♦️89の2『自然人間の歴史・世界篇』空想的社会主義

2018-04-06 22:59:57 | Weblog
89の2『自然人間の歴史・世界篇』空想的社会主義

 「空想的社会主義」という言葉は、なかなかの命名だといえよう。かれらの説に批判的検討を加えたのはフリードリヒ・エンゲルスとマルクスであり、例えば、こうある。
 「三、批判的・空想的社会主義および共産主義。(中略)本来の社会主義的および共産主義的諸体系、すなわち、サン・シモン、フーリエ、オーウェン等々の体系は、われわれがまえに述べた、プロレタリフ階級とブルジョア階級との闘争の最初の未発達な時期にあらわれる。
 これらの体系の創始者たちは、なるほど階級の対立を、また支配階級自身のなかにある解体的要素の活動を見る。しかしかれらは、プロレタリア階級の側に、歴史的独立性を、独自の政治的運動を、まったく認めない。
 階級対立の発展は工業の発展と歩調を一にするであるから、そのため、かれらは、プロレタリア階級解放のための物質的諸条件をほとんどまったく見出すことができなかった。そしてかれらは、この諸条件を作り出すために、一つの社会科学をさがしもとめた。
 社会的活動の代わりに、かれら個人の発明的活動があらわれざるをえない。解放の歴史的諸条件の代わりに空想的諸条件が、次第に行われる階級へのプロレタリア階級の組織の代わりに、自分で案出した社会の組織があらわれざるをえない。」(マルクスとエンゲルス著、大内兵衛と向坂逸郎訳「共産党宣言」岩波文庫、1946)
 ここにサン・シモン(1760~1825)は、フランスでも高位の貴族の家に生まれる。16歳にしてラファイエットの義勇軍の士官としてアメリカ独立戦争に参加する。同時に、合衆国の産業階級の勃興に感銘を受けたらしい。フランスに帰国してからは、社会の基礎は産業であり、資本家と労働者は対立する関係ではなく、愛し合うべきだ、などと唱える。
 またシャルル・フーリエ(1772~1837)は、フランスの裕福な商人の家に生まれる。幼年時代には家業になじめなかったが、9歳の時に父を亡くし、彼は家業を継ぐ。やがては、ブルジョア社会の悪弊を厳しく攻撃し、思想家として身を立てようとなっていく。その持論としては農業を重視し、そこでの「ファランジュ」という自給自足の共同社会を描く。すでに資本主義の足音が高まりつつある中、独特の社会発展論を唱えていくのであった。
 さらにロバート・オーエン(1771~1858)は、イギリスの生まれ。実業家として当時のイギリス社会に広く知られる。具体的には、スコットランドのニューラナークにおいて、紡績工場を経営する経営者であり、労働者に労働させる側の立場にあったが、労働者の労働条件の向上を目指して色々な事を試みる。協同組合を作るなどの拾い視野での事業も提案するのであった。さらにオーウェンは、労働者の理想的な共同体(ニューハーモニー村)をアメリカで作ろうとしたが、成功するには至らなかったらしい。
 そのオーエンには、「社会変革と教育」と題される一連の論文集があり、たとえばこの中の「ラナーク州への報告」では、「人的利益中心原理は、巨大なおもしのように、このうえなく貴重な能力と性質をおさえつけ、人間がどんな力を発揮しようとするさいにも、誤った方向を指示するものであります」とした上、新しい社会をこう提唱している。
 「現在の制度のもとでは、労働者階級の諸個人の精神的能力と肉体労働とは、とてもはっきりと分割されております。(中略)ところで、私がいま述べようとする細目の案は、それとは反対のことをやらせることを考え方にもとづいて工夫されています。その考え方というのは、労働者階級の諸個人の広い範囲にわたる精神力と肉体力を結合し、私的利益と公共的利益を完全に一致させ、それからまた、諸国民を教育し、自分の国との国力と幸福が平等に増大しなくては十分に本来の姿で発展することができないものだと納得させていく、そのような原理なのであります。」(ロバート・オーエン著、渡辺義晴訳「社会変革と教育」明治図書出版、1963)

(続く)

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♦️354『自然と人間の歴史・世界篇』朝鮮の三・一独立運動

2018-04-06 09:21:37 | Weblog

354『自然と人間の歴史・世界篇』朝鮮の三・一独立運動

 「三一独立運動」というのは、1919年3月1日、朝鮮半島での大衆行動のことである。これの先駆けともいえるであろう動きが日本にあったらしい。2月8日、在東京留学生が集会を開いて決議した「二・八独立宣言」があり、彼らはそれに某か励まされ、パリ講和会議へ向けて意思表示を表そうとする。33人のキリスト教、天道教、仏教徒からなる「民族代表」の名で、これを企画したのだという。
 この日、現在の韓国の首都ソウルのバゴダ公園に、かなりの民衆が集う。人々は、「われわれはここにわが朝鮮国が独立国であること、朝鮮人が自主の民であることを宣言する。これを世界万国に告げて人類平等の大義を明らかにし、子孫万代に告げて民族自存の正当な権利を永久に享有させようと思う。」から始まる宣言文を発す。そして、「独立万歳」を叫びながら、市街に下っていった。この宣言文の体裁は、いわば知識人たちがまとめ、「民族代表」の名で公表する形をとっている。
 この独立運動は、それから日を経るうちに朝鮮全国に広がっていく。日本が韓国を併合し、植民地支配を強いている中での出来事であったから、日本の官憲はこれの取締まりに動く。しかし、比較的穏健な行動でもあったことから、当初は大規模な衝突ではなかったものとみえる。
 それでも、数ヶ月にわたって行われた示威運動の中で、一説には延べ200万人以上の民衆が参加したと言われる。そうなっては、日本側が民衆に発砲したりの場面も相当数出てくる。どれくらいの犠牲者が出たのかにについては、日本側の史料では明らかでない部分が多く、朝鮮側の史料に頼るしかないのが現状のようだ。
 この運動は、直接的にはパリ講和会議へ向けて意思表示を表そうとしていたといわれる。朝鮮の国益が損なわれているのを何とかして盛り返したいとの思いが強かった。そのためには、民族としての誇りに訴えねばならないと。
 この運動は、外国にもかなりの影響を与えたという。それは、ひとつの世界としての朝鮮半島にとどまらない、第一次世界大戦後のアジアの民族運動高揚の先駆けとなる。中国大衆による五・四運動も、これに触発された一つであろう。ただし、当時の朝鮮王朝の有様なとど絡んでの評価は、なお追求されるべきものを含んでいる。
 一方、人民への圧政を行っていた側としての日本では、この運動に対する評価は大方、限られていたらしい。自称「民本主義者」の吉野作造は、これを看過できなかった。彼は、当時の日本の知識人の良心を述べるべきと判断したものとみえ、こういう。
 「我が国民は、由来政治問題に関する道徳的意識は甚だ鈍い。」(評論集『中国・朝鮮論』)
 「一言にして言えば、今度の朝鮮暴動の問題に就ても、国民のどの部分にも「自己の反省」が無い。凡そ自己に対して反対の運動の起った時、これを根本的に解決するの第一歩は、自己の反省でなければならない。たとい自分に過ち無しとの確信あるも、少くとも他から誤解せられたと言う事実に就ては、なんらか自ら反省するだけのものはある。」(同)

(続く)

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