♦️114『自然と人間の歴史・世界篇』マケドニア系諸国のその後

2018-04-26 23:22:18 | Weblog

114『自然と人間の歴史・世界篇』マケドニア系諸国のその後

 やがて紀元前3世紀前半にもなると、プトレマイオス朝エジプト(紀元前304~同30。首都はアレクサンドリア)、セレウコス朝シリア(紀元前312~同63。首都は前半セレウキア、後半はアンティオキアに移転)、アンティゴノス朝マケドニア(紀元前306~同168。首都はペラ)の3国が並び立っているのであった。
 しかし、それでもこれら地域での勢力地図は落ち着いていかない。セレウコス朝からは、小アジアにギリシア系のアッタロス朝ペルガモン王国(紀元前241~同133)がのし上がてくる。中央アジアについては、同じくギリシア系のバクトリア王国(紀元前255頃~同130頃)が、さらにイラン東北部にはイラン系のアルサケス朝パルティア王国(紀元前248頃~紀元後226)らが次々と独立していった。
 これらの諸国家のうちバクトリア地方は、大王の残したギリシャ人に依って暫くの間バクトリア王国となって統治される。モンゴルを追われた月氏(げっし)は天山山脈の裏手に逃げ、大月氏として勢力を蓄えていた。紀元前2世紀、その大月氏(だいげっし)が南に下りて来た。
 紀元前139年頃には、そのバクトリア王国も、中央アジアから南下してきたスキタイ系民族サカ族に滅ぼされた。後者は、トハラ王国(中国の文献では「大夏」という)を建設する。一方、プトレマイオス朝エジプト(~紀元前30)、セレウコス朝シリア(紀元前312~同63)、アンティゴノス朝マケドニア、アッタロス朝ペルガモン王国も、その後ローマに占領・併合されていった。さらに時代は下る。
 トハラ王国に代わって、バクトリア地方(中央アジア)を支配するようになったのが、大月氏である。紀元前1世紀にもなる頃、大月氏の有力豪族の一つが台頭し、大月氏を引き継いでクシャーナ(クシャン)王朝となって、支配地域を拡大していく。この王朝は、カニシカ王が即位した2世紀の中頃から最盛期を迎える。首都であるプルシャプラを中心に、ガンジス河中流域やバルティアの東部も領有するに至る。しかし、3世紀に入る頃からの同王国は、しだいに国力を減じていく。その間も、ギリシア人はその地に留まり、引き続いてギリシア文化の継承に努めた。

(続く)

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♦️55『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(メソポタミアとエジプトの測量技術)

2018-04-26 12:42:07 | Weblog

55『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(メソポタミアとエジプトの測量技術)

 人間そして人間集団のだんだんと発展すると、その生活や社会の仕組みもまた複雑化していった。わけても、メソポタミアとエジプトの測量技術については、それまでの「分散量」に対して「連続量」を取り扱う数学が出てくる。そのレベルであったことが見てとれる。例えば、こういわれている。 
 「こうして連続量の計算には、はんぱを表す数が必要になります。そのようにして出て来たのが分数、小数です。
 古代の文明国ではどちらが先に出てきたかというと、エジプトなどではン数が先に出てきています。エジプトではきわめて複雑な分数計算の方法が工夫されていました。しかしバビロニアでは小数が先に出てきます。ただしバヒロニアの小数は60進法の小数ですが、これはいまの時間や角度の単位として残っています。
 1時間を60分に分け、1分を60秒に分けています。角度のはかり方にもバビロニア方式が残っています。」(遠山啓(とおやまひらく)「数学の学び方・教え方」岩波新書、1972)
 このうちエジプトについては、数学者の矢野健太郎氏による解説に、こうある。
 「ナイル河の定期的はんらんの時期を、なるべく正確に知る必要にせまられます。これから、エジプトでは、天文学もさかんに研究されました。
 一七九八年に、英雄ナポレオンが大軍をひきいてエジプト遠征を試みたときのことでした。ナイル河の入口にあるロセッタという小さな町の付近で、廃墟の跡を掘っていた一人のフランス工兵が、一つのふしぎな石を拾いました。(中略)
 そののちフランス軍はまたイギリス軍に打ち破られ(中略)現在ではロンドンの大英博物館の奥深くたいせつに保存されています。(中略)現在ではロセッタの石とよばれています。(略)そのなかには、数字もありました。(中略)エジプトの人たちは、数の数え方としては十進法を使っています。
 エジプトの人たちは、このロセッタの石のほかに、パピルスというものをわれわれに残してくれました。(略)パピルスというのは、昔エジプトの沼などにはえていた水草のことです。エジプト人たちは、この水草から白い紙のようなものを作って、これに文字を書いておりました。この白い紙のようなものをやはりパピルス(papyrus)とよんでいますが、英語で紙を意味するパーパー(paper)ということばは、これから出ているといわれています。
 十九世紀のなかごろに、イギリスのヘンリー・リンドという人が、エジプトで手に入れたパピルスのなかに、世界で一ばん古い数字の書物がありました。これもいまは大英博物館に大切の保存されています。そしてリンド・パピルスとよばれています。(中略)
 ドイツの考古学者アイゼンロールが(中略)紀元前千数百年に、アーメスという坊さんが、それよりももっと古い記録をもとにして書いた数字の書物であることがわかりました。(中略)
 分数の計算(略)そのほか、加え算、引き算、掛け算、割り算などについてのいろいろの算数の問題、または代数の問題などがたくさん書いてあります。(略)等差数列と等比数列の話もパピルスに出てきます。(中略)パピルスには、正方形、長方形、二等辺三角形、台形等の図形の面積の求め方が書いてあります。
 その次にパピルスには、円の面積の求め方が書いてあります。(中略)半径が1の円の面積を求めるには、その直径2から、直径2の1/9、つまり2/9を引いた16/9を一辺の長さとする正方形の面積を求めればよい、と書いてあります。つまり、16/9×16/9=256/81=3.16049・・・が答えであると書いてあります。この答えと、みなさんが知っておられる円周率の値、3.141592・・・と比べてみてください。古代エジプトの人たちは、かなりくわしく円周率の値を知っていたということができるでしょう。
 ピラミッドの底面は、その辺が正確に東西南北を向いている正方形であるといわれております。(略)円の中心に一つの適当な長さの棒を立てておきます。(略)影の長さが一番短くなったときの影の向きを引き延ばせば、これが南北の線となります。次に、午前中に一度、午後に一度、その影の長さが等しくなるときがありますから、そのときの影の先を結ぶ直線を考えますと、これは東西をさす線となります。
 一本のなわをとって、これを一二の等しい長さに区分して、その境め境めに結びめを作り、さらにその両端を結びますと、ここに等しい間隔に一二の結びめをもった輪ができます。次にその一つの結びめと、それから三つ目、および四つ目の結びめをもって、この輪をピンとはりますと、ここに、その三つの辺の長さがそれぞれ三、四、五である一つの三角形ができます。このとき、長さ五をもった辺と向かい合っている角がちょうど直角になります。これを利用してエジプト人たちは、直角を作ったといわれているのです。
 エジプトの建築家や技師たちは、このようになわをじょうずに使って設計や測量をしましたので、この人たちはなわばり師とよばれることがあります。」(矢野健太郎氏「数学物語」角川文庫」、なお、これらの論点につき、同氏によるより詳しいに説明としては、さしあたり「数学への招待」新潮1977文庫がある。)

(続く)

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♦️42の2『自然と人間の歴史・世界篇』アラビア数学

2018-04-26 12:03:03 | Weblog
42の2『自然と人間の歴史・世界篇』アラビア数学

 アラビア数学と名づけられる数学の大系がつくられたのは、8世紀から15世紀にかけてのイスラム世界でのことであったといわれる。担い手としては、アラブ人だけではなく、インドその他の地域で得られた数学的知識を源流としていた。
 その中でも、インドからの影響は大きかった。ゼロ(零)の概念や「位取り記数法」などは、彼の地の人々によって発見され、西隣の中東に伝わってきていた。これらのうちゼロの発見は、インド数学の偉大な発見であって、これなくしては今日の数学への大方の発展は不可能であったのではないか。
 また、後者は数の数え方によるものであって、これまたインドが発祥なのであった。これを10進法でいうと、現代の私たちは桁(けた、figure)取りの考えを使って、0~9の10個の数字を組み合わせて数を表現する。例えば、271という数を考えよう。現代流の式で表すと、271 = 2×10^2+7×10^1+ 1×10^0、というものであって、1の位が1、十の位が7、そして百の位が2である(ここでのカッパ「^」は累乗を意味する)。
 この前後の関係を理解させるには、「0の意味」とは「あるはずのものがない」ということと、「0を教えるのは、どうしても10を数えるまえでなければなりません。なぜなら、0と位取りを教えないで、そのまえに10と書くことを教えてしまうと、子どもは10を一つの文字として覚えます」(遠山啓(とおやまひらく)「数学の学び方・教え方」岩波新書、1972)という理屈に思い至る。
 これほどに便利なアラビア数字なのだが、数学者の矢野健太郎氏が由来を説明しておられる。
 「アラビア数字1、2、3、(略)いつ、どこで、だれが考えだしたものでしょうか。それは、ずっと大昔に、インドで考えだされたものです。(略)インドのお隣にアラビアという国があります。この国の人々が、インドの国の人々と品物を交換するために、インドとアラビアとの間をなんども行ったり来たり、(略)じぶんの国へ帰ってこれを広めました(略)イタリアやフランスの人たちもまたアラビアへよく商売をしに行った(略)ほんとうはインド数字ですのに、いまではアラビア数字とよばれております。
 エジプトの数字(略)バビロニアの数字(略)ギリシア数字(略)ローマ数字では(略)ひとまとめにするたびに新しい記号を作っては進んでいきます。ところがアラビア数字では、(略)一0個の数字だけでまにあうのでして、これ以上の新しい記号を作る必要はおこってまいりません。これがアラビア数字で数を書くときのうまい点です。(略)0は何を表しているのでしょう。何もないこと、そうです、何もないということを表しています。(略)アラビア数字の0は、ただ何もない、ということではなくて、もっと深い意味をもっているのです。(略)一ばん右の数字は一の位を、右から二ばんめの数字は一0の位を表わすものと約束しているのです。」(矢野健太郎「数学物語」角川文庫)
 その体系については、多くの学者の業績の集成となっている。さしあたって9世紀頃までの主要な数学者の名前を拾うと、フワーリズミー(780~850)、キンディー(801~873)、フナイン・イブン・イスハーク(808~873)、サービト・イブン・クッラ(835~901)、バッターニー(853~929)らがいた。
 彼らがつくるアラビア数学の内容だが、分野としては、代数学が主であったという。また、当時のアラビア数学では記号を使った数式表記が発明されていなかったため、計算方法は全て言語によって説明されていたようだ。
 このようなアラビア数学がヨーロッパに伝えられるのは、後年ラテン語に翻訳されてからであって、その伝搬経路としては海路にせよ陸路にせよ、生活や交易するに便利な知識は学者だけのものではなかった筈であり、ヨーロッパの諸都市を中心に広がっていったのであろう。

(続く)

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