一燈照隅

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筍子の人妖論

2007年01月13日 | たまには読書
筍子の人妖論
このような思想が近頃特に盛んになって参りましたが、文明というものは高度の発達をしますと、頽廃して、時には異常性を帯びてくる。この状態を東洋の哲学用語では「妖」という字で表現しております。今日、世界はもとより、日本の文明も著しく妖性を帯びて参りまして、由由しい一大事となっております。

ところがこういうことも歴史を調べておりますと、近代の哲学者、思想家ばかりでなく、はるか昔の東洋の哲学者も遣憾なく論じておるのであります。その代表は孔子、孟子でありますが、孔子の歿後、孟子と並び称せられて、時にはこちらの方が権威者であったといわれる人に荀子があります。この筍子に「人妖の論」というものがありますので、本日はこれについて解明をいたします。


筍子・人妖の論
禮義不修。内外無別。男女淫亂。父子相疑。則上下乖離。寇難拉至。(天論)

禮義修まらず、内外別無く、男女淫乱にして、父子相疑へば、則ち上下乖離(くわいり)し、寇難並び至る。

苛子は天論篇の中に人妖を説いて、以上の六つをそのままにしておくと、必ず国は滅びると痛論しております。

礼義不修
「礼義不修」。礼義は礼と義にわけると、礼とは調和で、つまり社会生活、国家生活における組織・秩序であり、その中にあって人間がいかになすべきかという思想・行動の原則が義であります。従って礼義修まらずとは私達の国家生活、或は社会生活の組織・秩序とそれに即した思想・行動がおさまらないということです。ちょうど現代の日本がこれにあてはまりましょう。

内外無別
「内外無別」とは、内と外との区別がつかぬ、自分の心内と心外、家庭の内と家庭の外、国内と国外の区別がないということです。今日の日本は正にその通りですね。「兄弟内に牆に閲(せめ)げども、外その侮を防ぐ」と申しますが、その意味で幕末維新の日本人は偉かったと思います。アメリカは勿論のこと、イギリス、フランス、オランダ、ロシアに至るまで、それぞれ国内の佐幕派、勤皇派に働きかけて誘惑しました。然し感心なことに両派とも外国に頼ることを厳として拒否しました。これは大変立派です。ヨーロッパの歴史を見ますと、外国の政策に乗ぜられておるか、或はそれを悪用して事態が一層紛糾しておる、といった例が殆んどであります。これをよく実証しておるのがフランス革命です。ルイ十六世が宮殿を逃げ出したのが辛亥の年であり、これを捕えてギロチンにかけ、あの惨澹たる恐怖政治を始めたのは癸丑の年からでありますが、彼等は目的のためには手段を選ばず、外国勢力でも何でも利用しておる。利用するというよりは、むしろ外国勢力によって操縦されております。

これはひとりフランス革命ばかりではありません。日本も今後これを最も警戒しなけれぽなりません。大にしては国家間のことかち、小にしては家庭のことに至る迄、すべてが然りであります。家庭というものは国民生活の核心でありますから、家庭から内外の別がなくなるということは重大な問題です。ところが昨今の新聞を見ておりますと、その家庭の乱れは実に目にあまるものがあります。どんなに外の生活が混乱しておっても、むしろ混乱しておればおるほど、われわれは家内―家庭生活だけは清く正しく堅持しなければなりません。

男女淫乱
「男女淫乱」。男女関係が乱れるということは民族滅亡の一番の近道です、ところが昨今日本もこれが非常に乱れまして、週刊誌等は挙ってこの種の記事を面白おかしく書いておりますが、大変なことになったものであります。

父子相疑
「父子相疑」。これは今日最も深刻にして根本的な問題であります。父子相疑とは何ぞや。母子相疑でなくて父子相疑と書いたところに萄子の見識があります。教育ママという言葉が表現するように終戦後子供の教育は専ら母親がこれにあたり、父親はその責任から解除されました。これが現在日本の一つの大きな失敗であります。子供の教育について考えますと、父と母とは非常に違い、父の任務は子供の人格を決定する教育を擔当することにあります。そこで父は子供の「敬」の対象にならなければなりません。子供は愛だけでは駄目であります。愛は犬や猫でももっておりますが、特に人の子は生れてもの心づく頃から「敬」することを知って、始めて「恥」づるということを知ります。言いかえると人格というものができるのです。

この敬―恥の原理から、道徳とか信仰等という世界がひらげて、民族が進歩してゆくのであります。
その国民道徳の基盤である父子―親子が相疑うようになる。おやじのいうことがどうも信用出来ぬ、あんなことでおやじはいいのだろうか、等と子供が父に疑をもつ。また父も、どうせ時世が違うのだ、おれの言うことなど聞かないし、聞いてもわかるまい。一体子供は何を考えておるのだろうか、というわけで子供を疑うわけです。そうなると子供は父にそむき離れます。

上下乖離
それが「上下乖離」ということです。乖離ということはただ離れるだけではありません。ただ離れるだけですと、又結合することができますが、これは再び元にもどすことができないという決着の言葉です。いま日本は各方面において「上下乖離」しております。その最たるものが政府即ち内閣に対する乖離であります。大阪弁で「頼みまっせ」、「頼りにしてまっせ」と言いますが、父親とか為政者というものは国民大衆から頼りにされ、尊敬されなければいけません。これが行われぬということはそもそも為政者の責任ですけれども、又為政者に対してそういう国民の反感を煽るような議論にも責任があります。これは言論機関にある者の第一に慎むべきことです。さて、上下が乖離するようになると最後は、

寇難並至
「寇難並至」、いろいろ寇難が並び起って来る。「寇」は外敵、外国からの攻撃。「難」は国内のむつかしい問題です。つまり国の内外を問わずいろいろ厄介な問題が並び起って来るわけです。

これが筍子・人妖の名論といわれておるものであって、歴史的にも間違いのない原理・原則です。これを何とかしてもう少し常識的・良心的に健康にもどさなければ、日本は正に歴史の教える通り寇難並び至ることをわれわれは覚悟しなければなりません。いかすればよいかということはこれらの古典が十分に教えておりますから・問題はこれを今日の時世にいかに適用するかということであります。

幸か不幸か今年は時局が一層悪化して、所謂危局になるということは免れ得ないと思います。その代りこれに善処すれば日本は一段と躍進するでしょう。その重大な岐路が本年でありまして、これは指導者、指導層の責任であります。政府でいうならば総理大臣を始め各省大臣、会社でいうならば社長を始め各重役、こういう人達は「揆」におる人ですから、この人達の責任としなければなりません。世の中が世の中だから、マスコミが騒ぎ立てるから、等というのは逃げ口上でありまして、今まではそれですみましたが、これからはそれではすまなくなりました。もうそういう逃げ口上、憶病な引っ込思案、卑屈な回避は許されないのであります。

いつも申し上げますように、日本ぐらい国際政治学上微妙な位置に存在する国はありません。西と北には共産義象の中共、ソ連、それに北鮮が並び、また海を隔て、東にはアメリカがあります。アメリカは現在一番の友好国でありますが、ついこの間までは大戦争をやった敵国です。ということは率直に言うて、日本がしっかりとしておって始めて友好国であるということで、一度弱体を暴露いたしますと、どうなるかわかりません。だから若し日本が揆を誤るようなことになると、恐らく世界のどこの国にもないような国難、混乱、悲劇が始まることは明らかであります。

われゝゝはどうしてもこれを避けなければなりません。勿論それにはやはりそれだけの国民的自覚が必要であります。これは少くとも心ある人々が意識し始めている問題でありまして、事業の経営なども今後はますます変化が激しくなってむつかしくなると思います。従って皆さんは文字通り揆を一にして、大いに事業を確立し、堅実に発展するよう努力されることが肝腎であります。現在多くの人々がそういうお手本を待ち望んでおります。どこかによい手本がないかと皆考えているときでありますから、非常な共鳴力がありましょう。それ以外に今日の日本を救う道はないと信じます。(昭和四十八年二月二十三日)
「時世と活学」安岡正篤著より






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