今朝ポストに入っていた郵便小包の中身がコレであります。
ヤフオクで昨年末29日に一冊990円で2冊を落札した「二玄社」の篆刻全集の3と5です。二玄社といえば、書道を志す人は知らぬ人も無い書道専門書・法帖の大手老舗の出版社であります。ワタシの仕事場には二玄社の書籍だけで2.30冊はあります。わが師藤原先生によれば、創業者渡邊也寸美氏の個人経営だそうで、高齢によって廃業するようですが、このような良心的な書道出版社が無くなるのは、書道自体の衰微を象徴する様で寂しい限りであります。
ここから下は、以前ワタシがブログに上げた文彭さんの印の焼き直し、重複がありますのでご容赦願います。
これを落札した理由が「文彭」さんの篆刻印の研究目的であります。このブログで何度か紹介しましたが、ワタシの所蔵する中国の明清時代の篆刻家さんの数点の側款がある印の中に文彭の文字が刻まれているからであります。
細かな説明は省きますが、文彭さんの活躍した中国で、それまで官印・私印に限らず篆刻対象になった印は、陶印や銅印、牛角・象牙などの骨印がほとんどでした。それらは書家が「布字」したものを職人が彫る、という「作(印稿の作成)・彫」分業であったのです。
文彭さんも専門職人に象牙印を彫らしたり、篆刻の名人「李文甫 」に依頼していたのです。ところが、たまたま持ち込まれた「燈光凍 」に自分が刻したところ、これがえらく気に入って、もう二度と象牙印を省みなかった、という文書が残っていたようです。この時代(16世紀)に、素人でも彫ることが出来る柔らかで扱いやすい印材「ヨウロウ石」が世に出るようになったのです。文彭さんは、文人・書道家が自ら石を彫って使用するという画期的なシステムを生み出し広めたという事で「篆刻の祖」と評価されています。
ウイキペディアなどの記述も「判で押したように」同様の記載があり、後段には必ず「文彭の自作印は朱文の象牙印『七十二峯深處』が唯一伝存」するのみであると記されています。 これをそのまま読むと、(篆刻を自分で彫るという文化を中国に広めた)篆刻の祖と名を残した大作家の篆刻印が一つも現在に残っていない、という事になります。
これは明らかに不自然で矛盾するのです。まず、文彭さんは基本的には象牙印は彫っていないはずです。あんな硬い骨材を500年前に機械も無い時代には、文人が彫れる道理はないのです。また、ヨウロウ石を使って自分で彫ることを広めた張本人なら、年間最低でも200~300本、20年続けたとしたなら少なくとも4千本以上(実際は一万以上か)は彫ったでしょう。腐ったり風化するはずもない自然石、しかも著名な文彭さんの彫った作品がこの世に存在しない、などと信じる方がどうかしているのです。
そこで考えた仮説は、①大元になった古文書が誤記 ②ウィキペディアや説文を手掛けた人が紛らわしい表現をした ③中文の英語や日本語への翻訳を間違えた ということであります。
「文彭の自作した象牙印は一つだけしか伝存しない」と言う意味の文章が、「文彭が自作した印で伝存しているのは象牙印一つだけである」に置き換わったと考えています。
これを裏付けるように、ヤフオクでもワタシが見つけただけでも「文彭または文三橋」の款がある古印の落札は10件くらいありました。もし伝存しないなら、真正品が出品されるわけが無く、全部が贋作ということになります。印を集めて落札している人は、ほぼ全員がネットで調べるでしょう。偽物とわかっているのに何千円や何万円も払うはずもなく、もしかしたら本物?として落札している(勿論ワタシも偽物かもしれないと疑っていますが)のだろうと思うのです。
そしてワタシの手元に2個の古印があります。2個でたしか3万円で落札しました。
この印の真贋を見極める目的もあって、冒頭の「文彭・何震(文彭の弟子) 」の印譜集を入手したのであります。
この大晦日に、実は驚きの篆刻印の落札がありました。古印が捺された(切り抜いた印影を張り付けた)古い扇子と実際に彫がある5個の印でありました。内、側款ありは「文三橋・松坡さん」でまとめて出品されていたのです。ワタシはこれは3万円位は出そうと密かに狙っていました。
「嘉靖戊子」は1528年であります。
これが、なんと落札額60万円弱であったのです。もし、文彭の石が偽物だったとして、古い扇子と一番下の印に60万円も出しますか?
百歩譲って下の黄土色の石が高値が付く「田黄石」とか「田白」「白芙蓉石」であったとしてもせいぜい1本10万円でしょう。これらは、いずれも文化財的な文物として非常に価値が高い、と判断した古美術商や蒐集家が判断したからその値段となったとしか考えられないのです。
さて、そこでワタシの「文彭」さんの印。
「嘉靖丁未」1547年であります。少なくとも側款は酷似しております。19年の作成年のずれがあるので、酷似するからといって、本物と即断できません。くっついている「蠟印」は、中国の文物局内に設置されている文物鑑定セン ターによって鑑定がなされ、輸出が認められたという証明で、それらの品物は国営の文物商店で販売されるのです。
1960年にできた国外への持ち出し制限 は「1911年以前の製作年のもの 」を対象とされていて、この印は政府が持ち出し禁止するレベルでは無かった、との判断で峻別されたわけです。つまり1911年以前に制作された全ての作品や古いものが輸出禁止ではなく、鑑定結果で「売ってもいいよ」、となったものに蝋印をつけたのです。ここで、文彭さんの印は伝存しないことを前提に、全部「ニセモノ」と専門家が鑑定した可能性はありますね。逆に、実は文彭さんの印が、相当数出回っており、中には大したものではないと見たかもしれません。
もし比較的最近の贋作品ならば、その一味は、わざわざ評価が下がるような蝋印は偽造しません。また、文物局内で鑑定された偽物だと判断したら、本物に見せかけるために、どこかで誰かが蝋印は取り払うでしょう、違いますか?
いずれにせよ謎はナゾ、簡単に解明されるようではつまらないのです。せめて二玄社の印譜で、文彭さんを摸刻し、側款もよーく調べてみようと思います。