まさおっちの眼

生きている「今」をどう見るか。まさおっちの発言集です。

池田大作逝去か!

2013-03-15 | 随筆
週間誌AERAの最新号で、創価学会の池田大作名誉会長が心筋梗塞で逝去したとの「説」が載っている。学会側は一切発表していないので、その真意は定かではないが、事実とすれば享年85才になる。
創価学会といえば学会員数800万人。日蓮正宗と喧嘩別れしたことによって、彼らたちは日蓮ではなく、その中興の祖である池田大作名誉会長を崇めている。その池田氏が亡くなったとなれば、その後の学会は大変動を起こすだろう。
今は亡き私の義母も学会員だった。
義母はいつも「人」という塗り絵に、学会へ寄付したごとに色を塗っていた。いくら寄付したのか全く定かではないが、晩年「しらゆり賞」というのを貰い、その賞状が床の間に掲げてあった。
「マサオ、よく聞くんですよ」、そう言って義母は、聖教新聞から切り取った池田大作氏の「人間革命」をカミさん共々よく読んで聞かされたものだ。義母は学会を信じることで、晩年幸せな余生を過ごせたと思っている。
ところがこっちはジャーナリストの端くれ。
ジャーナリストというのは何事もまず疑いかかってナンボの世界である。
ニーチェの「真実は虚妄のなかにある」ではないが、例えば世間様が「白」と言っていても、「黒」の視点はないかを探すのがジャーナリストの使命である。
だから私は何の組織にも宗教にも党派にも属さず、常に「無信」の立ち位置で生きてきた。
しかし、そういう仕事と「人間の幸せ」というのはまったく別問題である。
ジャーナリストは疑えば疑うほど「いい仕事」ができるが、人間というものは何でも「信じる」ことで幸せになれる。
信じる対象は、文字通り「いわしの頭」でもいいし、カミさんでもいいし、神、仏でもいい。何だって信じれば、人間の心は不安から解き放たれ、精神は強くなり、スッキリと集約できる。人間というのは、そんな能力を持っている。
職業柄、何事も「無信論」で生きてきた私は、今も「無信論」である。
よって、心は弱く、いつもオタオタしている。