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新春特集『遥かなり騎馬民族』(11)

2022-02-03 08:30:52 | 日本文化の源流

<続き>

2度に渡り中断していたが再開する。

〇半島と列島で築墳された古墳を振り返る

先のシリーズ10回目までに述べたことを簡単に総括しておく。朝鮮半島基部の集安は、3世紀初めから5世紀前半までの200年余の都である。その200年間の日本列島では、3世紀中葉の箸墓を始め大きな古墳が現れてから、その規模が頂点に達するまでの時期とほぼ併行している。この200年間は高句麗でも列島と同じように、王侯の古墳が大掛かりに営まれる全盛期であった。それは将軍塚のような王侯墓で方墳である。

(高句麗・将軍塚 出典・Wikipedia)

同じころ、半島南半部にも大きな墳墓が現れる。ソウル市内の石村洞古墳群には、高句麗の王墓と似た方墳が集まっていて、4世紀後半の百済王の古墳とされる。

(石村洞3号墳:3段目以上が崩壊しており何段であったか不明。高句麗将軍塚と同じく騎馬系扶余族の仕業であろう)

また新羅の慶州にも大規模な墳墓群が存在する。こちらは円墳の積石木槨墳で、皇南大塚は墳丘の長さが約100mで、5世紀前半の新羅の王墓である。

日本列島の古墳時代前期(3世紀中葉~4世紀後半)の副葬品は、青銅鏡、石製腕輪、玉類、鉄製農具等が中心で、そこには騎馬民族のキの字も認められないが、古墳時代中期(4世紀末~)以降の古墳からは、被葬者の武人的性格が強くなり、鉄製の甲冑などの武具、馬具、鉄剣などの武器が副葬されている。朝鮮半島の緊迫した情勢のもと、実際に出兵した首長も存在するようになった。

(日本列島から出土する蒙古鉢形冑)

(半島と同じように桂甲を身に着けた武人埴輪)

高句麗や百済の王侯墓の副葬品は、金銅製の冠や装飾品、鏡などの他に鉄製の甲冑、刀剣、鏃などの武器や馬具が出土している。このように亡き首長の軍事的な威信や武勇を誇示することは、墳丘を大きく雄大にすることと共に、半島と日本列島に共通するコンセプトであり、これらの事どもは偶然の一致と呼べるものではなく、期せずして一致したものであろう。つまり騎馬民族の日本列島への渡来がなせるものであった。

表をご覧願いたい。これは古墳時代中期前半から中葉(4世紀末~5世紀中葉)までの巨大前方後円墳をまとめたものである。大きさを墳長にすればとも思うが、松木武彦氏は権力者の力を示すのは、墳長ではなく、後円部の径が相応しいとのことでそれによっているが、大雑把には後円部径×2倍=墳長と考えてよい。

これによれば、大和や河内などいわゆる畿内(神戸市・五色塚は旧国名で云えば播磨だが、摂津境であることから畿内とした)に圧倒的に多く存在する。それは、当時の富と権力が畿内に集中したことを示している。そして、この時代の古墳から出土する副葬品は、被葬者の武人的性格を示す鉄製の甲冑などの武具、馬具、鉄剣などの武器が副葬されるようになる。これらのことは何を示すか?

半島を経由して騎馬民族や騎馬民族に繋がる人々が、日本列島に渡海して、それらの鉄製武具や武器、あるいは乗馬の風習を持たない人々の上に立ったことを表していると考えられる。また巨大前方後円墳の分布が示すのは、渡来氏族の棲み分けとも考えられる。

ここで注目すべきは、継体天皇を輩出した西近江や越前に巨大前方後円墳が見当たらないことである。つまり継体天皇に繋がる祖は、渡来が5世紀中葉以降の比較的新しい渡来騎馬民族であったと、勝手に想像している。

<続く>

 



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