風そよぐ部屋

ウォーキングと映画の無味感想ノート

映画・ゆずり葉

2009年11月25日 | 映画
全日本ろうあ連盟創立60周年記念映画『ゆずり葉』を見た[11/22]。
SPEEDの今井絵理子が準主役[主役のろう者の妻役]で出演している。


私の正直な感想、佳作とは言えない。

ろう者への「理解・啓発・手話の普及」を目的とする啓蒙映画とエンターテイメントの映画にはギャップがある。
ろう者運動の歴史や手話通訳の問題などをどうしても説明的に説明してしまうのである。
エンターテイメントの映画としてはそれは目的ではない。
限られた時間の中でその両者を無理なく溶け込ませるのは容易ではないだろう。
結果として、説明も中途半端になってしまう。

映画は、過去と現在を織り交ぜて進む。
過去は“セピア色”で描いているのだが、その映像・色が全く綺麗ではない。
その上、その行き来が多すぎて、ストーリー展開が途切れてしまう。

「ろう者が脚本を書き、監督を行い、映像をつくる」というだけで価値があるとされる時代ではもはや無い。

身重の早苗が倒れた時、雪の降る夜一人でリヤカーで彼女を病院へ運ぶのはリアリティがあるだろうか。
40年前と言うから手話通訳制度もなかったし、ファックスも確かになかった。
だが、敬一と早苗は手話サークルに通い、ろう運動の先進者であった。
彼らは決して孤立した人間ではなく、彼らを見守り助け合う友人たちがいたはずである。
敬一は、妻・早苗と子どもが死んだ時、彼らの死を見届けなかった。
映画では、生まれたばかりの赤子の産声はろう者の敬一には聞こえないと思った早苗の父親が、
敬一を殴り、追い払い、赤子は死んだことにして、その赤子を育てる。
早苗の親が「全ての責任は敬一にある、敬一には子を育てることは出来ない」と子を取り上げることはあり得るし、
そのストーリーの選択も可能であったと私は思う。
世俗的だが、入籍していたかや、葬式の問題もあったと思うのだが映画は触れない。
敬一はろうあ運動に積極的に関わっていたし彼の仲間はそうしたことに思いをはせなかったのであろうか。
赤子は実は死んでいなかった、その赤子は五朗だと観客がわかった時、
早苗の聞こえる両親の取った行いに理不尽さ・非道さを感じる。
その事実を知った五朗は果たして祖父母を許すことが出来るであろうか。
死んだはずであった子どもは実は生きていて、五朗であり、敬一と五朗は実の親子であったとは、
あまりに不自然なというより安易なストーリーに私は感じた。
“ゆずる”は実の親子間だけでなくともつづられて行く、その方が良かったのではないだろうか。




敬一と早苗は映画を一緒に見に行く。早苗は映画を見ながら横で手話通訳をする。
このシーンはとても不自然である。
暗い映画館でスクリーンを見ている隣同士の二人が、手話を見、理解出来るのであろうか?
ろう者の敬一が音を立ててせんべいを食べながらる映画を見るシーンがある。
早苗と敬一が出会うきっかけとなる大事なシーンである。
だが、ろう者だからと言ってこれは仕方ないこと、当然な事なのであろうか。

ストーリー・エピソードが気になり始めると、次々と小さな事も気になるものである。
例えば、敬一の部屋のセットは新婚当初も老いた時も貧弱で生活臭がない。
五朗がプロポーズする時、身重の彼女をぬらしながら雨の中でする必要はない。
結婚を決意した五朗は「これからはきちんとした仕事に就く」と彼女に告げる。
俳優への情熱はなくなったのか、俳優はきちんとした仕事ではないのか。
公園らしきところでロケするシーンで、聞こえる人が無神経にロケを邪魔したり、
聞こえる人が「おまえらうるさいんだよ」と文句を言ったり、
本番撮影でフィルムが入っていなかったり、そのことで殴り合いの喧嘩をしたり、
そのほか何かあるとすぐ殴り合いの喧嘩になるのも違和感があった、等々である。

またこのエピソードも入れたい、このカットも入れたいとの思いは、
十分わかるのだが、短い時間であれもこれもはやはり無理がある。

この映画には、音楽がほとんど使われなかった。
私は、このことがかなり気になった。
かといって全く使わないと言うのでもない、使っているのである。
三回ほど使っていたのではないだろうか。
「呼び鈴の音」などと音を字幕で説明しているのだから音には神経が行っているはずである。
私は映画において音・音楽が果たす役割はとても大きいと思う。
映画では、言葉ではなく、音や音楽で感情を表したり説明することは良くあることだ。
音・音楽のないろう者にとって、そうした場面ではどのように感じるのだろうか。
重低音を感じるろう者はいるようである。劇場での多方向からの音の臨場感はどう伝わるのだろうか。
私が映画を映画館で見るのは、画面が大きいだけではなく、音響・音楽の偉大さもあるからだ。
音と音楽をどのように使おう、あるいは使わないと話し合ったのだろうか。
そもそも音や音楽を全く使わない方法もあり得るとは思う。
ろう者の日常の生活のように。
その場合、音と音楽に大きく依存している聞者にも見てもらう映画を作るためには、
音と音楽をどのように取り入れるのであろうか。
それともそういうことは考えなかったのであろうか。
私は、映画を見ながらそんなことも考えた。

俳優の演技が上手いとは私には思えなかった。
手話については、私は全くの素人だが、手話表現ががとても豊かであるとは思えなかった。
例えば、手話はろう者同士の会話の時とろう者と聞者の会話の時とでは、同じではない。
スピード・単語・表現の差異・違いがあると私は思う。
それらは十分に展開されていたのだが、私の手話力では私が気がつかなかっただけなのかもしれない。

いずれにしても色んな事を考えた映画であった。
言い過ぎ、誤謬があるかもしれないが思い切って公表する。

今回の上映が映画館ではなく、小画面・音響不十分の会場で行われた、という事情があったとしても
私はこの映画にB級上の評価を与えることは出来ない。
「理解・啓発・手話の普及」を無視し、徹底してエンターテイメントに徹するのが良かったのではないだろうか。
行く手には、名作「名もなく貧しく美しく」、その続編「父と子」が待ち受けている。

コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 祐天寺・五百羅漢寺・大円寺... | トップ | 鎌倉・鶴岡八幡宮、藤沢・遊行寺 »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
なるほど… (きよこ)
2009-11-29 11:52:02
私が読んだなかでいちばん興味深い感想でした。共感できるところもあるし、それは違うと思うなぁ、と思うところも。
映画の音楽については同じようなことを考えた(でも私にはむしろ多く使われてるように思えた)し、リアリティに欠けるとか説明的だと思わざるをえないとか。
でも早苗が死んだシーン、私はあれでよかったと思います。「産声が聞こえなかった」ということが伝えたかったのだと理解しました。せんべいだってろう者はそれが「うるさい」ことに気づき得ないということでしょう。
まだまだ世の中は、こういう啓蒙映画を作らなければならない状況だということなのだと思います。説明的な部分は、オトナの事情なのかな、などと思いました。

突然やってきて長々とすみませんでした。またお邪魔させていただきます。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

映画」カテゴリの最新記事