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北タイ陶磁の源流考・#52(最終回)<エピローグ・その2>

2017-04-14 06:54:46 | 北タイ陶磁

<続き>

北ベトナム・ドゥオンサー窯とクメールの施釉陶、ミャンマー・ピュー王国(3世紀ー10世紀)の施釉陶は奇しくも9世紀頃に、ほぼ同時にスタートしたが、なかでもピューが最も早かったようである。唐代の「新唐書」や「蛮書」によれば驃国について、屋根が輝く甍で葺かれ、城壁が焼物であると記述する。8世紀には施釉陶が存在していた可能性が高いと云われている。

驃国(ピュー)の王都であるシュリークシェートラの名称は、インドのオリッサ地方の都市の旧称に由来すると云われている。それもあってか、ピューの焼物は西アジアのペルシャに由来し、伝承したものと考えられている。そう考えられる背景の一つに、ピューの輝く甍は緑釉であろうと思われる点にある。

そこで前回末尾に記載した、ドン・ハイン氏の論述である。パガン近郊で9世紀以前から横焔式窯が使われてきた・・・との論述である。根拠不明の噺を取り上げるのも、多少おかしなことではあるが・・・。9世紀のパガンは驃国の版図内である。であれば、先の唐書や蛮書記載の甍に繋がるとも思われる。さらにパガンには多くのモン族が居住していたとも云われている。

津田武徳氏のレポートによれば、”モン(MON)陶磁の錫白釉に関して、中東からの影響が言われているが、アラカン陶磁ではとりわけ彩画にみる鳥文、白泥による絵付け、施釉砂岩タイルの文様など、中東からの影響が一層感じられる”・・・と記している。更に”錫白釉は、技術がアラカンからモンに伝わった可能性がある”、としている。これらの一連の西方の影響は無視できないものがあるが、体系的な考古学的発掘が今後進めば、これらの不明な点が明らかになるものと期待される。

それにしてもクメール陶に接するコラート高原から北タイ、中部タイはもとよりマレー半島、ミャンマーのエイヤワディー・デルタ更にはサルウィン川河口のマルタバン、モッタマの広範囲にモン(MON)族が顔を出す。しかも古代から近代にいたる期間を通じてである。そして東南アジア各地の陶業に関しても顔をだす。

モン族は、紀元前3000年から紀元前1500年の時期に東インドから移住を始めて、6世紀頃にはタイ・チャオプラヤ川流域の穀倉地帯に定住した。その後数世紀で西にも移住し、ミャンマーのエイャワディー・デルタに定着し、紀元前300年頃にタトゥンに興ったスワンナブミがモン族の最初の王朝といわれている。そして中世に至るまで重層的に西方と交易し、その文化を吸収してきた。これがモンの陶磁に少なからず影響を与えたと思われる。それはシーサッチャナーライ最初期のモン陶や北タイ陶磁の文様にも現れていると考えられる。←これについては、機会を設けてシリーズで別途紹介したい。

 

                                 <了>

 

 

 


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