です。日本国民として忠良の国民となることは、「父母に孝に」から始まったこの教えを守ることなのです。教えというのは広くいえば日本文化のことです。したがって、文化を守ることが忠なのです。忠とは決して封建的な、個人に対する隷属を意味しているのではありません。そんなことを強要される程日本の皇室は小さいお考えではないのです。そうです。ここに示された道徳の教えは、日本民族の内で自然々々に発生し、何千年もうけつがれてきたものなのです。まさに日本国民の骨であり肉であり血なのです。単一民族の長い歴史がそうさせたのでしょう。




-又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン-
「あなた方の誠実さをとおして、あなた方の祖先の立派だったことを明らかにすることになりましょう」という意味です。
日本民族の歴史的伝統的な考え方がこういうものなのです。日本民族は外国からの教えもいつの間にか日本的にしてしまいます。結婚式は厳粛に神前であげますが、家族がなくなるとお坊さんを呼んでお経をあげて頂きます。家の中に神棚と仏壇と両方ある家はいくらでもあります。家を建てる時の上棟式、あるいは道路の開通式、何れも神官が玉串を捧げます。私達はお祓いをうけます。外国へ行く時パスポートの宗教の欄に「Buddhist」と書いて自分が仏教徒なことをおもいだした人があるそうです。これは私達が宗教を侮辱しているということではないのです。むしろ外来の宗教でも日本化され同化され、私達の一部になってしまっているのです。あるいは、いろいろの宗教を日本教にしてしまったのかも知れません。日本人の宗教心は、もともと「祖先崇拝」ということなのです。「神様、仏様、御先祖様」とお祈りするのが日本人です。




-斯ノ道ハ實二我力皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ-
「以上述べた日本人として守るべき道徳は、私達の祖先が、代々の教えとして遺されたものです」という意味です。
天皇の御先祖の教えは私達祖先の教えです。私達の先輩はずーっとこの教えを守ってきたわけです。これは全く当然のことです。私達と皇室は一体であるので少しも不思議なことではありません。現在ごく一部の人達が「天皇制」とかなんとかいって、皇室と私達国民の間を割こうとしていますが、それは、絶対にできないでしょう。親子の意見が多少異っていてもいざという時は「親子の情」があります。 「親思う心に勝る親心」という言葉がありますが、皇室とされては、一部のレフティな人々を、いうことをきかない子供ぐらいに思っておられることでしょう。出来の悪い子供程かわいいともいいます。そういう人達に対しては、より深い愛情をもっておられるのかも知れません。




-子孫臣民ノ倶二遵守スヘキ所-
「これは私や国民のみでなく、子々孫々に至るまで固く守るべきものです」という意味です。
私達が何千年も伝えて来た教えですから、子々孫々に伝わってゆくのも当然です。 現在の日本ほど健全な中産階級の国はないでしょう。ものすごい大金持はいません。アメリカでは「ラスベガスヘ行きませんか、仲々面白いですよ」といわれると「ほほう、それでは行ってみよう。君、ホテルを一つ買っておいてくれ給え」という金持がいるそうです。日本では松下さんが熱海へ行くので熱海のホテルを買ったなどという話はきいた事がありません。だから目茶苦茶なお金持ちはいないようです。然し、はだしで歩いている人は日本にはいません。(ヒッピーは別です。あれは趣味でハダシになっているのですから)また、こじきもいません。これは世界でもめずらしいのではないのでしょうか。要するに誠によい中産階級の人々の集まりが日本なのです。明るい日本、楽しい日本、何とすばらしいではありませんか。




-之ヲ古今二通シテ謬ラス-
「この考え方は昔も今もいつでも正しい考え方です」という意味です。
日本の民族の流れは常に一つであり、昔は正しかったが今は間違っているというようなものではありません。一つ一つの現象は、今は時代が違いますよ、ということもあるでしょうが、道徳の根本、民族としての方向は歴史的に一つなのです。 川は時として曲りくねることがあります。でも必ず大海に注ぎます。山登りでもそうです。大道あり、小路あり、近道もあるでしょう。しかし皆頂上へと向って進んで行くのです。晴れていても曇っていても、富士山の形は変りません。この教えは、大昔も現代も、あるいは将来の私達の子孫にとっても、たった一つの正しい教えなのです。




-之ヲ中外二施シテモトラス-
「この教えは日本のみでなく、世界いずれの国に対しても通用するものです」という意味です。
親を尊敬し大事にし、兄弟姉妹は仲良くする。夫婦は円満に、友達同士は信じ合い、よく勉強し、きめられた規則はきちんと守る等々は、誠にどこの国にでも通用する大事なことです。これは主義とか思想を越えた人間としての道徳の根元でしょう。いろいろの国に教育勅語が訳されています。人倫の道として当然のことであり、基本的なことだからでしょう。 この教えは昔も今も、また洋の東西を問わず正しい、というわけです。即ち、縦横上下、何れから見ても人倫の根本原理であり通則であるというわけです。


-朕爾臣民ト倶二拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ-
「私自身もあなた方といっしょに同じようにこの道をよく守り、そして皆でこの徳を身につけて実行するようにしましょう」という意味です。
ここにも皇室と私達の一体感があふれています。天皇御自身も、ここに述べられている道をお守りになるということです。「あなた方おやりなさい」ではないのです。「私も一しょに守りましょう」です。率先垂範です。これをしめくくりのことばとされました。最近、諸外国での日本研究が盛んですが、アメリカの一流誌ライフで日本のことを Japan Inc. といっています。また、ボストン・コンサルティング・グループのアグレマンもその著「日本経営の探求」で「日本株式会社論」を書いています。すなわち、日本の各会社は大いに発展しているが、日本全体が一つの会社のようなもので、各企業はその一つの事業部であるというのです。各経営者も社員も自分の会社を発展させると同時に、そのうらにある「ニッポン」そのものの発展を、いつも考えている、ということです。何れも日本はバラバラの国ではなく一つにまとまった国である点を強調しています。そして、それが今日の繁栄した国、富める日本になったと指摘しています。全くその通りです。外国人にもだんだんわかってきたようですが、私達は、教育勅語で示されたように、君民一体の国を、大きな誇りといたしましょう。


-御名御璽-
勅語の最後に明治天皇が御自身のお名前を御署名され御印を押されました。そのことです。
御名とは明治天皇の御名前で「睦仁」と申上げます。名前を御名と敬語を使ったのです。民族の総本家に対する礼儀です。ところでこの敬語というのも日本語の特徴です。欧米の言葉には殆んどありません。自分はへりくだって相手を尊敬していうのです。父母に対しては勿論自分より年上の人は経験がそれだけ豊富なわけですから敬語を使うべきでしょう。又教えを受ける先生にも礼をつくすべきです。
最近この敬語が少し乱れているようですが誠に残念です。正しい日本語は正しい敬語を使うことによって完成されます。皆さんも御両親にきいてごらんなさい。敬語の使い方はなかなか味があって言葉として興味深いものです。敬語にもユーモアがあるのがあります。米を「お米」というのは之をつくる農民の方の苦労を考え又自分を生かしてくれる大切な主食に対する敬語です。地方にいきますとおかゆさん、おいもさんともいいます。これは敬語のダブリで英語でいえば Mr. Rice Esquire とでもいうのでしょう。ほほえましいではありませんか。



結びのことば
皆さん 以上で教育勅語をやさしく現代風に説明させて頂きました。軍国主義的でもないし、ファシズムでもないことが、はっきりおわかりになったと思います。 教育勅語は戦後占領軍の命令で禁止され、レフティーな人々によって排撃されてきました。帝国主義的、封建主義的などのぬれぎぬをきせられ、世の中から忘れ去られようとしています。ところが教育勅語のどこにも、「私に対し忠義をつくしなさい」と書いてあません。守るべき徳目の一つとしても忠節という文字はでてきません。たしかに、このなかに忠をいう字は二回出てきます。しかし、よく読んでごらんなさい。初めに出てくる忠は、歴史的事実をたんたんと述べられているだけですし、二回目の忠とは「父母に孝に兄弟に友に」という十五の徳目を守ることを意味しているのです。すなわち、歴史的に見ても極めて普遍妥当性のある正しい、この道徳規範を守ることのみが、忠良な国民だと説いておられるのです。ここには封建的な、個人的忠誠という考えの入りこむ余地は全くありません。
世界の歴史の中に、皇帝や大統領は数多くありましたが、このような道徳の規範を国民に発布された例はきいたことがありません。日本だからこそできるのです。これこそ、我が国において天皇が、国民の憧れの中心であり、道義の中心であり、民族の中心である何よりの証拠でありましょう。 教育勅語は平和で豊かな、明るく美しい日本に、誠にふさわしい教えなのです。


教育勅語謹解Ⅰ

教育勅語謹解Ⅱ

教育勅語発布の由来



教育勅語謹解 Ⅱ

2006年04月27日 | 日本の教育
教育勅語謹解の続きです。 ブログに文字数制限があるので3回に分かれます。

-爾臣民-
「あなた方国民よ」という意味です。
これから後は日本人として実際行なうべき道を明らかにされるわけです。 現代流にいえば「皆さん」と呼びかけられたのです。 何でもないたゞの呼びかけのようですが、何百年もの長い間の封建時代を経た日本人にとっては極めて近代的なひびきに感じられたようです。将軍、大名、小名、武士、農民、町人といわゆる士農工商の厳然として階級のある社会では考えられなかったことです。それが、大政奉還、王政復古の維新とともに階級制度は撤廃されて、一君のもと四民平等となりました。この万民平等の原則が確立されて、はじめて、一君の天皇は万民にむかって、皆さんとお呼びかけになったのです。



-父母ニ孝ニ-
「両親に孝行に」という意味です。
まず、親孝行でなければいけません。自分がこの世に存在できるのは両親のおかげです。お父さんもお母さんも、あなた方を一人前にしようと一生懸命です。教育ママといわれて、非難されるお母さんもおられます。もちろん行き過ぎはいけないのでしようが、自分の子供の教育に関心をもっているからこそ、教育ママになつてしまうのです。日本の就学率が世界一の理由は親が子供を愛し、これを教育しているからです。 最近の「ロンドンエコノミスト」が日本の特集号を出しましたが、その中に、 「二十数年前、焼野原で食べる物も着る物もなくふるえていた日本人が、今や世界の最も富める国の一つになっている。この奇跡はどうしておきたか」を書いています。その理由の一つに「教育こそ唯一の遺産だ、と思っている日本人が多い」ことをあげています。それほど自分を愛してくれている親に孝行するのはあたりまえでしょう。「父母に孝に」は、日本人としてまず第一に守らなければならないことです。



-兄弟ニ友ニ-
「兄弟姉妹は仲良くして」という意味です。
きょうだいが仲良くするのはあたりまえです。毛利元就が三人の子供を集めて、一本の矢は簡単に折れるけれど、三本たばねた矢は折れないといって、兄弟力を合せて仲良くするように教えたのは有名な話です。「兄弟墻に相閲ぎ、外侮りを受く」という諺があります。兄弟げんかをしていると、その間によその人からばかにされるという意味です。 私達日本国民も、あんまり日本人同士で、争っていると、外から侮りを受ける恐れがあります。主義主張の論争もほどほどにしましょう。少なくとも外国から笑われないように気をつけたいものです。治安を保てないような国になったら一大事です。自分の国の秩序を保てないようでは、それは一つの独立国家ではありません。地理上の一つの名称にすぎないといわれるようになっては困ります。皆で仲良く、平和な、美しい静かな国にしたいものです。

-夫婦相和シ-
「夫婦は円満に」という意味です。
他人であった二人の人間が神様の前で誓いあって結婚したら、仲良くすることはあたりまえでしょう。夫は妻を愛し、いつくしみ、妻は夫を尊敬し、信頼することによって、この夫婦はりっぱな家庭をつくれます。 健全な家庭のより集りがよい日本をつくるわけです。やがて子供ができ、大きくなって行きます。父親と母親とが仲良くなくてどうしてよい子供ができるでしようか。現在の過激派の学生は親が円満でないか、あるいは親許を離れている学生に多いようです。家庭の愛情に飢えている子供が、反抗的な性質をもつようです。夫婦間にみぞがあることが、親と子の間に断絶をつくるもととなります。
日本をよりよくするたには夫婦仲良くすることが大切です。

-朋友相信シ-
「友達はお互いに信じあい」という意味です。
友達がお互に信じ合うことは大切なことです。英語にも A friend in need is a friend indeed. という諺があります。「必要な時、困った時、たすけてくれる友人こそ真の友人である」という意味です。 自分の景気がよい時、盛んな時は色々な人が寄ってきます。うまいことをいってきます。しかしほんとうに困った時、失敗した時、多くの人は去って行きます。こんな時、温かい手を差しのぺてくれる人がほんとうの友人です。学校時代の友人が真の友人だといわれますが、学生時代は利益で結ばれている友人でないからです。「我がうれいに君は泣き、君が喜びに我は舞う」の気持は尊いものです。友情は千金にまさり、友情は相信ずることによって生じます。

-恭倹己レヲ持シ-
「自分自身に対してはいつもつつしみ深く謙虚にするように」という意味です。
その通りです。自分に対しては常に身をつつしみ、心をひきしめていく事が大事です。自分自身に対しては常に厳格にしたいものです。今日一日の行動をふりかえって見て、果して良いことをしたか、良くないことをしたかとよく反省して、そして身を常に正すことが大事なことです。神田に三省堂という本屋さんがありますが、これは一日に三度反省するというところからとった名前です。毎日々々を反省してはじめて進歩があるわけです。

-博愛衆ニ及ホシ-
「他人に対してはゆるやかに、すべての人に愛情をもちましょう」という意味です。
自分に対しては極めて厳格にしますが、いっぽう、よその人に対してはなるべく寛容にしましょう。許しましょう。なるべく親切にしてあげましょう。自分より、より不幸な人々に対して同情し、なぐさめ、激励することが大切なことです。一人の人の不幸は皆でわけあって、悲しみを少くしてあげましょう。一人の人の喜びは皆で祝ってあげて倍加してあげましょう。 今、「小さな親切運動」というのがありますが、たいへん良いことです。この日本人独特のきめのこまかい温かい心が大切なことです。小さな親切のつみかさねが、私達のこの国をよくするのです。

-學ヲ修メ-
「よく勉強し」という意味です。
学問をすることは大切なことです。学ばなければなりません。知識を修得してはじめて判断力ができるのです。 もちろん、学問だけで入間の価値はきめられませんが、学問を軽蔑してはいけません。学ぶということは学校に行っている間だけのことではありません。「学びの水永遠ならめ(永久であってほしい)」ということばがあります。人間は死ぬまで学び続けるといってもよいでしょう。 日本の歴史、伝統を学び、また新らしい知識も吸収しましょう。温古知新という意味は、古い良いことを知ってそれを基とし新らしいことを知る、という意味です。日本の歴史を知り、伝統を誇り、それをふまえて世界の先進国におとらぬ進歩をつづけていこうではありませんか。



-業を習ヒ-
「自分の仕事を覚え」という意味です。
私達は学校を卒業し、社会に出、仕事を習います。学校で学ぶことは、実社会で仕事をすることの基礎になるわけです。どんな仕事でも始めは一年生です。先輩に教えてもらわなければなりません。謙虚に習いましょう。 西欧諸国では「企業の目的は利潤」といわれています。即ち会社の目的は儲けることです。ところが日本では、企業の目的として利潤はもちろん大事な要素ですが、100%ではありません。そこでどんな会社でも社訓とか社是とかいうものがあります。ハーバード大学のヒィルシマイヤ教授は、その著書「日本に於ける企業者精神の生成」の中で、渋沢栄一が「この仕事はあんまり儲からないが、お国のためになるからしています」といったので驚いたようです。また福沢諭吉の「利潤のため、かつ日本のため」という文をみて、日本の経営者は企業目的が利益のみでないことを知ったようです。 これは明治時代の話ですが、現代もそうです。「ロンドンエコノミスト」のノーマンマクレーもその著書「日本は昇った」で、「日本の驚くべき成長の秘密の一つに、経営者が自分の会社の利益を考えると同時に、そのバックにある日本の利益を絶えず考えていること」、及び「従業員が自分の会社に対し愛情及び忠誠心をもっていること」をあげています。 これを要するに、私達日本人は、お金を儲けることも大事であるけれど、それにもまして何か自分の属しているこの社会のために奉仕するものがなければならないことを、身をもって、歴史的に、伝統的に示しているということです。これを「業ヲ習ヒ」つつ覚えていくわけです。



-以テ智能ヲ啓發シ-
「そして知識と才能を積みかさね発展させて」という意味です。
日本民族が、たいへん勤勉であり、頭脳優秀であることは世界でも認められています。戦い敗れて無一物となった日本では、莫大な資金や膨大な設備を必要とする化学や機械工業はなかなか進みませんでした。だが紙と鉛筆だけでできる数学や理論物理学では、直ちに世界のトップに加わりました。お金はサッパリでしたが、脳みそは天下一品なのです。 世の中が落ちついて経済が発展すると、学を修め、業を習って啓発された知能は、世界で一番早い汽車をつくり、世界の造船の五十%を占め、ソニーを生み、ホンダモータースとなり、さらにセイコー、シチズンと精密工業部門で世界の一流国となりました、今では化学、印刷部門でも世界一になろうとしています。化粧品、石けん、カミソリ等も外国製品よりはるかによくなっています。 教育勅語を身をもって習った時代の人達に、まさにその成果があらわれてきたわけです。



-徳器ヲ成就シ-
「人格を完成し」という意味です。
学問と仕事をマネージして理論的にすぐれた人も、人格が欠けていたらなんにもなりません。エコノミックアニマルでは困るのです。社会は、一人でなりたっていないからです。自分の住んでいる社会に何とか奉仕しょうというのが、日本民族の歴史、伝統であるといいましたが、社会に奉仕するのには徳がなければいけません。徳とは人格です。徳器を成就するということは、少しでも世のため、人のためになるように、自分の人格をみがくということです。 世界の平和に寄与するということも、徳があって、はじめて、ほんとうに、できることです。口先で平和平和といっていても駄目です。入学試験で、合格する合格すると何べんいっても駄目です。毎日を営々と勉強してはじめて試験に合格できるわけです。もし平和平和といっていて平和が来るものならば、私達も学ぶのを止め、働くのを止め、「幸せの歌」でもうたっていればよいわけでしょう。世界の平和を求めるならば、先ず自分の行動を平和的にして日本国内が平和になるように努力しなければなりません。窓ガラスをこわし、人に石をぶっつけてけがをさせ、自動車をひっくりかえして世界平和を叫んでいても、ほら、その人自身が、現に平和的ではないではありませんか。 誠に矛盾そのものといえます。

-進テ公益ヲ廣メ-
「自ら進んで社会につくし」という意味です。
私達は自分の住んでいる社会に利益を還元することに努力する民族だ、と前に書きました。公益を広めるとはそのことです。孤児院、老人ホームをたてることも美術館、博物館をつくることもそうです。大阪の駅前に松下橋という大きな歩道橋があります。これは松下幸之助氏が私財を投じて、通行する人々のためにつくられたものです。 こういう公益の施設は国家がすべきものであるという考え方もあります。全くそうです。100%この議論はまちがっていません。しかし国は色々することがあります。それも税金でやっているわけです。国もそうそう税金を高くするわけにいきませんから、一生懸命やっても、すべての人を満足させることはできませ ん。政府を攻撃し、悪口をいくら言っても、身心障害児は立ち上れません。しかし 私達が少しでもお金を出しあって義足を買ってあげれば、その子は立ち上れます。芸能界の方々が「あゆみの箱」運動をしておられますが、誠にりっぱなことです。批判も結構ですが、その前に何とかして皆で公益の増進に努力し、建設的に前向きに行動しようではありませんか。



-世務ヲ開キ
「世の中の役に立つ仕事に邁進していく」という意味です。
自分の仕事は世のため、人のためになるものと喜びを感じ、誇りをもち、胸を張って堂々前進することです。人間には色々悩みがあります。自分のしていることがつまらなく思えたり、よその人が羨ましく思えたりすることがあります。「隣の奥さんはきれいに見える」ことがあります。それは隣の奥さんのはいつもお化粧をしているのを見ているわけで、自分の奥さんのは朝起きてまだ洗っていない顔を知っているからです。心配しないで下さい。隣の奥さんも朝起きて髪がボサボサの時はたいしたことはないのです。英語にも "Grass next door is greener" という諺があります。どうしても隣の芝生の方が青々としてきれいに見えるのでしょう。 自分の仕事に喜びを感ずることです。誇りをもつことです。他人の仕事もやってみれば、大変な仕事なのです。決して隣でみているほど、楽ではないのです。お互い大いに頑張りましょう。そして私達の生れた、祖先の眠っているこの小さな島国をよくしましょう。

-常二國憲ヲ重シ
「いつも憲法の根本精神を大切にし」という意味です。
国憲とは、国の法律のもととなる根本の法律、即ち憲法のことです。私達は憲法の精神を大切にしなければなりません。現在、憲法論議が盛んに行われていますので、この機会に一寸ふれてみたいと思います。
現行日本国憲法は、日本が戦争で敗れ、外国軍隊によって占領されていた頃、占領軍の最高司令官がつくったもので、原文は英語で書かれています。そこで、一方には外国軍隊がつくった憲法ではまずい、日本人の手による、日本人のための、日本人の憲法をつくろうではないかと主張する人があります。又敢えて新らしく制定しなくても、本来の大日本帝国憲法に立帰るべきであると主張する人もあります。或は、いやこのままでよろしい、よい考えもたくさん盛り込まれているのだから復原とか改正はしない方がよいという主張もあります。この三っの考え方の何れにせよ、日本の歴史と伝統をふまえ、民族の発展をその根本精神としなければなりません。



-國法二遵ヒ
「法律をよく守り」という意味です。
私達は法治国の国民ですから、法律に従うのはあたりまえです。ところが最近自分の気に入らない法律にはさっぱり従わない人達がいます。勿論ごく少数の人々ですが困ったものです。議論もご自由、主張も結構です。しかし、デモをきっかけとし行なわれる大暴れはどうもいただけません。ロビンソンクルソーがたった一人で孤島で暮しているのならば、何時でも何処でも大いにかけ廻って結構です。ところが、日本には一億の人間がいるのです。車もあれば電車も通っています。そのなかで勝手きま々に走り廻られたらたまりません。その法律がいやなら、正式に、法的に改正するようにしましょう。いやだからぶっこわすではいけません。商店のガラス窓をこわしても、自動車をひっくりかえしても法律を変えることは出来ません。日本は野蛮国ではなく、人喰人種の集合国でもないのです。皆知性を取り戻して法治国民らしく行動したいものです。



-一旦緩急アレハ義勇公二奉シ
「もし万一、我が国になにか非常事態が起きたら、身をすて々自分の生まれたこの祖国と愛する家族を守る気概をもち」という意味です。
この美しい豊かな国が、よその国によって侵されては困るのはあたりまえです。私達が自分の国をとられては困るように、外国もそう思っています。ですから世界中のどんな国にも国防軍があります。軍隊のない国は一つもありません。永世中立を宣言しているスイスにも強大な軍隊があります。自分の家に戸締りしない人はないでしょう。どろぼうは悪いにきまっています。だがどうしてだか古今東西を問わず、どろぼうはいるのです。戦争は嫌なものです、絶対に起しては困ります。然し残念ながら戦争は起るのです。君主制とか共和制とかには関係ありません。憲法にも関係ありません。イスラエルもアラブ諸国も、ベトナムもカンボヂァも、その憲法からみれば、誠にりっぱな「平和憲法」国家です。平和憲法があるから、国の平和が守れると考えることは、「泥棒御断り」という紙をはっただけで、安心して外出しているようなものです。やはり、戸締りもしておかないといけません。



-以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ-
「そのようにして未来永遠につづく我が国の根本生命を皆で守りましょう」という意味です。
日本の生命は無限につづきます。私達個人個人は生まれ死に変って行くでしょう。しかし国家は永遠のものです。皇運というのは日本の国の運命ということです。 何べんも申し上げた通り、日本の国は、日本民族の親である皇室を中心とした一民族共同体です。皇運ということは、天皇御個人のことではなく、日本のため、日本の民族のためということです。ヒトラーのため、スターリンのため、あるいは偉大な同志毛沢東のためという個人名とは全然次元を異にしています。この点はもっとも大事なことですから、ぜひ間違えないで下さい。言葉をかえていうならば、この文は教育勅語の核心です。「父母に孝に兄弟に友に」から始まって、「天災、地変或いは外患等非常事態の場合は皆で力を合わせて守ろう。そして我が国を永遠に幸福な国にしようではないか」ということなのです。


教育語謹解

教育勅語Ⅲ

教育勅語発布の由来

教育勅語謹解

2006年04月26日 | 日本の教育
前回、「教育勅語」の発布に至る理由から廃止までのことを記事にしましたが、「教育勅語」について昭和45年に刊行された「みんなの教育勅語―若い人々のために―」渡辺正広著 洋販出版 に解りやすく「教育勅語」の解説が書かれています。
教育勅語が決して堅苦しいものでない、当たり前のことを述べているだけなのがわかると思います。


教育勅語謹解

わたくしたちの祖先が、この日本の国の基礎を確立されたのは、遠い昔のことです。そして、徳をもって、生活の信条とされてきました。日本の国民は、昔から、忠孝一致の精神を道徳の根本として、心をいつでも一つにしてりっぱな成果 をあげてきました。これが、日本の国柄の一番よいところです。そして、わが国 の教育の根本も、この道徳の精神なのです。

皆さん、先づ両親に孝行をすることです。また兄弟姉妹は仲良くしなければなりません。夫婦は円満に、友だち同士はお互いに信じ合うことです。自分自身に対してはいつもつつしみ深く厳格にし、他人に対してはなるべくゆるやかにしてあげて、愛情をもつようにしましょう。よく学び、自分の仕事は一生懸命覚え、そして知識、才能を積みかさね、人格を完成させて下さい。更に自ら進んで自分の生まれたこの社会に奉仕し、まじめに自分の仕事に喜びと誇りとをもつて下さい。常に憲法の根本精神を大切に生かし、法律をよく守るようにしましょう。もし、万一、わが国になにか非常事態が起きたら、愛する祖国と家族のため喜んで勇気をふるって身を投げだし、そして、未来永遠につづく日本の国の生命を守る気概をもちましょう。

以上述べた徳目をよく守れば、それが日本人として忠良な国民となるわけで、またあなた方の祖先の実行されたことと一致するわけです。この道徳観はわたくしたちの祖先の遺された教えで、そしてまた現在ばかりでなく、子供達とか孫まで伝えて実行すべきことです。この考え方は昔も今も、また洋の東西を問わず正しいものと思います。私もあなた方国民と共に進んでこの教えを守り、そして皆で、この徳を身につけて実行するようにしましょう。

明治二十三年十月三十日
御名御璽


-朕-
「朕」とは、わたくし、という意味です。
英語で、わたくしという表現はI(アイ)しかありません。仏語ではje(ジュ)、独語ではich(イッヒ)です。男であろうと女であろうと、大人でも子供でも、都会の人でも田舎の人でも、欧米ではたった一つしか言い表わす方法がありません。 ところが日本語ではわたくしという表現がたくさんあるのです。私、僕、俺、吾輩、小生と何十もあります。、それによって男か女かがわかります。言い方によっては生まれ故郷までわかってしまいます。オイドンと言えばああ鹿児島の人だなあというわけです。ワラワと言ったら昔のお姫様ですし、拙者と言えば侍で す。皆さんも自分という言い方がどの位あるか勘定してごらんなさい。随分ある でしょう。日本は誠に表現方法が豊富な国で、「言霊の幸う」国ともいわれます。 その日本で、自分のことを「朕」と表現される方は、たった一人です。天皇だ けです。ここでは明治天皇が、私はこう思う、とおっしゃっておられるのです。

-唯フニ-
「私はこれから述ぺることを確信しています」という意味です。惟うというのは単に思うという意味ではなく、絶対間違いないと確信しているという強い表現です。 日本は温帯と寒帯の間に位置して、春、夏、秋、冬の区別があります。四季各々その良さがあり、雨も程よく降ってくれます。山の幸といわれる動・植物もあり、海の幸である魚貝、藻類も豊富です。人間が暮らすのには最もよい気候と環境に恵まれているところなのです。この島に住む私たち大和民族は、たいへん幸福なわけです。その上単一の民族であり、同じ言葉を話します。島国なので、外国の人が海を渡ってくることも昔は困難でした。従って、人種問題も起きません。この島に住む私達の祖先は皆、温和な、人情味ゆたかな、勤勉な入々でした。



-我力皇組皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠二-
「私たちの祖先が日本の国の基礎を確立されたのは昔々のことです」という意味です。
この大自然の恵みを受けた私達の祖先は、縄文文化や弥生文化を生みだし、やがて日本の国の礎を確立しました。その当時の文化が如何に素晴らしかったかは、あちらこちらの遺跡から発見されたものを見てもわかります。それは遠い遠い昔の話です。西洋紀元よりもっと前だったかも知れません。 長い歴史をもつ私達の国日本は、数々の語り伝えられた神話や伝説をもつ国なのです。 古い歴史をもつということは民族として一つの誇りです。喜びです。この伝統と文化を大事に、温かく保っていきたいものです。



-徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ-
「そして徳をもつて生活の信条とされてきました」という意味です。
このような文化と歴史をもった民族は、ますます栄えました。そして、みんな明るく楽しく暮し、徳をもって生活の信条としてきました。お社をつくり祖先を大事におまつりして守ってきました。自分がこの世にあるのは父や母のおかげであり、さらにお父さんもお母さんも、おじいさんおばあさんのおかげで生をうけたからです。 日本民族は、祖先の恩を忘れず楽しい事も辛い事も、うれしい事も悲しい事も、何でも祖先に報告し安心感を持つ民族なのです。それが連綿として今の世 までも伝えられ、信仰となり心のよりどころとなっているのです。



-我力臣民克ク忠二克ク孝二-
「日本の国民は昔から忠と孝を道徳の根本にしてきました」という意味です。
私達日本人は、皇室を日本民族の総本家としてあがめ、道徳の中心として敬ってきたのです。 現行の日本国憲法第一章第一条で、天皇は「日本国の象徴」であり、「日本国民統合の象徴」であられますが、この規定はこの歴史的事実によったものです。日本国憲法によってはじめてこういう考え方が出てきたのではありません。長い長い歴吏的事実をふまえて、それを文章化したものがこの規定なのです。現在の憲法の解釈は、いろいろあるようですが、どういう解釈をするにせよ、この基本 線を忘れてはいけません。 日本民族は皇室に対しては忠、親に対しては孝という考えで何千年も続いてきたのです。この忠、孝の一致が日本の道徳の根本中の根本です。



-億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セルハ-
「一億の日本人が心をいつでも一つにして、りっぱな成果をあげてきました」
という意味です。 日本民族が単一民族で同一言語を話す国民であることは前に書きました。しかもそれが何千年と続いているのです。日本人全部が同じ心を持てるのも少しも不思議ではありません。種々の民族が集まってできている国では、その各民族が異った歴史慣習をもっているので、国民全体が心を一つにすることはなかなか出来ないわけです。
ところが日本ではなんでもないことなのです。これが日本の特徴です。その団結の固さ、美しさは、歴史上何回も発揮されました。元寇の時もそうです。当時、欧亜大陸を征服して、世界を圧する勢いの元の軍隊が、こんな小さな島の一つや二つと思って攻めて来たのです。この元の大軍をこの小さな島国の人人が、億兆心を一にして防いだのでした。そしてりっぱにまもり通しました。今度の大東亜戦争の時もそうです。負けたのは事実ですが、その敗戦に際しての態度は、億兆の日本人が心を全く一にした好例です。終戦の時、天皇が詔書を出されますと、全国民にはそのお心がピーンとわかり、一糸乱れず終戦処理がスムーズに行なわれました。これは世界から、世紀の奇跡といわれましたが、私達には少しも不思議ではありません。民族の親である天皇が、戦火によって日本国民が苦しむのは自分の体が裂かれるように辛いとおっしゃり、戦い敗れて外国軍が来るけれど恥をしのびなさい。自分は耐え難きを耐え、しのび難きをしのぶと言われたわけです。天皇が辛い思いをされるのなら、私達はどんな苦しいことでもがまんしますと心に誓ったわけです。私達にとって億兆心を一にすることはなんでもない ことで、ごく自然なことなのです。これが日本の伝統であり、土壌なのです。
現在、公害が大問題となっています。これも単に批難や攻撃ばかりしていないで、政府が、企業家が、学者が、一般の私達が心を合せて解決するよう前向きに努力すべきです。十年以内に東京は美しい青空におおわれ、隅田川には魚が泳ぎ 、紺碧の海田子浦から富士の白雪が見えるようにしようではありませんか。億兆心を一つにすれば日本の科学技術と日本人の勤勉性は必ずなしとげることができます。



-此レ我力國體ノ精華ニシテ-
「これが日本の国の本質の一番よいところです」という意味です。
日本民族が、古来何干年も同じ心になって続いてきたということは前にも述べた通りです。ですから我が国は外国のように、ファシズムで専制政治になったこともありませんし、共産主義のように独裁的になったこともありません。
日本の国の政治のあり方は、たいへんデモクラティクであったのです。遠い神代の時代に、素戔嗚尊を追放する時も「安河原に神集いに集いて」決めておられますし、聖徳太子の十七条の憲法第一条に、「和を以て貴しとなす」、第十七条に 「大事をば独り断ずべからず、必ず衆とともによろしく論ずべし」とあります。 また、大化の改新の時にも「独り制むべからず」とあります。 日本の歴史上、権力をもった人は何人もいました。が、自分が天皇に代ろうと思った人は一人もいません。これは歴史的事実です。王朝の断絶は勿論、更迭もありませんでした。国のはじめから今日に至るまで万世一系の天皇が国の中心と仰がれてきました。これが、日本の国体で、日本の特徴なのです。このことは、将来も永遠につゞくでしょう。



-教育ノ淵源亦實二此二存ス
「そして我が国の教育の根本もこの徳を中心とした精神です」という意味です。
日本の教育の根本は、日本の国の歴史、伝統、土壌から出て来たものなのです。日本の特徴は、何千年もの日本古来の伝統に、中国、印度、あるいは西欧のよいものをとり入れてうまく日本化して来たことです。文字通り東西文化融合の国なのです。これは恐らく世界中で日本だけではないでしょうか。歴史のない国は淋しいものですし、また、過去の栄光の感傷のみに浸っているのもいけません。forgotten cuntry(忘れられた国)になってしまったら大変です。精神はあくまでも日本古来のもので、その上に最新の技術や科学をとり入れましょう。
明治天皇がこの教育勅語をお出しになった時は丁度現在の日本のように、歴史伝統を忘れ、思想が教育が、主義が混乱している時だつたのです。そこで根本をはっきり正されたわけです。


教育勅語謹解Ⅱ

教育勅語謹解Ⅲ

教育勅語発布の由来



JR福知山線事故から1年

2006年04月25日 | Weblog
JR福知山線事故から1年 慰霊式典に遺族ら1800人参加

107人が死亡し550人以上の負傷者を出した兵庫県尼崎市のJR福知山線脱線事故から丸1年を迎えた25日午前、亡くなった乗客106人を追悼する「追悼慰霊式」が尼崎市の総合文化センター(アルカイックホール)で営まれた。  

合同の慰霊行事は、事故から5カ月の昨年9月25日に開かれた「慰霊と安全のつどい」に続き二回目。  

この日の式典には87組567人の遺族、負傷者や犠牲者の友人ら166組316人をはじめ総勢1825人が出席した。遺族の意向により追悼の対象者は、事故車両の高見隆二郎運転士=当時(23)=を除き106人とされた。  

六甲山の山並みをかたどった祭壇を設置。犠牲者の芳名帳を囲むように100本以上のろうそくを点灯し開会、脱線事故が起きた午前9時18分に全員で黙祷(もくとう)をささげた。  

最初に北側一雄国交相が「再発防止に万全を尽くすことが務めであり追悼の証。公共交通機関への信頼が回復するよう全力を尽くす」と追悼の言葉を述べた。  

JR西日本の山崎正夫社長は「事故から1年だが、ご遺族の心の時計は止まったまま。改めて深くおわびします」と謝罪するとともに、「安心、信頼してもらえる鉄道を作り上げることが、ご遺族の無念に報いる唯一の道。安全第一に取り組むことをお約束したい」と述べ、2度と惨事を繰り返さないことを誓った。  

遺族や被害者の代表として、妻の山田博子さん=当時(54)=を亡くした冨士男さん(56)は「天国はどうですか?」と祭壇に呼び掛け、「人前では泣かない。おまえの分まで長生きする」と涙をこらえ頭を下げた。  

母と叔母を亡くし、自らも大けがをした浅野奈穂さん(33)は「どうして自分だけが生かされてしまったのか。できれば一緒に死にたかった」と声を震わせた。  

また、卒業生らが亡くなった同志社女子大学の音楽学会「頌啓会(しょうけいかい)」が、追悼の音楽などを演奏。最後に参列者が1人ずつ祭壇にユリの花を手向けて終了した。
(04/25 14:04)産経新聞


一年前の今日、突然のニュース映像に我が目を疑いました。
まだ事故が発生して時間も経っていなかったので、犠牲者の数が少なかったですが、映像を見て頭の中を信楽高原鉄道の惨事が甦り、それ以上の犠牲者が出るとおもいました。
事故発生直後から、仕事を於いてでも救助活動に当たった方々の甲斐もなく107人もの犠牲者が出てしまいました。いや逆に救助活動があったからこれ以上の犠牲者が出なかったのかもしれません。
昨年の今日は、この時期にしては暑かったのを覚えています。
犠牲になられた方々のご冥福をお祈りします。

 

「A級十戦犯放免される」

2006年04月24日 | 大東亜戦争
「A級十戦犯放免される」 昭和三十三年四月八日  朝日新聞

外務省は七日午後五時、極東軍事裁判A級戦犯十人(いずれも終身刑、仮出所中)の放免が正式に決まったと発表した。政府はかねてから極東軍事裁判A級戦犯の放免について米、英、仏、オランダ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、パキスタン、フィリピンの東京裁判関係九ヶ国に折衝していたが、七日在京関係国大、公使から外務省に対しそれぞれ書簡で、対日平和条約第十一条に基づき関係各国が協議の上、A級戦犯が同日までに服役し期間まで刑を減軽する旨決定した。その通達があった。これでA級戦犯全部が刑期を満了したことになったわけである。



昭和33年3月26日第28国会 衆議院予算委員会 第18号
○岡田委員 
それじゃ時間がありませんので進めますが、これは総理大臣、重大な問題ですから伺いますが、賀屋興宣氏はA級の戦争犯罪人として現在おるわけであります。現在は仮出所中であって、犯罪人としての身分というものはそのまま続いているわけです。こういう事実についてどのようにお考えになりますか。

○岸国務大臣 
A級戦犯の何として拘置され判決を受けた人が仮釈放され、もしくは拘置されておりましても、日本の国内法におきましては一切法律的に何らの制約を受けておらない、こういうふうに解釈いたします。



教育勅語発布から廃止まで、「教育勅語むすび」

2006年04月23日 | 日本の教育
昭和43年に発行された「教育勅語」について書かれた冊子から掲載しましたが、教育勅語が発布された理由は、現在における教育問題と相通じる物があるようです。
結びの中で書かれている「根無し草」など最も当てはまるのではないでしょうか。
今、やっと教育基本法の改正が議論されています。しかし、内容的にはどうなのかと思えます。とかく憲法にしろ解釈の仕方で色々採れるように言う発言がありますが、教育はこれからの国を担っていく子供たちに生きていく上で、日本国民として大切なことを教えなければならないことです。
政治的に下手に妥協という事をすれば、結局は「根無し草」を作ることになるのではないでしょうか。
また、日本で廃止した「教育勅語」が外人に評価されているのは皮肉なことです。


むすび

東京オリンピックの前年に来日した米国人ノーマン・カズンスは、帰米後間もなく その主宰する「サタディ・レビュウ」誌に、次のような訪日印象記を発表した。

東京のもつ爆発的なエネルギーの躍動は、ニューヨークはおろか、ロサンジェルスにも、西ベルリンにも、世界中どこをさがしても見られない。モノレール、世界一完備するはずの地下鉄工事、何百という近代的ビル、デパート、ホテル、劇 場の新築…。
だが、このような目ざましい発展にもかかわらず、今日の日本人は心理的に哲学的に根なし草のようにさえ見える。過去と全く結びつかず、未来に対しても無関心でまるで現在に酔っぱらっているみたいだ。日本は魂を失っている。その意味で鉄骨は天空にそびえ、ネオンは夜空に輝こうとも、何かしら痛ましい気がする。


さすがに世界的なジャーナリストである。この記事は現代日本の問題点をす惹どくえぐり出しているといってよいであろう。
魂を失った根なし草のような国民、どうしてこのようないたましい事態が生じたの であろうか。主たる原因は、いうまでもなくあの敗戦による国民の自己喪失と、占領軍の日本弱体化をねらった教育政策であり、それに便乗した左翼革命活動分子の暗躍である。もはや戦後ではないといわれる。しかし教育界における敗戦の爪痕は、決してまだ癒えてはいない。いなその傷はますます深く化膿はどんどん進んでいる。占領下に行なわれた無国籍教育の名残りは今な影強く、革命綱領の下に団結する教師群は執拗にこの国の青少年の魂を蝕はんでおり、角材と鉄カブトの大学生は際限もなく巷を横行しているのである。

見方によってはたしかに教育基本法の下で学校体制は整備された。八二〇校を越え る大学の数は、ヨーロッパ大陸の大学総数をはるかに上まわるものであり、九九%を 越す義務教育就学率も世界一として有名である。表面だけを見れば、わが国の教育は世界の水準を抜いて百家爛漫ともいえる。だがその実態はどうか。教育精神の空洞化は目を蔽うばかりで、心ある父母たちが"教育不在″を嘆くのはむしろ当然であろう。

国家の将来の運命は、究極的には現在行なわれている教育の当否にかかる。手を拱 ねいて概嘆するばかりでは、事態はすこしも好転しない。この四、五年、敗戦の虚脱から脱した人びとの間に文教政策に対する関心と批判が高まり、学校教育について建設的な意見が提出されるようになったが、ここで特に注目すべきは、教育界の精紳的混迷に対処するため、最近澎湃として教育勅語の復活を熱望する声が、全国的に強くなっていることである。

このような教育勅藷復活の要請に対して、左翼の連中ばかりでなく善意の人びとの間でも予想される有力な反対論は、教育勅語は国民の手によって成ったものでなく、主権者の訓示の形式をとっているから、主権在民の憲法下においてはふさわしくない。

という意見であろう。第九十二議会で「排除・失効確認」の決議が採決された際にも「教育勅語は統治権者の意思を示されたものとして国民に対し拘束的効力を有するから、」というのが、国会と政府に共通する見解であった。

だが、そのような意見は、「教育勅語」に対する無理解も甚だしいといわなけれぼ ならない。まず教育勅語の形式であるが、われわれは当時の法制局長官で元田永孚とともにこの勅語の起草に力を尽した井上毅が、「教育勅語は、国民を一方的に拘束する政事上の勅語とは性格が同じではない」から、「その発布に当っては、とくに大臣の副署をやめ、天皇の御親書の体裁をとることにした」と述べでいることは、教育勅語の本質を知るために絶対に見落してはならない点である。また、勅語の内容は、「皇祖皇宗の遺訓」であり、われわれの「祖先の遺風」であるものをとりあげており、天皇御自身がそれを国民と共に実践躬行しようと仰せられていることに注目すべきである。簡潔にいえば、教育勅語は、今後進むべき日本の道について明治天皇が国民に話しかけられた心あたたまる御親書として仰ぐべきものである。

周知のように、今年は明治維新から百年目にあたり、政府では委員会を設け、その 記念行事の企画がすすめられている。第一回準備会議における佐藤首相の挨拶によれば「百年聞の歩みを回想して幾多先人の業績をしのび、決意を新にする」のが記念事業のねらいだという。とすれば、明治・大正・昭和の三代を貫いてわが国の進歩と発展を担った人びとをはぐくみ、その精神的バックボーンを育てた基本的原理であった「教育勅語」に着眼し、これを再発見し再認識することによって、現代われわれの眼前に露呈されている思想界教育界の大混乱大乱脈に対して清冽な終止符を打つことこそ、何よりも有意義な明治百年の記念事業であることを痛感する。人倫道徳の本当の基準は、時代の古今新旧を問わず、洋の東西をわかたず、不変不動のものでなければならないからである。



教育勅語発布の由来

教育勅語下賜の意義

教育勅語に対する外国人の評価

敗戦後における教育勅語

教育基本法の制定と教育勅語

教育勅語発布から廃止まで、「教育基本法の制定と教育勅語」

2006年04月22日 | 日本の教育
(二)教育基本法の制定と教育勅語

戦後における教育勅語の地位は、昭和二十二年三月三十一日教育基本法が制定施行されるにおよんでさらに複雑微妙になってゆく。
この年の二月十三日文相高橋誠一郎の基本法提案理由説明によれば、この法案は、 米国教育使節団に協力した日本教育家委員会が解消発展して内閣に設置された教育刷 新委員会の建議にもとずき作成されたもので、その内容は使節団の意向と一体であり、原案ができるまでには、閣議でも枢密院でも激しい論議が闘わされたという。しかも国会に於いては、重大な質疑があったにもかかわらず、衆議院での審議はわずか二日だけで採決、貴族院でも三日間の討議の後三月二十三日採決・成立となっている。
両院ともこのような重大法案が短時闇の審議に終ったことを不満としたが、文相は、  

道徳は時勢とともに変化するものでありますから、この基本法にうたわれて居りますところのものも永久の生命をもつものであるとはわれわれ考えないのでありますが、今日思想混乱の際におきましては、しぼらくの間は、教育上の根本理念を表明したものといたしまして、その権威を維持することができるのであります。

と自信のない発言で逃げてしまった。社会党は将来その修正を希望するとの条件をつけ、国民協同党も修正案を提出するなど、遂に全会一致は得られなかったのである。

国会での審議経過を見れば、論議の焦点は、二つにしぼられていた。第一点は教育の目的に関する前文および第一条をめぐる問題である。質問に起った佐々木惣一委員、荒川文六委員、三島通庸委員、坂田幹太委員らは、いずれも祖国観念の稀薄、無国性を指摘した。それに対して政府側委員は、  

前文に「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造」ということが書いてありますが、この「普遍的」と申しますのは、一般的な世界的なものであり、個性ゆたかな」と申しますのは、日本的と申しますか、個人個人の個性をも含めた意味において日本的な文化を創造するということでそういう意味におきましては、わが民族性、国家の成り立ちというようなことを十分考慮してあるのであります。このことにつきましては関係筋と折衝する時にも説明したつもりであります。なお、第一条におきましては「平和的な国家および社会の形成者」という字が使ってありますが、この「平和的な国家および社会」の「国家」の場合でありますが、これは当然我が国のみを指すのであります。……その場合に国民は唯それの一メンバーとして教育されるということではなしに、先程大臣からお話がありましたように、立派な国を作り上げ、形成して行く人間としてとくに必要な事項についてうたったのでございます。

と答弁しているのである。基本法の成立した国会審議の場に於いて、その制定にあたった委員が、政府を代表して、基本法は「日本国民の民族性、国家の成り立ち」を十分考慮し、「立派な国を形成していく国民の育成を目的とするものである」と明言し基本法の文章に即して具体的にその箇所を指摘したことは、基本法解釈にあたって今日特に重視し、その周知に努力すべきであろう。基本法の表現はまことに美文である。しかし、右の国会論議でも明らかなように、立法者の意図を附記しないかぎり、無国籍の印象を生ずるおそれは多分に感取されるからである。
そのことについては教育学者間にも批判が多く、「教育基本法改訂論争」が生じて いることは周知の事実であるが、ここでは琉球政府の教育基本法制定にあたり、沖縄の同胞が、ほとんどこの基本法を下じきにして作文したにもかかわらず、やはりそのままでは無国籍のおそれがあるとして、とくに日本国民の育成という文字を入れたこと、そのため軍政府から再度にわたって却下されたが、それでもくじけず、アメリカ合衆国の国務省にもちこんで交渉、遂に許可をとったことを紹介しておこう。
第二の焦点は教育基本法と勅語の関係であった。多くの重大な発言があったが、ま ず二十二年三月十九日の貴族院本会議における佐々木惣一委員と文相のやりとりを引用しよう。  

(問)教育勅語は、この教育基本法によって、将来どうなるのであるか。これがあるひは教育勅語に代はるという意味をもっているのであるか、あるひは教育勅語と併存するという意味のものであるか。  
(答)教育勅語は、わが教育至上重要な意義を有するものであり、重大なる役割を果たしていた所のものではあるが何と言っても、明治二十二年に発せられたものであり時代の推移につれて不十分な所も生じた、又その表現のしかたにおいても不適当な所もあらはれあるひは保守反動主義者により、あるひは超国家主義者もしくは軍国主義者により、曲解悪用されたこともあって、はなはだ遺憾に堪へないのである。新しい精神にしたがって、これを改めたいといふやうな考えを持っていた者もあるし、又新しい勅語の下賜を奏請至さうといふ意見も出たのであるが、かくのごときことを致しでは、かへって皇室に御迷惑をかけるおそれがなしとしない。このやうなことがあっては、誠に相すまぬばかりでなく、民主的文化国家を建設する新しい教育の方針を定めるがためには、法律の形態をもってすべきものであるといふ考へに到達したのである。この法案の中には、教育勅語のよき精神が引きつがれているし、又不十分な点、表現の不適当な点はこれを改めて表現せられていると考へる。教育勅語をあえて廃止する考へはないのであるが、教育勅語をこれまでのやうに学校で式日などに奉読することは、教育勅語を神格化したりして形式的教育の弊を招き、新しい時代にふさはしくないので、今後はとりやめることとした。  


両者の応酬は貴族院特別委員会でもくりかえされた。  

(問)教育基本法といふものができれぼ、教育勅語といふものはどういふふうに取り扱ふべきものになるか、文部省がどうするかといふのではなく、どうなるかといふことを尋ねる。  
(答)教育勅語は、統治権者の意志を示されたものとして、国民を拘束すべき効力を有していた。日本国憲法の施行と同時に、これと抵触する部分についてはその効力を失ひ、又教育基本法の施行と同時に、これと抵触する部分についてはその効力を失ふが、その地の部分は両立するものと考へる。それで教育勅語は、政治的なもしくは法律的な効力を失ひ、孔孟の教とかモーゼの戒律とかいふものと同様なものとなって存在すると解する。


佐々木博士は、「今の説明は苦しい、大変な問題が残る」と指摘して追及を打切っ たが、高橋文相の答弁は田中前文相の見解を大綱的にはうけついでいたといってよい。
つづいて、滝川儀作議員が  

今回はじめて文部大臣の御説明を伺ってこれは廃したのではない、従前のような取扱いはやらないということを伺ったのでありますが、実際私ども相当ながく小学中学の経営に当っているのでありますが、教育勅語は人倫道徳と申しますか、処生の大道をあの短文の中に網羅しておりまして、誠にすくなくとも日本における教育の指針としては結構なものであって、わたくし共の考えでありますが、何等民主主義に抵触するところがないような感じが致しておりますので、でき得る限りこれを善用して、やはり用いてゆくようにしたい。

と質したのに対し、文相は、  

教育勅語を神格化するとか、あるいはまたこれを式日その他におきまして奉読することは廃することにしてあるのでありますが、しかしながらお話の如く教育勅語の中には無論立派な道徳上の教が含まれているのでございまするから、これを活用、善用なさりますることは、むろん差支えないことと考えるのでございます。

と答えて、教育の場で活用することをはっきり認めていたこと、すくなくとも排除していなかったことも注目しておかならない。  

(三)教育勅語の排除・無効の確認

教育基本法は多くの問題を残して成立したが、その後の事態は、文部省がどう解釈 するかということではなく、実際はどうなるかが問題だと憂えた佐々木博士の予見通りに進行した。翌二十三年六月十九日衆議院で「教育勅語等排除に関する決議案(発議者松本淳造外三十四名)」が採決され、同日参議院でも「教育勅語等の失効確認に関する決議案(発議者田中耕太郎外二十五名」が可決されるに及んで、教育勅語の学校教育からの全面的疎外は決定的になったのである。
基本法を制定した国会において、政府側は勅語の「活用」「善用」を明言していた にもかかわらず、何故に、この時突如として「排除」また「失効」の決議案が提出されたのか。問題は極めて重大であるのに、衆議院では議事日程に追加として緊急動議で提出され、参議院でも発議者の要求にしたがい委員会の審査を省略して議案審議に入り、とくに発言者なきままにかんたんに可決されたことに疑問をいだくのはわたくしだけではあるまい。
その際の決議文によれば「終戦後三ヵ月にもなるのに、そして民主的な教育基本法 もすでに制定されたにもかかわらず、教育勅語がなお依然として国民道徳の指導原理として持続している」ことが問題になり、その理由を「従来の行政上の措置が不十分であったからだ」としているが、この焦燥感に満ちた文言のうらにこそ、謎をとく鍵がかくされていると思われる。
日本民族の結束の解体をねらう人びとは、教育勅語が日本史上未曽有の混迷期に乗 じたあわただしい行政措置や立法によってもなお国民の間に生きつづけることにおどろき、さらに新たな追討ちをかけてきたのである。
「排除・無効確認」の国会決議がわが教育界に与えた打撃は大きかった。文部省で は、六月二十五日文部次官から都道府県知事宛「教育勅語等の取扱にっいて」という通達を発し、各学校に保管中の勅語等の謄本をとりまとめ至急本省に返還するよう指示しているが、そのことが昭和二十一年十月八日の「通達」を訂正し、学校教育から勅語の締め出しをはかる結果になったことはいうまでもあるまい。武力を背景とした悪辣巧妙な占領政策によって骨抜きにされた教育者たちの多くは、これによって、その後、現在に至るまで全く教育勅語を避けて通るようになってしまったのである。
しかしながら勅語に示された「斯ノ道」は日本国家の歴史と民族の伝統に深く根 ざしたものであるが故に、日本民族にして地球上より絶滅せざるかぎり、その死命を制することは絶対に不可能である。占領の解除と共に、教育勅語を仰ぐ教育者が全国各地に起ち上るようになってきたのは、むしろ当然であろう。そしてそのような動きの中にこそ、われわれは荒廃に帰した教育界再建のきざしを見出すのである。



教育勅語発布の由来

教育勅語下賜の意義

教育勅語に対する外国人の評価

敗戦後における教育勅語

「教育勅語」むすび

教育勅語発布から廃止まで、「敗戦後における教育勅語」

2006年04月22日 | 日本の教育
最後に敗戦から教育勅語の廃止に至までの過程が書かれています。

二 敗戦後における教育勅語

(一)終戦直後の文部省の態度

教育勅語は、大東亜戦争の敗北と同時にその権威を失ったといわれている。しかし それはあまりにも粗雑な速断であるといわざるを得ない。
敗戦につづく占領軍の進駐、不安と危倶のあの極限状況下においても、当時の文教 当局にはまだ良識と勇気が残っていた。文部省が新しい事態に即応するため、昭和二十年九月四日、「新日本建設の教育方針」を発表し、  

 今後ノ教育ハ益々国体ノ護持二努ムルト共二軍国的思想及施策ヲ払拭シ平和ノ建設ヲ目途トシテ謙虚反省只管国民ノ教養ヲ深メ科学的思考力ヲ養ヒ平和愛好ノ念ヲ篤クシ智徳ノ一般水準ヲ昂メテ世界ノ進運ニ貢献スルモノタラシメン

と宣言したことはよく知られているが、その趣旨を徹底するため十月十五日から十六日にかけて東京女高師講堂で開催された講習会の席上、前田文相が、有史以来はじめての敗戦に直面して教育界が「一種の放心状態」におち入っていることを指摘し、  

 今日、道義の昂揚と言うことが強調せられておりますが、若しそれ敗戦の結果武装が解除せられたので、余議なくたてられた方策かの如くに道義昂揚が説かれますならば、まことに情ない話であって、それは肇国の精神にも反する事となるのであります。ここにおいて吾人は、ここに改めて教育勅語を謹読し、その御垂示あらせられし所に心の整理を行なわねばならぬと存じます。教育勅語は吾々に御諭し遊ばされて、吾々が忠良なる国民となる事と相並んで、よき人間となるべきこと、よき父母であり、よき子供であり、よき夫婦であるべき事を御示しになっております。即ち国民たると共に人間として完きものたる事を御命じになっておるのであります。

と、今後も教育勅語を基本とする道義昂揚が重要であると説き、民主政治について、  

また所謂民主主義政治とは(中略)民衆が責任を以てする政治であり、畏くも皇室を上に戴き民衆が政治に関与し、その政府は『権力』というよりは、むしろ奉仕』に重きをおく、これ日本的なる民主主義的政治の特長であります。

と述べ、  

畏くも上御一人におかれましては『常に爾臣民ト共ニアリ』と仰せられて居ります。この有難い大御心を拝し、吾等はほんたうに一つ心になって、此の難局を切抜けて理想の彼岸に達したいと思います。

と訓示していることは注目に値するものがある。
更にその補足説明にあたった文部次官が、  

デモクラシーといふ言葉は、デモ即ち民衆、クラシー即ち政治、民衆政治の意味であって、寡頭政治貴族致治等の圧政政治、権力政治に対する民衆政治であり、立憲君主政治もデモクラシーの一形態であります。…つまり民主主義は、我が国民のいはば一大家族制の宗家に当たる皇室への報本的赤誠と毫も矛盾撞着するものではありません。唯民主主義と訳された為めに君主主義に対立するものなるかの錯覚を生ずるおそれが多い。故にデモクラシーは民意暢達の政治と云ふ様に意訳した方がよいと思います。

と、述べたこともあわせて記憶すべきであろう。
この昭和二十年の九月二十日、C・I・E(民間情報教育局)の指示にしたがい、次官名を以て「終戦に伴う教科用図書取扱方に関する件」という通達が出され、国史や国語の教科書を墨で塗りつぶすあの悲劇がはじまった時にも、文部省では同じ通達 の中に「教材省略のため、補充を必要とする場合には、国体護持、道義確立に関する教材等を適宜選択せよ」との注意事項を明記していた。十一月に入ると国史教育方針が公にされ、「捉はれざる立場」と「独善偏狭の史観の払拭」が指示されたが、その中でも、まだ、  

わが国家社会の発展は、皇室を中心とする一大家族国家の形成過程を明らかにすること、

と述べていたのである。このことは、巨視的にはポツダム宣言の受諾に際して「天皇め統治者としての大権を変更せんとする要求を包含しおらざるものとの了解の下に」と留保条件をつけた国民的心情を反映するものであり、直接には、八月十五日、あの詔勅を涙の中に拝して、「文部大臣以下大詔の聖旨を体し奉り、国体護持の一念に徹し、教育に従事する者をして、克く学徒を薫化指導し」「教学を荊棘の裡に再建し、国土を焦土の上に復興する」ことを誓いあった精神につながるものと見てよい。実にこのころまでは、文部省はまだ教育勅語を奉戴する態度を堅持していたのである。

しかしながらG・H・Qは冷厳であった。彼等は日本国民の精神的結束をずたずたに寸断し、わが国の弱体化、再起不能をねらう政策を着実にしかも強力に推進した。 すなわち、十月二十二日には、はやくも「日本教育制度に対する管理政策に関する指令」を出しているが、同月三十日になると「教員及び教育関係官の調査、除外、認可に関する件」という指令によって、好ましくない人物の公職からの除去、軍国主義者や極端な国家主義者として査定された者の追放、退役軍人の教職従事禁止など断乎たる処置をとったのである。そして十二月十五日には、あの「神道指令」によって神道を国家から分離し、学校教育の場から一切の神道的色彩を払拭したが、十二月三十一日には「修身・日本歴史及び地理教育の停止に関する件」が指令され、それらの授業を停止したばかりでなく、それまで使用されていた教科書の回収破棄が命ぜられたのであった。そのきびしさは秦の始皇帝の焚書坑儒の現代版とも見るべく、「二十世紀の焚書」と評せられた。
こうして、それまでの日本の教育を完全に破砕したGHQは、その後の具体的な建設方針を日本側に示す態度に出た。すなわち昭和二十一年三月六日、マッカーサーの要請によってストッダートを団長とする二十七名の第一次教育使節団が来朝、動員さ れた日本教育家の委員会を駆使して、新教育の青写真を作成したのである。その成案は「報告書」という形で三月三十一日総司令部に提出され、そのまま日本政府に「勧告」された。勧告といえば語感はやわらかであるが、実は絶対至上命令であったことはいうまでもない。この「報告書」の中で教育勅語に関係があるところを左に抄記しておこう。  

勅語勅諭を儀式に用いることと御真影に敬礼するならわしは、過去において生徒の思想感情を統制する強い方法であって、好戦的国家主義の目的にかなっていた。かような慣例は停止されなくてはならぬ。かような手段の使用に関係のある儀式は、人格の向上に不適当で、民主主義的日本の学校教育に反するものと、われわれは考える。
(第三章初等および中等学校の教育行政、基本的変更)  
学校における勅語の朗読、御真影の奉拝等の式をあげることは望ましくない。  
(本報告の要旨、初等および中等学校の教育行政)


それまで、教育勅語の精神に則る態度を堅持していた文部省が、遂にこの勧告に従う ことになったのは、事情まことにやむを得なかったのである。

かくて戦後における教育勅語の地位にはじめて変動が生じた。その間の事情を示す のが、次の二つの文書である。その一つは、昭和二十一年七月十日学校教育局長から 三重県知事佐伯敏男宛の「勅語・詔書謄本の奉置についての回答」である。この回答 は、三重県から六月二十八日付で出されたところの、  

「教育に関する勅語」その他詔書の謄本類は、現在奉安殿或は奉安棚に最尊重に奉置するようにしているが、昭和二十一年四月五日宮内大臣官房発第六六号「御写真取扱要綱」によると、勅語謄本類も奉安殿等に奉安することは避けねばならぬ様に思料せられますが、如何に御取扱を致すべきものか、又御奉還申上ぐるようなことはないかにつき御伺致します。

という「伺」に対するもので、文部省の返答は、  

学校長の識見に於いて適宜措置する様願いたい。

と、極めて簡単なものであったが、それだけに、当局者の当時の苦悩が察せられる。
その二は、同年十月八日文部次官から直轄学校長・公私立大学高等専門学校長・地 方長官宛の次の「通達」である。  

勅語及詔書等の取扱について  
標記の件に関して往々疑義をもつ向もあるから、左記の通り御了知の上御措置相  成り度い。  
一、教育勅語を以て我が国教育の唯一の淵源となす従来の考へ方を去って、これと共に教育の淵源を広く古今東西の倫理、哲学、宗教等にも求むる態度を採るべきこと。  
一、式日等に於て従来教育勅語を奉読することを慣例としたが、今後は之を読ま  ないことにすること。  
一、勅語及詔書の謄本等は今後も引続き学校に於て保管すべきものであるが、そ  の保管及奉読に当っては、之を神格化するような取扱をしないこと。


これはまことに画期的なそして重大な意味をもつ通達であった。教育勅語は敗戦後一年余にしてそれまでのわが国教育の唯一最高の淵源としての地位を失い、式日における奉読も廃止され、その保管の方法もまた変化することとなったのである。しかし、この通達においては、まだ、「反民主主義文書である」として否定されたわけではないことを読みとっておく必要があろう。

三重県知事と文相の間に文書の往復が行なわれていたちょうどそのころ、第九十帝 国議会に於いては憲法改正案が審議されていた。その第一読会に際して、松原、森戸等の議員が提出した「新憲法の条章中に、新しい教育の理念を明らかにすべきではないか」との意見に対する文相田中耕太郎の答弁は、当時における文部省の教育勅語観を示すものとして極めて重要である。  

教育勅語が今後の倫理教育の根本原理として維持せられなければならないかどうかということにつきましては、結論を申上げますと、これを廃止する必要を認めないばかりでなく、却ってその精神を理解し昂揚する必要があると存ずるのであります。教育勅語はもちろん人間であらせられまする天皇陛下のお言葉でありまして、随て完全無欠なものとはいえないでありましょう。又その表現等も今の時代から考えて見まするとピッタリしないものもありますでしょう。又それは過去において国粋主義者の側から濫用せられた事実があることも確かでございます。しかしその徳目の内容の一々を偏見なく検討致しますと、只今森戸君も仰せられましたように、良いものでありまして、古今東西に通ずる道徳律人倫の大本でありまして、特に軍国主義的または極端な国家主義的要素は見受けられないのであります。今後の教育方針と致しましては、教育勅語を蔽うて居りましたところの神秘的なヴェールを取除きまして、教育勅語を修身教育、公民教育のたった一つではないが、つまり古今東西の宗教や倫理道徳の体系と並びまして、さらに将来のわが国民の為には、特に重要で且つ親しみのある教訓の一つと致しまして取扱わるべきものであると存じます、つまり教育勅語を完全無欠なものと前提致しまして、これを国民道徳の方針の全部が由来する淵源とは考えませんで、道徳の原理を広く古今東西に求めなけれぼならないと思いますが、民主主義の時代になったからといって、教育勅語が意義を失ったとかあるいは廃止せられるべきものだというような見解は、政府のとらざる所であります。(拍手)

即ちこのころの文部省は、なお、「民主主義の時代になったからといって、倫理教育の根本原理としての教育勅語を廃止する必要はない」と明言していたのである。  



教育勅語発布の由来

教育勅語下賜の意義

教育勅語に対する外国人の評価

教育基本法の制定と教育勅語

「教育勅語」むすび