♦️206『自然と人間の歴史・世界篇』オランダの発展とイギリス、フランスとの戦争

2018-04-20 09:43:49 | Weblog

206『自然と人間の歴史・世界篇』オランダの発展とイギリス、フランスとの戦争

16世紀後半から17世紀始めにかけては、オランダとイギリスとはスペイン、ポルトガルなどのカトリックの勢力に対して協力関係をつくって対抗していた。しかし、それが1648年のウェストファリア条約での、オランダの独立の承認という形で決着すると、新たな政治状況が生まれる。
 その状況とは、17世紀後半の3次にわたるイングランドとネーデルラント連邦共和国(オランダ共和国)との戦争である。その3次とは、1回目が1652~1654年、2回目が1665~1667年、そして3回眼が1672~1674年。
 両国間がこうなるにいたるきっかけとしては、オランダ東インド会社の実力がイギリス東インド会社を上回る勢いの中、1623年のアンボイナ事件などが起こったことがある。この事件は、1623年のインドネシア東部バンダ海の小島アンボンにおいて、両国の商館間の紛争である。イギリス商館の日本人傭兵がオランダ商館の様子を調べているのに不審を抱いたオランダ商館長が、イギリスの商館長以下全員を捕らえて拷問を加えたという。
 イギリスは、当時、東南アジアや東アジアでもオランダとつばぜり合いを演じていた。そこで退けば、宝の山の商売のチャンスから撤退せざるを得なくなるし、これまでの権益も守れなくなる。本国に近い大西洋なども心配だとかいうことで、危機感を覚えたのであろうか。そして迎えた1652年、戦いの幕が上がる。戦いの舞台は主に海の上で、ここではやはりイギリスの力の方が上まわっていた。
 しかし、若いオランダも負けてはいなかった。この戦争を指導したのは、ホラント州の首相ヨハン・デ・ウィットであったのだが、1672年にはイギリスとフランスの両国の挟撃により、一大ピンチに陥った。そこでオラニエ家のウィレム3世が指導することになる。オランダ軍は堤防を切って洪水を起こし、フランス軍を阻止するのに成功する。また、デ・ロイターを使って英仏艦隊を撃破する。これで勢いを増して、和平に持ち込もうとした。
 オランダは1674年にイギリスと、1678年にはフランスと和約を結ぶのに成功する。そればかりではない。立役者のウィレム3世だが、なんとイギリスから招請状を受ける。ジェームズ2世の暴政を倒す企てに加わる形でイギリスに渡り、翌年には妻メアリー(ジェームズ2世の長女)とともに国王に即位する、つまり、夫婦でもって大国イギリスの共同統治を行うことになる。これにより、オランダとイギリスとは「同君連合」の間柄となり、今度はフランスに対抗するという新たな構図となっていく。
 とはいえ、オランダのこの戦争での人的・経済的疲弊はかなりのものであった。だから、1702年にウィレム3世が死ぬと、イギリスとの関係はなくなり、またオランダ国内は不安定となる。ほぼ80年にわたる独立戦争の時からの、国内権力のもう一方の雄であるところの州の独立性が再び強力化し、その分王党派は劣勢に追いやられていくのであって、1702年から1747年にかけてのやや長い「無総督時代」を迎えるのであった。

(続く)

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