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一燈照隅

日本が好きな日本人です

国旗制定記念日です。

2013年01月27日 | 国旗、国歌

今日1月27日は、明治3年太政官布告第57号の「商船規則」で、国旗「日の丸」のデザインや規格が定められました。

縦横比率  7:10
日の丸の直径と縦の長さ比率  3:5
日の丸の中心と旗面の中心との関係
  縦の長さの1/100だけ旗竿に寄る


我が国の国旗が「日の丸」に決まった過程は以前ブログに載せましたが再度掲載します。


建議書(安政元年:1854年)        徳川斉昭
『日本の国威を表している旭の丸こそ日本の総船印に用い、中黄は幕府官船に用いることこそ最も適当である。

単なる一氏族に過ぎない源氏の印であった中黒を日本の総船に用い、長い歴史を通じて全国民が用いてきた旭の丸を幕府官船の印に用いるとは主客転倒と言うべきである。早速貴殿は触書を訂正なされるがよろしい。

私の家では、従来は徳川本家に準ずるという精神で、今日まで旭の丸を用いてきたのであるが、この際、万一、旭の丸を日本総船印にするとの触文が交付されたならば、旭の丸を水戸家の船印に用いることを止める。

私情からはまことに残念至極と心得るが大義名分上爾後用いないことにする。もっとも、私の船だと言っても日本の国籍を有する船であるので、その意味では旭の丸を掲げるが、今後は水戸藩の所有をしめす船には旭の丸を掲げず、徳川の紋である葵の紋を掲げるようにする。

なお、旭の丸が日本総船印に決定されたならば、旭の丸の私的使用を厳禁し、他の藩でこの印に似かよった、船印や馬印を使っていたならば残らず改めさせるよう心がけなければならない。

兎に角、旭の丸をして日本の総船印にする以外、ほかに考えられない。


国旗「日の丸」がどのように決まったかご存じでしょうか。
日本人でありながら私も知りませんでしたが、古本屋で一冊の本を手にして始めて知りました。そして他の本も読んでみて、この本に書いてあるのが間違いないと思いました。

最初は源氏の旗印が幕府では有力でしたが、老中阿部正弘が徳川斉昭に意見を聞いたのが上記の建議書です。この建議書がなかったら、日本の国旗は、白地に横一文字の中黒印になっていたかもしれません。


「江戸後期には薩摩藩の船印として用いられており、開国後幕府が日本国共通の船舶旗(船印)を制定する必要が生じたときに、薩摩藩からの進言(進言したのは薩摩藩主、島津斉彬だといわれる)で日の丸を用いることになった。」(Wikipedia)

日の丸の制定に関してこのように書いてある物がありますが、上記の建議書を読んでいただければ、これは事実に反した間違いであることが判ると思います。 日の丸が国旗になるには、徳川斉昭、阿部正弘、島津斉彬の三人が大きく尽力しています。


この建議書の後も源氏の旗印が有力でした。
阿部正弘はこの事を斉昭に書面で知らせ、斉昭は
ほかの事とは違い、この国旗制定は日本の後々の代までも国印として大切にされる物である。今、我々が制定しようと努力している国旗は日本の宝であり、制定された上は必ず西洋で出版される万国旗章図などにも掲載されるのである。幕府においてはこのような点までも念頭において、世界に輝きわたる日本の国旗を制定されたい。」と正弘に反省を促している。

また島津斉彬も外様大名でありながら、日の丸の国旗制定のため有力大名の賛成を求める努力をしています。 この三人の努力によって、安政元年七月十一日(旧暦)御国印として「白地日之丸」がきまりました。

「国旗の歴史」安津素彦著 桜風社 引用





朝日新聞の言うとおり。但し昭和27年です。

2012年01月21日 | 国旗、国歌
昭和二十七年の朝日新聞コラム欄に、日本国民としての国旗国歌に対する態度としてまともなことが書かれています。

以前に掲載した内容ですが、何度掲載しても良いと思っています。


今日の問題 「君が代と礼儀」 昭和27年5月13日付朝日新聞
11日行われた鎌倉八幡宮の「やぶさめ」は、長い馬場をトンネルのようにおおうている木々の緑が、その下を埋める日米観衆の明るい服装に照りそい、その間をきらびやかな狩衣の騎手が馬を飛ばして矢を射る、と言ういかにも5月らしい壮快な催しであった。

特に独立回復後最初の本年の行事で、アメリカ側からも参加があり 横須賀基地からは軍楽隊もやってくるほどの盛況で、源氏の氏神であった八幡様が、ヘキ眼のサムライ達をどう照覧あったかはいざ知らず、日米両国の市民達はともに午後のひと時を「やぶさめ」に興じた物である。

定刻と同時に、八幡神社前にあった米軍軍楽隊は「君が代」を奏した。米国軍人はすべて挙手の礼、その家族達も、はやる子供達をおさえて直立不動のまま「君が代」に敬意を払った。

ところがどうであろう。当の日本側の観衆は、ただ物珍しげに軍楽隊や米人側の敬礼を見ているばかり。子供達は軍楽隊の周囲を群れをなして歩き回った。
一昨年の夏、日米対抗水泳大会の時も国旗掲揚に対するアメリカ側の厳粛な態度に引きくらべて、日本人観衆のだらしなさが批判されたことがあった。あのころはまだ占領下だったからと言うわけもあったかもしれないが、もう日本は独立した国である。いつまでもこんな態度でよいわけではない。

「君が代」のよしあしについては、いろいろ議論もあるようだ。しかし「君が代」 が国歌とされ、又各学校も文部省の勧告に従って祝祭日に歌うことになっているとすれば、国歌というものがどんな意味を持っているものか、従って「君が代」にたいする礼儀についても知らなければならない。学校でもこれを教えておいてもらいたい。「君が代」は歌うばかりが、そのすべてではないのである。


今の朝日新聞しか知らない人には想像もできないでしょう。

しかも戦後、占領政策から日本が独立した後のコラムです。

軍部に強制的に書かされた物ではありません。





国歌「君が代」の日

2008年08月12日 | 国旗、国歌
北京五輪が始まり、我が国は金メダルを2個獲得しています。
その金メダル獲得者だけの栄誉が表彰式での国歌の演奏です。

国内で「日の丸」「君が代」に反対している人達は、金メダルを取った選手や表彰式をどのように見ているのだろうかと思ってしまいます。表彰台で坐れとか。
それどころか、「日の丸」を付けている選手を応援しているのだろうか。

ところで、今日は国歌「君が代」記念日です。


今日、8月12日は「君が代記念日」です。

君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
巌となりて
苔のむすまで


1893(明治26)年、文部省告示「小学校祝祭日大祭儀式規定」が公布され、小学校の祝日・大祭日の唱歌に『君が代』『一月一日』『紀元節』等8曲が定められた日です。
法令として国歌に制定されたわけではありませんが、「君が代」は日本の国歌として扱われてきました。
世界の国の国歌と比べてこれほど良い国歌は無いでしょう。


国歌「君が代」

国歌「君が代」

2005年12月12日 | 国旗、国歌
国歌「君が代」
第六十代醍醐天皇の勅命を命じて延喜五年(905年)紀貫之が主となって撰進した歌集「古今和歌集」の「賀の歌」に次の一首が見える。

わが君は 千代に 八千代に さざれ石の いはほとなりて 苔のむすまで


これが国歌「君が代」の原型になります。国歌は、発句が「君が代」と改まっている。この意味は、もとの歌では、“私の尊敬していますあなた様は、千年も万年も長生きしてください。小さい砂利石が大きな巌になり、さらにその巌に苔が一面に生えるまでも長く長く生きてください”、と切実な祈りをこめた歌である。

長寿を祈った目出度い歌であるから、祝賀の席では必ず歌われる習慣となって、全国民によって爾来代々歌い継がれてきた。「わが君は」は平安中期頃になると「君が代は」と変わる。かように国民に自ずと長く愛好され愛韻されてきた歌を明治に至って国歌と制定して、曲が付けられたのが現在の国歌である。

「君が代は」の代は「天子様のお治めなさっている御時世」と考えられている筋もあるが、代のよは大和言葉では“よはひ(年齢)”であって、漢字の寿に当たる。天皇の御長寿を祈り且つ寿(ホ)ぐ意である。
国歌の象徴・国民統合の象徴である天皇陛下を仰ぎ慕いあげる国民が素朴に誠心こめて簡潔に歌い上げた歌である。


「君が代」の原型となった『古今和歌集』「題しらず、よみ人しらず」の歌は、国民の心情にまったく合っている歌とみえて、六十七代三条天皇の長和二年(1013年)頃、藤原公任の編集にかかる『和漢朗詠集』の下巻「祝」の部に、

君が代は ちよにやちよに さざれ石のいはほとなりて 苔のむすまで

と載せられている。但し、古歌「わが君は」はここでは「君が代は」と改まった。
東山文化ともいわれる室町時代になると、御伽草子・連歌・能楽・狂言などの中に「君が代」の歌詞を綴り込んだものが大変多いそうである。

大名で且つ歌人として有名な細川幽斎がある時秀吉に目通りしたときに、煎った豆に青海苔の衣をつけた菓子が出された。秀吉は一首所望したところ、幽斎は直ちに、
君が代は 千代に八千代に さざれ石の いはほとなりて こけのむすまめ
と来句の「まで」を「まめ」と結んだそうである。

かくて明治にはいるが、この歌詞を国歌に選んだのは大山巌元帥であったという。当時の横浜駐屯英国十番連隊楽長ウイリアム・フェントンによって洋風に作曲されて、明治三年九月八日東京の越中島での陸軍観兵式の折りに吹奏されたのが初めてである。
邦楽に通ぜず、朗詠調で親しまれてきた歌を、この点についての知識の欠けた外人が作曲したから、この新曲が不評に終わったのも無理はなかった。

明治十三年六月になって、海軍省から新たに作曲を宮内省雅楽課に依嘱した。そこで東儀季熈・村広守・東儀季芳・芝葛鎮の四人が作曲に当たった。四曲の試作中で村広守の分が採用されることに決まった。作曲に完成は同年十月二五日である。


宮内庁楽部には「一等伶人村広守撰譜」として「君が代」の墨譜が現存し、また元海軍省の文書中、二十四段の“五線譜”が遺っており、この表紙の中央には、
国歌「君が代」楽譜 と縦書きに墨書、また廿四段の楽譜の右端には、

L.25.10.80.F.Eckert
と小さく白書してこれまた墨書したものが遺っている。80とは西暦1880年(明治十三年)25.10は十月二十五日、Lは伴奏付けをした意味、Fはエッケルトの名前である。かくて以上の資料からも、「君が代」は作曲された当時は勿論、作曲の意図も、国歌「君が代」として誕生し、作曲されていることがはっきりしている。

かつてドイツのベルリンで世界的な音楽家や音楽評論家の集まりの席上、世界各国の国歌が演奏されて検討してみた結果、さてどこの国歌が一番優れているか、ということを吟味し合ったそうである。衆口一致して一番立派であると折り紙の付いたのは、「君が代」であったそうである(高崎正秀「国歌〈君が代〉の論」國學院雑誌昭和三十五年十二月号収)


二十六年八月十二日、文部省告示第三号を以て、井上文部大臣から学校で祝祭日に歌う式典用唱歌として歌詞・歌謡が公布され、国の内外に普及される初めになった。

「国旗の歴史」安津素彦著 昭和五十三年初版


国歌が「君が代」であることは知っていても、その由来を知らな人が多いと思います。今から千年以上も前に詠まれた「君が代」は一種の恋歌でもあったのです。世界の国歌の中でこのような歌詞の国歌はありません。「君が代」は勇ましいメロディーと違い国際試合の前の国歌吹奏で聞いても心が落ち着きます。このような名曲を国歌にしていることを誇りにしてください。

「国旗日の丸の制定」
http://blog.goo.ne.jp/misky730/e/b25d6289e8d5819ea68c3e3589802b7c

「日の丸、君が代」
http://blog.goo.ne.jp/misky730/e/282c053792a8d9726ed8cdbe4bebd1af


国旗「日の丸」の制定

2005年10月06日 | 国旗、国歌

建議書(安政元年:1854年)        徳川斉昭
『日本の国威を表している旭の丸こそ日本の総船印に用い、中黄は幕府官船に用いることこそ最も適当である。

単なる一氏族に過ぎない源氏の印であった中黒を日本の総船に用い、長い歴史を通じて全国民が用いてきた旭の丸を幕府官船の印に用いるとは主客転倒と言うべきである。早速貴殿は触書を訂正なされるがよろしい。

私の家では、従来は徳川本家に準ずるという精神で、今日まで旭の丸を用いてきたのであるが、この際、万一、旭の丸を日本総船印にするとの触文が交付されたならば、旭の丸を水戸家の船印に用いることを止める。

私情からはまことに残念至極と心得るが大義名分上爾後用いないことにする。もっとも、私の船だと言っても日本の国籍を有する船であるので、その意味では旭の丸を掲げるが、今後は水戸藩の所有をしめす船には旭の丸を掲げず、徳川の紋である葵の紋を掲げるようにする。

なお、旭の丸が日本総船印に決定されたならば、旭の丸の私的使用を厳禁し、他の藩でこの印に似かよった、船印や馬印を使っていたならば残らず改めさせるよう心がけなければならない。

兎に角、旭の丸をして日本の総船印にする以外、ほかに考えられない。


国旗「日の丸」がどのように決まったかご存じでしょうか。
日本人でありながら私も知りませんでしたが、古本屋で一冊の本を手にして始めて知りました。そして他の本も読んでみて、この本に書いてあるのが間違いないと思いました。

最初は源氏の旗印が幕府では有力でしたが、老中阿部正弘が徳川斉昭に意見を聞いたのが上記の建議書です。この建議書がなかったら、日本の国旗は、白地に横一文字の中黒印になっていたかもしれません。


「江戸後期には薩摩藩の船印として用いられており、開国後幕府が日本国共通の船舶旗(船印)を制定する必要が生じたときに、薩摩藩からの進言(進言したのは薩摩藩主、島津斉彬だといわれる)で日の丸を用いることになった。」(Wikipedia)

日の丸の制定に関してこのように書いてある物があるが、上記の建議書を読んでいただければ、これは事実に反した間違いであることが判ると思います。 日の丸が国旗になるには、徳川斉昭、阿部正弘、島津斉彬の三人が大きく尽力しています。


この建議書の後も源氏の旗印が有力でした。
阿部正弘はこの事を斉昭に書面で知らせ、斉昭は
ほかの事とは違い、この国旗制定は日本の後々の代までも国印として大切にされる物である。今、我々が制定しようと努力している国旗は日本の宝であり、制定された上は必ず西洋で出版される万国旗章図などにも掲載されるのである。幕府においてはこのような点までも念頭において、世界に輝きわたる日本の国旗を制定されたい。」と正弘に反省を促している。

また島津斉彬も外様大名でありながら、日の丸の国旗制定のため有力大名の賛成を求める努力をしています。 この三人の努力によって、安政元年七月十一日(旧暦)御国印として「白地日之丸」がきまりました。

「国旗の歴史」安津素彦著 桜風社 引用


国歌「君が代」
http://blog.goo.ne.jp/misky730/e/1aa97ae178184aca0dca96cbb30c5d81

日の丸、君が代
http://blog.goo.ne.jp/misky730/e/282c053792a8d9726ed8cdbe4bebd1af

日の丸、君が代

2005年07月23日 | 国旗、国歌
   
今日の問題 「君が代と礼儀」 昭和27年5月13日付朝日新聞
11日行われた鎌倉八幡宮の「やぶさめ」は、長い馬場をトンネルのようにおおうている木々の緑が、その下を埋める日米観衆の明るい服装に照りそい、その間をきらびやかな狩衣の騎手が馬を飛ばして矢を射る、と言ういかにも5月らしい壮快な催しであった。

特に独立回復後最初の本年の行事で、アメリカ側からも参加があり 横須賀基地からは軍楽隊もやってくるほどの盛況で、源氏の氏神であった八幡様が、ヘキ眼のサムライ達をどう照覧あったかはいざ知らず、日米両国の市民達はともに午後のひと時を「やぶさめ」に興じた物である。

定刻と同時に、八幡神社前にあった米軍軍楽隊は「君が代」を奏した。米国軍人はすべて挙手の礼、その家族達も、はやる子供達をおさえて直立不動のまま「君が代」に敬意を払った。

ところがどうであろう。当の日本側の観衆は、ただ物珍しげに軍楽隊や米人側の敬礼を見ているばかり。子供達は軍楽隊の周囲を群れをなして歩き回った。
一昨年の夏、日米対抗水泳大会の時も国旗掲揚に対するアメリカ側の厳粛な態度に引きくらべて、日本人観衆のだらしなさが批判されたことがあった。あのころはまだ占領下だったからと言うわけもあったかもしれないが、もう日本は独立した国である。いつまでもこんな態度でよいわけではない。

「君が代」のよしあしについては、いろいろ議論もあるようだ。しかし「君が代」 が国歌とされ、又各学校も文部省の勧告に従って祝祭日に歌うことになっているとすれば、国歌というものがどんな意味を持っているものか、従って「君が代」にたいする礼儀についても知らなければならない。学校でもこれを教えておいてもらいたい。「君が代」は歌うばかりが、そのすべてではないのである。


国旗と国歌に対する態度を今の日本の教育では子供達に教えていません。 その為、海外で恥をかくことが有ります。 ワールドカップ日本代表選手の中の、一部の選手が君が代を無視した態度を取っています。 代表選手としての自覚が足りないとしか言えません。 国民は国の保護の下生活し、安全に海外旅行が出来るのです。 その国を表すものが国旗であり、国歌であるわけです。