湖畔亭事件に登場する主人公は、レンズ狂の青年である。レンズに取り付かれ、それによってもう一つの自身の覗見趣味を開花させていく。それは、屋根裏の散歩者の郷田、よろしく他人の視線が及び届かぬリラックスした本当の自分をさらけ出してしまう、そんな人間の日常を観察するのがたまらなく愉快と感じるのだった。
◆生身の人間が見たくてたまらい~観察者の思考
“私の見たいと思ったのは、周囲に誰もいない時の、鏡の前の裸女でありました。或いは裸男でありました。我々は日常銭湯などで、裸体の人間を見なれておりますが、それはすべて他人の前の裸体です。彼らは我々の目の前に、一糸も纏わぬ、赤裸々の姿を見せてはいますけど、まだ羞恥の着物までは、脱ぎすてていないのです。
それは人目を意識した、不自然な姿に過ぎないのです。私はこれまでの覗き眼鏡の経験によって、人間というものは、周囲に他人のいる時と、たった一人切りの時と、どれほど甚だしく、違って見えるものだかということを、熟知していました。
人前では、さも利口そうに緊張している表情が一人切りになると、まるで弛緩してしまって、恐ろしいほど相好の変わるものです。ある人は、生きた人間と死人ほどの、甚だしい相違を現します。表情ばかりではありません。姿勢にしろ、いろいろな仕草にしろ、すべて変わってしまいます。
私は嘗て、他人の前では非常な楽天家で、寧ろ狂的にまで快活な人が、その実は、彼が一人切りでいる時は、正反対の極端な陰気な、厭世家であったことを目撃しました。人間には多かれすくなかれ、こうした所がある様に思われます。我々が
見ている一人の人間は、実は彼の正体の反対のものである場合が屡々あるものです。
この事実から推して行きますと、裸体の人間を、鏡の前に、たった一人で置いた時、彼が自身の裸体を、いかに取扱うかを見るのは、甚だ興味のある事柄ではないでしょうか。”
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