♦️698『自然と人間の歴史・世界篇』債務に喘ぐソ連・東欧諸国(1980~1990年代)

2018-04-03 09:33:20 | Weblog

698『自然と人間の歴史・世界篇』債務に喘ぐソ連・東欧諸国(1980~1990年代)

 ソ連・東欧の1980~1990年代の対外経済については、色々な資料があってややこしい。最初に、ソ連・東欧対西側債務状況につき、幾つか統計資料を紹介しよう(単位は10億ドル)。
 1982年末の対外債務残高は、ソ連が23.0(単位は10億ドル)、ポーランドが26.0、東ドイツが14.0、ハンガリーが7.0、ルーマニアが9.9、ユーゴスラビアが19.0、チェコスロバキアが0.37%(※)、ブルガリアが0.05%(※)。ここで(※)は、アメリカのモルガン・ギャランティ・トラスト調べほか、での数値とされる。
 1983年の対外債務返済額は、ソ連が12.2、ポーランドが7.8、東ドイツが6.3、ハンガリーが3.5、ルーマニアが5.5、ユーゴスラビアが6.0。
 1983年の対外債務返済額の輸出入に占める割合は、ソ連が25%、ポーランドが94%、東ドイツが83%、ハンガリーが55%、ルーマニアが61%、ユーゴスラビアが41%(これらの数字の引用元は、野々村一雄「ロシア・ソビエト体制」ティビーエス・ブリタニカ、1983)
 二つめの資料は、次のようである。
 ポーランドの1985年、1986年、1987年、1988年、1989年、1990年は、この順に28.2%、31.9%、35.8%、34.1%、37.5%、41.8%。 
 ハンガリーの1985年、1986年、1987年、1988年、1989年、1990年は、この順に11.5%、14.7%、18.1%、18.2%、19.4%、20.3%。 
 チェコスロバキアの1985年、1986年、1987年、1988年、1989年、1990年は、この順に3.6%、4.4%、5.1%、5.6%、5.7%、6.3%。
 ブルガリアの1985年、1986年、1987年、1988年、1989年、1990年は、この順に1.6%、3.6%、5.1%、6.1%、8.0%、9.8%。 
 ルーマニアの1985年、1986年、1987年、1988年、1989年、1990年は、この順に6.5%、6.3%、5.1%、2.0%、△1.3%、1.3%。 
 東欧の計の1985年、1986年、1987年、1988年、1989年、1990年は、この順に51.5%、60.9%、69.2%、66.1%、69.3%、79.6%。 
 ソ連の1985年、1986年、1987年、1988年、1989年、1990年は、この順に15.8%、16.6%、25.1%、27.7%、39.3%、43.4%。
(注)金額は、グロスの債務額からBIS報告銀行への預金を除いたもの。 
(ソ連東欧諸国の対外債務、残高(ネット)、10億ドル、出所は、OECD“Financial Market Trends”Feb.1991により経済企画庁「世界経済白書」1991年版が作成したものから引用。) 
 
(続く)

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♦️106の5『自然と人間の歴史・世界篇』三民主義と孫文

2018-04-03 08:38:43 | Weblog

352『自然と人間の歴史・世界篇』三民主義と孫文


 孫文が新国家の理念として唱えたのが、「三民主義」にほかならない。まずは、次の言葉から始めよう。
 「こんにち、この自由という言葉はけっきょくどういうふうに使わねばならないのか。もし個人に使うならば、ひとにぎりのバラバラな砂となってしまう。」(孫文著、安藤彦太郎訳「三民主義」岩波文庫)
 ここに「三民主義」というのは、国内諸民族の平等と帝国主義の圧迫からの独立(民族主義)、民主制(共和制)(民権主義)、平均地権・節制資本の考えによる国民生活の安定(民生主義)の三つから成る。
 この思想の淵源は、1905年、 中国革命同盟会の綱領として採択されたところにある。以後、後の中国国民党の政治綱領となるまでの間に書き足しとかがあるようだが、基本的な視点は変わらない。
 彼は、この考え方の趣旨を大衆に伝えるべく、対人説法でいろんな語り口を持っていたようだ。1905年、東京留学生歓迎会での演説で「中国は共和制を建設すべきだ」と主張する。1906年、『民報』創刊一周年記念大会での演説で「三大主義と中国民族の前途」を述べる。1910年にはサンフランシスコでの演説に臨み、「中国革命の難易」と題し手話を行う。
 話のついでに、「辛亥革命」前には、手紙もせっせと書き送っていたようだ。1914年には、大隈重信に中国革命への支持を求める書簡を送る。1923年、今度は犬養毅に列強の影響を脱し中国革命の成功を助けるように求める書簡を送る。これらのうちサンフランシスコでの演説では、実利を重んじる人々が集まっていたからなのであろうか、なかなかにざっくばらんな話しぶりとなっている。
 「諸君がアメリカに来たのは、金儲けを志したからですが、しかし天下の事柄で金儲けほど難しいことがあるでしょうか。ところが諸君は恐れることなく、数万里も遠しとせず、故郷を離れ当地へ来て、なんとしても目的を達成しようとしているのです。
 今、試しに革命の困難と金儲けの困難とを比べてみれば、金儲けは革命の数千・数万倍も難しいことがわかります、
 なぜ、そう言うのでしょう。金儲けを志して、アメリカへ来る者は、合わせて百数十万人を下りませんが、本当に金儲けできた者が何人いるでしょう。アメリカで百万ドル以上を稼いだ者は、いまだに一人もいません。
 ところが革命を志した民族は、最近百年あまりの間に、アメリカやフランス、イタリア・ギリシャ・トルコ・ペルシャ、そして無数の小国がありますが、成功しなかったものはないのです。(中略)
 私は、民族革命とは満洲民族を絶滅させることだと、ある人が言うのを聞いたことがありますが、この言葉は間違いです。民族革命を行う理由は、満洲人が我々の国を滅亡させ、我々の政治を支配していることに甘んぜず、必ず彼らの政府を打倒して、わが民族の国家を回復せねばならないということなのです。このように見るならば、我々は決して満洲人を憎むのではなく、漢人に害を与える満洲人を憎むのです。
 しかし、まだ最も重要なことがあって、それは革命を行う者に、少しでも皇帝思想が残っていれば、それは亡国をもたらすだろうということです。
 要するに我々の革命の目的は、衆生のために幸福を図ることで、少数の満洲人が利益を独占することを願わないから、民族革命を求めるのであり、君主一人が利益を独占することを願わないから、政治革命を求めるのであり、少数の富者が利益を独占することを願わないから、社会革命を求めるのです。」(「孫文革命論集」岩波文庫)

(続く)

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