一燈照隅

日本が好きな日本人です

沖縄集団自決意見陳述書。

2007年10月30日 | 時事問題
反日左翼は沖縄集団自決を、軍の強制があったとして教科書に載せようと必死に蠢いています。
しかし集団自決は梅澤元少佐と赤松元大尉の名誉回復のため「沖縄集団自決冤罪訴訟」として現在大阪地裁で裁判が行われています。
現在裁判が進行中の事を教科書に事実として載せるのは、いくら何でもやってはいけないことだろう。
しかも最近、自決は軍命令の強制はなかったという事実が出てきています。
そのようなおかしな事を、教科書執筆者や教科書会社、反日左翼は平気で行おうとしています。
それとも、裁判の被告に有利に働かすための活動も含まれているのだろうか。

「沖縄集団自決冤罪訴訟」での、梅澤元少佐と赤松秀一氏(赤松元大尉の弟)の意見陳述書を掲載します。


原告 梅澤裕 意見陳述書
沖縄集団自決冤罪訴訟第一回口頭弁論
(平成十七年十月二十八日)

一、梅澤裕でございます。現在、満八八歳になります。
座間味島島民の集団自決は私の命令によるものと報道されて以来、今日に至るまで、約半世紀にわたり、汚名に泣き、苦しんで参りました。
それら辛酸の数々と、この裁判に賭ける思いを、裁判官様に是非ともご理解戴きたく、この場をお借りして意見を述べさせて戴きます。

二、戦時中、私は、当初、昭和一四年九月から騎兵、戦車兵として従軍して参りましたが、昭和一九年一月、船舶兵への転科の命を受けました。
瀬戸内で夜間の猛訓練の後、同年九月、海上挺進第一戦隊の長となり、座間味島に入りました。
座間味島の人達は、当時沖縄で最も愛国的な村民で、誠心誠意の人達でありました。皆一致団結して軍に協力して戴いたので、私達も大いに感謝し、私以下部隊は親睦に留意し、非違行為は一件もありませんでした。
昭和一九年一〇月に座間味島で空襲があり、兵舎として使用していた学校が焼失し、我々が座間味村落内に舎営し分散した際も、老人婦人方には若い兵を息子の様に大事にして戴き、双方より食料を分かち合い、甘味品を分け合いました。
この空襲の際に優秀な鰹舟が煙を発したのを見て、隊員は危険の中を飛び込み消し止めました。之も村民に対する感謝の気持の現れに他なりません。座問味島の人達との関係は、極めて良好なものでした。

三、昭和二〇年三月二三日、沖縄本島に先がけ座間味島に米軍の空襲が始まりました。翌二四日に猛爆が始まり、二五日は戦艦級以下大艦隊が海峡に侵入し、爆撃と艦砲射撃で島は鳴動しました。このとき壕に隠していた特攻用の舟艇は殆ど破壊されてしまいました。
問題の日は翌三月二五日のことです。夜一〇時頃、戦備に忙殺されて居た本部壕へ村の幹部が五名来訪して来ました。助役宮里盛秀、収入役宮平正次郎、校長玉城政助、吏員宮平恵達、女子青年団長宮平初枝(後に宮城姓)の各氏です。
その時の彼らの言葉は今でも忘れることが出来ません。
1、いよいよ最後の時が来ました。お別れの挨拶を申し上げます。
2、老幼婦女子は、予ての決心の通り、軍の足手纏いにならぬ様、又食糧を残す為自決します。
3、就きましては一思いに死ねる様、村民一同忠魂碑前に集合するから中で爆薬を破裂させて下さい。それが駄目なら手榴弾を下さい。役場に小銃が少しあるから実弾を下さい。
以上聞き届けて下さい。
その言葉を聞き、私は愕然としました。この島の人々は戦国落城にも似た心底であったのかと。昭和一九年一一月三日に那覇の波の上宮で県知事以下各町村の幹部らが集結して県民決起大会が開かれ、男子は最後の一人まで戦い、老幼婦女子は軍に戦闘で迷惑をかけぬよう自決しようと決議したという経過があったのです。
私は五人に、毅然として答えました。
1、決して自決するでない。軍は陸戦の止むなきに至った。我々は持久戦により持ちこたえる。村民も壕を掘り食糧を運んであるではないか。壕や勝手知った山林で生き延びて下さい。共に頑張りましょう。
2、弾薬、爆薬は渡せない。
折しも、艦砲射撃が再開し、忠魂碑近くに落下したので、五人は帰って行きました。

四、終戦後、私は鹿児島の疎開先にて療養に励みましたが、座間味島の戦闘で受けた骨髄炎の傷が癒えませんでした。左膝が曲がらなかったため、尻をついて鍬を使い、畑を耕しておりました。

五、ところが昭和三三年頃、週刊誌に慶良間諸島の集団自決が写真入りで載り、座間味島の梅澤少佐が島民に自決命令を出したと報じられました。
私は愕然たる思いに我を失いました。そして一体どうして、このような嘘が世間に報じられるのかと思いました。
たちまち我が家は、どん底の状態となりました。人の顔を見ることが辛い状態となりました。実際に勤めていた職場にいずらくて仕事を辞める寸前の心境にまで追い込まれましたし、妻や二人の息子にも世間の目に気兼ねした肩身の狭い思いをさせる中で生きることになりました。

六、以後、沖縄返還問題に絡め、集団自決の問題はマスコミの格好の標的とされました。
テレビ、ラジオ、新聞、雑誌などで、ありもしなかった「自決命令」のことが堂々と報じられるとは、一体どうしたことか。座間味島の人達と励まし合いながら、お国の為に戦って来たのに、どうして事実が捻じ曲げられて報じられるのか。どうしてそのようなことが許されるのか。余りの屈辱と、辛さと、理不尽さに、人間不信に陥りました。孤独の中で、人生の終わりを感じたことすらありました。

七、しかし、昭和五七年六月二三日に「ざまみ会一同地蔵尊建立慰霊祭」が座間味村で行なわれた際に、私は昭和二〇年三月二五日に私を訪ねた五人のたった一人の生き残りであった宮城初枝さんから「戦傷病者戦没者遺族援護の申請の際に、梅澤隊長の自決命令があったと記載しましたが、それは事実ではなく梅澤隊長は自決命令を出しておりません。申し訳ありません」と詫びて貰いました。
さらに昭和六二年三月二八日には自決した宮里盛秀氏の実弟で座間味村の戦傷病者戦没者遺族の援護を担当した宮村幸延氏からは援護申請のために梅沢隊長の自決命令があったと虚偽を記載して申請したことを、申し訳ありませんと詫びの念書を貰いました。
これで、世間もおさまってくれるだろうし、座間味の人の苦労を考えると補償が得られ、助かり、沖縄が復興するのであるから私一人が悪者になったことも意味があったかとも思いました。
ところが私に対する事実に反する誹諺中傷はなお、やまないままでありました。
沖縄が復興し、皆が豊かになった今は私の名誉を回復したいとの思いが日々強くなりましたが、一人ではいかんとも出来ない状態でした。

八、しかしながら、長年の思いが実り、様々な方のご支援とご協力を得、この度ようやくこの場に立たせて頂くことが出来ました。
戦後六〇年が経ち、日本は平和を取り戻しました。しかしながら、真実に反する報道が続いている限り、私自身に終戦は訪れません。理不尽なことに沈黙したまま、名誉を汚され続けた状態で人生を終えることは、正に痛恨の極みという他ないのです。
私は沖縄の復興を衷心より願っておりますが、沖縄が復興し、豊かになった今、私の名誉回復を果たし、一刻も早く心の平穏を取り戻し、日本国民と同じ心境で、今日の平和のありがたさを心から享受したいと切に願っています。
どうか私の長年の思いをご理解戴き、踏みにじられて来た私の名誉が回復出来ますよう、切にお願い申し上げます。
平成一七年一〇月二八日
梅 澤 裕


原告 赤松秀一 意見陳述書
沖縄集団自決冤罪訴訟第一回口頭弁論
(平成十七年十月十八日)
原告 赤松秀一

沖縄戦当時、25歳で元海上挺身第三戦隊の隊長を務め、特攻断念ののち、渡嘉敷島の死守を命じられた赤松嘉次大尉の弟の秀一です。

そもそもの事の起こりは、沖縄タイムスからの昭和二十五年に出版された『鉄の暴風』によって兄が『神話的大悪人』に仕立て上げられました。当時は終戦間も無いドサクサの時期で、渡嘉敷島に渡ることすら出来ない中、直接関係のない証言者からの聞き取りを元に米軍の占領下にあった沖縄の風潮にあわせてでっち上げられたものです。これが一人歩きしまして昭和三十四年には時事通信社から沖縄タイムスの編集長上地一史氏が『沖縄戦史』、続いて岩波書店から中野好夫氏の『沖縄問題二十年』家永三郎氏の『太平洋戦争』などが何れも『鉄の暴風』の孫引きで出版されましたが、当時は兄や家族に対する批判はそれほどひどいものではありませんでした。

沖縄返還(昭和四十七年)を目前にした四十五年三月末、兄は渡嘉敷村長はじめ村民の招きを受けて『集団自決二十五回忌の慰霊祭』に参加する為、戦友の方々と共に沖縄に渡りましたが、兄は独り労働組合、反戦団体などの抗議集団に取り囲まれて渡嘉敷島に渡ることが出来ず、翌日船をチャーターして花束を贈るという事件が起こりました。これを、全国の新聞、雑誌が騒ぎ立てて兄の悪評が一気に広がりました。大江健三郎氏の『沖縄ノート』は、この風潮に便乗するが如く、その年の九月に岩波書店から出版されました。その中で兄は住民に集団自決を命令した悪の権化であると決めつけられただけでなく、嘘と自己欺隔を繰り返す恥知らずな人間として描かれました。

一方、「人の罪をこのような明確さでなじり、信念をもって断罪する神のごとき裁きの口調に恐怖を感じ」、そこに描かれた神話的大悪人の話に疑問を抱かれた曽野綾子氏は、九月に行われた慰霊祭参加報告会を皮切りに多くの関係者に積極的かつ精力的に取材され、関連文献を調査されてついに四十八年五月、『ある神話の背景沖縄渡嘉敷島の集団自決』を出版され、兄の戦隊が特攻に出撃しながったのは兄の上官である大町船団長の命令であること、軍からは自決命令は出ていないこと、軍は島民の食糧は徴発していないことなど細部に至るまで検証されており、この本が兄や家族をはじめ戦隊の方々の大きな心の支えになったことと思います。

私自身も新聞、雑誌があまりにも書きたてるので或るいはと疑いを持ったこともありましたが、お蔭で兄への信頼感は揺るぎないものとなりました。
悪評を書いた著者もこの本を読んで誤りに気づきおいおい廃刊に至るであろう、これで一件落着と思っておりましたが、五十五年には兄も亡くなり、『ある神話の背景』が絶版となった後も岩波書店では『沖縄ノート』などは現在に至るまで版を重ねてたいした修正もなされずに出版されていることを最近になって教えられました。また学校の歴史の教科書にまで『軍命令で集団自決』と書かれていることを知りました。

本土防衛の犠牲となった多くの沖縄の方々のためならと、汚名を忍ぶことで年金が給付されるならと、敢えて沈黙を守った兄の気高い心情が踏みにじられていると感じました。名状し難い心の痛みとともに、虚偽がまかりとおる今の世の中に対して強い怒りを覚えました。
兄の無念を晴らし、後の世に正しい歴史を伝える為にもと今回の提訴を決意しました。
裁判所におかれましては、この想いを受け止めて下さり、公正迅速な審理を遂行していただけますよう、心からお願い申し上げる次第です。
平成17年10月28日
赤松秀一
(沖縄集団自決訴訟を支援する会会報より)


沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会
集団自決、軍命令を否定する証言






人権擁護法案が蠢きだした。

2007年10月29日 | 時事問題
人権擁護法案提出の動き再燃 法相が強い意欲
2007.10.28 18:48

 過去に自民党内の反対を受けて頓挫した人権擁護法案を、来年の通常国会に提出しようとする動きが政府・与党内で再燃している。鳩山邦夫法相が国会答弁で再提出への強い意欲を表明したためだ。しかし、2年前には人権侵害の定義があいまいなどの理由で自民党内の保守勢力が反発し、党を二分する騒動に発展した経緯があるだけに、すんなりと再提出できるかどうかは微妙だ。

 鳩山法相は24日の衆院法務委員会で「さまざまな問題点をクリアできる方法を考え、人権擁護法案は国会に再提出したいと考えている。日本に人権擁護法案がないというのは実に情けないことではないか」と答弁した。

 鳩山氏は19日の同委員会では「国会への再提出を目指すべきだが、与党内にもさまざまな議論があることから、真摯(しんし)に検討を進める」と述べるにとどまっていただけに、一歩踏み込んだ格好だ。

 鳩山氏は周辺に「自民党が人権擁護法案を通せば、選挙にも有利だ」と漏らしているという。これに連動するかのように「自民党内の人権擁護法推進派が水面下で再提出へと動き出している」と同党関係者は指摘する。

 鳩山氏が描く具体的な議論再開の時期や法案の修正内容は不透明だが、鳩山氏の「意欲」に対し自民党内では「新たな人権侵害を生む可能性をはらんだ法案には賛成できない」(中堅)と早くも警戒感が広がっている。


安倍前首相の改造内閣の顔ぶれを見て、5~6人不安な人がいると書きましたが、その人とは、 額賀福志郎、甘利明、舛添要一、上川陽子、冬柴鉄三(当然)、高村正彦、そして鳩山邦夫です。
鳩山邦夫氏は前回の総裁選挙で麻生氏を応援していたので、大丈夫と思っていた人が多かったのではないでしょうか。
しかし、鳩山氏は安倍改造内閣の大臣就任記者会見で、すでに人権法案を成立させたいと発言しています。
今回の福田首相になって、党も内閣も人権擁護法案推進者が要職を占めるようになりました。古賀誠、二階俊博、石波茂、渡海 紀三朗他。
古賀氏が新たに選挙対策総局を作って就任した以上、現職衆議院議員は選挙も近いので逆らえない体制を作ったと言えます。
来年に掛けて危機的状態になるだろう。



テロ特措法は戦略的に。

2007年10月27日 | 時事問題
テロ特措法を本来議論しなければならないのに、油の量とか何処に使われたとか細かいことばかりが議論されています。
日本の自衛艦がインド洋に居ると居ないとで日本にとってどう影響するか、あるいはどう利用できるかであって、油の量とか何処に使われたとか議論して貴重な時間を使うのはあまりにも戦略がなさすぎます。

日本のシーレーンを自国で守る意思表示はどうなるのか。

それと今回のことで安易に防衛予算の削減に繋がらないようにして貰いたい。


【野口裕之の安全保障読本】存在感示す中国 インド対抗も日本は無策

アフリカ・マダガスカル北部にインドが租借・設置したレーダー・通信傍受施設がひそかに活動を始めた。インド初の海外軍事施設で、インド洋の艦船動向を掌握し、自国の権益を守るねらいがある。軍事は外交の一部だという真理を、インドが忠実に実行した結果にすぎないが、日本はその対極にある。インド洋での海上自衛隊による補給活動は、11月1日に法律上の期限を迎え中断される。「シビリアンコントロール=文民統制」を強調する割に、自信を持って軍事組織を外交に活用できない日本の姿は面妖だ。

 インドの当該軍事施設の運用は7月上旬に始まった。対テロ・海賊監視も任務の一つである。日印はともに、国連安全保障理事会の常任理事国の座を狙っているが、国際平和に向けた軍事貢献に限れば、インドに大きく水をあけられた格好だ。だが、最大の目的はエネルギー資源獲得に向け、アフリカ・中東にコネクションを構築し、輸送とその護衛のための海運・海軍拠点をパキスタンやミャンマー、バングラデシュ、スリランカなど、インド近隣諸国に張り巡らしつつある中国への対抗である。インドの石油輸入もまた、約9割が海上輸送に頼っているのだ。
 モーリシャスから租借した環礁にも同種の施設建設を計画している。インド国内のムンバイ、コチンの既存監視施設と、マダガスカル、モーリシャスの施設がリンクすれば、喜望峰とモザンビーク海峡からアラビア海に至る石油輸送航路の監視・警戒能力が飛躍的に向上する。昨年はモザンビークとの間で、同国沿岸の定期的哨戒協定を締結するなど、アフリカ東海岸へのインド海軍艦艇派遣により、プレゼンスを強化している。ムカジー外相は「海洋外交はインド外交政策の不可分の一部。インドの海洋権益は、領海をはるかに超えて増大している」とまで述べている。

 実は、海洋地下資源やエネルギー輸送航路など海洋権益の確保に関してわが国は有利な立場にある、はずだった。外洋を長期間航海できる装備・練度を誇る海軍力を保有しているからだ。
 海軍は軍事だけでなく海賊取り締まりなど、海上警察権も行使できるうえ、親善寄港や共同訓練、示威など外交・友好の権能も備えている。艦=基地ごと移動できる、陸空軍にはない海軍の効用がここにある。「軍事」「警察」「外交」が三角形を形成することで、時代と政府の要請により、三角形は二等辺であったり正三角形であったり、どの権能に重きを置くかで変幻自在に組織を変えることが可能だ。
 第一次大戦における大日本帝国海軍の戦略もこの「三角形」の延長上にある。欧州戦線が膠着(こうちゃく)すると、連合国は日本に陸軍派遣を強く要請したが、これを断ると同盟国・英国からも非難された。そこで、シーレーン防衛などを担うべく艦隊をインド洋や地中海に派遣。連合国に既占領地の権益を認めさせ、日英同盟決裂も回避ならしめた。時の政府が海軍の外交力を理解していた証しといえる。

 現下の日本の立場は第一次大戦時に似ている。米海軍の試算によると、地球上の枢要なシーレーンの安全を図るには1000隻態勢が必要だという。だが、展開可能な米海軍艦艇は280隻に満たない。同盟・友好国の支援が不可欠なのだ。
 政界でも、海自のインド洋における活動を「日米同盟」や「輸入立国・ニッポンのシーレーン安定」に資する-などと意義を訴える声はあった。だが、野党は海自が供給した燃料の「量」「使われた場所」などの追及に時間を費やした。だが、「力・利益」こそ国際政治の「支配的原則」だという、現実と国益を踏まえた議論は主流には成り得なかった。ドイツ出身の国際政治学者ハンス・モーゲンソー・シカゴ大教授は国際政治の正体をこう看破している。

 「利益は人間行動の支配的原理であり、対外政策の目的もまた利益である。力と利益の概念は国際政治において、時として道徳主義や法治主義に優先する」

 もっとも、この考え方は教授だけにとどまらない。実は、2500年も前に、孫子も同じ考えを説いているのである。


消えたブランコ。

2007年10月25日 | Weblog
最近公園でブランコを見かけなくなりました。

公園の遊具で子供がケガをして問題になったら、その遊具を公園から撤去します。
最近もブランコのチェーンの付け根が折れて子供が怪我をし、すべてのブランコが公園から撤去になりました。
ほかにも以前はあったのに、今なくなっている遊具が有ります。しまいにはすべて無くなってしまうのだろうかとも思えます。

あきらかに構造上に問題がある遊具なら撤去しても当然ですが、検査して大丈夫だったり使用する方の使い方が悪くて怪我をしたのなら撤去する必要はありません。
最近は遊具で何かあるとすぐ撤去します。
しかし、どんなに安全に作った物でも凶器になったりします。
公園で走っていて転んで大けがをしたら公園を撤去するのでしょうか。
子供は遊びで怪我をするのも勉強の内ではないでしょうか。
怪我をすることで痛みを覚え、次からは怪我をしないような術を覚えていくものです。

私が子供の頃は今から見れば、危険な遊具や遊びはいっぱいあったと思います。
遊びで怪我をしたからと言って、行政や学校に文句を言いに行く親はいませんでした。
それどころか怪我をした子供が怒られたりしていました。
怪我をした子供も、怪我が治ったら又同じ遊具で遊んだりしていました。

子供が怪我をしたら直ぐに撤去するのではなく、怪我をしないような術を覚えたりすることが大事ではないだろうか。



自衛艦「おおすみ」の一般公開

2007年10月21日 | 自衛隊
堺の大浜埠頭で、海上自衛隊 輸送艦「おおすみ」の一般公開が行われたので行ってきました。

「おおすみ」はイラク復興支援での陸上自衛隊の車両や必要物資を運びました。
艦内に大型ホバークラフト(LCAC)を2基積載していることもあり、自衛艦の中では大きいですね。
舷側扉から艦内に入り広い搭載空間からヘリ甲板に出て、艦橋にまで上り艦内を通って最初の乗艦口に戻る道順でした。
搭載空間はさすがに広々としていたのですが、艦内通路は狭く天井も低いので頭を打ちそうになります。
艦内の所々に自衛官が案内役でいましたので質問などされている人も多く見かけました。
「おおすみ」の皆さん有り難うございました。

大阪のケーブルテレビ局(ケーブルウエスト)の番組で、「おしえてケイコchan」という番組があります。
この番組は10分と短いのですが、女性自衛官が他の女性キャスター2人と3人で自衛隊の広報活動をいろいろしている番組です。
先日は、今もイラクに派遣されている航空自衛隊を、女性隊員や家族のインタビューも入れて取り上げていました。
この番組で「おおすみ」の一般公開を案内していたのを知り今回行ってきました。







物資搭載スペース


ホバークラフト(LCAC)


ヘリコプター甲板


風にはためく自衛艦旗と自衛官




艦首の日章旗




艦尾ハッチから搭載しているLCAC













「地久節」

2007年10月20日 | 皇室

皇后陛下御誕生を奉祝いたします。
以前は天皇陛下御誕生日を「天長節」、皇后陛下御誕生日を「地久節」と言いました。

天長節、地久節は「老子」から取っています。

天長地久 天地所以能長且久者 以其不自生 故能長生
是以聖人 後其身而身先 外其身而身存 非以其無私耶 故能成其私

天は長く地は久し。天地の能く長く且つ久しき所以の者は、其の自ら生ぜらるを以て、故に能く長生す。
是を以て聖人は、其の身を後にして身先んじ、其の身を外にして身存す。其の私無きを以てに非ずや。故に能く其の私を為す。

天は長く、地は久しいものであって、共に悠久の生命を保っている。しかしその天地がよくかくの如き長久の生命を保つのは、いかなる理由によるかと言えば、彼の天地は自分から生きようという意識を用いないからである。すなわち、無為無心であるから、そこで長生を保のである。


本日も御誕生日の奉祝行事が詰まっています。お体に気を付けられてください。

宮内記者会の質問に対する文書ご回答
--皇太子ご夫妻の長女、愛子さまは来春小学校ご入学の予定で、バスや電車に乗るなど社会体験の機会も増えています。また秋篠宮ご夫妻の長男、悠仁さまは1歳の誕生日を過ぎて健やかに成長され、眞子さま、佳子さまのお姉さまぶりも紀子さまにとって大きな励みとお聞きします。お孫さまたちの成長ぶりをごらんになり、ご自身の育児体験を振り返りながらの感想とアドバイス、両家との交流の様子などをお聞かせください。


 4人の孫がそれぞれ両親のもとで、健やかに成長していることをうれしく思っています。眞子、佳子は今年共に高校、中学に進学し、愛子ももう来年は初等科に上がります。悠仁も元気に成長し、この9月には満1歳になりました。前置胎盤の状態で出産の日を迎える秋篠宮妃を案じつつ、東京からのしらせを待った旅先の朝のことが、つい先ごろのことのように思いだされます。

 私自身の育児体験をふり返り、孫たちの成長ぶりに感想やアドバイスを、との質問ですが、もうずい分以前のことですので……

 ただ、祖母として幼い者と接する喜びには、親として味わったものとも違う特別のものがあること、また、これは親としても経験したことですが、今、また祖母という新しい立場から、幼い者同士が遊んだり世話しあったりする姿を見つめる喜びにも、格別なものがあるということは申せると思います。

 愛子は、眞子や佳子と遊ぶとき、大層楽しそうですし、眞子と佳子も、愛子を大切に大切にしながらも、大人とは異なる、子ども同士でのみかわせる親しさをこめて相手をしています。悠仁に対しても、2人の姉たちが、ちょうど小さなおかあさんのように気遣いつつ、しかも十分に手加減を知った無造作さで、抱いたり着替えさせたりしている姿や、小さな愛子が、自分よりさらに小さい悠仁の傍らでそっと手にさわっていたりする姿を、本当に好もしくかわいく思います。

 先日、朝の散歩の折に、小さなジュズダマの茂みを見つけ、戦争中、疎開先で遊んだことを思いだし、陛下とご一緒に少し実を採りました。毎年集めると、いつか針の持てるようになった愛子と、首飾りを作って遊べるかもしれません。自然との交わり、折り紙やあや取りのように古い遊びなど、私の方から教えてやれるものもありますが、孫たちから教えてもらうもの-例えば、私は陛下がお止めになったのでいたしませんでしたが、一輪車の乗り方など-もあり、こうした幼い人たちとの交わりは楽しく、これからも互いに時を見つけ、会う機会をつくっていかれればうれしいことと思います。

--皇太子さまは6月、十二指腸ポリープ切除手術を受けられました。皇太子妃雅子さまは奈良県や長野県での泊まりがけ公務など、この1年で活動の幅を大きく広げられましたが、宮中祭祀(さいし)などへの復帰は果たされていません。皇后さまはどのようなときに妃殿下の回復ぶりを実感されていますでしょうか。お二人を見守った感想とともに次代を担うお二人がまず何に取り組むことが大切なのか、お気持ちをお聞かせください。


 十二指腸のポリープの手術には、細心の注意が必要とされると聞き、大層心配いたしましたが、医療関係者により、すべてを無事に運んでいただき、ありがたいことでした。

 モンゴルへの旅も無事に終え、その後も障りなく過ごしており、ホッとしています。

 東宮妃の回復についても感想が求められており、また、今後2人がまず何に取り組んでいくことが大切かとのお尋ねもありますが、東宮妃がせっかく快方に向かっていると思われる今は、ただ、妃の回復を祈り、見守り支えていきたいと考えています。

--この1年国内外で起きたことで、皇后さまにとって特に印象に残ったことをお聞かせください。皇后さまは昨年に続き草津での音楽祭でレッスンに臨まれ、世界の著名な音楽家と一緒に演奏をされましたが、皇后さまの人生にとって音楽はどのような存在なのでしょうか。また以前からの興味に加え、新たな関心事や趣味があればお聞かせください。

(印象に残ったこと)

 (1)3月の能登半島地震、7月の新潟県中越沖地震。局地的に日本の各地を襲った暴風雨や竜巻(昨年11月)。長く暑かった夏。地球上におこるさまざまな異常な現象と関連し、地球温暖化が、取り組むべき緊急な課題となってきていることを感じます。

 (2)少子高齢化が進む中で、年金問題、介護問題等に対し、人々の関心が切実であること。

 (3)人々の生活の、意外に身近なところに危険があることを示す事例が多く、生活のさまざまな分野における安全性の問題が問われていること。このことにも関連し、各地の病院で現在おこっている医師不足、とりわけ産婦人科医の減少。出産に臨む女性の安全がどのように確保できるかを深く案じます。

 (4)ハンセン病者に在宅医療の道をひらかれた沖縄愛楽園名誉園長の犀川一夫さんをはじめ、宮内庁参与の平岩外四さん、気象学者で女性科学者の育成と地位向上に尽くされた猿橋勝子さん、日本の分子生物学の先駆者であり、多くの子弟の研究を導き支えられた渡辺格さん等、懐かしい方々の訃報(ふほう)。

 (5)今年8月の新聞に、原爆投下後の広島・長崎を撮影した米国の元従軍カメラマンの死亡記事と並び、作品のひとつ、「焼き場に立つ少年」と題し、死んだ弟を背負い、しっかりと直立姿勢をとって立つ幼い少年の写真が掲載されており、その姿が今も目に残っています。同じ地球上でいまなお戦乱の続く地域の平和の回復を願うとともに、世界各地に生活する邦人の安全を祈らずにはいられません。

(音楽とは)

 細々とながら音楽を続けてきた過去の年月が最初にあり、気がついたときには、音楽が自分にとって、好きで、また、大切なものとなっていたということでしょうか。

 十分な技術を持たない私が、内外の音楽家の方たちとの合奏の機会を持てるということは過分な恩恵ですが、美しい音に囲まれた中で自分の音を探っていくという、この上なく楽しい練習をさせてくださる方々の友情に感謝しつつ、一回ごとの機会をうれしく頂いています。


(関心事)

 新しいということではなく、これまでの関心につながるものですが、来年はブラジルの日系移住者の移住100周年に当たります。

 この度は残念ながら現地にはまいれませんが、日本にあって、陛下とご一緒にこれまでの各国への日系移住者の苦労を思い、移り住んだ国々で、人々が幸せであるよう、祈りたいと思います。それとともに、当時から100年を経た今、日本に生活する30万を超えるといわれる南米からの移住者たちが、ふるさとを離れて住む困難をよく克服し、日本の社会に温かく受け入れられていくよう願いつつ、心を寄せていきたいと思っています。



秋季例大祭

2007年10月18日 | 日本の戦後
昨日から靖国神社の秋季例大祭が行われています。
この時期、全国の護国神社でも秋季例大祭が行われます。
今日は国会議員67名が靖国神社に参拝しました。
本当ならもっと出来るだけ多くの保守系議員に参拝して貰いたい。
そして、天皇陛下が靖国神社に御親拝できるように政治家はしっかりして貰いたい。


 
十月三十一日、天皇、皇后両陛下の記者クラブ御引見の席上、ロンドンタイムズの中村記者が、陛下の「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」といふ御言葉を引用しながら、「このことは陛下が開戦をふくめて、戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味に解してよろしゅうございますか」といふ質問を発した、耐へがたいおもひに耐へ、すべての責めを一身に背負ふてこの三十年を生き抜いてこられた陛下の御苦衷を御偲びするとき、それはまことに許すべからざる発言であつた。
だが、この質問の中でもう一つどうしても腑におちないことは、この記者が戦争開始の責任は日本にあることを当然のことと考へてゐるその発想である。たしかにこの記者にかぎらず、新聞一般の論調の中では、開戦の責任はすべて日本にありといふ考へは、牢固としてぬきがたいもののやうに思はれるが、一体それでいいのだらうか。
インドのパール判事の、
「もしハル・ノートのごときものをつきつけられたならば、モナコ王国や、ルクセンブルグ大公国の如き国さへも、武器をとつて立ち上つただらう」(パール判決書)
といふ言葉も一般に知られてゐるはずであるが、今のところ誰一人このことを問題にする者はゐない。

真珠湾が、当時ナチスの急追によつて窮地に立つていた欧州に、アメリカを引きこむためのオトリであつたといふ説も詳細に報道されてゐるし、さらには真珠湾攻撃の知らせをうけたイギリスの首相チヤーチルが、「感動と感激の気持で胸が一杯になり、ベツドに行き、救はれ感謝に満ちた気持で眠りについた」(第二次大戦回顧録)といふのも記録に明らかなところである。このチヤーチルの言葉などは、開戦前後の真相を究明する上での極めて重要な資料であらうが、これもまたさして人々の関心の対象にはならないやうである。

そしてたゞ日本の犯した誤ちを世界に詫びなければならぬ―さういふ議論だけが、圧倒的に日本の言論界を蔽ひつくしてゐる。その判断の基礎をなすものは、いふまでもなく東京裁判における判決であつて、それが戦後の日本の思想界を決定的に左右してしまってをり、その呪縛はいまだにとけようとはしない。といふより、最近の戦争責任論においては、むしろ一頃にもまして固定化された観さへあるやうである。だが、パール判事の手になる判決書はいふまでもないが、例へばアメリカのローガン弁護人でさへ、「日本は挑発せられて自衛戦争に立った」と題して、次のやうに述べてゐるのである。

「ABCD諸国は完全なる軍事的及び経済的包囲を二つともつくっていた……経済戦争は頑強に不断に圧縮され、時とともに、より効果的、蹂躙的になったので……もしそれが続けられたなら、それだけでも、日本を滅亡させたかも知れなかったのである。日本の人々はそれを知り、それを信じ、それを信ずる理由を有し、そして彼らは自身のために行動したのである。……
彼らは日本国を愛した。そして彼らの決定は、祖国にとっても生きるか死ぬかの決定であった。彼らは祖国を愛した。そして決定をしなければならぬ地位にあった。われわれはこの裁判をされる方々に彼らの立場に立って考へていたゞきたいと思う。その立場に立ったら、愛国者として、あなたたちは一体他のどのような決議をすることが出来るだろうか。……もしその決定が犯罪的意図からではなく、祖国を護持するのに絶対に必要であるという強い信念と愛国心の動機からなされたならば、われわれはそれが犯罪であるとして、法廷で裁きを行うべきではないと申し立てる。
      
     ○

このやうなことは、歴史にすなほに接してさへ行けば誰しも納得できる当然のことなのだが、その当然のことがどうしてか日本では全く通用しないやうになってしまつた。それには日本の過去を抹殺することを第一の戦略目標にする革命思想家たちの執拗な動きがあることは勿論だらう。だがそれにもまして大きな要因は、日本人が歴史をふりかへる時に、事実そのものにつきあはうとはしないで、歴史を予め作られた図式にあてはめて見るやうな習性がしみこんでしまつたからではなからうか。

現実そのものは複雑に入り乱れて果てしないものだが、その複雑さを煩はしく、手に負へないものと感じて、前もつて与へられた「歴史を見る尺度」に安易に頼らうとする。それは精神の硬直化と呼んでもいいし、怠惰と呼んでもいい。戦勝国が正義の味方で、戦敗国が犯罪者だといふ、子供にでもわかるドグマにいつまでもかゝはりあふのは、そのドグマに頼ってゐる方が、余計な苦労をしないですますことが出来るからなのだらう。だから、たとへその尺度にあはない事実があつても、それには目をつぶらうとするし、一時それに心を動かされるやうなことがあっても、心の針はいつの間にかもとに戻つてしまふのである。

さらに考へられることは、これまで東京裁判の尺度で善悪を判断するのになれきつた頭には、もしその尺度がとり外されると、一体何が善か悪か、その判断の下しやうがなくなるといふ事情もあるのだらう。

これまで戦争の一切を悪ときめつけ、それを全面的に否定し糾弾することが正義であると信じきつてゐたところに、その大前提を外さなければならないといふ事態になれば、これまでの倫理観の土台がゆさぶられてしまふ。人々はその煩はしさに耐へきれず、大前提に疑問をいだくそのことが、すでに反動であるときめつけて、依然として善玉悪玉の論理に固執するのだ。かうして人々は、愛僧違順、さままざまに入り乱れる人生の全体像を見る目を失ひ、歴史をさながらに蘇らせる力を失つてゆく。このやうないはゞ「文化の衰弱現象」が、又逆に束京裁判の呪縛を容易にする下地をつくつてゐるのである。この果てしない悪循環、われわれはそれをどうにかして断ち切り、日本人本来の瑞々しい心をとりもどさなければならない。

天皇陛下に戦争の責任があるなどといふ許しがたい論理に対しては、当然徹底した批判が用意されるべきであるが、それに気をとられるあまりに、その論議の前提になつてゐる「日本の国が戦争の責任をとるべきだ」といふ考へそのものを、もしも肯定するやうなことがあれば、とりかへしのつかぬことになることを知らなければならない。

一切の国際法を無視して、東京裁判のためのみの条例を施行し、それを至上命令として行はれた裁判、「ここは日本を裁く法廷であって、連合国を裁く法廷ではないので、連合国側の違法を立証することはすべて本裁判に関連なきものとして却下する」として、連合国側の違法行為に対しては一切ノータッチで行はれた裁判、まさに裁判に名をかりて復讐をほしいまゝにしたやうな、私刑(リンチ)にも等しい裁判、この裁判の判決を金科玉条とするがごとき愚をくりかへしてをれば、日本の精神的自立を達成することは永久に不可能であらう。(昭和五十年十二月『国民同胞』第百七十号所載)
「戦後教育の中で」小柳陽太郎著 国民文化研究会
*太字管理人





今度は亀田叩きか。

2007年10月15日 | Weblog
先日のボクシング内藤対亀田大毅戰の亀田家による反則行為に、日本ボクシング協会の判断が出ました。
この試合後から各テレビ局が、今まで手のひらを返したように亀田叩きをしています。
今まで亀田を利用していたTBSでさえ同じです。
TBS以外のテレビ局は今まで亀田を持ち上げていたTBSの批判もしています。
しかしちょっと待ってくれと言いたい。
じゃあTBS以外は亀田を最初から今回のように言っていたのか。違うだろう。
TBSと同じように番組に出演させて、亀田を持ち上げるようなことを言っていたではないか。
今回批判しているコメンテーターには「亀田はああ見えても挨拶もちゃんとする礼儀正しい子です」と言っていたのではないか。
一夜明ければこうも言うことが変わるものか。
私は亀田を擁護しているのではありません。亀田一家のような無礼な者がいるから大阪のイメージが悪くなるとも思っています。
利用できる者は利用し、用が無くなったら捨てる。これがマスコミの実態です。
これからマスコミは今までの自分達のことを隠して、これでもかと言うくらい亀田一家を批判するでしょう。
亀田一家は以ての外だが、マスコミ全体も同じです。


「安倍さんが終わってから、福田さんになって続々と出てくるお金の話しも、程度がどっちが悪いかと言えば、そりゃ向こうの昔の方が悪かったととても言えない。
メディアもみんな飽きてるし、みんなも飽きてる。
あの時にやっぱり安倍さんを追い込むと言う大きなメディアの、と言うのもキャンペーンもあったし、もう止めとこうか…」

先日「たかじんのそこまで言って委員会」での辛坊次郎の発言です。
安倍前首相の追い込む事をメディア全体で行っていたことを白状しています。
マスコミが気に入らなければ反対キャンペーンをして追い込む。世間を煽動しているのです。戦前の鬼畜米英と同じ事を今もしているのです。
そのくせ自分達はそのようなことを認めません。公平に扱っているように言います。
まさにメディアは厚顔無恥と言えるでしょう。









テロ特の民意は。

2007年10月15日 | 時事問題
「給油反対はテロリスト」と自民・中谷氏
2007.10.14 22:28sankeiweb

 自民党の中谷元・安全保障調査会長(元防衛庁長官)は14日、フジテレビの番組で、インド洋での海上自衛隊の給油活動継続の意義を強調した上で「これに反対するのはテロリストくらいしかいない」と、給油活動に反対している民主党などを批判した。さらに番組のキャスターが「民主党はテロリスト集団か」と質問したのに対し「(反対は)理解できない」と述べた。

 これに対し、民主党の鳩山由紀夫幹事長は同日の和歌山市での記者会見で「国民の約3割が給油活動に反対しているのだから、日本にも3割のテロリストがいるということになる。こんなむちゃくちゃなことをテレビの前で発言するのはとんでもないことだ。冗談じゃない」と猛反発した。


鳩山幹事長の言われる約3割ほ何処の数字でしょうか。
民主党がテロ特に反対する理由として、一ヶ月前は「これは民意だ」と小沢代表は何度も言っていました。
テロ特について民主党のマニュフェストに一言も書かれていないのに、小沢代表はマニュフェストに書いてあると言いはっていました。
なら、今幹事長が認めているように約3割しか反対していないのも民意ではないでしょうか。
残りの約7割の人が分からないも入れて反対ではない事になります。
民主党はこの民意は尊重しないつもりなのか。
それとも、小沢代表得意の黒いカラスも白いと強引に言い張る戦略か。


秋祭り

2007年10月14日 | 日本の文化
村の鎮守の 神様の
今日はめでたい 御祭日
ドンドンヒャララ ドンヒャララ
ドンドンヒャララ ドンヒャララ
朝から聞こえる 笛太鼓

年も豊年満作で
村は総出の 大祭
ドンドンヒャララ ドンヒャララ
ドンドンヒャララ ドンヒャララ
夜まで賑わう 宮の森

治まる御代に 神様の
めぐみ仰ぐや 村祭
ドンドンヒャララ ドンヒャララ
ドンドンヒャララ ドンヒャララ
聞いても心が 勇み立つ


秋祭りのシーズンになってきました。
秋の祭りは作物の稔りを神様と祝う行事です。

私の所の、都会の中にある氏神様も昨日今日と秋祭りでした。
以前は祭りの数日前から祭り囃子の練習するのが聞こえてきたのですが、最近は祭り囃子が聞こえなくなってきました。祭り当日の昨日今日もほとんど聞こえませんでした。
住民の中には祭り囃子がうるさいと神社に言ってくる人がいるそうです。特に昔から住んでいる人ではなく、新しく引っ越してきた人から出るようです。
祭りはその土地に根付いた日本の文化です。
祭りの文化を尊重できない人が増えているのも、この先不安になる要因です。

国民の自衛官表彰

2007年10月12日 | 自衛隊
著しい功績の自衛官らを表彰 「第6回国民の自衛官」
2007.10.12 01:46 sankeiweb

 防衛省・自衛隊の活動で著しい功績のあった自衛官に贈る「第6回国民の自衛官」の表彰式が11日、東京都千代田区のグランドプリンスホテル赤坂で行われた。

 表彰式には陸海空自衛隊から選ばれた自衛官9人の家族や、殉職した1クルー(4人)の所属部隊長が出席。住田良能・産経新聞社社長が「北海道から沖縄南西諸島まで国の安全を守るため日夜精励する自衛官のために始まった表彰制度だが、今年は3月のヘリ事故の殉職者4人が含まれている。安倍(前)首相も出席した葬儀の時は激しい雨で、天も号泣をもって応えたかと思った。みなさんとみなさんを支えてきた家族にありがとうとお礼を言いたい」とあいさつした。

 来賓の大野松茂内閣官房副長官、秋元司防衛大臣政務官も受賞者を祝福。受賞者を代表して山下直道2等海佐が「この上ない名誉と大変感激している。受賞理由はさまざまだが自分一人の力ではないとの自覚は共通で、教官、上司・先輩、部下などの代表としての受賞と認識している。さらに国民の期待に応えるべく、一隅を照らすように真摯(しんし)に精進・努力していく」と謝辞を述べた。

 受賞者には記章、盾と選考委員で漫画家の西村宗氏が描いた受賞者の似顔絵が贈られた。

 受賞者は次の通り。



 陸上自衛隊CH47・963号機クルー・101飛行隊(沖縄)建村善知元1等陸佐、坂口弘一元2等陸佐、岩永浩一元陸曹長、藤永真司元陸曹長▽陸自第2師団司令部(北海道)平塚清隆1等陸尉▽陸自第7普通科連隊(京都)杉岡勝1等陸尉▽陸自第5普通科連隊(青森)山本弘志准陸尉▽海上自衛隊第211教育航空隊(鹿児島)山下直道2等海佐▽海自呉警備隊(広島)小室博治2等海曹▽海自大湊航空隊(青森)櫛引美知子3等海曹▽航空自衛隊第23警戒群(石川)稲福隆3等空佐▽空自航空中央音楽隊(東京)渡邉孝准空尉▽空自第1輸送航空隊(愛知)矢野省三3等空佐


受賞者の皆様おめでとうございます。

「人々は、危機の身におよばない前は、神と兵士を忘れ、
 ひとたび危機が至ると、神と兵士にとりすがる。
 危機より救われた直後は、神へも兵士へも、ひとしく感謝を捧げる。
 しかし、やがて神は人びとから忘れられ、兵士は人びとにうとんぜられるに至る」
 フランシス・クワールズ


有事の時、災害や戦争、テロにおいて一番有効に活動できるのは自衛隊を置いて他にはありません。
自衛隊は今も一部の者によって日陰者扱いされていますが、我々の生命財産を守るのには自衛隊しかいません。
本来なれば憲法を改正して自衛隊を憲法に明記するべきですが、首相が代わっために全く進まないでしょう。
今、テロ特措法継続が小沢代表によって政争になっています。
自衛艦がインド洋にいることは日本の国益にとっても大きな意味があります。
ゴラン高原、イラク復興支援と海外で任務に就かれている自衛官の皆さんにも敬意を表します。


祝日はその日に意味がある。

2007年10月08日 | 今日は何の日
ハッピーマンデー法により、「体育の日」が10月の第2月曜日になりました。
祝日は日々にも意味があるので、それが毎年変わるようでは祝日の意味が薄れてしまいます。
「体育の日」も、戦後の焼け野原から復興した日本の姿を改めて世界に示した東京オリンピックの開催を記念して作られたものです。
しかも、連合国(国連)からすれば旧敵国と言うことで、スポーツの世界でも対等に扱って貰えない時期もありました。
東京オリンピックのもう一つの大きな意味は、西欧以外のアジアの国で初めて開催された事です。
そう言う意味でも、この10月10日は人々の心に大きく残っていることでしょう。
祝日は祝日となる日に意味があるからその日に決めます。それを忘れることをしては文化の破壊にも繋がるでしょう。
「体育の日」から「東京五輪の日」に変えても良いのではないだろうか。


Japan On the Globe(182) 国際派日本人養成講座----------
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_/ 人物探訪:フレッド和田~二つの祖国
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_/ _/_/_/ 敗戦後、肩身の狭い思いをしてきた日系人たちは、
_/ _/_/ 祖国日本から来た水泳チームに熱い期待を抱いた。


■1.日系人たちの期待■

 昭和24年8月13日早朝、選手8名からなる日本水泳チームがロサンゼルスに到着した。18日からの全米水泳大会に出場するスポーツ界戦後初の海外遠征である。

 当時、日本はいまだ占領下にあり、保有外貨はゼロ。民間人の海外渡航は難しい時代だった。それを可能としたのが在米日系人の支援であった。飛行機代と滞在費で2千ドルが必要なところ、日系人たちの寄付は3千ドル以上も集まった。

 ロスを中心とする西海岸だけで10万人以上の日系人が住んでいたが、彼らは日本の敗戦で肩身の狭いをし、白人から「ジャップ」と蔑まれてきただけに、祖国日本の選手たちに熱い期待をかけていたのである。

 選手たちは出迎えたフレッド和田の車で、彼の自宅に向かった。和田は野菜や果実を中心としたファーマー・フレッズ・マーケット10店舗の経営者で、巨額のローンで2百坪の邸宅を購入したばかりだった。和田はそこで選手たちの宿泊から食事まですべて自費で面倒見ようと申し出ていたのである。

■2.身を立てる■

 フレッド・和田勇の父、和田善兵衛は明治25(1892)年に和歌山県からカナダのバンクーバーへ出稼ぎ漁師として移住、その後、同郷の玉江と結婚し、1907(明治40)年にフレッドが生まれた時には、カナダ国境に近い米国ワシントン州ベリングハムで小さな食堂を経営していた。

 しかし生活苦のため、フレッドは4歳の時に和歌山の母方の祖父母に預けられた。9歳で米国に戻ったが、弟たちが次々と生まれ、居場所がなくなって、12歳の時からシアトル郊外の農園に住み込んで、雑役夫をしながら学校に通った。

(略)  

■6.和田夫妻の思い入れ■

 前年にロンドンで戦後初のオリンピックが開かれていたが、日本は参加できず、日本選手権を同時期に開催して記録の上で競うことにした。1500メートル自由形決勝で、1位の古橋と2位の橋爪が出した記録は、ロンドンの金メダリストより40秒以上も速い世界新記録だったが、公認されなかった。

 日本のプールは短いに違いないとか、日本のストップウォッチは壊れているとか書き立てるアメリカの新聞に和田らは悔しい思いをしていた。そこで日本の選手たちに良い環境を提供して万全の体調で臨んで貰おうと和田は考えたのである。妻正子は、茄子のみそ汁や牛肉の照り焼きなど、おいしく、栄養のつく日本食でもてなした。

 日本で貧しい食事しかしていなかった選手たちは、正子のごちそうに大喜びし、広いベッドで十分な睡眠をとった。選手の一人の橋爪は、フレッドや正子と同じ和歌山出身であり、故郷の茶粥に舌鼓を打った。練習のためのオリンピック・プールへの送り迎えはフレッドが担当した。

 選手達は、日系人達の思いに、深く期する所があった。

■7.再建日本の姿■

 8月16日の大会初日、1500メートル自由形予選A組に橋爪が出場した。橋爪は最初から飛ばし、200メートルで早くも2位以下の米国勢に完全に水をあけた。飛ばしすぎではないか、途中で息切れするのではないか、と和田は心配した。

 しかし橋爪はそのまま2位を150メートル以上も引き離してゴールインした。タイムは18分35秒。それまでの記録を一気に20秒以上も短縮した世界新記録である。

 続くB組ではライバルの古橋が好スタートを切った。1000メートルを過ぎたころから記者席がざわつき始めた。最後の100メートルでは腕でぐいぐい引っ張る泳法に変わった。疲労しきって、最後の力を振りしぼって頑張るときに見せる古橋独特の泳法である。和田は、必死に泳ぐ古橋の姿に胸を打たれた。

 18分19秒。橋爪が出したばかりの世界新をさらに16秒も縮める大記録である。スタンドのアメリカの選手たちは、全員ボーと眺めているのみであった。古橋と橋爪をたちまち50人ほどの白人が取り囲んで、「グレート・スイマー!」「フライング・フィッシュ・オブ・フジヤマ!」と賞賛した。

 両選手の大記録には日本でも号外騒ぎだった。読売新聞はこう報じた。

 両選手の世界新レコードが場内にアナウンスされた瞬間こそ再建日本の姿がスポーツを通じて全世界に認識された瞬間であり、われわれは改めて両選手の功績に対して深い感謝の意を表するものである。

■8.一夜にしてジャパニーズ■

 翌日の決勝は古橋と橋爪のデッドヒートとなった。結局1位古橋、2位橋爪、3位田中と日本勢が独占した。観衆は総立ちで選手を讃え、そこここで日系人たちのバンザイの声がわき起こった。フレッドも正子もバンザイをしながら、止めどなく涙があふれた。

 結局日本チームは3日間で自由形6種目中5種目に優勝、9つの世界新記録を樹立し、個人では古橋が1位、橋爪が3位、さらに団体対抗戦でも圧倒的な得点で優勝を飾った。

 日本選手団がスタジアムを出ると、興奮さめやらぬ大勢の日系人が玄関で待ち受けていた。その中から年老いた一世の老婆が一団に近づき、「ありがとうございました」と拝むようなポーズをとって、ハラハラと涙を流した。会釈を返す選手たちも涙を誘われた。和田は再び胸が熱くなった。

 和田邸での内輪の祝賀パーティーて、乾杯のあとでフレッドは、涙を浮かべつつ、次のように挨拶した。

 さきほど監督さんが新聞社との電話で、在留邦人が理解してくれたおかげだと言うてくださいました。しかし本当にお礼を申し上げなければならないのは、私たち日系人なんです。古橋さんたちの活躍によって、ジャップと呼ばれておったのが、一夜にしてジャパニーズになり、みんな胸を張って街を歩けるようになりました。さっき一世のお婆さんが皆さんに手を合わせて感謝しておりましたが、拝みたくなる気持ちはよう分かります。

■9.東京にオリンピックを■

 全米水泳大会以来、和田は日本からやってくる各種競技選手団の面倒を見続けたが、1964(昭和39)年のオリンピックを東京に誘致することになり、岸首相から日系人でただ一人、東京オリンピック準備委員会委員を委嘱された。

 オリンピックを契機に、産業道路が整備され、それによって自動車産業が発展するなど、経済基盤、社会基盤の強化が進み、またアジアで最初のオリンピックを日本で開くことで、国民の精神作興も期待できる。和田は燃えた。

 僕は東京でオリンピックが開けるのなら、店のことなどどうなってもええ思うとる。東京でオリンピックやれば、日本は大きくジャンプできるのや。日本人に勇気と自信を持たせることができるやろう。

 しかし、デトロイトや、ウィーン、ブリュッセルなども立候補するという情報が入っていた。和田は中南米諸国の票がカギを握っていると考え、自費で各国のオリンピック委員を自ら説得して回ろうと提案した。

 首相からの親書と、外務大臣の手配で、和田は特命移動大使級の権限を与えられた。昭和34(1959)年3月29日、フレッドは、正子と共に、プロペラ機に乗り込んで、10カ国を一ヶ月以上かけて廻る旅に出発した。

■1.ムチャス グラーシャス■

 東京でのオリンピック開催への支持を訴えるべく、和田夫妻が最初に訪れたのは、メキシコのオリンピック委員クラーク将軍だった。フレッドは、いきなりスペイン語で挨拶し、スペイン語の名刺を渡した。

 クラーク将軍が頬をゆるめて、「スペイン語ができるのですか?」と聞くと、「ロスの店ではメキシカンをおおぜい雇っているので、挨拶ぐらいは自然にできるようになりました。」と答えた。将軍は一層気をよくした。

 フレッドがメキシコからは野菜や果物を沢山仕入れており、自分は大のメキシコびいきだと言うと、将軍も「私は親日家です。改めて握手しましょう」と応える。そして和田が東京オリンピックへの支持を訴えると、将軍はこう言った。

 和田さんの熱意には感服しました。ロペス大統領は私が責任を持って説得します。五輪大会と称されながら、アジアで一度も開催されていない点に重きを置くべきですよ。アジアで最初にオリンピック大会を開催できる国は日本をおいてほかにはないでしょう。

 将軍はその場で中南米諸国のオリンピック委員全員に対して、東京開催を支持するよう依頼する書状を書いてくれた。和田は天にも昇る気持ちで「ムチャス グラーシャス ヘネラル クラーク(ありがとうございます。クラーク将軍)」とうわずった声を上げた。

■2.革命直後のキューバ■

 メキシコで首尾良く支援の確約をとりつけてから、二人はキューバに赴いた。革命直後でまだ戒厳令下にあり、空港の至る所で兵士達が銃を構えている。オリンピック委員のモインク氏は、二人を危険な目に会わせてはならないと、ホテルまで出向いてきた。

 革命直後のキューバにお出かけいただいただけでも、感謝しなければなりません。和田さんご夫妻は、ラテンアメリカを1ヶ月以上もかけて回るそうですね。祖国のためとはいえ、そこまでなさる熱意に頭が下がります。

 正子が答えた。

 フレッドは、「東京オリンピック」に限らず、祖国のことになりますと、夢中になってしまうんです。

 和田の祖国愛に胸を打たれたモインクは、東京への投票を確約してくれた。

■3.ブラジル日系人の思い■

 ブラジルの委員からは、東京開催を支持するが、総会の開かれるミュンヘンまでの旅費2千ドルを援助していただけないか、と依頼された。和田は「結構です」と即答した。ブラジルには日系人もいるし、もし寄付が集まらなかったら自分で出そうと思ったのだ。それを聞いたブラジルの日系人会幹部は言った。

 和田さんご夫妻がこんなにご苦労されているのに、われわれが手を拱いているとしたら、ブラジル日系人の恥ですよ。2千ドルぐらい何とでもしますから、われわれにまかせてください。

 それを聞いて和田は胸が熱くなった。祖国日本に思いを寄せている日系人は、ブラジルにも大勢いるのだ。

 チリでは、オリンピック委員が総出で、空港まで和田を出迎えた。祖国のために自費で歴訪している和田の姿は、各国に感動の渦を巻き起こしていた。

■4.圧勝■

 5月初めにようやく長旅を終えて、ロスに帰った和田は、その月末には国際オリンピック委員会総会の開かれるミュンヘンに飛んだ。店の方を心配する正子を、5日間だけと、なんとかなだめて出てきたのだった。和田は中南米の委員達と食事を付き合いながら、それとなく東京への投票の念押しをした。

 投票の結果は、1回目で東京が58票中34票の過半数を獲得して、招致を決めた。2位のデトロイトが10票で、文字通りの圧勝だった。アジアと中南米の票が決め手だった。

 日本からのオリンピック委員はホテルで結果を待つ和田に一刻も早く知らせようと、会場を出た。駆けつけてきた和田を見つけると、バンザイでもするように両手を高く掲げて、こう言った。

 和田さん、決まったよ。34票もとった。驚いたよ。こ
んなにとれるとは思わなかった。和田さんのお陰だ。ほん
とうにありがとう。

 二人は抱き合って喜んだ。和田が中南米の委員達の所にお礼
に行くと、みなが東京開催を祝福してくれた。

 和田は日本オリンピック委員会の名誉委員に任命され、引き続き、東京オリンピック成功に向けての助力が要請された。さらに同行した東龍太郎・東京都知事が、和田へのお礼として名誉都民の称号を与えたいので、このまま一緒に東京に行ってもらえないか、と聞いた。しかし、正子に電話すると、「男なら帰ってらっしゃい。子供が褒美をもらいに行くようでおかしいですよ。」と一喝されて諦めた。

■5.日本はこれで一等国になったのや■

 昭和39(1964)年10月10日、東京オリンピック開会式。
フレッドと正子は、ロイヤルボックスの前方シートに座っていた。やがて全観客が起立して、天皇皇后両陛下、続いてアベリイ・ブランデージ国際オリンピック委員会会長を迎えた。メーンポールに五輪旗、日章旗、東京都旗がはためく中で、君が代が吹奏された。フレッドも正子も、君が代を聴くと、いつもながら粛然とした思いと、熱い思いがないまじった身の震えるような感動を覚える。

 続いて選手団の入場。和田夫妻が東京誘致を働きかけた国の 一つ、キューバの選手団は、ロイヤルボックスの前で、内ポケットから日の丸の小旗を取り出し、一斉に振りながら行進していく。拍手と歓声がスタンドにこだました。フレッドはキューバのモインク委員の親日的な態度を思い出した。

 続いて、ブランデージ会長が挨拶で「オリンピック大会は全世界のものである証左として、ついにここ東洋で行われようとしています。」と述べた。引き続き、天皇陛下が開会宣言をされると、聖火台の下でファンファーレが鳴り渡った。フレッドは涙がこぼれてならなかった。

 日本はこれで一等国になったのや。戦争に敗れて四等国になったが、よう立ち直った。日本人は皆よう頑張った。

 天皇陛下とマッカーサー元帥の並んでる写真は忘れられませんねえ。新聞で見たときパパが悔し涙を流したのを覚えていますか?

 あたりまえや。あんなショックは生まれて初めてやった。マッカーサーはノータイで、シリのポケットに両手をつっこんどった。天皇陛下はモーニング姿の正装だったのに、、天皇さんがオリンピックの開会を宣言したことは、日本が一等国になった証やと僕は思う。ほんまよかった。

 (略)
■6.「よし、引き受けた」■

 続く1968年のオリンピックでは、和田は東京招致を支援してくれたお礼に、2ヶ月近くもメキシコに滞在して、招致活動から開催までのあらゆるノウハウを伝授した。和田の献身的な協力に感動したロペス大統領はメキシコ招致成功の礼状と記念品を和田に贈った。

 さらに1969年には、ロサンゼルス市長からオリンピック開催の協力を求められた。ロス港の港湾委員会委員という要職に任命して、その立場からオリンピック誘致を支援して貰いたいという。和田は快諾し、オリンピックだけでなく、ロス港と和歌山港、清水港との姉妹港関係締結などを通じて、日米貿易発展に尽力した。

 和田は後には、港湾委員会委員長まで務めたが、71年に余生を日系人の老人ホーム建設に打ち込む決意を固めて、港湾委員会を辞任することとした。ところが、ロス市議会は満場一致で和田の留任要請決議を行ったのである。市議会始まって以来の椿事だった。ある議員はこんな支持発言をしている。

 ミスター・ワダに頼み事をして叶えてくれないことはありません。どんなことにも、嫌な顔をせず、「よし、引き受けた」と言ってくださいます。ミスター・ワダほど誠実で心やさしく、実行力のある人をわたしはほかに知りません。

 市会議員たちが自宅に詰め寄っても、和田の決心は変わらなかった。市長は記念の盾と感謝状を贈って、和田の功績を讃えた。しかしその後、和田はロサンゼルス・オリンピック組織委員の51人の中でただ一人東洋系人種の中から選ばれ、再び、日系老人ホーム建設とオリンピック誘致・準備と、多忙な毎日を続ける。

■7.日系引退者ホームの父■

 パイオニアとして働いてきた日系一世たちは年老いている。
いまこそ、お世話になった彼らに恩返しをすべきだ。和田はそう考えて、1961年に日系二世の有力者と相談して、日系社会福祉財団を組織し、シティ・ビュー病院を賃借して日系人のための診療を開始した。年取った一世たちにとって、日本語で日本人の医者と看護婦に診てもらえることは、何よりの安心だった。

 69年には、看護病院の敬老ナーシング・ホームを開設したが、施設建設のために、50万ドルの融資が必要となり、和田や他の日系人リーダーは、自宅を担保物件として提供した。港湾委員長を辞任した71年には、姉妹施設として南敬老ホームの開設にこぎつけた。
 
 75年には、3エーカーの土地と大小13棟からなるユダヤ系老人ホームを100万ドルで購入し、日系引退者ホームを開いた。資金は和田がリーダーとなって、わずか5ヶ月の募金活動で調達した。一世たちは体が言うことをきかなくなると、日本人の生活に戻りたくなる。日本食をとり、日本語で仲間と語り合う生活こそ、望みなのである。

 しかし、老人たちを救うだけが目的ではありません。三世、四世の若者達に後顧の憂なくアメリカ社会で仕事をしてもらうためにも、引退者ホームは必要なんです。・・・
ビジネスの世界で失敗するとお年寄りの面倒が見切れないとか、老後が心配だとかいうので、お前たちが失敗しても大丈夫なように、おまえたちのお年寄りは全部面倒見てやる、だから失敗を恐れずに思い切って仕事をやれと僕は言うとるんです。

 和田の考えは、常に前向きである。

■8.アメリカで根付いた日系社会■

 1989年3月17日、5階建て収容人員154名の日系引退者ホーム新館が完成し、オープンセレモニーが開かれた。新館建設のための募金活動は日本でも行われ、和田は何度も来日して、各方面に働きかけた。今まで和田にお世話になったスポーツ関係者や政財界が和田の呼びかけに積極的に応え、日本での寄付総額は4億36百万円に達した。

 式を前に、広場で新館を見上げる和田夫妻の目は潤んでいた。
正子は言った。

 この施設は、アメリカ全体の日系社会のシンボルになると思います。そして3世、4世へと時代を超えて受け継がれてゆくんです。

 うん。僕たちの苦労は報われたのや。

 パパは7人、私は5人兄弟で、わたしたちの従兄弟は26人おるけど、それぞれがファミリーを持って、二世、三世へと扇のようにひろがってくるんですねえ。日系社会はアメリカで根づきましたが、われわれを受け入れてくれたアメリカに感謝しなければなりませんねえ。

 二人はいつのまにか、老人達の輪の中にいた。和田に向かって手を合わせる老人もいる。寄る辺のない日系老人達にとって和田は拝みたくなるような存在だった。「元気そうやねえ」と、和田に優しく手を握られ、涙ぐむ人も多かった。

「誠実、勤勉、奉公」など戦前の日本人が大切にしていた生き方を台湾では「日本精神」と呼ぶが、和田に代表される日系人たちは、その生き方で北米や中南米の地に受け入れられ、しっかりと根をおろしたのである。
(文責:伊勢雅臣)

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog183.html


集団自決、教科書訂正。

2007年10月06日 | Weblog
沖縄集団自決の教科書記述で、軍の強制が削除されたと報道している。中には集団自決そのものが削除されたと書いているマスコミもあった。
またテレビのコメンテーターも軍の関与が削除と言っているのがほとんどです。
報道しているマスコミは、教科書の内容を知っているのだろうか。それとも知っていてこういう報道の仕方をしているのだろうか。

実際はどうなのか。赤旗のホームページに検定前と検定後の記述の違いが載っていましたので見て貰いたい。




これを見て貰えば、軍の関与は否定されていません。命令の部分だけが訂正されたのです。
沖縄で住民の集団自決が有ったのは事実です。しかしそれを軍が命令したと決めつけるのは事実に反します。
当時の国民は「鬼畜米英」でした。捕まれば何をされるか分からないと思っていたのが当時の常識です。
まして敵機から見さかい無しの機銃掃射や、火炎放射器で焼き殺されるのを見れば尚のことではないでしょうか。
鬼のような米兵が迫ってくれば何をされるか分からないと思うのではないだろうか。
その事を抜きにしては集団自決を理解できないでしょう。


クローズアップ現代「集団自決」





これからも美しい国へ。

2007年10月05日 | Weblog
テレビにいろんな大学教授がコメンテーターとして出てくることが多くあります。
その中で大阪学院大学の國定浩一教授がいます。
この人は関西では、阪神タイガースの熱狂的ファン(応援団)として有名です。特にジャケットの裏地がタイガース柄なのも有名ですね。
この國定教授が、安倍首相が主張した「美しい国日本」について以下のように述べています。



安倍首相は就任時から「美しい国」を創るということを掲げてきましたが、評論家などは、中身がないとか空虚だと批判していました。それは当たっていません。私は一貫してこの安倍構想に賛意を表してきました。安倍さんは退任されましたが、この方向は生かしたいものです。

施政方針演説などをしっかり読めば、安倍さんの考えがはっきりと読み取れました。首相は目指すべき「美しい国」の一つに「文化・伝統を大切にする」ことを挙げ、「規律を知る国」という一語を付加していました。
そうです。この「規律」という言葉こそ、今最も軽視されてきつつあるものなのです。21世紀に入ったころから、わが愛する日本の国は「カネ」がキーワードとなる卑しい国に成り果ててしまいました。「カネさえあればなんでもできる」とか「カネ儲けがそんなに悪いことですか!」と臆面もなく天下に公言する若者がヒーローになりました。政治や経済の世界もそれを咎めるどころか、サポートとして支援し、称えました。
そこに危機感を抱いて登場した安倍首相は、象徴的に「美しい国」を掲げたのでしょう。そして最重要政策に教育改革を据えました。

私は、学生に対してクラスであらゆる機会をつかまえて、「カネは汗を流して稼げ」と伝えています。
それ以外の方法で手にした「カネ」は身につかぬとも。
カネが最優先される世の中は、荒れます。何でもあり、になってしまいます。(上は大臣までも。)マナーが軽視されています。
電車に乗ってみれば、床に座り込む若者、恥ずかしげもなく化粧に集中する女性、モノを口にする(というより食事をする)のは普通、おにぎりはもとより、すしやさしみさえ堂々と電車の中で……。
(略)
余談ですが甲子園球場の様子をご紹介しましょう。
甲子園のライトスタンドは、試合終了後ゴミは残されていません。若い男女が皆自分たちのゴミを袋に入れて出口近くにある集積所にまで持って行っているのです。これは一日にしてなったものではありません。私は阪神タイガース私設応援団のメンバーですが、団員は自分の目に入るゴミは全て拾い上げ、ポケットに入れるということを実行してきています。
通路を歩いていても端々まで目を配り、拾いに行きます。風船も。それを見ている若者は自然にその習慣に自分たちも加わってくれるようになりました。
美しい国は、身近なところからです。


安倍元首相の事を理解していたのは、保守と言われる人よりも反日左翼の人達だったのではないでしょうか。
だからこそあれほど露骨に、安倍首相のネガティブキャンペーンをおこなったのです。
それに公務員改革をされては困る勢力が加わって、小さな事も大きくしていったのです。

日本人は気の短いところのある民族です。何事も直ぐ結果が出ないと気が済まないところが有ります。
その例となるのがプロ野球の監督ではないでしょうか。
最初は期待して3年契約を結びますが、良い結果が出なければ1年や2年で首になります。ちゃんと最後まで見ようとしないところがあります。
よほど駄目なら納得もしますが、そんな事に関係なく行われます。
これは日本のどの世界でも通じることです。




安倍首相辞任の影響が出てきた。

2007年10月01日 | Weblog
安倍元首相が辞任して、福田首相に成ったら早速出てきました。
安倍元首相に辞めろと言っていた、所謂保守と言われていた人達はどう思っているのだろうか。
安倍首相が反日左翼の防波堤になっていたのが、よく分かったことだと思う。
今まで止めていた水が一気に流れ出てくるかもしれないだろう。

それから、教科書検定に国が関与しても良いのだろうか。
侵略を進出に書き換えたと騒いで批判したのは何処のマスコミだったか。

教科書「自決強制」復活を検討 文科省、沖縄に配慮

2007年10月01日23時08分asahi.com
沖縄戦で日本軍が住民に「集団自決」を強制したとの記述が教科書検定で削除された問題で、文部科学省は、記述の修正が可能か、検討を始めた。検定意見の撤回を求めて9月29日に開かれた沖縄県民大会に11万人が参加したことから、町村官房長官が1日、渡海文科相に対応を指示。渡海氏も、政治的に左右されないために設けられた検定制度の枠内で可能な対応を検討するよう省内に指示した。

 町村氏は1日の記者会見で「沖縄の皆さんの気持ちを何らかの方法で受け止め、修正できるかどうか、関係者の工夫と努力と知恵がありうる」と述べた。渡海氏も記者団に「(検定に)政治的介入があってはいけない。しかし、沖縄県民の気持ちを考えると、両方ともものすごく重い。そのなかで何ができるか考えたい」と述べた。

 渡海氏は、県民大会を受けて検討を始めたことを認め、仲井真弘多知事が上京すれば直接会うとの考えも明らかにした。また、教科書会社から訂正申請があった場合、「真摯(しんし)に対応したい」と語った。既に数社が、訂正申請に向け検討を始めている。

 文科省は「検定の撤回はできない」との立場だが、過去に事実上、方針を転換した例がある。記述を復活させるために、こうした方法を今回適用できないか検討する。

 方針転換の例としては、沖縄戦に関する81年度の検定がある。日本軍による住民殺害の記述が削除された後、沖縄県民は激しく反発。小川平二文部相(当時)が国会で「次の機会に県民の方々のお気持ちに十分配慮して検定を行う」と答弁、83年度の検定で事実上復活した。

 80年度には高校の現代社会の教科書に水俣病の関連で「チッソ」の企業名が記されたのに対し、文部省(当時)は「特定の営利企業の非難になるおそれがある」と意見を付け、削除された。しかし、批判が高まり、同省は事実上撤回。81年秋に6社が訂正申請し、承認された。

 このほか、過去に例はないが、文科省は教科書会社に訂正申請の勧告をすることもできる。

 沖縄県民大会で実行委員長を務めた仲里利信・県議会議長(自民党)は「11万県民の気持ちをくんでいただいた大変な配慮だと思う。どういう形で結論が出されるのか、ぬか喜びすることなく、大きな期待を持って見守っていきたい」と話した。

 《教科書検定》 民間の教科書会社が申請した本を検定基準に基づいて文部科学省が合否判定する仕組み。文科省が検定意見を付した場合、教科書会社は意見に従って修正した本を再度提出して合否判定を受ける。

 検定は大学教授などで構成される「教科用図書検定調査審議会」の検討を経ている。このため、一度決まった検定意見を政治の意向で変えることについては「介入につながる」との理由で、政府は否定的な立場を貫いている。