一燈照隅

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神聖不可侵

2006年02月26日 | 日本の文化
昭和天皇は昭和21年の「国運振興の詔書」(いわゆる人間宣言)によって神格否定して神様から人間になったと言われています。

なぜ天皇が神様と思われたのかと言うと、大日本帝国憲法第3条に「天皇は神聖にして侵すべからず」と書いてあったので、占領軍は神聖を神様(ゴッド)と思ったと考えられます。それで人間宣言を天皇陛下に言わすようにしました。
しかし、この「国運振興の詔書」を読むとけっして人間宣言ではありません。天皇陛下が「戦災の傷痕は大きいがこれから私も国民も頑張っていこう」と述べられていることがわかります。

それが占領軍の策略に共産主義者が利用して、内容よりも人間宣言と言う言葉が広まってしまったようです。 また「神聖不可侵」は美濃部達吉が冒涜してはいけないと言っています。

「カミ」はゴッドの神でなく、上下の上のことでありカミ・シモの上のことです。
「神聖不可侵」は里見岸雄の「討論天皇」にわかりやすく書かれています。

大内山 そうですとも。いったい、ありもしない神格を否定したなどという架空の説をつくり出したのは誰ですか。幽霊の正体見たり枯尾花というが、敗戦脳震盪民主主義というものは、どこまでたわけたことをいうのか、実にバカバカしい話です。

村上 しかし先生、日本の旧憲法には「天皇は神聖にして侵すべからず」とあったんですから、やはり天皇を神様扱いにしていたんではないですか。学者、評論家など、みなそういうふうに批判していると思います。

大内山 脳震盪患者だからそんなことをいうんですよ、若し脳震盪でないのなら、わざとそんなこといって忠良な一般国民を惑わすためです。神聖不可侵という規定は、日本の憲法だけではなく、外国の、もちろん君主国ですがね、外国の憲法にも全く同文のものがいくらでもありますよ。帝国憲法はそれに習ってあの規定を設けたので、天皇が神様だという趣旨を現わすものではないんです。

村上 でも神聖というのはなんです。

大内山 神聖というても、神様のことではないです。神聖な国会、神聖な教室なんていうの、君聞いたことないですか。

村上 あります。


大内山 唯物論は神様なんか全然認めないんだが、その唯物論共産主義のソ連の憲法にさへ「神聖な義務」という言葉が使ってある。それは祖国防衛の義務について、いってるんですがね。国王(または皇帝)はホーリー(神聖)で、インバイオラブル(不可侵)だというのは、西洋の君主国でも、アフリカのエチオピヤでも、東洋のタイ国でも、みな共通の、いわば、きまり文句みたいなもので、有名な美濃達吉博士は「神聖の語は一言独立しては無意味で、不可侵と合して如何なるかを以ても天皇の御一身を冒漬することを許さない」ということを意味するのだといってるんです。つまり(一)不敬行の禁止(二)政治上の責任の無いこと(三)御一身につき一般に国法の適用なく殊に刑事上の責任のないこと(四)廃立の法律上不能なること、この四つが神聖不可侵の意味だというんです。

伊谷沢 それは美濃部博土だけの考えなんではないですか?

大内山 君などはまだ憲法概諭の講義を聞いたか、聞かないか程度の大学生だから、何も知らないのも無理はないがね、そういうふうに、何か一つのものにとらわれてなんでも予断することはよくないと思うな。帝国憲法の時代に出た憲法書を百冊調べてみてね、神聖というのをいくら変示教的に解釈したものはたった十八冊しか無いんだ。あとは、大体みな美濃部さんのような見解をとってるんですよ。

村上 そうすると宮沢俊義さんを始め、いまの憲法学者がたいていみな、帝国憲法は、天皇を神格化していたといって神聖不可侵の第三条を証拠にしているのは、ちとケシカランということになりますな。

菅原 そうだとも君。だいたい、宮沢なんて男はだね、あれ、美濃部さんのおかげであと釜の教授になったんだが、美濃部さんが、神聖不可侵というのは神様のことではない、二語合して冒漬を許さぬという意味だと講義しているのを、居ねむりでもして聴いていなかったんじゃないのかな。村上君のような俊才を誤らせたのも、ひっきょう宮沢なんかの………、(一同笑う)

時野 菅原老将軍の脱線をちょっとレールの上に戻さしていただきまして……。(一爆笑)さて、天皇は現人神てあるというのは、天は生きゴッドだなどというバカげた思想ではなく…。 ええとそれから、どういったら正確に表現できますかな?……先生!

大内 天皇は入問なんです。人だから御先祖がある。その先祖を、一般に日本人が死者先人の霊を神として祀る民俗に従い、皇祖神として崇める、天照大神ですね。そして皇祖天照大神の御子孫が、その御血統と精神の道統とを連綿として御継承になっているのが天皇なんだから、天皇は、皇祖天照大神が現実に現われた人である…。だから現人神というのである。だいたいこんなふうに理解したらよいでしょう、元旦の詔書ですね、あの御文草をよく読んでごらんなさい。神格否定も人間宣言もありはしませんよ。

伊谷沢 はなんですか?

大内山 君ケンカ腰にならずによく読み、よく考えてみたまへ。それが先決問題だよ。「朕と、爾国民との間の紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とに依りて結ばれ、単なる神話と伝説とに依りて生ぜるものに非ず」というで一文において、「単なる」の語に深い注意が必要ですね。「単なる」がなくって「神話と伝説に依りて生ぜるものに非ず」とあれば、神話と伝説は完全に否定されるわけだが、あいにく、この文章には「単なる神話と伝説」とあるでしょう。どう違うか考えてみたまえ。 伊谷沢 ちょっとわからんですな。

大内山 国文法習ったんでしょう?

伊谷沢 文法というほどのもの習っておらんてす。 

大内山 ふーむ。では親中さんにでもやっていただこうか。

親中 あら、とんだ自羽の矢が……。(ニッコリ笑う) ……?これは、そうですね、「単なる」の一語があると「神話と伝説」を半面において認めているように思いますが。

大内山 その通りです。神話と伝説というものは、日本の文書歴史以前の時代のことを伝える唯一の拠り所なんだし、過去の日本人がこれに拠っていたということは疑う余地のない事実なんだから、いかに詔勅でも、過去にあった事実を抹殺することはできないですね。だから半面においてこれを認めたのが、この「単なる」の一語なんです。つまりね、神話と伝説に基づいたばかりではない君民相互の信頼と敬愛という現実の結びつきというものがあったのだという意味なんです、これを、神話と伝説の否定だなどと解するのは、文章の読みが浅いと思うな。

田中 先生の御解釈でほんとになんだか救われたような気持ちがいたします、現人神の方は、やはり架空観念ではないのでございますか。


大内山 元旦の詔書に「天皇を以て現御神とし」とあるのは、これも過去の日本人が天皇を現人神とした事実そのものを否定したものではありません、過去の宣命や勅語の中にたくさん、現御神だと書いてあるし、民間の者の中には幾らでも実例がある。そういう過去にあった現人神の観念は架空なものではなく、ちゃんと社会的にも理論的にもよるところがあって出てきたものなんです。それをなんぼ勅語でも抹殺し否定し去るということはできないですよ。私なんか、今日でも、正当な意味で天皇は現入神であると信じていますし、学問的に説明しろといわれれば、幾らでも説明できます。そういうものを、勅詔の力で否定するわけにはいかんでしょう、この元旦の詔書の「天皇を以て現御神とし」という句はですね、その次の「旦」という語と結びついて「日本国民を以て他の民族に優越せる民族にして、延て世界を支配すべぎ運命を有すとの架空の観念」に悪用した場合の意味なんです。



「年頭、國運振興の詔書(人間宣言)」昭和二十一年一月一日
http://blog.goo.ne.jp/misky730/e/8f9ae213c8031ec08eab2a8858c32594




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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
TB有り難うございます。 (練馬のんべ)
2006-11-25 00:09:06
なるほど、私の理解は(間違いでもないのでしょうが)正確ではなかったようで、大いに勉強になりました。記事に一言コメント入れておきます。
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Unknown (まさ)
2006-11-26 08:46:15
練馬のんべさん、
私も最初は漠然としてしか理解できなかったです。
しかしこの本を読んで、なるほどなと分かるようになりました。
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Unknown (文語はいかようにも定義可能)
2021-09-27 15:43:34
神聖にして侵すべからす  神聖だから侵しちゃいけない(禁止)
神聖にして侵すべからず  神聖だから侵すことができない(可、不可)
作成したときは勿論禁止だけど
時代を経て 『神』そのものに昇華したと思われます 
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