飾釦

飾釦(かざりぼたん)とは意匠を施されたお洒落な釦。生活に飾釦をと、もがきつつも綴るブログです。

デューラー『メランコリアⅠ』⇒若桑みどり(「人間大学」1992年放送)による解説

2010-12-01 | 美術&工芸とその周辺

いろいろなテレビ番組を録画しておく習慣があって、先日見てきたデューラーに関するものも探したら見つかった。1992年NHK教育テレビで放送された「人間大学/絵画を読む~若桑みどり」がそれ。もう20年近くも前のテレビ番組だ。そのなかでデューラーの「メランコリアⅠ」を取り上げている。若桑みどりの話はとにかく濃厚である。知識がどっさりつまっている。5分聞いただけでもその情報量の多さにびっくりしてしまう。キレも剃刀のようにいい。だから故人となってしまった彼女の話を聞くことができないのはとても残念なことだと思う。話を聞いてこれほどに頭を刺激される人も滅多にいないから。ボクは画面からしか伺いしることができないけれども、本物の美術研究者であったと思う。今回、見事すぎる若桑みどりの「人間大学/絵画を読む」の該当テキストほぼ全文に近い形で引用してみたいとおもいます。※以下、「人間大学 絵画を読む/デューラー『メランコリアⅠ』~自然哲学と芸術の結合~」若桑みどり(日本放送出版教会)から引用

 

<複雑な画面>

画面は実に複雑で、一見してたがいに関連性のない雑多なものたちがごたごたと描き込まれている。まず、一番目につくのが、頭に植物の冠をかぶり、ひじをついて考え込んでいる翼を持った女で、彼女は黒い顔をして目だけを白く光らせ、深い瞑想にふけっている。膝の上には書物を置き、その手にはコンパスをもってはいるが、そこには関心がいっていいない。ベルトから鍵の束と財布がさがっている。彼女の足元には、釘、鋸、鉋、線引などの大工道具が乱雑にころがり、左下には球がころがり、ランプ、あばら骨が見えるほど痩せた犬が描かれている。犬のそばには、円柱の部材または車輪のような穴の開いた石材の上にはプット(童児)がのって版画を彫っている。プットの頭上には秤がぶらさがっている。そこは一軒の家の壁ではしごが、かかっているところをみると建造中らしい。家の壁には秤のほかに砂時計、鐘、魔法陣が掛けられている。はしごの下には奇妙な多面体の石が置かれ、その左には炎をあげる炉がある。石のむこうは水があふれた風景で、空には虹がかかり、彗星がきらめく。こうもりが翼をひろげて飛び、そこに「メランコリアⅠ」と書いてある。

<宇宙論と憂鬱質>

日常の現実世界では決して一緒になりえないこれらのものが同じ画面に描かれていることは、この絵が寓意を示しているということをすぐにわからせてくれる。1939年にイギリスの哲学史家クリバンスキーとドイツ生まれの美術史家パノフスキー、ザクルスの三人が、この作品をめぐる重厚な研究所を出版している(土星とメランコリー」)それによると、ひじをついて考え込んでいる女性は、憂鬱質の擬人像、財布と鍵は中世以来の伝統的な「憂鬱質」の付属仏である。頬杖、握りこぶし、黒い顔も憂鬱質のきまりのポーズである。ギリシャ人の自然哲学では、宇宙は四つの元素からなっており、それらが四つの体液を構成していて、人間のもって生まれた行動や気質を決定すると考えられた。人間の四種類の体液、それは黒胆汁、黄胆汁、粘液、血液で、それらはおのおの四大元素を表し、季節や人間の成長段階を支配している。

空気 血液  春 幼年 多血質

火  黄胆汁 夏 青春 黄胆汁質

水  粘液  秋 壮年 粘液質

土  黒胆汁 冬 老年 憂鬱質

ピュタゴラス、エンペドクレスという哲学者たちによって、宇宙から人間にいたるまでのすべての現象が四大元素の結合によって理論的に説明された。そのなかで重要なことは、人間が大宇宙と同じ元素からできており、したがって大宇宙の生成と人間の生命との間には緊密な関係があるという思想が示されたことである。さらに、ギリシャの自然哲学からこの元素論をとりいれたアラビアの学者たちによってたぶん八世紀から九世紀にかけて、人間の気質が星に支配されているという占星術の理論が完成された。多血質と木星ユピテル、胆汁質ゥルヌスという結び付きである。憂鬱質は黒く、乾いており、冷たく、農耕、土地、領地、財産、強欲、富と関係があり、墓掘り人夫、泥棒、金貸しなどの職業に関係がある人間をつくりだす。こうしたアラビア農耕せんの写本が14世紀ころのヨーロッパに入ってきて、そこに『惑星の子供達』という通俗占星術の図像が生まれた。これらのあまり芳しくないメランコリーの職業的性質がデューラーの「メランコリアⅠ」に描かれた鍵や財布に伝えられた伝統的な寓意である。

 

<憂鬱の逆転>

イタリアの人文主義者たちは、特にその代表者であるマルシオーリオ・フィチーノは、古代の自然哲学を深く研究し、ひそかに、その理論をキリスト教の教説と調和させたいと考えていた。彼はもともと医者で、占星術や四体液論などにもとづく医学書『三重の生について』という著書のなかで、人間の気質や健康が天体に左右されていると童子に天体の力を活用してマイナスをプラスに転じる方法を論じている。この書物で彼が熱心に論じたことは、土星に支配された人間の特異性である。彼によると土星に支配された人間は土の中心にむかうように思索にむかう。つまりかれらは知的労働にむいているのである。世俗的な事物から遠ざかり、神秘や哲学にむかう特質をかれらはもっている。だが同時に憂鬱や不安や狂気におちいりやすい。そこで憂鬱質の人間は数や色、音楽などさまざまな術によって木星のよい影響をひきつける必要がある。パノフスキーは壁に掛かった魔法陣をユピテルを呼ぶ数からできていると判断している。だがそれも結局は気休めにすぎない。土星のもとに生まれた知的人物は、物質の支配から超越することによってのみ、土星の悪から逃れることができるのである。というのは元素は物質しか支配しないのであるから。つまり土星のもつ性質のうち、孤独で瞑想をこのむ特質を最大限に利用してこそ、精神の偉大さにおいて人は物質界を超え、はるかな高みに飛ぶことができるのである。こうしてもっとも低い土に支配された人間が、もっとも高い精神の世界へと逆転の位置を得ることができる。このような逆転の発想はフィチーノやピコ・デッラ・ミランドラが実際に土星の生まれであったということ以上に、本来土というもっとも卑しく低い物質にしばりつけられた人間がその知性の努力によって物質の桎梏を越え、精神の高さによって神の領域にまで迫ることが重要である。卑ししい物質からできている人間が崇高であるのはただその知性によってであるという思想がこの憂鬱質の評価を逆転させたということができる。フィチーノやピコの弟子であったミケランジェロも、自分自身を「瞑想する人」つまり憂鬱質の人間として表現している。デューラーのメランコリーがその背中に翼をもっているのも、このような精神の上昇の可能性を表したものであろう。

<オカルト哲学とデューラー>

だがデューラーの版画のなかには、大工道具が描かれており、その源泉はドイツ16世紀版画ののなかで「幾何学」とお憂鬱質」が結び付いた図像であることをパノフスキーは発見した。そのテキストは、ドイツのフィチーノと呼ばれるアグリッパ・フォン・ネッテスハイム(1486ー1535)の『オカルト哲学(隠された哲学)』(1510年)であるとパノフスキーは指摘した。この書物は非キリスト教的世界に伝えられてきたアラビアの魔術、新プラトン哲学、ユダヤ神秘主義(カバラ)などさまざまな神秘主義の集大成であるが、その根本思想は、宇宙を支配しているさまざまな作用をもって事物や人間を動かす自然の力であるということである。降霊術、護符、さまざまな占いなどの「迷信」にみちたこの魔術の書は、当然ながら近代的科学の前でいかがわしいものとしてほうむり去られてしまった。20世紀になって、ルネサンスの科学思想が客観的な公正さをもって掘り起こされた結果、オカルト哲学もまた人類科学思想史のなかにある段階における重要な証拠としてのその意味が正当に評価されるようになったのである。この分野ですばらしい研究を残したフランセス・イエイツの『魔術的ルネサンス』では、アグリッパの書物では、人間の霊魂は「想像力」「理性」「叡知」の三段階を通って上昇し、最終的には天使の域に達するものであり、究極においてはこれはキリスト教的カバラつまりキリスト教的魔術の書であったと解釈している。デューラーはこの書物のなかで、アグリッパが特に憂鬱質の魂の上昇過程について熱心に述べていること、また、その第一段階において、デューラーが職業としている芸術のもつ意味が、「宇宙的」なシステムのなかに説明されていることに意義を感じたのであろうと思われる。アグリッパによれば、黒胆汁の体液には非常な力があり、それが人間の魂の三つの能力と結び付くことによって三段階の作用を起こす。まず第一段階の想像力と結び付くと、魂は想像力に集中して、画家または建築家となる。その段階では、魂は天変地異、嵐、地震、豪雨、疫病、飢饉などを予言する能力をもつ。つまり、『メランコリアⅠ』にかき込まれたさまざまな事物は、これによってほとんど説明されることになる。ものに憑かれたような人物の姿、幾何学や建築、絵画を示す道具、洪水や虹や彗星などである。また、秤は重さを、時計は時間を象徴しており、かれがかかわる世界が計測可能な物質的世界であることを示している。 またかれがかかわる世界が計測可能な物質的世界であることを示している。また表題が『Ⅰ』となっていることも、それがさらに第二、第三の段階を経るものだということを暗示している。イエイツは、同じ年に描かれた『書斎の聖ヒエロニムス』が永遠の聖なることがらについて知ることのできる憂鬱質の第三の段階、つまり最高段階を描いたものであると解釈している。そうとすれば、政治、哲学、雄弁などの第二段階を示した版画は『死と悪魔と騎士』であるかも知れない。この版画には、キリストの騎士が、悪魔を蹴散らし、死を恐れずに戦いにむかうところが描かれている。それはまだ推論の域を出ないが、デューラーは、宗教改革とこれにともなう社会変革に賛同しつつ、「行動する騎士」、「聖職者」と並んで、想像力によって魂の活動に参加する「芸術家」としての自己のアイデンティティーを示そうとしたことが考えられる。またかれが、みずからも憂鬱質の人間であると考えていたことは、ニュルンベルグ大学図書館にある頬に手をあてた『自画像の素描』でわかる。 

<解釈の相違>

パノフスキーはつまるところ、この版画は霊感をうけつつも不活発な状態でなにごともなさないでいる天才の挫折感を表していると解釈した。かれによれば。彼女は翼を閉じてとぶことができない。イエイツは、彼女が天使の翼をあたえられていること天に、上がるはしごが背後にあることによって、物質界にありながらも想像力によって飛翔するヴィジョンを与えられた芸術家肯定的イメージであるとする。犬が痩せているのも、パノフスキーによれば失敗の記号だが、イエイツこれが「乏しき食事」つまり五感の制限によって精神の活動に力を与えている状態を意味する。いずれにしても、総合的な意味においても、またいくつかの重要な細部においても、絵のなかにはまだわからないことが多い。はしごの下にある多面体は、パノフスキーによれば画法幾何学つまり遠近法の暗示だということであるが、まだはっきりしていない。大学で講義しているとき、多くの学生がこの石のなかに骸骨に似た人間の顔を見たと言った。もしそれが確認されれば、この石は死すべき物質の象徴となり。そこから天へと上昇するはしごが出ていることは、物質から不死世界への上昇を意味することになる。実際に『メランコリー』と題された17世紀のドメーニコ・フェッティのルーヴルの作品には、骸骨を手にもって瞑想する憂鬱が登場する。この版画の完全な解読は16世紀当時のオカルト哲学を含む世界観がもっと研究されたときにはじめておこなわれるであろう。

 

※以上、「人間大学 絵画を読む/デューラー『メランコリアⅠ』~自然哲学と芸術の結合~」若桑みどり(日本放送出版教会)から引用

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