言語空間+備忘録

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相続税の是非

2011-04-29 | 日記
アーサー・B・ラッファー、ステファン・ムーア、ピーター・タナウス 『増税が国を滅ぼす』 ( p.278 )

 ここに六〇代後半の二人の人物がいるとしよう。片方は浪費家、片方は倹約家である。浪費氏は、豪華絢爛な退職生活を送っている。毛皮のコートを買い、フェラーリを乗り回し、毎晩のようにキャビアで大宴会。ハバナから取り寄せた葉巻をくゆらせ、ドン・ペリニヨンのシャンパンで満たした浴槽につかる。出かけるときは若い女を両脇に従え、ねだられるままに何でも買ってやる。世界のあちこちに家があり、気が向けば遊びに行く。二五万ドルのクルーズを計画し、優秀なクルーを雇い、女たちと乗り込む。愛犬のラブラドールレトリーバーは、毎日ステーキのごちそうだ。こうして最後の一ドルを使い果たしたとき、浪費氏はぽっくりと死んだ。なんという絶妙のタイミング。彼の放蕩は、相続税ゼロという形で報われる。これほどお見事な税逃れはめったにない。しかも完全に合法。というより、法律はこうした浪費を奨励している。
 さて、倹約氏である。倹約氏の人生は、浪費氏とは全然ちがう。彼は家業を二人の息子に譲って引退した後に、自分の資産の一部をその事業に再投資した。何くれとなく息子たちの力になり、顧客を紹介する。事業は順調に拡大して、従業員二〇〇人を数えるまでになった。それでも倹約氏は、三〇年前に買った質素な家に住み続けた。彼は友人が始めた事業にもいくらか出資し、そちらも軌道に乗って、資産はいつの間にか倍になる。しかし倹約氏のいちばん大切な資産は何と言っても子供たちであり、愛する息子や娘に遺産を残すことが何よりの望みだった。こうしてつつましく暮らし、その貯蓄や資産や投資がどれほどの額になるのかを誰も知らないまま、倹約氏は亡くなる。残された資産は、なんと四〇〇〇万ドルに達していた。経済に貢献し、雇用を創出し、尊敬すべき人生を送った倹約氏。しかしその終着点に用意されていたのは、一五〇〇万ドルの相続税の通知書だった。遺族はそれを葬儀の場で渡された。だが四〇〇〇万ドルの資産と言っても、その大半は事業に直結している。誰かに、たとえばウォーレン・バフェットのような投資家に事業を売らない限り、相続税を払う術はなかった。こうして、家業を代々受け継いでいくという倹約氏の夢は、あえなく国税庁に潰されてしまったのである。
 相続税は道義に外れた税金であり、アメリカ人の道徳観にも反すると私たちが主張する理由が、これでおわかりいただけただろうか。大方の人は、倹約氏の人生の方が浪費氏よりはるかに立派で好ましいと考えるだろう。だが倹約氏は最後の最後に相続税で打ちのめされた。一方の浪費氏は、一銭もとられていない。これが公正だと考えるアメリカ人は、ほとんどいないはずだ。
 左派は、家や農場を売らなくても相続税は払えるというおとぎ話をまことしやかに口にするが、現実はまったく逆である。アメリカン・ファミリー・ビジネス研究所の資料を見ると、家族経営の事業がこの税金で潰されている実態がよくわかる。本章を執筆している最中にも、アメリカンフットボールのピッツバーグ・スティーラーズが身売りした。NFLの歴史の中でもとりわけ魅力的でファンの多いチームだが、オーナーの遺族が相続税を払いきれなかったためである。また家族経営の会社のオーナーが議会証言し、長年続いてきた家業が競売にかけられる切ない話で胸がつぶれるような思いがしたことも、一度や二度ではない(*6)。最近の公聴会では、ウォーレン・バフェットが相続税の引き上げに同意した後、隣に座っていた中小企業のオーナーが意見を聞かれた。相続税率が引き上げられたらどうなると思うか、と尋ねられたこの経営者は、バフェットを指して言ったものである。「会社を売らざるを得ないでしょう。ここにいるこの御仁のような買い手にね」。だから、『無一文で死ね』といった本がベストセラーになるのだ。この本では、死ぬまでに資産をいかにしてゼロにするかのノウハウが、明らかに脱税すれすれの行為を含め、盛りだくさんに紹介されている(*7)。まったく嘆かわしいことに、こうした税逃れに使われるお金は、経済にほとんど貢献しない。

(中略)

 相続税は、別の観点からみても不公平な税である。と言うのも、課税対象になる資産は、すでにそれを取得したときに税金がかけられているからだ。オプラが鋭くも批判したのは、この点である。収入があった時点で連邦にも州にも地方自治体にも五〇%近い所得税を納めている。そして何とか残った五〇%にも、死ぬときになって五五%の税金が課されるというわけだ。オプラが愛する人たちに一ドル残すとき、政府は三ドルを召し上げる計算である。
 しかも相続税は納税にも徴税にもコストが膨大にかかり、経済効率がいいとはとても言えない。シートン・ホール・ロー・レビュー誌によると、一九九二年の遵守コストは税収の半分以上に達したという(*9)。

(中略)

 相続税賛成論者の論拠は、おおむね次のようなものである。相続税はコストをかけてでも徴収する価値がある。何となれば資産家の子供は、ただその家に生まれたというだけで先祖代々蓄積してきた財産を受け継ぎ、さらに巨万の富を成すことができるからだ。相続税にはこうした理不尽を阻む働きがある。相続税の対象になる資産の多くは、自ら精励刻苦して築き上げた財産ではない、云々。だが南カリフォルニア大学法科大学院のエドワード・マカフェリー教授はちがう意見だ。「富の集中を防ぐことが相続税の狙いなら、それは無惨な失敗に終わっている」(*11)。最富裕層は大金を払って相続税プランナーなるものを雇い、相続税をゼロにする手だてをあれこれ教えてもらう。アメリカでいちばん裕福な家系と言えばケネディ一族とロックフェラー一族だが、彼らが納める相続税は、たしかに意外に少ない。弁護士や会計士がつきっきりで、用意周到に賢い節税法を考えてくれるおかげである。統計は、相続税の納税者が誰なのかをはっきりと教えてくれる。一〇億ドル以上の巨額の資産を受け継ぐ人々は、年々巧みな税回避手段を講じる傾向にある。だから、相続税に直撃されるのは中規模の資産だ。納税した人の相続財産のほぼ半分は、一〇〇〇万ドル以下である(*12)。


 相続税は不公平な税である。倹約ではなく浪費を奨励しているうえに、二重課税の問題も抱えている。しかも相続税には富の集中を防ぐ効果もあまりない、と書かれています。



 私は相続税について、著者の意見には反対です。理由を述べます。

 まず、倹約ではなく浪費を奨励している、という点についてですが、「倹約が道徳的に好ましく、浪費が好ましくない」ことは認めるものの、だからといって浪費が「経済的に悪い」というわけではありません。浪費する人がいなければ、経済成長はあり得ないのではないかと思います。世の中が生産者ばかりで消費者がいなければ、(勤勉で倹約家の) 生産者が困ってしまいます。したがって、(道徳的にどうかはともかく) 経済的な観点でみれば、「相続税が倹約ではなく浪費(=消費)を奨励している」ことは、問題にはならないと思います。

 次に、相続税には二重課税の問題がある、という点についてですが、これに対しては「公平上、最適なキャピタルゲイン税率」に書いたものと同じ反論が成り立ちます。要は、「まとめて」課税しようが「分けて」課税しようが「おなじ」なので、とくに公平上の問題は生じない、ということです。

 また、相続税の徴税コストの問題ですが、これは徴税を合理化すればこと足ります。徴税コストがかかるから相続税は廃止すべきだといった主張は、「効率化」を重視する経済学者らしからぬ主張ではないかと思われます。これも相続税の不当性を訴える根拠としては、「弱い」と思います。

 最後に、相続税には富の集中を防ぐ効果があまりない、という点についてですが、これに対しては、「法律の抜け穴」をふさぐ作業を行えばよいと思います。最富裕層は弁護士や会計士を雇って節税法を考えるが、中規模の財産を有する中小企業のオーナー等はそのような活動をしない(する余裕がない)というのであれば、相続税を廃止するのではなく、「法律の抜け穴」をふさぎ、弁護士や会計士が活躍する場面をなくす努力をすべきだと思います。

 ( 著者は事業継承が不可能になると言っていますが、相続税は銀行借入れで支払えばよいと思います。高額の相続税が発生するほど経済的価値のある事業なら、銀行借入れは可能だと思います )



 基本的に、相続税に反対する人々は、「相続される人=亡くなる人」の立場で物事を考える傾向にあるのではないかと思います。倹約ではなく浪費を奨励している、といった批判は、まさに「相続される人」の立場で考えています。しかし、「相続する人=生き残る人」の立場で考えれば、先祖(親や親の親など)が勤勉だったか、先祖(親や親の親など)が浪費家だったかという、自分にはどうにもならない事情で、財産の多寡が決まるのは「不公平である」と考えることになると思います。

 「相続される人=死んだ人」と「相続する人=生きている人」と、どちらを重視して「公平」を考えるべきかといえば、やはり、「生きている人」ではないでしょうか。「すでに亡くなった人にとっての公平感 (死んだ人が公平だと思うか)」は、ほとんど問題にならないのではないかと思います。



 以上により、相続税は「積極的に肯定」すべきだと思います。



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