(騎馬人物形土器:慶州国立博物館 レプリカ展示・北九市立いのちのたび博物館)
既に5回に渡り『騎馬民族は遣って来たか、来なかったのか』とのテーマで記事を掲載してきた。御覧の各位はどのように感じられたのであろうか。
江上波夫氏は、『任那(伽耶)』から崇神天皇が騎馬民族集団を率いて北部九州に遣ってきて、扶余・韓・倭連合の『日本国』をつくり、応神天皇のときに北部九州筑紫の人々の勢力を加えて東遷したというのが、騎馬民族征服王朝説である。
崇神天皇は¨御肇國天皇(ハツク二シラススメラミコト)¨の号を持ち、御間城入彦(ミマキイリヒコ)という和風諡号を持つ。ハツク二シラススメラミコトとは、王朝の開祖を意味し、御間城入彦は¨ミマ(任那=伽耶)の城¨であり、任那から遣って来た大王を指しているというが、ミマは残念ながら語呂合わせの域を出ないものであろう。
私見であるが、10代・崇神天皇は来なかったが、騎馬民族は遣ってきた。そのことは既に5回に渡るユーラシア、新羅等の朝鮮半島や列島の古墳等の遺跡から出土する文物の共通性から証明されるであろう。
古文献なかでも日本書紀に伝承として伝わるのは、11代・垂仁天皇三年三月条に記される『天日槍』である。これは特定の人物ではなく、集団を意味するであろうとされるが、その説に賛成である。その集団がどのような規模であったのか、想定する以外に方法はない。
(金海国立博物館展示の準構造船土器で日本の舟の埴輪に相当するもの)
(兵庫県立考古博物館展示の復元準構造船)
古墳時代の準構造船は数頭の馬と20人程度の人々が乗ることは可能である。それが一艘船出したとは考えられず、海難のことを考えれば少なくとも10艘は船出したであろう・・・とすれば、20-30頭の馬と200人程度の集団となる。弥生期以降の農耕社会に入り込んだとすれば、力のある集団の来寇となる。
天日槍集団のような集団が五月雨で、半島側から遣って来たのではないか。ある集団は北九州に、ある集団は山陰や北陸といった具合にである。それは氏族ごとに異なる集団であったであろう。
それらの集団の母体はなんであったのか。所謂新羅人や伽耶人といった韓族ではなく、西域騎馬民族の香りのする北方騎馬民族であろう。しいて云うならツングース系統が考えられる。
理由は簡単である。地球寒冷化の影響を受け、北方騎馬民族は南下せざるを得なかったのである。古気候学なる学問分野が存在するという。それによると5-6世紀は、まさに古墳寒冷期とよぶ寒冷化の真直中であったとのことである。
今日温暖化が叫ばれ、地球の平均気温が1℃上昇するだけで、今日のような異常気象である。寒冷化と云えば例え2℃も低温化すれば、その異常気象下の北方ツングースでは容易に生命維持をするのは極めて困難で、新羅経由で南下せざるを得なかったであろう。
ここで天日槍と都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)は同一人物であろうとの見方が存在する。ツヌガアラシトは自らを伽耶の王子とするが、これはツングース系女真族であろう。後世、女真族王朝として金を建国した太祖は、完顔阿骨打(ワンヤン・アクダ)である。他人様の語呂合わせは否定的見解を示しておきなが、我が使うのも気が引けるが、阿骨打と阿羅斯等、更にはアタイ、アルチュフ、アシホの人名が見える・・・渡来した騎馬民族を北方騎馬民族とする傍証である。
この北方騎馬民族が弥生人の後裔集団と混交し土着した。後世大和政権の中枢を担う人々はこれらの人々である。後世(日本書紀によれば応神天皇の御代)の渡来人集団である王仁(わに)、秦氏、漢(あや)氏などの氏族集団とは、民族が異なっていたのである・・・云々と空想が湧く。
空想と云えば、新羅の古墳から人物俑が出土する。以下の人物俑は西域・ソグド人の匂いがする。古代日本にも渡来して来たのでは?との空想も湧く。そう云えば金海の金首露王陵を訪れたとき、手前に並ぶ武人像をみると、西域人の風貌をしていた。朝鮮半島南端まで来ていたとするなら、幾人かは列島に渡海して来たのではないか?
(ユーラシアの風新羅へより転載)
空想ついでに、時代はやや下るが我が出雲、出雲族も騎馬民族ないしは騎馬民族の末裔であった。その出雲族の故地で得意技であった冶金を生業にすることになった、砂鉄精錬である。この砂鉄精錬は須恵器同様に火を制御する技が必要である。したがって須恵器窯も出雲の各地から出土することになる。
以上最後は蛇足になってしまったが、江上波夫氏の騎馬民族は来なかったが、別の騎馬民族集団が五月雨で列島に遣って来た。天日槍族もその一つであった。
<了>
<追>
当該記事でブログ開設以来1502回となった。過去、ブログ開設1500回&5周年記念として、『北タイ陶磁特集』を連載すると予告してきたが、次回よりその連載を開始する。
<了>
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます