544『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の東南アジア(インドネシア)
1945年8月17日、インドネシアが独立を宣言しました。ところが、植民地の復活をもくろむオランダはこれを認めず、戦闘が続きました。1946年11月15日、オランダとインドネシアとの間で休戦協定が結ばれました。それもつかの間、47年7月21日には再び交戦、48年1月17日になって両国は停戦協定にこぎ着けました。1949年11月2日、オランダとインドネシアがハーグ円卓会議に集い、国際世論を背景にする形でハーグ協定を結びました。そして同年12月27日になって、インドネシア連邦共和国の建国がなりました。民族運動のリーダーであるスカルノが初代の大統領になりました。
このインドネシアの独立に至る道には、中野広策氏による次の指摘があります。
「インドネシアでも、第2次大戦中の1942年12月、日本帝国主義との闘争の代償としてオランダ・コモンウェルス内での政治的独立を与えるというウィルヘルミナ女王のラジオ放送が行われた。しかしインドネシア側はこの種の独立を認めず、1945年8月17日に、スカルノ、ハッタらの独立運動の指導者はインドネシア民主共和国の独立宣言を行った。
その後、インドネシアとオランダは、資本主義世界体制の内部での政治独立の程度をめぐって闘争状態に入った。イギリス軍に助けられたオランダ軍は、日本軍の補助兵力として組織されていた郷土防衛義勇軍を中核とするインドネシア軍事勢力を破ることができなかった。こうした状勢のうえに、アメリカ軍からのマーシャル援助供与の代償として軍事行動の停止要請もあって、1948年1月17日にはレンビル停戦協定が結ばれた。
さらに、翌1949年11月のハーグ協定にもとづいて、インドネシアは12月29日インドネシア連邦共和国(1950年8月15日連邦制から単一共和国となる)として資本主義の世界体制の内部での政治的独立を達成した。この政治的独立も西イリアンに対するオランダの支配の継続という問題を残しており、インドネシア側を完全にには満足させるものではなかったが、韓国やフィリピンのように帝国主義国によってつくりだされた政治的独立と異なって、闘いとられた政治的独立であった。」(中野広策「新興独立国の経済危機と国際関係」:大内兵衛・向坂逸郎監修「現代の世界経済と国際関係」河出書房新社、1971)
インドネシア共産党は1948年、武装反乱による社会主義政権の樹立に失敗し、以後は独立後のスハルト体制の下で、平和革命路線に路線転換していきました。
スカルノ体制とは、軍とこの共産党という、見方によっては相反する勢力の均衡の上に乗っかかった不安定きわまる政権でありました。
1955年、スカルノはバンドゥンで開催されたアジア・アフリカ会議を成功に導きました。
(続く)
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