今年は「聖徳太子」生誕1400年だそうです。
ワタシ達の御先祖は、3世紀のころまでは弥生時代で、文字が無く、わずかに中国から渡来したと言われる印や貨幣・木片などに漢字が刻まれた出土品が出ているだけであります。
だからといって「言語」が無かったわけはなく、大小100以上に分かれた小国家・部族などで現在の方言のような会話が行われていたのでしょう。文字に関して言えば、何も記録や文字らしきものが発見されていないだけで、祭祀、部族間の決め事、農作物の管理などに原始的な数字や記号や文字があったと考えるのが自然で、それは脆い粘土板や葉っぱ、木片に記されたとしてもいつしか土に還っていったのだろうと思います。
言語は、中国語との関連性が低く、起源が異なるということが分かっています。モンゴル人とかエスキモーとかと顔が似ている、朝鮮語と共通点がある、南のパプア人の言語との類似点が多いなどと諸説あります。もとをたどれば、アジア大陸や無数にある太平洋の島などから流れ着いた原始人たちが、だんだん交わって独自の言語・文化圏を作っていったのでしょう。島国なので「ガラパゴス化」していたため、文字の発生や発達が遅れ、文化的にもヨーロッパや中国など大陸の文明圏の民族と比べたら、はるかに未熟な民族・国家だったのですね。
さて聖徳太子の時代は、西暦600年前後となります。この頃には、漢字が公用語として使用されるようになり約100年後には最古の歴史書「日本書紀」が著されました。この時期にはすでに大和民族としておよそ国家統一がなされ、天皇が統べる体制になっていたのです。
日本書紀の記述内容がすべて正しいとは限りませんが、それ以外に手がかりや資料がない以上「正史」として扱われることになりました。中身はやはり天皇一族の起源から当時の持統天皇までの系譜や治世が中心となりますから、天皇家にとって都合がいいように脚色されていたとしても不思議はありません。
当時の人口は約5百万人と推計されています。おそらく国が統一されるまでの戦争、あるいは天皇一族の皇位継承を争う戦乱が長く、頻繁に起きたのです。その結果、平均寿命はおよそ30歳、男子は2百万人女性3百万人という構成がそれを物語っています。多くの男たちが若くして戦乱や小国家の衝突、跡目争いで討ち死にしたのでしょう。
以前このブログで、ワタシの母方の先祖は聖徳太子の弟だったかもしれない、と書きました。「代々先祖は宮司と漢学者だった」、と宮司をしていた祖父が家系図を広げて、説明してくれたことがありました。母方の姓は宇都宮といいます。聖徳太子のような王侯貴族は、生活力があり側室もたくさん居たでしょうから兄弟姉妹・子孫も非常に多く分岐しています。大和民族が当時5百万人だそうです。もっとさかのぼった神代の時代や神武天皇の頃はさらに人口はわずかで、数万人くらいだったのです。
神武天皇(紀元前711年誕生)から現代まで126代となるそうです。推計10万人足らずの人口の国家で初代天皇から、推古天皇が33代です。そのもとで聖徳太子は活躍したのが1400年前、20歳で子供を設けたとしておよそ70代くらい世代交代したきたのかもしれません。つまり天皇の血筋をひく日本人は薄まったと言え傍流を合わせると、現在ではとんでもない数がいると推定されます。(計算は苦手です) そういう意味では、祖父が言っていた聖徳太子の弟の末裔という話も荒唐無稽と言い切れないのです。
天下無敵の三流官庁厚労省は、自粛を自ら呼びかけながら、多人数で歓送迎会を行いコロナ感染者を増やした様です。するとこんどは引っ越しの際段ボールに詰め込んだ保存用公文書を「誤って」廃棄したそうであります。おまけに「業者が間違えた」とうその言い訳をしています。
ご先祖様(かもしれない)のお兄さんの聖徳太子が制定した日本最古の憲法は十七条憲法です。「和を以て貴しとなす」というあの条文は、とりわけ政治と公務に従事する人たちに向けた心得です。その第五条には役人たちは飲み食いの貪りをやめ、物質的な欲をすてて、人民の訴訟を明白に裁かなければならない、と定めてあります。
わが国の官僚たちは、業者から接待漬けになり、仲間内では深夜まで飲み食いしております。 嘘ついて自分たちのミスを隠すなど言語道断、公文書の廃棄や改ざんは、歴史を捻じ曲げることになる最も戒めるべき悪事であります。