まさおっちの眼

生きている「今」をどう見るか。まさおっちの発言集です。

左利き矯正と吃音

2008-12-10 | 随筆
昨夕、長女が孫を連れてやってきた。三歳になる男の子の孫は、生きていることが楽しそうで、純な仕草を見ていると、こちらも幸せになってくる。でも、以前から気がかりだったのだが、どうも、ぼくに似たのか左利きの可能性がある。「スプーンは右手で持つんですよ」、長女は優しく指導しているが、利き手の矯正はよくないので心配だ。ぼくは左利きで、母親が世間様に恥ずかしいとエンピツを持つ左手を叩かれ、右手で字を書くようになった。しかし、その結果、ドモリ、いわゆる吃音者になってしまった。果たして、左利きの不便さ・恥ずかしさより、ドモリのほうがその何百倍も大変だった。高校生の頃だったか、吃音で苦しんでいた時に、図書館で、分厚い文献を調べていたら「左利きを矯正した8割はドモリになる」とあって、初めてその因果関係を知った。しかし、利き手を矯正するとなぜドモリになるのか、未だに原因は判っていない。ひとつには、利き手というのは本能である。そして自己表現のひとつでもある。それを悪いと封じ込められた時、子供ながらに「なんで?」という疑問がわいたことは確かだ。何度も「あなたの自己表現は悪い」と封じ込められると、情緒不安定になり、言葉を発するという自己表現にも影響を与えるのではないだろうか。あるいは、手というのは脳と連結している。脳梗塞のリハビリなんかでも指を動かす訓練によって言語機能を回復させようとする。本来の利き手は本能でもあるから、それを阻害すると逆に脳の言語中枢になんらかの影響を与えるのではないだろうか。いずれにしても利き手の矯正でドモリになる確率は非常に高い。ところで、吃音というのは、呼吸の仕方と発声のタイミングがどうもうまくいかなくてなってしまうのだ。人前で自分の名前すら言えない辛さ、恥ずかしさといったらない。苦しんで死にたいと思ったことがたびたびあった。でも、長く生きてみて、逆にドモリになって、得たものも多かった。人間の深層心理も読めるようになったし、洞察力や、逆に努力によって説得力も身についたし、それでよかったんだと感謝する面もある。元総理の田中角栄、明治の哲人・中村天風、落語家の歌奴なども、ドモリだったが、逆に説得力のある話術を身に着けて成功したひとも多い。しかし、苦労を考えると、やっぱり孫には余計な苦労をさせたくないなあと思っている。今では、左利きを矯正せず、そのまま、左利きの人が多くなった。アメリカ人は特に多そうだ。本能なんだから、矯正せず、左なら左を思う存分使わせればいいのである。まあ、ぼくは、スプーン・箸は左、字は右、野球は左投げ右打ち、女性を愛撫する時は両手(笑い)とややこしくなったが、もし、孫が左利きなら、そのまま、伸ばしてやりたいと願っている。


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