一燈照隅

日本が好きな日本人です

世界最古の企業

2007年06月30日 | 日本の文化
テレビを見ていたら、世界で一番古い企業は日本の「金剛組」と紹介していました。
ただ創業の年代を言っただけで、何をしている企業なのかの紹介が全くなかったのが残念です。
「金剛組」は四天王寺造営の時に作られた企業で、千四百年以上経った現在も営業しています。
日本最古の四天王寺と一緒に年代を重ねてきた企業です。

この「金剛組」、一月ほど前の産経新聞のコラムで紹介されていました。
何代も続く「老舗」と言われる企業は多くありますが、それを遙かに超えた千四百年も続く事自体が素晴らしいことだと思います。


技術あつての千四百年

古いものが好きだ。いま目の前にあるものが、いったいどんな時間を過ごしてきたのか想像する。
アンティークショップで買った1950年代製の時計は、誰の腕でどんな時間を刻んできたのか、自分と同い年のライターは、何本の煙草に火をつけてきたのか。
しかし、それらはモノに過ぎず、背負う歳月も数十年。では、ヒトが1OO年、1000年とつながり、同じ看板を掲げ続ける魅力とは、どんなものだろう。「老舗」を訪ねてみよう、そう思った。

推古天皇の時代、西暦593年に造営された大阪の四天王寺。手がけたのは578年に聖徳太子が百済から招いた3人の工匠だった。そのひとりの名を金剛重光という。企業として、日本、いや世界でも例がないほどの歴史をもつ建築会社「金剛組」の初代だ。その末裔に会うために四天王寺に向かった。
JR天王寺駅を降り、谷町筋をまっすぐに北へ。天王寺公園の緑がまぶしい。泉州名物の水なすを売る露店をながめながら歩くと、右手に石造りの大きな鳥居が見えてきた。重要文化財で日本三鳥居のひとつという。鳥居脇の石柱には「大日本仏法最初四天王寺」の文字。どこか誇らしげだった。
その鳥居のほど近く、四天王寺の西方を守るように「金剛組」はある。1400年以上前から、ずっと。
「四天王寺さんのおかげでこれまでやってこられました。ずっとお守りせなならんのです。離れたらあきません」
そう話すのは、重光から数えて三十九代目、同社相談役の金剛利隆さん。利隆さんは四天王寺から「四天王寺正大工第三十九世金剛広目利隆」の名を得ている。四天王のなかで西を守るのが広目天。いかにも、と感じた。利隆さんの案内で境内を歩いた。五重塔と金堂、講堂が南から並び、回廊が囲む。金堂の脇で利隆さんは立ち止まった。「全部鉄筋コンクリートですわ」。言われるまで気づかなかった。
「いかに木に見せるか、という苦労をしながら、飛鳥時代の姿を再現したんですな」

四天王寺は過去7回、焼失や倒壊の憂き目に遭ってきた。織田信長の焼き討ち、大坂冬の陣、室戸台風、空襲…。しかし、そのたびに再建してきたのは常に金剛組だった。四天王寺を見舞った災厄が、はからずも金剛組を存続させてきたのではないか。不謹慎だが、利隆さんにそう尋ねてみた。
利隆さんはうなずいた。「はっきり言うたら、四天王寺の一員にしてもらったということです。江戸時代までは扶持米をもらってやってきたんですから」

状況が一変したのは明治の廃仏殿釈。四天王寺は寺領を失い、金剛組の仕事も減った。しかし、職人気質の経営は、営業で仕事をとることをよしとせず、いきおい会社は傾き、三十七代目は「先祖に申し訳ない」と代々の墓前で自殺した。
三十八代を継いだのはその妻、よしえだった。利隆さんの義母にあたる。「四天王寺の女棟梁いうて有名やったんです」。室戸台風で倒壊した五重塔を5年かけて、昭和15年に再建した。しかし、空襲のため昭和20年に焼失。同じ轍を踏むまいと、戦後は鉄筋コンクリート造りになった。焼失はなくなったが、逆に言えば、それは金剛組にとって試練だったのかもしれない。一昨年、経営不振から金剛組は大阪の中堅ゼネコン高松建設の傘下に入り、金剛家出の社長は四十代でついえた。「いずれは金剛家から、と思うてます。支援はありがたいですが、やっぱりどこかで本家の筋がつながってないと」と利隆さんは言う。

金剛組本社3階の相談役室。利隆さんは、ロッカーから大切そうに鞄を出した。中から取り出したのは、江戸時代に生きた三十二代金剛喜定の書き遺した戒め「職家心得の事」だった。こうある。

一、 曲尺の使い方など、大工の基本的な技術習得に励み、神社仏閣について教養を積んだ上で仕事に当たること。
創業以来、四天王寺に寄り添いつつも金剛組の存続を裏打ちしてきたのは、宮大工たちの確かな技術。平成14年、金剛組は四天王寺に「番匠堂」を寄進した。まつられているのは、大工道具の曲尺を持つ聖徳太子。全国から参拝する大工が絶えないという。
「技術あっての金剛組です。技術で生きて、なんとか続いてきた。それは継承していかなあかん」と利隆さん。「歴史は歴史です。汚したらあきません。大工はみな必死で一生懸命ですわ」
「老舗」を辞書でひいてみた。語源は「仕似す」。似せて物事をすることという。親から子、子から孫へ、1400年以上に渡って伝承される技術。先祖の技をどうまねてきたのか、宮大工の「仕似す」を見たくなった。(酒井潤)
"毎週木曜日掲載(産経新聞)




米国を信用するのは間違い。

2007年06月27日 | 時事問題
慰安婦決議案を可決 米下院外交委 首相の公式謝罪促す
慰安婦決議「コメントしない」と首相
平沼氏ら、米慰安婦決議に「憂慮」 事実に基づく歴史研究必要と

さーこれで日本も、「広島・長崎に投下した原爆による大虐殺」や、「占領軍による日本人女性の陵辱、殺人」に米国大統領の公式謝罪を求める決議が堂々とできるようになった。
小泉前総理によって日米同盟が強固になったと、浮かれていた親米の者はどうコメントするのだろうか。
しょせん米国はこの程度でしかありません。
日米安保も永遠に続くと思うのは間違いです。
安倍総理は静観すると言っているが、西洋人の世界では何も言わないことは認めたことになります。
ここはハッキリと事実に基づかない決議で、同盟国にこのようなことをするなら上記決議を世界に公表して行うだろう。と言うくらい米国を揺するべきです。
同盟国である米国が信じられないので、“核武装する”とも匂わせるべきでしょう。

今回の決議で特に腹が立つのは、従軍慰安婦にしろ、南京虐殺にしろ先人に泥を塗るような事を、捏造してまで日本人がしているのが一番許せない。



禍転じて福(事実を知る)となるか?

2007年06月26日 | 時事問題
安倍総理や社保庁長官達がボーナスを返上することが新聞に出ていました。
さっそく民主党やメンテーターは選挙前の人気取りと騒いでいます。

民主党やコメンテーターは政府が何をしても騒ぐだけ。
返上された金額を今回の処理の費用に使えばそれだけでも助かります。

社保庁職員にボーナスが満額支給されると公表されたときに、マスコミやコメンテーターは「何でボーナスが支給されるのか」と怒っていたではないか。
それがボーナス返上を言うとそれに怒り出す。これらの人達の精神構造がどうなっているのか、まともでないことだけは確かです。

年金問題で政府自民党は、名寄せを1年ですると言っていますが、民主党は「そんな事は1年ではできないもっとかかる」と言っています。
国民からすれば、最初から1年でできないと言っている政党より、1年でやると言っている政党の方が有りがたいと思うのだが。
1年でできれば儲けもの。最初からできないと言っているより国民からすれば1年でできれば大助かりです。
民主党やマスコミは1年でできない理由ばかり述べているが、1年でできると困ることがあるのだろうか。
単純にこれまで仕事をしてこなかった社保庁のペースで考えたら無理だろう、しかしケツを叩けばいいことです。
【歪みの構造 社保庁問題】(上)覚書で26年 天国の職場

今回の年金の問題は、厚労大臣や社保庁長官だけに問題があるのではなく、仕事をしてこなかった職員に一番の問題があります。
この事に民主党は蓋をしています。自分達の支持母体である自治労を選挙前に批判したくないからです。
今回の年金問題は民主党にとってチャンスだったのに、従来の野党と変わらない方法で自らチャンスを遠ざけています。
首相が一年で不明の年金を名寄せすると言っているのだから、「できない。できない」とできない理由を探してきて不安を煽るように言うのではなく、自治労に問題があったが「国民のため民主党も協力する」と言えば民主党は国民の支持を集めるだろう。
この辺りが民主党が駄目な政党なのだろう。特に小沢代表になってから“何でも反対党”に成り下がってしまった。

先日も「衆議院議長河野洋平君不信任決議案(鳩山由紀夫君外六名提出)」を提出しておきながら、肝心の小沢党首は欠席しています。
この政党はやっぱり駄目です。

○鈴木恒夫君 自由民主党の鈴木恒夫でございます。

 私は、自由民主党、公明党を代表いたしまして、ただいま議題となりました衆議院議長河野洋平君不信任案に対し、断固反対の意を込めて討論を行います。(拍手)

 申し上げるまでもなく、議長は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である国会の最高責任者であります。その権威と地位は、我々国会議員が率先してこれを守り、高めなければなりません。

 我々が全会で一致して選出をし、与野党で良識を持って守らねばならない議長の権威を、今まさに極めて意味不明な、理不尽な理由によっていたずらに傷つけ、地におとしめようとする政党がありますことに、まことに愕然たる思いがいたします。

 とりわけ民主党の皆さん、ちょっと振り返ってください。これだけ、国権の最高機関たる議長の不信任案を出した政党の代表が席にいないじゃないか。何たることですか。きょうは、議長の不信任が問われている。政党の代表がいないのはおかしいじゃないか。

参議院選挙は年金だけではありません。




いわゆる百人斬り捏造 

2007年06月25日 | 支那事変
二 その娘さんのたどった道

厳しい寒さも和らぎ、やがて春となった。その頃、山口県神代村の向井家に、質素な紙に包まれた一房の髪と、わずかばかりの爪が届けられた。南京の戦犯収容所を釈放された一人が、復員の途中に届けてくれたのであった。
向井氏の実家には敏明氏の母ふでさんと、幼い二人の娘さんが住んでいた。亡くなった前妻との間にできた子で、中学と小学校とに入ったばかりであった。年老いた母が、その届けられた遺髪と爪を、どんな思いで受け取ったことか。
そしてその悲しみに加え、敏明氏からの送金も絶たれたため一家は故郷の家をたたみ弟猛氏と親族の家とに、分散して預けられることになった。猛氏は千葉県の成田に住んでいたが、そこには老母と幼い次女千恵子が預けられた。だがそれもしばし、やがて仕事に失敗した猛氏は家を手放したため、老母と幼い千恵子さんの二人は市営住宅で独自の生活をしなければならなくなった。
昭和の二十年代、老母と幼な子二人の生活がどんなに厳しいものであったか、とにかく大の男でも、その日の食にありつくのがやっとという時代なのである。
そんな老母のところへ、わざわざ鹿児島から野田毅氏のこれも年老いた父親が尋ねて来た。怒りのやり場に窮した老爺は、せめてそれを口にできる相手を求め、はるばると上京したのである。
戦死なら、諦めもつくだろう。しかし、ありもせぬことを書かれて、それがために処刑されたなどということは、親の身となったらとても諦めきれるものではない。しかもやっと生き残って復員し、平和な生活が始まっていた矢先だけに、その無念さは言いしれぬものがあったに違いない。しかし老母は、
「日本人に悪い人はいない。浅海氏にも証明書のことで礼を言って下さい」
という遺書の心を尊重してか、浅海氏にたいしての恨みつらみは一語たりとも漏らさなかった。
この時次女の千恵子さんは小学校の二年生で、まだすべてを解する齢ではなかったが、しかし年とともに、「戦犯の子」と陰口を言われるようになっていた。戦犯は人殺しをした悪い人、とでも言いたいのだろうか。それは大人が言っているのを、子供がそのまま真似しているだけで、子供に罪はないのだが。
こうした世間の冷たい眼と、貧しさの中で老母と孫は生きていったのだが、それでも老母はその苦しい中を針仕事で貯めた金なのか、孫を高校に進学させたのである。それというのも、
「孫たちを頼みます」
という我が子敏明の遺書に、支えられてのことであった。
お陰で千恵子さんは高校を終え、就職もし、そして結婚もできるようになった。そして浅海氏の心なき記事によって、悲惨な十年二十年を送った向井家にも、ようやくその災は遠のいたかに見えたのであった。他家に預けられた姉娘も、同じように労苦を重ねながらも結婚していたのである。だがその災は、いまだ過去のものとはなってくれなかった。

それは、朝日の本多勝一記者が、突然百人斬りの記事を再び朝日新聞に書いたことから始まる。
しかもそれは、戦闘中の武勇談からさらに脚色され、平時における中国人虐殺のほうへと一歩大きく踏みだした書き方であった。
その表現は、尻尾を掴まれぬよう他人の発言とするなど配慮はしてあるものの、とにかく一般市民虐殺の印象を強く与えるものであることは確かなのである。そしてそれを本にして出版したのであった。根もない浮草に、無理遣り花を咲かせたようなものである。
二人の子を抱え、幸せに暮らしていた千恵子さんは、ある日突然夫からその本を見せられた。
いや、突きつけられたのである。
「人を殺すなんて、どう考えても悪いことに決まっている」
夫は、そう突き放すように言った。結婚する前から、父敏明氏のことは話してあったし、すべて分ってくれているものと信じていた千恵子さんにとって、これは大変衝撃的なことであった。
すぐそれを読み、そして説明していったのだが、夫はどうしても理解してくれない。
千恵子さんも根気よく、何度も記事の不条理を説いたのだが、夫はその言葉より記事のほうを信じているようで、妻の言葉には耳をかそうとしないのである。そしてついには、
「お前は結局、人殺しの娘なんだ」
と、はき捨てるように言った。幸せな生活は、ここからがらがらと音をたてて崩れていった。
戦争というものをあまりにも知らないということと、軍人性悪説とを教育された世代の悲劇としか言いようがないのだが。
一人の心なき記者の書いたものが、二人の人間を死に追いやっただけではなく、その老母と孫をいつまでもこうして苦しめていく。千恵子さんの姉は、本多氏の記事を読んで精神的に大きな衝撃を受け、腕が動かなくなるという症状におちいってしまった。そのほか敏明氏の後妻となった女性も、またその子供も、そして野田家の人々も、またまた酷い苦汁を飲まされたのである。
事実なら何と言われても仕方ないが、話はまったく逆で被害者は向井氏たちなのである。
「日中友好の捨て石となる、と言って死んでいった父です。それなのに、こう何度も引きずり出され、鞭打たれるのでは、父は浮かばれません。しかも信じていた、同じ日本人にそれをされるのですから」
と言う千恵子さんの言葉は、その同じ日本人の一人として決して人事ではない。その上、悪逆無道の人間として写真まで使われているのだ。これでは向井氏の崇高な心は、確かに宙に浮いてしまう。第一千恵子さんのみならず、遺族の方々の心情を思うとかけるべき言葉もない。


三 進歩的文化人という人々の文化革命論

浅海一男氏は、その後も毎日新聞を代表する記者として遇され、名誉職員となり著作も幾つか出されているという。私もつい興味を抱き、そのうちの一冊『新中国の入門』という本を手に入れ、読んでみたのである。
あれだけ軍国調の記事を書いてきた浅海氏が、敗戦後はいったいどんな記事を書いているのだろうか、と思ったからである。だがそれをさらっと読んで、思わず唸ってしまった。何と今度は一転して、新中国と共産党を讃美する言辞で、見事に埋め尽くされているからであった。
「新中国は全世界の被圧迫人民、民族を励ますという崇高な目的を持っている」
だから中国が核実験をするのは当然で、それは、
「他国の核兵器を使えなくし、終局的にはそれらを消滅させる為の兵器」
であり、米帝国の核は悪いが、中国共産党が核兵器を持つのは正しいという。そしてさらには、
「文化大革命こそ、さらに理想的な社会主義国家を建設するための正統な革命である」と、文化革命と毛沢東を絶賛しているのだ。数百万の人が意味もなく殺されていったという、文化大革命だが、それが浅海氏には天の啓示のような、素晴らしいものに見えたのであろうか。そしてその一方で、手ひどく批判されているのは、
「日本帝国主義の中国侵略」
である。しかし侵略と言うならば、いかに従軍記者とはいえ、軍とともに行動し好戦的な記事を書きまくった浅海氏自身も、その侵略者の一人ではなかったのか。そんなことはまるでなかったかのように、あるいは人事のように日本軍の凶暴性を強調しているが、浅海氏とて、少なくともその片棒を担いだ人間ではなかったのか。
南京戦に従軍した百二十数名の特派員のうち、戦後になって、
「南京大虐殺は実在した」
と言いだした人が三人いるのだが、その内の一人が浅海氏であった。だが、その謎もこれで解けたようだ。そしていわゆる進歩的文化人の、一つの典型をここに見る思いがしたのである。
しかし、この文化革命なるものを礼讃したのはひとり浅海氏のみではない。浅海氏は毎日だが、朝日のほうはそれこそ人類の叡智ででもあるかのように書きたてていったのは、多くの読者が知ってのとおりである。またこれに追従する、いわゆる進歩的文化人とやらも多かったはずだ。
しかし皮肉なことに、それほど讃美してやまぬ文化革命も日ならずして否定され、今度は一転して犯罪ときめつけられ裁きを受ける羽目になった。江青ら四人組を筆頭に死刑から無期など、断罪と粛清の嵐が吹き荒れていったのだが、それでは、日本の文革礼讃の人々はどうであったか。
まさか断罪されることはないにしても、せめてその非を認め、
「今までの論調に誤りがあった。申し訳ない」
の一言くらいあって然るべきであろう。でなければ、現在の中国政府を間違いと否定するか、そのどちらかでなければならぬはずだ。
この文化大革命の酷さは、だいぶ知られてはきたが、とにかく西蔵一つ見ても、寺は壊され経文は焼かれた。そして多くの人が殺され、その上佛画を踏み絵にまで使ったというのだが、こうした文化の破壊がいったい何の革命になるというのか。
当時ネパールで命からがら亡命してきたチベット人に会ったことがあるが、同じ佛教をこよなく愛する人間の一人として、深い同情の念を禁じえなかったのを思い起こす。
現在、印度に亡命中のダライ・ラマは、西蔵(チベット)の独立とその平和的達成を主張し続け、ノーベル平和賞を受けたのは周知のとおりだが、そのダライ・ラマは、
「中国の侵略以来、百万のチベット人が殺害された」
と、言っている。その数値が正確であるか否かはともかく、それに近い犠牲者が出たことだけは確かであろう。
そしてなお中国本土では、文革中の十年間に六百万余の犠牲者が出たという。これは外国紙の報道だが、日本の新聞はこういう記事はまずもって報道しない。たとえ報じても、紙面の片隅に小さく載る程度だから、ほとんど人眼を惹くことがない。せいぜい雑誌が、これら外国紙の記事をとりあげるくらいである。
だがその一方で、米軍によるものは、ベトナムのソンミ村で三百人もが虐殺されたとして、くり返し幾度も報ぜられる。そして、その人道上の罪もさまざまな形で追及していく。
ところがカンボジアでは、ポルポト派という共産軍によって、百万から三百万というこれまた大量の虐殺があった。これはもはや隠しようのない事実として報ぜられているのだが、それでも、人道上の問題として追及しようとする動きなどまったくない。
罪もない住民をこれだけ多数殺害しても、ポルポト軍にたいする非難の声は、日本ではさっぱり聞かれないのである。反戦運動家なる人々も、黙して語らずである。それは、ポルポト軍が中国に支援された共産軍だからなのだろうか。
このように、現在でもなおかつ一つの流れ、つまり報道への傾向性というものがあるのだが、人道上の罪を追及するということで南京大虐殺を追及するというのなら、同じ年に起きた通州事件なども当然とりあげるべきなのだ。
それは、蘆溝橋事件が起きたその直後のことであった。北京郊外の通州という街で、日本の軍人数人と、婦女子を多く含む邦人二百六十人が、ことごとく惨殺された事件である。しかもその惨状は、形容しがたいものであった。
それでも日本の新聞は、この事件に関してはほとんど触れていない。あるいは、私が見落としているのだろうか。とにかく日本の報道がいかに偏っているかということだが、こうして四十余年、今や日本人の多くはかなりの程度洗脳されてしまった。それが世界の常識と、日本の常識との差になって現れている、と言えよう。

結局あの文化革命なるものは、単なる権力闘争にすぎなかったのだが、日本の支持者はそんな実情も分らず、ただ右往左往させられているうちに結論が出てしまったということだ。とにかく、どんな思想でも、本当に信ずるならそれもまたよし。それに殉ずるのも結構だ。だがその時々に、ただ迎合するだけとあってはいただけない。まして公正な報道という名のもとに、かほどまでに偏向し、一方的な報道をするとはもはや犯罪に近い、と言わざるをえない。
ただ浅海氏はすでに故人となられているだけに、死者に鞭打つようで恐縮だが、虐殺を否定するためにはお許しいただきたい。
とにかく、浅海氏の場合その筆によって二人もの命が断たれているのだ。これは事情のいかんにかかわらず、大きな心の負担となることは間違いない。だからこそ、南京大虐殺を主張したり、文革礼讃をやったりと、一つの突っ走りをしないと、じっとしておれなかったのかもしれない。
人間は本来素晴らしいものだ、心麗しきものだと信じていることからすれば、そう思わざるをえないのだが、ただちょっとした横着と見栄と、そして誰もが持つ卑劣さに打ち負けると、人間思わぬ方向へ行ってしまうものだ。まこと、人事ならぬ思いではある。
遺族の千恵子さんにも、ふとそんな話をしたのだが、これだけ手酷い仕打ちをマスコミから何度も受けている千恵子さんにとって、それは何の慰めにもならなかったかもしれぬが。
なお千恵子さんは、七年ほど前に父を失った働巽の思いと、もう私たちをいじめないで下さい、という趣旨の一文をある雑誌に寄せている。そしてその後、再び父処刑の地雨花台を訪れている。
彼女にとっては、そこが永遠に忘れえぬ地、となっているのだ。
そしてその近くの江東門には、虐殺記念館が建ち、そこには今もって向井、野田両氏が並んだ写真が、虐殺犯人という説明付きで飾られている。これも、彼女にとってはたまらぬものの一ついずれにしても報道や記事というものは、いつでも凶器になり得るということを、ここでも痛烈に思い知らされるのだが、同時にそれを常に批判できる機関も、必要だということを痛感せざるをえない。
とにかく、マスコミの実態なるものを、もっともっと国民は知る必要がある。

「仕組まれた南京大虐殺」大井満著 展転社


平沼氏ら超党派議連発足、「中国の反日写真撤去求める」



いわゆる百人斬り捏造 

2007年06月25日 | 支那事変
戦争は必ずしも、正しい者が勝って悪しきものが負けるとは限らない。
勝った者が正しき者として君臨する。
負けた者がその事で迎合してしまうのです。
それが正しい歴史となってしまっては駄目なのです。


南京軍事法廷

終戦の翌年、昭和二十一年の春であった。
陸軍大尉向井敏明氏は、長い戦場生活を終え復員し、宇治山田市の自宅に落ち着いた。そして三月ほどがたち、やがて夏を迎えようとする六月の末に、一人の警察官がやって来たのである。
「実は米軍が、向井敏明という人を捜しているのですが、あなたは北岡さんですよね」
と、言う。この時すでに、彼は北岡家の養子となっていたからで、それで向井敏明という人物の存在がなかなか分らなかった、というのだ。
「それなら、北岡さんでいいじゃないですか」
と、警察官はつけ加えた。出頭しなくても、それで通してしまったらいい、ということだ。この頃は、巣鴨の拘置所には多くの戦争犯罪人容疑者が収容されていたし、横浜の軍事法廷ではBC級の戦犯が次々と裁かれ、すでに極刑も相次いでいた。そうした状況下での、米軍呼び出しである。警察官も同じ日本人として、逃亡をすすめたくなるのも人情であった。だが向井氏は、「いや、私は別に悪いことはしていません。それに、私が行かなかったため困る人がいてもいけませんし、出頭しましょう」
と、答えたのである。まっ正直な彼は、戦犯裁判にも正義はあると思っていたのかもしれない。
だがすでに横浜の軍事法廷でも、無実の青年が死刑になった例は多い。「私は貝になりたい」という劇(ドラマ)が後に有名になったが、これなどもそうした裁判の実情をよく物語っている。
七月の一日、向井氏は上京し市ヶ谷にあった米軍の検事局へ出頭したのである。心配した実弟の向井猛氏が同道したのだが、米軍の尋問は呆っ気ないほど簡単に終った。そこでは南京攻略戦当時の新聞記事について聞かれたのだが、その百人斬りの話は記者が勝手に書いたもので、事実ではないと説明すると、すぐ分ってくれたのである。そして、「記事によって迷惑を受けるということは、米国でもたくさんあります」
と、パーキンソン米軍検事は、かえって慰めの言葉をかけてくれたのであった。
それほど記事には信憑性がないということだが、またここには正義がいまだ存在したということでもあった。

それから一年の余、向井氏とその家族は平和な日々を送り、このまま何事もなく過ぎていくかに見えた。しかし昭和二十二年の夏も、ようやく終ろうとする九月の二日に、またも向井氏は呼び出しを受けたのである。
しかも今度は、いきなり地元の警察に留置されるという、ただならぬ雰囲気であった。後にして思えば、はじめから重要戦犯としての指名が、中国側からなされていたものとみえる。
やがて向井氏は東京へ護送され、巣鴨の拘置所に拘留された。容疑はやはり前回と同じ、南京戦当時の百人斬りの記事が元で、それが残虐行為にあたるというらしい。弟の猛氏が、やっとの思いで面会にこぎつけると、戦犯用の囚人服を着せられた向井氏は、
「とにかくあの記事は、本当のことではない、ただの創作なんだということを、記事を書いた浅海(あさみ)という人に証明してもらってくれ。それと、戦友たちの証言もほしい」
と、小声でしかも口早に言う。盗聴マイクがありうっかりしたことは言えないというのだ。やはりかつてない緊張した雰囲気であった。ではその問題の記事というのは、いったいどのようなものであったのか。

(紫金山麓にて十二日浅海、鈴木両特派員発)
南京入りまで「百人斬り競争」といふ珍競争をはじめた例の片桐部隊の勇士、向井敏明、野田巌両少尉は、十日の紫金山攻略戦のどさくさに、百六対百五といふレコードを作って、十日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した。
野田「おいおれは百五だが、貴様は?」向井「おれは百六だ」両少尉アハハ。結局いつま
でに、いづれが先に百人斬ったかこれは不問、結局「ぢゃドロンゲームと致さう、だが改め百五十人はどうぢゃ」と忽ち意見一致して十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまった。
十一日昼、中山陵を眼下に見下ろす紫金山で敗残兵狩真っ最中の向井少尉が「百人斬りドロンゲーム」の顛末を語ってのち、「知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快ぢゃ。俺の関の孫六が刃こぼれしたのは、一人を鉄兜もろともに唐竹割りにしたからぢゃ。戦ひ済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ。十一日の午後三時、友軍の珍戦術、紫金山残敵あぶり出しに、俺もあぶり出されて、弾雨の中を「えい、ままよ」と刀をかついで棒立ちになっていたが、一つもあたらずさ。これもこの孫六のおかげだ」
と飛来する敵弾の中で、百六の生血を吸った関の孫六を記者に示した。

これがその当時、東京日日新聞に載った記事なのである。だがこれを読んでまず感ずることは、話があまりにも荒唐無稽、講談本ならいさ知らず、真面目に戦況を案じている読者にしたら、肩すかしを喰ったような記事だということだ。
人問を鉄兜ごと真向唐竹割りに切れるものかどうか、そんなことは子供だって分ることだ。武勇伝をでっち上げようと思ったのだろうが、実際に日本刀を手にしたことのある人問なら、こうした発想は決して出てこないものだ。
それに一人の敵を倒すということが、どんなに困難なことかに思いをいたすからでもある。ばったばったと敵を斬りまくるなどというのは、あくまで日本刀を知らぬ人問の創り話でしかないのである。
当然ながら、当時すでに良識ある人々から、この記事にたいしては痛烈な批判がなされていた。
いかに軍国調華やかな時とはいえ、そうした声が雑誌などに出てくるのは当り前で、新聞は面白ければいいというものではない。
米軍の検事が、記事に現実性なしと判断するのも当然であった。
しかし今回は状況一変し、その記事を証拠として残虐行為の責を問われそうなのである。となれば、記事を書いた浅海一男氏自身に、ただの創作であったと一筆書いてもらうほかはない。記者として立場上具合の悪い思いをさせることになるが、今はそんなことは言っていられない。
実弟向井猛氏の証言集めの行脚が、この日から始められた。もちろんまっ先に訪れたのは、毎日新聞の浅海一男氏であったが、何故か氏にはなかなか会えなかった。そしてやっと会えたと思ったら氏は言を左右し、何としても記事は創作であったという、大事な一行を書いてくれないのである。
そうこうしているうちに、向井敏明氏は南京へ送られてしまった。そそして、市内の戦犯留置所へ入れられたのである。そこにはすでに三十人ほどの日本人が戦犯容疑ということで収容されていたのだが、新たに送られてきた向井氏と野田毅氏、そしてもう一人同じような三百人斬りという容疑の田中軍吉氏、この三人は初めから他の人々とは扱いが明らかに違っていた。
やはりこの二人は、南京大虐殺の犯人とすることで、中国側にとっては重要な戦犯だったのである。
十一月六日、第一回の国防部 審判戦犯軍事法廷なるものが開かれた。
法廷は、南京飛行場のすぐ前にある洋風の大きな建物で、旧日本軍の防疫給水部が入っていたところであった。他の人々は皆、いずれも収容されている建物のすぐ二階が法廷にあてられていたのだが、法廷からして三人は別格の扱いであった。
この三十人ほどの人々の中には、香港総督だった磯貝廉介、北支軍参謀長の高橋亘氏など中将が四人いたし、男装の麗人と言われた川島芳子なども、一時ここに収容されていたという。だが中国側にとっては向井氏たちのほうがはるかに重要人物だったのである。彼らがいかに南京事件なるものを立件しようとしていたかが、こうしたところからもよく窺い知れるのであった。
法廷は普通の裁判所と同じように、前の一段高いところに五人の裁判官が並んでいた。中央が裁判長の石美瑜少将、そして左右に二人ずつ大佐級の法務官が並ぶ。また検事と弁護人、それに通訳もつけられているから、一応外見上からは法廷としての体裁は整えていた。
だがその内容たるや、とても法廷などと言えるようなものではなかった。もっともこれは、南京の法廷だけではなく、他の上海、広州などの戦犯法廷とて同じだが、そのでたらめさ、いい加減さはとても尋常一様のものではなかった。それは、これら裁判経験者の手記を見ても、また話を聞いても、よくうなずけるのだが今はそれを詳述している暇はない。
とにかく二時間ほどの問、単なる尋問なのか公判なのか、さっぱり分らぬ進行ぶりで、ただがやがやとしているうちに終ってしまった。中国人の弁護人が、三人の主張を代弁してくれるはずなのだが、それもどうであったのかよく分らない。
たとえ言葉は分らなくとも、通訳がいるのだから、通常の公判としての秩序が保たれていれば、およその見当はつくはずである。とにかく、何とも言いようのない裁判ではあった。

十日ほどたつと、第二回目が開かれたのだが、この日も状況は似たりよったりで、ただもう彼らどうしが互いに言い合っているうちに終ってしまった。もちろん三人の主張は、記事はただの創作であるということ、それに向井氏は負傷中で、前線にはいなかったこと等、弁護人を通じて強く主張したのであった。いや、それは確認できないから、したはずであったとしておこう。
結局三度こうした法廷が開かれただけで、裁判は終りだという。後は一週間後に、判決が下されるがら、それを待っだけだというのである。

昭和二十二年十二月十八日、判決が言い渡された。向井敏明、野田毅、田中軍吉の三人全員が死刑であった。

四日の後、二十二日にはその判決文なるものが三人の手元に届けられたのだが、それには、「百人斬りという残虐なる獣行によって、日本女性の関心を買おうとしたことは、現代人類史上聞いたことがない」
と、ある。武勇をたてて有名になり日本に帰ったおり、女性にもてようとしたのだということらしい。野田毅氏の手記によれば、「これを読んで、思わず吹き出してしまった」とあるのだが、これが結局死刑を言い渡すための骨子となっているのだから、とにかくいい加減であることは間違いない。

だがそれにしても、浅海一男氏がこんなよた記事を書きさえしなければ、南京大虐殺の犯人とする口実を、彼らに与えることはなかったのだ。とにかくその記事が唯一の証拠であり、起訴の口実となっているのだから。
こうして三人は、南京大虐殺の実行犯として死刑を宣告された。最高責任者としては、すでにこの年の四月処刑された第六師団長の谷寿夫氏がいる。これで南京大虐殺は、実際にあったことだと主張するお膳立てができたことになる。
しかし谷寿夫氏は、第六師団長である。それに属するのは田中軍吉氏一人であり、向井、野田両氏は十六師団所属である。こうしたところも、辻棲は合っていない。とにかく、たとえまともな審査をしたとて、二度や三度の法廷で、いったいどれだけのことが分るというのか。ましてその一回一回があのとおりの運用である。そして三人とも死刑というのだから、これは法廷ではなく、まさに報復への儀式でしかなかった。

判決後も向井氏は、
「あの記事は創作であるということを、現在執筆した記者に証明してもらっている。間もなくそれらの書類が届くと思うので、それから上訴申弁書を提出する」
との申し立てを行なった。こうすれば、その間は刑の執行ができない。そして書類さえ届けば、無罪は証明される。
判決後、三人は死刑囚として他の人々と離され、別の房に移された。だが幸いにも、同じく収容されていた人々との面会や差し入れは許されたのであった。現在島根県におられる小西正明氏も、三人を最後まで励ましたお一人だが、特に小西氏は、浅海氏の証明書を早く送るようにと、越田に柱む弟の向井猛氏に幾度も航空便を出していた。

当時は航空便の費用もままならず、小西氏は自分の持っていた背広を看守に売り、それでその費用を捻出していたのであった。憲兵であった小西氏は、私服も常備していたのである。また台湾出身者は、向井氏らの主張を入れた申弁書を書き、小西氏がそれを清書したりもした。
とにかく、同胞相援けるで、死刑判決後も皆で協力し、三人の死刑撤回を目指したのであった。
そして時には、向井氏の好きな煙草や甘い物まで差し入れしたりと、背広を売った金は、こうして最後まで役にたったのであった。
そして、その待望の郵便物が着いたのである。皆は、思わず歓声をあげた。小西氏も万感の思いをこめ、その封を切ったのである。それは小西氏への返書という意味からか、宛名が小西氏の名になっていたからである。
しかし、その歓びは、たちまち打ち消されてしまった。それは、重要な「記事は創作であった」という字句がどこにもみられなかったからである。
「そんなはずはない」
と、幾度も読み直してみたが、やはり書いてはない。浅海一男と署名捺印したその証明書には、二人は人格高潔な将校であったとか、記事は向井、野田両氏から聞いて書いたが、その現場は見ていないとか、すでに米軍によって不問に付された、等が書いてあるだけで、大事な創作の二字は書かれていないのであった。実弟猛氏の再三の頼みにもかかわらずついに浅海氏はそれを書いてくれなかったのである。
しかし同封された、富山武雄大隊長が書いてくれた証明書には重みがあった。それにはこう記されていた。

一、向井少尉は、無錫で一度浅海記者と会っただけである。
二、その後十二月二日、砲弾によって脚および右手に盲貫弾片創を受け、看護班に 収容され、十五日まで治療を受けていた。
三、向井少尉は聯隊砲指揮官であり、白兵戦に参加する機会などない。
(以上証明書の要約は鈴木明著『南京大虐殺のまぼろし』より)

これらは、かねてより向井氏自身が主張していたもので、もちろん書類にして提出もしていた。
それを、事実であると証明してくれたのであった。
百人斬りをやったというその間、向井少尉は後方で手当を受けていたのである。そして隊に復帰したのは、南京陥落後の十五日であり、しかもその時も担架に乗せられての帰隊であった。
敵弾飛び交う紫金山の麓で、日本刀を見せながら百人斬りを語った、などというのは、これをもってしても、明らかに事実ではないことが分る。
またこれはきわめて常識的なことだが、砲兵小隊長が白兵戦を演ずる機会などそう滅多にあるものではない。砲兵は兵隊ですら、満足に小銃も持っていない。ましてその指揮官が、奇襲でも受けないかぎり、敵と直接渡りあうことはありえないのだ、そねに、野田氏とて同じで、大隊副官の野田少尉が、これまた接敵の機会などないことも明白である。副官は大隊長のそばにいて、その任を補佐しなければならないのだ。

とにかくどれ一つをとってみても、浅海氏の記事が想像的に書かれたものであるかが分るのだが、第一浅海氏自身、無錫か啄自動車で陥落後の南京へ入ったというのだから、第一線には出でいないのである。したがって戦闘中の紫金山山麓や、中山門付近には浅海氏が行っていないこり、は明らかで、それをさも敵前の取材で奮闘しているがの如く書こうとするから、こういう無理が生ずるのだ。
とにかくこの二通の証明書をつけ、向井、野田両氏は改めてその主張を盛った申弁書を出した。

しかし中国側は、これらをすべて無視したのである。
この頃、東京ではすでに極東国際軍事裁判、つまり言うところの東京裁判は始まって一年の余、南京大虐殺も俎上に乗り、これによって裁かれるのは、南京戦の総司令官松井石根であり、また時の外相広田弘毅であった。
東京裁判においても、連合国側の主張である人道上の罪を糾弾するには、南京大虐殺は好個の例として最重要視されていた。これによって日本軍の残虐性を広く世界に示すことができれば、それだけ連合国側の戦いは正義となるからだ。いわば、東京裁判の目玉商品なのだ。
だからこそ、国民政府当局は、その証拠となるべき被害者の証言を鋭意集めたのであった。だがそれでも市民の間から被害の申し出はいっこうに出てこない。やむなく当局は、係官を市中に出向かせ無理遣りにその証言を集めて廻った。
そしてそれらを元とし、第六師団長であった谷寿夫中将を裁き、虐殺の命令者として処刑した。
だがそれだけではいまだしと思ったのか、虐殺の実行者を処刑できれば、南京大虐殺はさらに現実性を帯びることになる。
そこで、眼をつけたのが、新聞に載っていた百人斬りの記事であった。百人もの中国人を殺したとなれば、これは虐殺の実行者としてよき存在となる。だがこの記事によっても、これは戦闘としての行為であり、武勇伝として描かれている。したがって虐殺実行者とするにはかなりの無理がある。
だからこそ一方的な裁判となったのだが、ここで考えられることは、いかに虐殺を構築しようとしても、記事を書いた本人である浅海氏自身が、
「実は、あれは創作だった」
と、告白してしまえば、いかに強引な中国側とはいえ、あるいはこれを諦めたかもしれない。
内外にそれを知られては、あまりにも虚構がすぎると見做(みな)されかねないからだ。
しかしその浅海一男氏は、創作だったということをとうとう告白しなかった。同じ房にいた多くの日本人も、それさえあれば助かると期待し、郵便物が到着するのを文字どおり鶴首していたにもかかわらず、浅海氏はその創作の一語をついに書かなかった。何故か。
誰もが、保身のためだと憤りをあらわにした。確かに、それ以外の理由は考えられない。しかし通常の場合ならともかく、今は二人の命がかかっているのである。
前線にも行かず、でっち上げの記事を送ったことがばれたら、もちろん面目丸潰れであり、また戦意昂揚のためとはいえ、こんな軍国調の文を書いていたことも、戦後になってみれば気恥ずかしいということもあろう。
だが今は、そんなことは言っていられないのである。人の命がかかっているとあれば、誰だって何をさし置いても創作だったと書くのが普通である。
だがそれでも書かなかったとなると、単なる面目や立場の問題ではなさそうだ。それは、記事捏造となれば、その責任は向井氏たちから、今度は自分のほうに廻ってくるのではないか。その危険性は、わずかなものではあるが、可能性はある、そう感じ取ったのではないか。
その頃横浜のBC級戦犯の法廷では、捕虜を殴った、食物を与えなかった程度のことでも虐待とし次々と有罪になり、極刑になった者も少なくない。事実無根であろうが、一度そう判定されたらそれを覆すことはできないのである。

東京本社にいた浅海氏が、その恐ろしさは充分に知っていたであろうことは容易に察しがつく。
対米放送の女性アナウンサー東京ローズも、裁かれている。向井氏たちを処罰できなくなったら、その振りあげた拳のやり場に困る中国軍は、その鉾先を自分に向けてきはしないか。そう思えば、それは恐ろしい。
しかしその可能性は、零と断定はできないまでも、きわめて少ないのだ。一方書かなければ向井、野田の両氏は確実に死刑になる。そして結局浅海氏は、書かなかった。いや、書けなかったのかもしれない。

昭和二十三年一月二十八日時折粉雪が舞う寒い朝であった。十時頃、房の中から大きな万歳の声が聞こえた。向井敏明、野田毅、田中軍吉の三氏が、唱えた最後の万歳であった。天皇陛下、大日本国、そして中国と三人は高らかに万歳を三唱した。
その声は、近くの房にいた他の日本人諸子の胸に、痛いほど突き刺さっていった。誰もが涙を流し、また改めて浅海氏の不実を思った。

向井氏はこの直前に、最後の書をしたためていた。それには、捕虜や住民を殺したことはないが、これをもって中国抗戦八年の苦杯と、その遺恨が流れ去り、日中親善、東洋平和の因となるなら、自分は喜んでその捨て石となろう。日本男子として、立派に中国の土になる。だが魂は、大八洲(おおやしま)に帰る。死して護国の鬼とならん、と結んでいる。またこれ以前にも、家族にあてた便りの中に、日本人には悪い人はいない。浅海氏にも書類を書いてくれた礼を伝えてくれ、と記しているのだ。十一時、三人は南京の南にある、かつての激戦地雨花台に連れていかれた。そして、正十二時激しい銃声があたりにこだました。
こうして三人は南京郊外雨花台において、その若き命を散らせたのであった。向井氏はこの時三十六歳、野田氏三十五歳であった。また中佐であった田中氏は四十三歳であった。

なお田中軍吉氏の罪は、中国人民を三百人も斬ったというもので、その証拠品として提出されたのが、氏の軍刀を写した一枚の写真であった。この写真は、当時出版された山中峯太郎編になる「皇兵」という本に収録されているもので、なるほどそれには「悲願三百人斬田中軍吉大尉の愛刀助広」という説明が、つけられている。
だがこれは、戦場で多くの敵を斬る、つまり活躍してほしいという願いをこめて、周囲の人がつけたもので、言うなれば武運長久と同じような意味あいのものだ。にもかかわらずこれをもって、市民の虐殺にするなど、どう考えても、これもただの言いがかりとしか思えない。
そして中華門から突入し、城内でこの大虐殺を働いたというのだが、田中大尉の属する鹿児島四十五聯隊は、第六師団のところで詳述したとおり、城内には一歩も足を踏み入れていない。とにかく、いずれの罪状もまったく児戯に等しい内容でしかないのだが、それでも無理遣りこうして極刑を課していったのである。
田中軍吉氏は、戦後復員し東京に在ったのだが、たまたま近くにいた第三国人から思わぬ逆恨みを買い、この三百人斬りの写真を元に、戦犯として訴えられたのだという。そしてそれを、そのまま中国側がとりあげたのであった。
その逆恨みというのは、借金の申し入れを断ったためというのだから、これまた何をか言わんやである。いかに終戦直後という特殊な世相とはいえ、まことにお気の毒としか言いようがない。

「河野談話」の白紙撤回へ

2007年06月22日 | Weblog
「河野談話」の白紙撤回を求める署名にご協力をお願いします。 

平成5年8月4日に、当時の河野洋平官房長官が発表した、「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」(所謂河野談話)は、我が国の誇りと名誉を大きく傷付けただけではなく、次代を担う青少年の精神に「自虐」という猛毒を注入し続ける亡国の談話です。
(河野談話についての詳しくはこちら) 

虚構である慰安婦強制連行は、マイク・ホンダ米下院議員の議員工作を梃子(てこ)にして世界を駆け巡り、このままでは日本を貶める歴史偽造が国際的に定着してしまいます。 

この危急の事態に際し、私達ネットブロガー有志は、この「河野談話」の白紙撤回を求める運動を開始しました。
全国からできるだけたくさんの署名を集め、陳情書と共に総理大臣官邸へ提出します。

ぜひ、皆さんの想いを署名という形で示してください。
ご協力をよろしくお願いいたします。 

河野談話の白紙撤回を求める市民の会 団体概要

代表:西村修平 「主権回復を目指す会」 代表

呼びかけ人:
瀬戸弘幸:政治ブログ「極右評論」 主宰
よーめん:政治ブログ「この国は少し変だ!よーめんのブログ」 主宰
他、有志一同

賛同者:
有門大輔:政治ブログ「侍蟻」主宰
鵤 卓徳:「日本再生ネットワーク」代表
栗原宏文:「日本メディアリテラシー研究会」代表、元愛媛大教授
古賀俊昭:東京都議会議員
酒井信彦:「日本ナショナリズム研究所」代表、元東大史料編纂所教授
桜井 誠:「在日特権を許さない市民の会」会長/「東亜細亜問題研究会」代表
土屋敬之:東京都議会議員
中嶋文雄:「静岡レスコハウス(株)」代表取締役社長
西村幸祐:ジャーナリスト
沼山光洋:「靖國会」事務局長
野村旗守:ジャーナリスト
博  士:政治ブログ「博士の独り言」 主宰
細川一彦:ウェブ・ライター
増木重夫:「百人の会」事務局長
諸橋茂一:「河野談話の取り消しを求める裁判」原告代表、「(株)KBM」代表取締役
やじざむらい:政治ブログ「やじざむらい的日々雑感」主宰
吉田康一郎:東京都議会議員
(五十音順)


「河野談話」の白紙撤回を求める署名はこちらから


いわゆる従軍慰安婦なるものは、宮沢内閣における河野官房長官談話がすべての元凶です。
いつまでも歴史上の汚点として残ってしまいます。
微力ながらリンクを張らせていただきます。


「河野談話」作成の経緯 石原元官房長官に聞く







クローズアップ現代「集団自決」

2007年06月21日 | 大東亜戦争
6月21日(木)放送
“集団自決”62年目の証言
~沖縄からの報告~

太平洋戦争で激しい地上戦の舞台となった沖縄。アメリカ軍の上陸後、多くの住民が日本軍から渡された手榴弾などで自決を図った。これまで集団自決は日本軍によって強いられたとされ、教科書にもそう書かれてきた。ところが、この春、高校の日本史の教科書検定で、大きな修正が行われた。集団自決をめぐる記述から「日本軍の強制」に関わる言葉が削除されたのだ。一昨年、起こされた裁判の中で、当時の部隊長が「自分は自決を命令していない」と主張していることなどが、その背景にある。この修正に対して、現地沖縄では、撤回を求める声が相次いでいる。集団自決の実態を掘り起こそうと住民の手で聞き取り調査も始まっている。これまで固く口を閉ざしてきた住民も、ようやく自らの体験を語り始めている。未だ癒えることのない人々の痛み。集団自決を巡って、何が起きていたのか。沖縄戦から62年となるの慰霊の日迎える沖縄から報告する。(沖縄平和祈念公園から中継)
(NO.2431)
ゲスト : 大城 将保さん
    (「沖縄県史」編集委員)


NHK「クローズアップ現代」で沖縄集団自決が日本軍の強制(いつの間にか命令から強制に変わっている)で行われたのに、教科書検定でこれを訂正するのは間違いだとの内容で放送していました。
最初の部分は見ていなかったのですが、この番組を見て結論を言わしてもらえれば、軍が自決を強制するようにしたと持って行きたかったようですが、生存者の証言を聞けば、集団自決があった、でも軍による自決の強制は無かった。その時の空気で自決したとNHKの放送は証明したようです。

当時日本は鬼畜米英と言っていたし、米国も日本人を物真似猿と人間扱いしていませんでした。
これは当時の戦時中なら当たり前のことです。

サイパン島のマッピ岬(バンザイクリフ)から飛び降りた人達は軍から命令されたのでしょうか。
やはり米軍に捕まると何をされるか分からないと思っていたから自ら命を絶ったのでしょう。これは当時の日本人全体の空気だったと思います。
今日の放送の沖縄集団自決で証言された人も同じようなことを言われてました。

米軍はまだそれほどでもなかったようですが(しかし占領軍によって多くの女性が陵辱されています)、ソ連軍はまさに鬼畜でした。
集団自決は確かにありました。しかし米軍に捉えられて辱めを受けるよりは自決すると言う考え方が、当時の日本人の考え方だったことを抜きにしてはできないのではないでしょうか。


「 沖縄集団自決、梅澤隊長の濡れ衣 」







至急カエルツボカビの対策を。

2007年06月20日 | Weblog
野生のカエルでツボカビ初確認 環境省、全国調査へ

 カエルの大量死を引き起こすツボカビが野生のカエルでも初めて確認されていたことが、麻布大と国立環境研究所などの調査で分かった。カエルの減少は、生態系に影響を及ぼすと危惧されている。輸入された飼育カエルで初確認されてから5カ月余り。野生種での初確認を受け、環境省は今夏から全国規模の調査に乗り出すことになった。

 麻布大の宇根有美准教授らは、小売店で販売されたり調査のために提供された野生種のカエルやイモリ、132匹を調査。このうち42匹がツボカビに感染していた。うち38匹は業者が売買のために捕獲、飼育していたため飼育下で感染した可能性がある。

 残りの4匹は神奈川県で捕獲された、人の手を経ていない野生のウシガエルだった。飼育下で感染したカエルが野外に放されたものかどうかは不明という。

 ウシガエルは外来種だが、国内の野外に多く生息。感染してもほとんど発症しないとされる。ほかの38匹はヒキガエルやカジカガエルなどで、こちらも発症していなかった。ツボカビは壊滅的な被害が出る地域がある一方、感染例があっても被害が少ない地域もある。

 ツボカビは昨年12月末、都内の愛好家が飼育するカエルで初めて確認された。宇根准教授によると、これまで真性ツボカビ症の発症は45匹、感染は数十匹にのぼる。すべてペットとして流通しているカエルで、野生種での発見例はなかった。

 環境省外来生物対策室では「調査結果から、ツボカビが野外に存在する可能性が高いといえる。関係機関と協力し、調査を進める必要がある」と話している。

(2007/06/11 20:09産経新聞)


カエルツボカビは何となく気になっていたのですが、カエルツボカビ症は、知れば知るほど大変な問題のようです。
そもそもアフリカに生息していた、アフリカツメガエルがツボカビと共生していたのですが、実験用カエルとして世界中に広がったのが始まりのようです。
オーストラリアの一部地域ではカエルが絶滅したところもあるようです。
ツボカビはカエルだけでなく両生類に感染します。感染すればほぼ100%死ぬので、国の天然記念物であるオオサンショウウオが絶滅するかもしれません。

特に問題なのは、カエルが被害を受ければ自然界のバランスが崩れる事になります。
カエルが食べていた害虫などが繁殖し、稲など農作物にも影響がでてくるでしょう。
また、カエルを餌にしていた動物も減ることになります。

このツボカビが厄介なのは、ウシガエルはツボカビに強くて感染しても発症しません。
感染しているのが分からないでウシガエルを野に放したら、他のカエルに広がってしまいかねません。

今はまだ感染が広がっていないようですが、至急に対策を考える必要が有りますし、国民にももう少し知らせるべきでしょう。
ツボカビはある種、年金問題どころではない大きな問題ではないだろうか。





京都最古の神社

2007年06月18日 | 日本の文化
先日嵐山の後、京都最古の神社松尾大社に行ってきました。
紫陽花を見に行ったのですがまだ少し早かったようです。
背後の松尾山を御神霊としていましたが、七百一年に現在の位置に社殿を建てました。
松尾大社は「上古の庭」「曲水の庭」「蓬莱の庭」の松風苑三庭が有名です。
それと宝物館の重要文化財御神像三体。
三体の内、一体は旅行に行かれていて女神像と男神像の二体が展示されていました。
宝物殿ではこの御神像を説明していただく方がおられて説明を拝聴させていただきました。
女神像は、天照大神と須佐之男命が天安河で誓約されたとき、狭霧の中に生まれた神様の「中津島姫命(市杵島姫命)」で、男神像は伊弉諾尊が黄泉の国から逃げてこられた時、禊ぎで右目を洗われたときに生まれた「月読命」と言われています。

この二神の内女神像ですが、お顔が正面を向かれていなくて、少し右に向かれています。
なぜ正面を向かれていないのか、説明された方も悩まれたようで、十年間毎日ご覧になってやっとどうしてなのか解られたようです。
私も説明を聞いてから女神像を眺めると、「なるほど」と納得しました。

松尾大社でご神像の説明を聞かれた方が良いと思いますのでここには書きません。
ただヒントとして、ご神像を正面、右横、左横、正面屈んで立ち上がるようにして見比べてください。

また松尾大社は醸造祖神として、全国の酒造家が本殿裏手の神泉亀の井の水を造り水に混ぜて用いているそうです。
楼門をくぐると左手に、全国の酒造家から奉納された酒樽が数多くありました。

松尾大社は阪急嵐山から一駅、桂に戻ったところにあるので、参拝者も少なく静かに拝観できました。
もし嵐山に行かれることがあったら一度参拝されてはいかがでしょうか。



美空ひばり館が来春再開へ

2007年06月16日 | Weblog
嵐山美空ひばり館が来春再開へ 生誕70周年記念し

 昨年11月に閉館した京都市右京区の「京都嵐山美空ひばり館」が来春、再開されることになった。ひばりさんの長男が社長を務める「ひばりプロダクション」の運営となり、建物は全面改装を経て大幅にリニューアルされる。ひばりさんが生誕して29日で70周年。今もファンを魅了してやまない歌謡界の女王が再びよみがえる。

 同館は1994年に市内の観光会社が開館した。舞台衣装や愛用品などを並べ人気を集めたが、団体客の減少などで来館者数が落ち込み閉館。現在、建物や展示品はそのままとなっている。

 ファンからは再開を望む声が多く、ひばりプロダクションが生誕70周年の記念事業の一つとして復活を決定、観光会社から建物を購入した。詳細は未定だが、仕事で多忙のひばりさんが幼い長男のために録音した童話の朗読テープなどを新たに展示する。
 この日、東京都・日比谷公会堂で会見した長男の加藤和也社長は「ファンの方がいつでも美空ひばりと出会える場所を作っておきたかった。(再開時期は)桜の時期までにがんばりたい」と話した。同館ではひばりさんの人生を後世に伝えるため、写真や映像などの寄贈を呼びかけている。問い合わせは同館Tel:075(864)5000へ。(5月29日京都新聞)


今日嵐山に行ってきました。
天気も良く暑いくらいでしたが新緑がとても奇麗でした。
嵐山と言えば、春の桜と秋の紅葉が綺麗ですが、この時期のもみじの新緑も見事なものです。

ところで、嵐山の表通りに「美空ひばり館」が有るのですが、昨年の11月に閉館したままになっていました。
開館したときに見に行ったのですが、美空ひばりが東京ドーム公演で着た衣装や家の部屋が再現されていたりと感動したのを覚えています。
特に衣装を見て、美空ひばりはこんなに背が低かったのかと驚いたのを覚えています。
この「美空ひばり館」が来春に再開する事になったようです。
昭和最大の歌手である美空ひばりの「美空ひばり館」をこのまま閉めておくのは勿体ないと思っていただけに嬉しいニュースです。





皇太子殿下ご退院

2007年06月12日 | 皇室


皇太子さま無事退院、ポリープ切除し順調に回復

 十二指腸のポリープ切除手術のため東大病院(東京)に入院していた皇太子さまは12日、退院された。

 皇太子さまは今月6日に手術を受けられてから順調に快復。内視鏡検査では患部の出血はなく、10日からはおかゆなどを食べられたという。切除したポリープは、病理学的な検査で改めて良性と確認された。

 退院に際し、皇太子さまは「短い入院ではありましたが、改めて健康の大切さを実感いたしました」との感想を寄せられた。

 皇太子さまは胃酸を抑える薬を服用しながら、東宮御所で1週間ほど静養される。その後は通常の食事や軽めのジョギングなどもできるようになるという。
(2007年6月12日19時13分 読売新聞)


皇太子殿下のご退院について

 皇太子殿下には,6月6日(水)に十二指腸ポリープ切除を受けていただき,その後,順調に経過され,6月12日(火)午後,東京大学医学部附属病院をご退院になりました。
 切除されたポリープを病理学的に検査した結果,悪性所見はなく,「腺腫」の診断でした。また,腺腫は完全に摘出されておりました。皇太子殿下には,ご退院後約一週間,ご快復状況を見ながらご静養を中心にお過ごしいただきたいと考えています。
平成19年6月12日
宮内庁皇室医務主管

 皇太子殿下には,ご退院に際し,次のようにお気持ちをお示しになりました。

 「今回の入院・手術に際し,名川弘一教授を始めとして日夜献身的に治療に当たってくださった東京大学医学部附属病院のスタッフの皆さんに深く感謝いたします。
 短い入院ではありましたが,改めて健康の大切さを実感いたしました。それとともに,病気やけがで長期にわたり入院生活を送ったり,治療を受けておられる多くの方々のご苦労を思いました。こうして無事に退院できましたことを有り難く思っています。
 入院中,天皇皇后両陛下にお見舞いを頂きましたことに感謝申し上げております。また,雅子には毎日病院に見舞いに来てくれたこともはげみになりました。
 今回の入院に当たり,心を寄せていただいた国民の皆さんに,心より御礼を申し上げます。」


皇太子殿下のご退院をお喜び致します。
公務がお忙しいでしょうが、無理をされずに体調を治されていただきたいと思います。



クラスター爆弾も禁止していいのか。

2007年06月11日 | 時事問題
クラスター爆弾禁止条約 政府、賛成表明へ

積極関与 実効性確保狙う

 1発の爆弾から多数の子爆弾を飛び散らせるクラスター爆弾の使用禁止条約を制定する動きが国際社会で強まる中、政府が、19日からジュネーブで開かれる特定通常兵器使用禁止制限条約(CCW)政府専門家会合で、制定に賛成の立場を表明することが、9日分かった。政府は禁止条約への態度表明を控えていたが、制定過程に積極的にかかわることで、即時全廃を唱えるノルウェー、ペルーなどを牽制(けんせい)。同時に米国、中国、ロシアといった生産・保有大国を巻き込む考えだ。

 外務・防衛両省による調整の結果、(1)CCW専門家会合や今年11月のCCW締約国会議に「基本的に賛成」の立場で臨む(2)「即時全廃ではなく代替兵器の開発まで十分な移行期間を設ける」「大量保有する米中露の参加も得て条約の実効性を確保する」といった日本の考えを条約に反映させる-などの戦略をまとめた。

 クラスター爆弾は米、イスラエル両軍などがイラク、アフガニスタン、レバノンといった紛争地で使用。「子爆弾の不発率は5~20%」(防衛省筋)とされ、不発弾で民間人が犠牲になるケースが出ている。このため、ノルウェー、ペルーや国際NGO(非政府組織)は非人道的兵器として全廃を求めている。

 しかし、CCWでの議論が進まないことに不満を持った有志国が今年2月、ノルウェー・オスロで2008年までの条約締結を目指す「オスロ宣言」をまとめた。これにより、オスロ・プロセスがスタートしたが、米国、中国は加わっておらず、ロシアもオブザーバー参加にとどまっている。

 久間章生防衛相は「攻撃用にクラスター爆弾を使うことは100%ない」と語っている。ただ、日本政府は、敵の侵攻を「面」で食い止めるクラスター爆弾を、海岸線が長く、離島の多い日本にとって敵の上陸を食い止める防御手段として不可欠との立場だ。

 それでも政府が条約締結交渉に前向きにかかわろうとしているのは、平成9年、橋本内閣時代に小渕恵三外相(当時)の政治判断で対人地雷の全廃を決めた事態の再来を懸念しているからだ。

 政府は当初、米中露不参加の対人地雷全面禁止条約の実効性は疑問として消極的だった。それが政治決断で条約に参加することになり、その結果、「北朝鮮、韓国を含めた周辺国すべてが廃止しない中で、日本だけが敵の上陸を食い止める能力を著しく減少させた」(陸自幹部)という。

 政府としては、急進色が濃いオスロ・プロセスではなく、米中露を含む100カ国以上が参加するCCWで議論を進めることにより、現実的な条約作りを目指す。

                   ◇

【用語解説】クラスター爆弾

 1発の爆弾に数十から数百発の子爆弾を詰め、投下後に空中で子爆弾を飛び散らせる兵器。陸上からは火砲、多連装ロケット・システム(MLRS)、空中からは戦闘機を使って発射し、敵の頭上に爆弾の雨を降らせて一気に制圧する。航空、陸上両自衛隊は敵の上陸作戦を食い止めるための最終的な防御兵器として装備しているが、米軍などは攻撃作戦でも使用、不発弾で民間人に多数の犠牲が出ていることが問題視されている。

(2007/06/10 10:31)産経新聞


今の時点でクラスター爆弾禁止に賛成するのは反対です。
対人地雷を禁止し、今度はクラスター爆弾ですか。
政府は防衛計画をどのように考えているのだろうか。
MDだけでは防衛できません。MDはあくまでもミサイルを打ち落とすだけですし、全部は打ち落とせません。
その後の上陸部隊が来襲したときの対応は考えていなければいけません。
平和なときに不発弾や地雷は確かに危険です。しかし、国が攻められたときにそのようなことを言っていられるだろうか。
専守防衛であれば尚のこと必要兵器です。

今の日本は第二次欧州大戦のフランスと同じようです。


李登輝前台湾総統、兄と再会

2007年06月07日 | 靖国神社
李登輝氏が靖国参拝 戦死の実兄しのぶ

 来日中の李登輝前台湾総統(84)は7日午前10時すぎ、亡兄の李登欽氏が「岩里武則」の日本名で合祀(ごうし)されている東京・九段の靖国神社を初参拝した。

 クリスチャンである李登輝氏は政治、歴史、宗教を切り離し、フィリピンで戦死した兄を持つ私人として、実兄の英霊に一礼した。

 李氏は到着殿から曾文恵夫人らを伴って内部に入り、靖国神社側によると「(本殿で)昇殿参拝をした。遺族として参拝された」という。また、同行した作家の曽野綾子さんによると、李氏は靖国側の指示に従い、おはらいを受けた後に本殿で一礼した。

 参拝には、日本側からは曽野さんの夫、三浦朱門さん、西村真悟・衆院議員らが同行。台湾側から台湾独立建国連盟の黄昭堂主席らが付き添った。

 李氏は参拝を前に宿泊先のホテルで記者会見し、「靖国神社に参ります。62年間、会ったことのない兄を靖国神社で合祀し、遺霊を守ってくれることに感謝してきます。これは個人的な立場であり、政治的にも歴史的にも(関連づけて)考えないでください」と目頭を押さえて、実兄を思う弟の気持ちを訴えた。


靖国神社で久しぶりの兄弟再会です。
お兄さんもさぞかし喜ばれていることでしょう。




年金問題は冷静に

2007年06月07日 | 時事問題
年金問題を見ていれば、テレビに出ているコメンテーターや野党は殊更不安を煽っているように見える。
国民が不安に思っているときは、一緒に不安を煽るのでなく逆に冷静な対応が要求される。
それだと困ることでもあるのだろうか。
小沢代表と同じ年金の素人である私がこの問題を考えてみたが、
年金問題(消えた年金)は未統合の年金が五千万件有って、それを統合するだけの話しに思えるのだが。
過去の年金手帳を持っていれば問題にならないようにも思えるのだが。

今社保庁の窓口が混雑しているようだが、年金の給付を受けている人を優先するべきで、50代やまだ給付年齢に達していない人は社保庁に問い合わせるのは一段落付いてからするべきです。
この辺り国民も“我先に”的な行動は慎むべきです。

年金支払い時効の5年を撤廃する法案にも、何故野党が反対するのか分かりません。この時効を廃止しなければ自分の年金だと分かっても、貰えないままじゃないですか。

民主党がこの問題を取り上げることは、社保庁と組合の自治労の無能を公にすることになる。社保庁改革に繋がるし、自治労の批判にもなる。民主党十八番のブーメランじゃないかな。

ちなみに基礎年金番号に統一したとき、全加入者に基礎年金番号と同時に確認の案内が送付されています。
10年前のことなので忘れている人も多いと思います。
宙に浮いた年金のほとんどは、10年経っても名寄せのできていない分ではないだろうか。
その責任は名寄せをしていたところにあると思うのだが。










参議院選挙は年金だけではありません。







参議院選挙は年金だけではありません。

2007年06月03日 | 時事問題
各新聞社の世論調査によると、安倍内閣の支持率が急落したと報道していました。
その大きな原因が年金問題だそうです。
私は民主党小沢代表と同じで年金には素人です。
野党民主党は7月の参議院選挙では、年金問題を一番の争点にするようです。(格差社会は何処に行ったのだろうか?)
年金は消えたのではなく、誰のか確認できずに宙に浮いていると言うべきのようです。

ここで有権者が考えなければならないのは、参議院議員は任期が六年で、しかも解散がないため一度当選すれば六年間議員で居れます。
そうなると、この六年間で何をするのかその事も問われることになります。
今現在だけを見れば年金が大事かもしれませんが、三年後には憲法改正の国民投票法が施行します。そうなると憲法改正が当然ながら議論されることになるし、今回当選する参議院議員は憲法改正に関わることになります。
ところが、今憲法改正の話しをしてもマスコミは国民は興味がないかのように言います。
中には自民党議員でさえ「憲法改正の争点は重要ではない」と言い出す始末です。
年金問題は年金問題として、憲法改正も訴えていかなければなりません。
それ以外にもいろいろあります。
それらをひっくるめて判断しなければなりません。

宙に浮いた年金問題はいずれ解決するでしょう。
二十年、三十年先の日本の状態を見据えた判断が必要です。