And Li Po also died drunk

勝手に好きな音楽、映画、本を書き連ねる。

水差し、というのは盲目のグラスです

2018-07-27 23:12:31 | 日記
魯迅を思い出した。小説は全部読んだ。評論は全部最初から読めないと思っていたので努力しない。「両地書」は少し読んだが全部読んでいない。ヤノーホの「カフカとの対話」はカフカを読む上で大事だと聞かされながら結局読まなかったのと同様、魯迅の作品で重要であるはずの「両地書」も結局読まなかった。と過去形で書いても本はあるのだから両方とも読めるけれど、たぶんこれから読まないだろう。両方とも小説ではなく作家自身のことだ。二人とも大好きな作家であるに関わらず何の興味もない。反面社会参加するサルトルがかっこよかったので、哲学書などほぼ読んでなくてもサルトルが好きといってきた。例の飢えた子供にパンか文学かという話も学生時代してきた。簡単に言えば信念のないまま本を読んできた。年取ってくると信念という言葉すら疲れてくる。それは今始まったことではないかもしれない。学生の時、友人がマーラーの「大地の歌」を聴くとしばらく動けなくなるというのを聞いて自分も買ってみたけれど、睡眠という別の意味で動けなくなった。昔はレコード。30分経つと針が最後までいって眠っていると針を痛めてしまう。その点CDはいい。マーラーの交響曲でも数曲除いて1枚そのままでしかも終わると止まる。安心して眠れるようになった。マーラーは眠るのわかっていても聴くか思うだけいい。ブルックナーは名前聞いただけで眠ってしまう。だからブルックナーも交響曲全部あるのに聴いたのは定番の4,7,8,9だけ。その4曲も通して聴いたのは1度くらいづつなので、こういうメロディだと覚えているのは7番の2楽章くらい。それだってヴィスコンティが映画に使ったからだ。同じ交響曲100曲も書いてと馬鹿にしていたハイドンのほうが聴くこと多くなった。とはいえ心から好きになったわけではないけれど。チャイコフスキーもよく眠る。モーツァルトは昔も今も大嫌い。太宰治は読む前から軟弱だと聞いていたのでしばらく読めなかった。太宰ねえと鼻で笑うのが昔の文学青年の基本姿勢だったのかもしれない。思うに文学で大嫌いというのはない。モーツァルトは嫌いでも買ったら一応聴いてしまう。小説ならば面白くなければ10ページでやめてしまって、10ページでその小説家のことぼろくそいうには材料が足りなすぎるとなる。しかし太宰治くらいだと読んで全然つまらないわけでないから何冊か読めて、それで腐ってると批判できる。さて石川啄木がどうしようもない糞野郎だとわかって、それでも読めるか。


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