世界の街角

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薩摩隼人とワー(ว้า)族・#2

2018-10-03 07:03:04 | 古代と中世

<続き>

噺は変わる。今回ロングステーするにあたり、司馬遼太郎著作の文庫本を持参している。その著作「歴史を紀行する」所載の『独立王国薩摩の外交感覚』に以下の一節がある。

“奈良・元正天皇の養老四年二月、隼人が大いに反乱した。隼人とはなにか。よくわからない。いまの鹿児島県薩摩半島と大隅半島を主たる住国としていたが、何人種なのか。その風俗が大いにちがっていたところからみても奈良朝国家の支配者とは別な種族であったことはたしかである。その種族については喜田貞吉博士がよほど関心をもったにもかかわらず、いまだにそれが、インドネシア系であるのか、それ以外のものなのか定説はないが、要するに剽悍で多血質で進退が敏捷で、戦士としては無類に強く、奈良の朝廷はこの種族の強さに手を焼いてきた。朝廷では大宰府をして南日本の隼人を統制してきたが、手の施しようがなく、中央から大伴旅人が派遣され、旅人はこれを鎮圧し首千四百余を朝廷に献じた。ちなみにこれほど朝廷では隼人にてこずってきたくせに、隼人はよほど純朴で愛嬌のある種族であったらしく、中央ではこの種族を愛し、宮廷の雑用につかったり、宮門の番人にしたり、さらに滑稽なのは、朝廷で大きな儀式が行われるときは宮門のそとに隼人をならばせ『吠声(べいせい)』をなさしめたりしたことであった”・・・と記している。

そこで隼人であるが以下、Wikipediaからの引用である。隼人(はやと)とは、古代日本において、薩摩・大隅・日向(現在の鹿児島県・宮崎県)居住した人々である。古く熊襲(くまそ)と呼ばれた人々と同じといわれるが、「熊襲」という言葉は『日本書紀』の日本武尊物語などの伝説的記録に現れるのに対し、「隼人」は平安時代初頭までの歴史記録に多数現れる。文献上の確実な史実として初めて「隼人」が登場するのは、『日本書紀』に見える682年(7世紀後半・天武天皇11年)7月の「朝貢」記事と考えられている。古くから畿内に移住させられ、宮中で守護に当たるほか、芸能、相撲、竹細工などを行うようになった。特に山城国(京都府)南部に多く定住し、大隅隼人の住んだ現在の京都府京田辺市には「大住」の地名が残る。律令制下においては、隼人司(衛門府、後に兵部省)が、これらを司った。また平城宮跡では彼らが使ったとされる「隼人楯」が発掘されており、これには独特の逆S字形文様が描かれている(『延喜式』に記述があり、合致している。 日本神話では、海幸彦(火照命:ほでり)が隼人の阿多君の祖神とされ(海幸山幸)、海幸彦が山幸彦に仕返しされて苦しむ姿を真似たのが隼人舞であるという。説話の類型(大林太良ら)などから、隼人文化はオーストロネシア語系文化であるとの説もある。 654年(7世紀中頃)、日向に覩貨邏(通常は西域のトハラ人と解釈するが、現在のタイ・ドヴァラヴァティーとの説有り)の民が漂着したと、熊谷公男氏は講談社刊『日本の歴史03-大王から天皇へ』で記述している・・・以上、Wikipediaから引用した。

ここでドヴァラヴァティーとは古代のモン(MON)族国家である。う~ん、何か噺がうまくできすぎの感がする。モン族国家の一つに北タイ・ランプーンでチャーマティーウィ女王によって、8世紀半ばに建国されたハリプンチャイ王国が存在する。以下の写真はモン族の手になる仏陀像頭部である。

(於:ハリプンチャイ国立博物館)

亀有の両さん宜しく左右の眉が太くてかつ繋がっている。西郷隆盛の肖像画には、眉が繋がっていないものの太く描かれている(ややこじつけの印象もあるが・・・)。

(Wikipediaより)

この眉が豊かであるのが両者の共通項である。さてこのハリプンチャイ王国であるが、その地の先住民はラワ(ルワともワーとも呼ぶ)族で、中国深南部で佤(わ)と呼ぶ民族と同じである。このラワ族はモンクメール語族で、紀元前後にミャンマーのマルタバン湾岸からサルウィン川を遡り、チベット系民族と混ざった後、3世紀にチェンマイ盆地に進出した。このようにラワ族はマラッカ国と呼ぶ民族国家を築いたが、8世紀半ばにモン族の進出に因りその勢力は衰退した。ランナー王国時代に至り、チェンマイ王の戴冠式の際、城壁の北の白象門から、ラワ族が犬を連れて戴冠する王の先導をするしきたりだった。下の写真はチェンマイ民族学博物館のジオラマ展示である。

隼人の吠声、ラワ(ワー)族の犬の先導・・・その奥に何か共通の事どもの存在が匂ってくる。最近の縄文人の遺伝子解析により、東南アジアのホアビン文化人との繋がりが指摘されている。薩摩隼人=モン族やワー族とは云わないが、深淵で何がしらの関連があったものと考えたい。

<了>