280『自然と人間の歴史・世界篇』フランスの内乱(七月革命など)
1830年7月25日には、「七月勅令」が発布される。これには、7月の総選挙で自由主義派(反政府派)がさらに増加した未召集の議会を解散すること、次回の選挙を9月に行うこと、地主以外の有権者の選挙権を奪うこと、言論・出版の統制を強化することが盛り込まれる。
これに対して、1830年7月27日から29日にかけて、パリで民衆が蜂起、これを「七月革命」と呼ぶ。具体的には、まずは7月27日、パリの民衆、これには学生・小市民・労働者らが合わさっていた、その彼らが市内のあちこちにバリケードを作り始める。翌28日には市街戦が激しくなる。さらに29日には、民衆がルーヴル宮・テュイルリー宮殿やノートルダム寺院などを占領するのであった。
この「栄光の三日間」の市街戦の一端は、後にドラクロワ(1798~1863)により「民衆を導く自由の女神」(1831年出品)として描かれる。この作品では、三色旗を掲げる自由の女神が革命軍の志士を率いているのが象徴的だ。
この下からの運動に対し、万策尽きたシャルル10世は、8月2日に退位宣言を行う。そしてイギリスへの亡命に追い込まれる。続いての8月9日には、オルレアン家のルイ・フィリップが即位するにいたる。彼は、事態の沈静化をねらって自由主義者を装い、「フランス人民の王」を装う。そして15日には新憲法が制定される。これが「七月王政」と呼ばれるもので、1848年まで続く。
この時、政府を支配したのは、金融ブルジョアジーの面々であり、彼らの念頭には人民の暮らしを良くしようとの思いはない。ルイ・フィリップの下で政権の中心には歴史家でるあるギゾーが座る。そのギゾーは、選挙権拡大の要求に反対したりで、産業ブルジョアジーの離反を招く。彼はまた、対外的にイギリスとの融和政策をとるが、かなりの国民はナポレオン時代の栄光の夢醒めやらぬかなり多くのフランスの国民は、これを屈辱外交と感じていたらしい。
フランスにおいては、1845~1846年の凶作に、1847年に起こった経済恐慌が重なる。これらは、国民の暮らしを直撃する。フランス全土で、内閣の退陣を求める学生や労働者を中心とする大衆運動が頻発する。
(続く)
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