言語空間+備忘録

メモ (備忘録) をつけながら、私なりの言論を形成すること (言語空間) を目指しています。

原子力損害賠償法の免責規定

2011-04-29 | 日記
日本経済新聞」の「東電社長、賠償免責規定「該当可能性も」」( 2011/4/28 19:38 )

 東京電力の清水正孝社長は28日、賠償範囲の第1次指針が出たことについて「指針を分析、精査しながら公正に進めていく」と述べ、補償手続きを急ぐ姿勢を示した。東電は補償負担に上限を設けるよう求めているとされるが「具体的にどういうレベルかというのはない」と明言を避けた。

 原子力損害賠償法には、異常に巨大な天災などの場合は電力会社は免責になるとの例外規定がある。政府は同法の原則通り、補償責任は東電にあると判断している。これに対して清水社長は「(免責理由に当たるという)理解もあり得ると考えている」と政府に再考を求める考えを示した。


 東京電力の清水社長は「(原子力損害賠償法の免責理由に当たるという) 理解もあり得ると考えている」と述べた、と報じられています。



 これは東京電力としては当然の主張だと思います。この主張をしなければ、株主から訴えられるでしょう。

 そこで重要になってくるのは政府の対応です。政府の対応は下記のように報じられています。



時事ドットコム」の「東電の賠償免責なし=細野補佐官」( 2011/04/28-22:30 )

 細野豪志首相補佐官は28日、「政府は震災、津波の事由をもって、事業者としての東京電力の責任が免れるという考え方は採っていない」と述べ、福島第1原子力発電所の事故に伴う損害賠償で東電が免責されることはないとの見解を示した。政府と東電による対策統合本部事務局長としての記者会見で語った。細野氏は「一義的な責任は東京電力にあり、当然、賠償の責任は負うべきだ」と強調した。


 細野豪志首相補佐官は「政府は震災、津波の事由をもって、事業者としての東京電力の責任が免れるという考え方は採っていない」「一義的な責任は東京電力にあり、当然、賠償の責任は負うべきだ」と述べた、と報じられています。



日本経済新聞」の「首相、原発賠償「国が最後まで面倒みる」 衆院予算委 東電免責は否定 東北の高速無料化「復興へ有力な選択肢」」( 2011/4/29 12:12 )

 衆院予算委員会は29日午前、東日本大震災の復旧に向けた2011年度第1次補正予算案の基本的質疑を行った。首相は東京電力福島第1原子力発電所の事故について「一義的には東電に責任があるが、原発を推進する立場で取り組んできた国の責任は免れない」として国の責任を認めた。避難住民や事業者らへの損害賠償は「最後の最後まで国が面倒を見る」と表明した。

 東電の清水正孝社長が大津波は賠償責任の免責理由に該当する可能性があるとの認識を示したことに関しては「免責となると東電には賠償責任は無く、国がすべての賠償責任を負う。それは少し違うのではないか」と否定した。

 復興財源の確保に関しては「日本が国際的にもマーケットからも信任を得る中で復興を進めるためにはどう進めていくかを考えなければならない」と述べ、財政再建との両立を強調した。同時並行で進めている社会保障と税の一体改革を巡る議論については「復興と社会保障の問題は考え方を区分し、それぞれをしっかり進めていく必要がある」と表明し、消費税増税と復興財源の確保は区別する考えを示した。

 東北地方の高速道路無料化を復興の起爆剤とする案には「極めて有力な選択肢ととらえ、検討していきたい」と前向きな姿勢を示した。今後の震災対応については「政府としてできることは何でもやる、金のことは心配するなというつもりで取り組む」と強調した。

 民主党の渡部恒三氏、橋本清仁氏、畑浩治氏、自民党の石破茂氏の質問への答弁。29日から大型連休が始まったが、衆院予算委は復旧予算の早期執行のため、異例の休日返上で審議を開いた。


 菅首相は「一義的には東電に責任があるが、原発を推進する立場で取り組んできた国の責任は免れない」として国の責任を認めつつも、東電の清水社長の発言については「免責となると東電には賠償責任は無く、国がすべての賠償責任を負う。それは少し違うのではないか」と否定した、と報じられています。



 ここで問題になっている原子力損害賠償法の免責規定とは、次の規定です。



法令データ提供システム」の「原子力損害の賠償に関する法律(昭和三十六年六月十七日法律第百四十七号)」( 最終改正:平成二一年四月一七日法律第一九号 )

(無過失責任、責任の集中等)
第三条  原子炉の運転等の際、当該原子炉の運転等により原子力損害を与えたときは、当該原子炉の運転等に係る原子力事業者がその損害を賠償する責めに任ずる。ただし、その損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によつて生じたものであるときは、この限りでない。
2  前項の場合において、その損害が原子力事業者間の核燃料物質等の運搬により生じたものであるときは、当該原子力事業者間に特約がない限り、当該核燃料物質等の発送人である原子力事業者がその損害を賠償する責めに任ずる。




 常識的に考えれば、今回の原発事故が「その損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によつて生じたものであるとき」( 原子力損害賠償法第3条第1項 ) にあたることは明白です。

 そして政府の言っていることは、要するに「異常に巨大な天災地変」によって損害が生じた場合には、「当該原子炉の運転等に係る原子力事業者がその損害を賠償する責めに任ずる」という規定が適用されなくなるのは「おかしい」ということです。「普通の天災地変」であれば東京電力は損害を賠償しなければならないのに、「異常に巨大な天災地変」の場合には「まったく賠償しなくてよい」というのは「おかしい」ということだと思います。

 政府の主張も当然といえば当然の主張です。

 とすると、おそらく、「普通の天災地変」であったなら生じたであろう損害を東京電力は負担し、それを越えた部分、すなわち今回の震災が「異常に巨大な天災地変」であったために生じた「特別の損害」は政府が負担する、ということになるのではないかと考えられます。

 このように考えれば、東京電力の負担する賠償額は、意外と少なくなる可能性があることになります。



 もっとも、東京電力に「原発の安全管理上の過失」があれば、話は変わってくる可能性があると思います。「異常に巨大な天災地変」であったなら「やむを得ない」ので電力会社は損害を賠償しなくてよい、というのが法の趣旨であると考えられるところ、

 東京電力に過失がなければ (今回の震災であっても) 発生しなかったはずの損害が、東京電力の過失によって発生した、ということになれば、

 「やむを得ない」とは「いえない」ことになるからです。



 「過去に発生した津波の規模を、東京電力も原子力安全・保安院も知っていた」以上、東京電力に過失がなかったとはいえないのではないかと個人的には思いますが、

 政府側 (原子力安全・保安院) にも過失がなかったとはいえないわけで、全額東京電力が負担すべきだということにもならないでしょう。

 とすると、「普通の天災地変」であったなら生じたであろう損害を越える部分をも東京電力は賠償するが、損害の全額は賠償しなくともよい (=越える部分の一部は政府、一部は東京電力が負担する) といったあたりが適切なのではないかと思います。



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 「原発事故の損害を負担する者は…



■追記
 予測可能であったなら「異常に巨大な天災地変」とはいえないのではないか、という主張も考えられます。

相続税の是非

2011-04-29 | 日記
アーサー・B・ラッファー、ステファン・ムーア、ピーター・タナウス 『増税が国を滅ぼす』 ( p.278 )

 ここに六〇代後半の二人の人物がいるとしよう。片方は浪費家、片方は倹約家である。浪費氏は、豪華絢爛な退職生活を送っている。毛皮のコートを買い、フェラーリを乗り回し、毎晩のようにキャビアで大宴会。ハバナから取り寄せた葉巻をくゆらせ、ドン・ペリニヨンのシャンパンで満たした浴槽につかる。出かけるときは若い女を両脇に従え、ねだられるままに何でも買ってやる。世界のあちこちに家があり、気が向けば遊びに行く。二五万ドルのクルーズを計画し、優秀なクルーを雇い、女たちと乗り込む。愛犬のラブラドールレトリーバーは、毎日ステーキのごちそうだ。こうして最後の一ドルを使い果たしたとき、浪費氏はぽっくりと死んだ。なんという絶妙のタイミング。彼の放蕩は、相続税ゼロという形で報われる。これほどお見事な税逃れはめったにない。しかも完全に合法。というより、法律はこうした浪費を奨励している。
 さて、倹約氏である。倹約氏の人生は、浪費氏とは全然ちがう。彼は家業を二人の息子に譲って引退した後に、自分の資産の一部をその事業に再投資した。何くれとなく息子たちの力になり、顧客を紹介する。事業は順調に拡大して、従業員二〇〇人を数えるまでになった。それでも倹約氏は、三〇年前に買った質素な家に住み続けた。彼は友人が始めた事業にもいくらか出資し、そちらも軌道に乗って、資産はいつの間にか倍になる。しかし倹約氏のいちばん大切な資産は何と言っても子供たちであり、愛する息子や娘に遺産を残すことが何よりの望みだった。こうしてつつましく暮らし、その貯蓄や資産や投資がどれほどの額になるのかを誰も知らないまま、倹約氏は亡くなる。残された資産は、なんと四〇〇〇万ドルに達していた。経済に貢献し、雇用を創出し、尊敬すべき人生を送った倹約氏。しかしその終着点に用意されていたのは、一五〇〇万ドルの相続税の通知書だった。遺族はそれを葬儀の場で渡された。だが四〇〇〇万ドルの資産と言っても、その大半は事業に直結している。誰かに、たとえばウォーレン・バフェットのような投資家に事業を売らない限り、相続税を払う術はなかった。こうして、家業を代々受け継いでいくという倹約氏の夢は、あえなく国税庁に潰されてしまったのである。
 相続税は道義に外れた税金であり、アメリカ人の道徳観にも反すると私たちが主張する理由が、これでおわかりいただけただろうか。大方の人は、倹約氏の人生の方が浪費氏よりはるかに立派で好ましいと考えるだろう。だが倹約氏は最後の最後に相続税で打ちのめされた。一方の浪費氏は、一銭もとられていない。これが公正だと考えるアメリカ人は、ほとんどいないはずだ。
 左派は、家や農場を売らなくても相続税は払えるというおとぎ話をまことしやかに口にするが、現実はまったく逆である。アメリカン・ファミリー・ビジネス研究所の資料を見ると、家族経営の事業がこの税金で潰されている実態がよくわかる。本章を執筆している最中にも、アメリカンフットボールのピッツバーグ・スティーラーズが身売りした。NFLの歴史の中でもとりわけ魅力的でファンの多いチームだが、オーナーの遺族が相続税を払いきれなかったためである。また家族経営の会社のオーナーが議会証言し、長年続いてきた家業が競売にかけられる切ない話で胸がつぶれるような思いがしたことも、一度や二度ではない(*6)。最近の公聴会では、ウォーレン・バフェットが相続税の引き上げに同意した後、隣に座っていた中小企業のオーナーが意見を聞かれた。相続税率が引き上げられたらどうなると思うか、と尋ねられたこの経営者は、バフェットを指して言ったものである。「会社を売らざるを得ないでしょう。ここにいるこの御仁のような買い手にね」。だから、『無一文で死ね』といった本がベストセラーになるのだ。この本では、死ぬまでに資産をいかにしてゼロにするかのノウハウが、明らかに脱税すれすれの行為を含め、盛りだくさんに紹介されている(*7)。まったく嘆かわしいことに、こうした税逃れに使われるお金は、経済にほとんど貢献しない。

(中略)

 相続税は、別の観点からみても不公平な税である。と言うのも、課税対象になる資産は、すでにそれを取得したときに税金がかけられているからだ。オプラが鋭くも批判したのは、この点である。収入があった時点で連邦にも州にも地方自治体にも五〇%近い所得税を納めている。そして何とか残った五〇%にも、死ぬときになって五五%の税金が課されるというわけだ。オプラが愛する人たちに一ドル残すとき、政府は三ドルを召し上げる計算である。
 しかも相続税は納税にも徴税にもコストが膨大にかかり、経済効率がいいとはとても言えない。シートン・ホール・ロー・レビュー誌によると、一九九二年の遵守コストは税収の半分以上に達したという(*9)。

(中略)

 相続税賛成論者の論拠は、おおむね次のようなものである。相続税はコストをかけてでも徴収する価値がある。何となれば資産家の子供は、ただその家に生まれたというだけで先祖代々蓄積してきた財産を受け継ぎ、さらに巨万の富を成すことができるからだ。相続税にはこうした理不尽を阻む働きがある。相続税の対象になる資産の多くは、自ら精励刻苦して築き上げた財産ではない、云々。だが南カリフォルニア大学法科大学院のエドワード・マカフェリー教授はちがう意見だ。「富の集中を防ぐことが相続税の狙いなら、それは無惨な失敗に終わっている」(*11)。最富裕層は大金を払って相続税プランナーなるものを雇い、相続税をゼロにする手だてをあれこれ教えてもらう。アメリカでいちばん裕福な家系と言えばケネディ一族とロックフェラー一族だが、彼らが納める相続税は、たしかに意外に少ない。弁護士や会計士がつきっきりで、用意周到に賢い節税法を考えてくれるおかげである。統計は、相続税の納税者が誰なのかをはっきりと教えてくれる。一〇億ドル以上の巨額の資産を受け継ぐ人々は、年々巧みな税回避手段を講じる傾向にある。だから、相続税に直撃されるのは中規模の資産だ。納税した人の相続財産のほぼ半分は、一〇〇〇万ドル以下である(*12)。


 相続税は不公平な税である。倹約ではなく浪費を奨励しているうえに、二重課税の問題も抱えている。しかも相続税には富の集中を防ぐ効果もあまりない、と書かれています。



 私は相続税について、著者の意見には反対です。理由を述べます。

 まず、倹約ではなく浪費を奨励している、という点についてですが、「倹約が道徳的に好ましく、浪費が好ましくない」ことは認めるものの、だからといって浪費が「経済的に悪い」というわけではありません。浪費する人がいなければ、経済成長はあり得ないのではないかと思います。世の中が生産者ばかりで消費者がいなければ、(勤勉で倹約家の) 生産者が困ってしまいます。したがって、(道徳的にどうかはともかく) 経済的な観点でみれば、「相続税が倹約ではなく浪費(=消費)を奨励している」ことは、問題にはならないと思います。

 次に、相続税には二重課税の問題がある、という点についてですが、これに対しては「公平上、最適なキャピタルゲイン税率」に書いたものと同じ反論が成り立ちます。要は、「まとめて」課税しようが「分けて」課税しようが「おなじ」なので、とくに公平上の問題は生じない、ということです。

 また、相続税の徴税コストの問題ですが、これは徴税を合理化すればこと足ります。徴税コストがかかるから相続税は廃止すべきだといった主張は、「効率化」を重視する経済学者らしからぬ主張ではないかと思われます。これも相続税の不当性を訴える根拠としては、「弱い」と思います。

 最後に、相続税には富の集中を防ぐ効果があまりない、という点についてですが、これに対しては、「法律の抜け穴」をふさぐ作業を行えばよいと思います。最富裕層は弁護士や会計士を雇って節税法を考えるが、中規模の財産を有する中小企業のオーナー等はそのような活動をしない(する余裕がない)というのであれば、相続税を廃止するのではなく、「法律の抜け穴」をふさぎ、弁護士や会計士が活躍する場面をなくす努力をすべきだと思います。

 ( 著者は事業継承が不可能になると言っていますが、相続税は銀行借入れで支払えばよいと思います。高額の相続税が発生するほど経済的価値のある事業なら、銀行借入れは可能だと思います )



 基本的に、相続税に反対する人々は、「相続される人=亡くなる人」の立場で物事を考える傾向にあるのではないかと思います。倹約ではなく浪費を奨励している、といった批判は、まさに「相続される人」の立場で考えています。しかし、「相続する人=生き残る人」の立場で考えれば、先祖(親や親の親など)が勤勉だったか、先祖(親や親の親など)が浪費家だったかという、自分にはどうにもならない事情で、財産の多寡が決まるのは「不公平である」と考えることになると思います。

 「相続される人=死んだ人」と「相続する人=生きている人」と、どちらを重視して「公平」を考えるべきかといえば、やはり、「生きている人」ではないでしょうか。「すでに亡くなった人にとっての公平感 (死んだ人が公平だと思うか)」は、ほとんど問題にならないのではないかと思います。



 以上により、相続税は「積極的に肯定」すべきだと思います。



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