171の1の1の2『自然と人間の歴史・日本篇』豊臣政権の成立(1586~1590)
1570年代後半からの島津氏は、九州を北上して日向(現在の宮崎県)、肥後(現在の熊本県)、肥前(現在の佐賀県、長崎県本土)などを下していく。その余勢をかって、豊後(大分)の大友宗麟が領する筑後(現在の福岡県南部)の国人衆も傘下に収め、戦いを有利に導く。
こうなると、大友氏にとっては存亡の危機にて、一刻を争う。急ぎ、四国、中国を平定して勢いの乗る羽柴秀吉に助けを求める。おりしもの1585(天正13年)に、秀吉は関白(かんぱく)となっていて、島津氏と大友氏の双方に停戦を求める。
しかし、島津は、この調停を無視して、北九州まで攻め入る。1586年(天正14年)になると、宗麟は大坂に行き、羽柴秀吉に助けを乞う。
秀吉は、この要請を受け入れ、九州征伐軍の先遣隊として毛利氏に加えて、黒田官兵衛を軍監として派遣する、加えるに、四国勢として長宗我部氏、十河氏らに豊後水道を渡らせて送り込む。
その後、朝廷から豊臣姓を受けての秀吉は、自分に従う40か国に近い諸国に九州平定のための出兵を促すとともに、1587年(天正15年)には、秀吉自ら出陣して九州攻めに向う。
なかでも、黒田官兵衛は、1586年(天正14年)、兵約4千人を率いて海を渡り、毛利、吉川、小早川軍とともに、豊前小倉城(現在の北九州市小倉北区)を攻略する。
それからの秀吉軍の大攻勢になると、戦局は大きく島津側に不利に働いていく。1587年(天正15年)4月17日の、「高城の戦い」と「根白坂の戦い」で秀吉軍が勝利すると、戦局はほぼ決まり、4月21日には当主の島津義久は、豊臣秀長に和睦を申し入れる。彼の脳裏には、もうこれ以上戦うと島津氏の存続自体が難しいとの認識であったろう。
なかでも、黒田官兵衛は、1586年(天正14年)、兵約4千人を率いて海を渡り、毛利、吉川、小早川軍とともに、豊前小倉城(現在の北九州市小倉北区)を攻略する。
それからの秀吉軍の大攻勢になると、戦局は大きく島津側に不利に働いていく。1587年(天正15年)4月17日の、「高城の戦い」と「根白坂の戦い」で秀吉軍が勝利すると、戦局はほぼ決まり、4月21日には当主の島津義久は、豊臣秀長に和睦を申し入れる。彼の脳裏には、もうこれ以上戦うと島津氏の存続自体が難しいとの認識であったろう。
その義久は、薩摩に戻り、5月6日に寺で頭をまるめて出家する、5月8日には、泰平寺という寺に滞留していた秀吉のもとを訪れて降伏したことで、秀吉はこれで面目躍如、一件落着という頭の中にで上機嫌ではなかったか。
これにより、島津氏は元の領地を安堵されての降伏をし、もはや、九州に秀吉に刃向かう勢力は存在しなくなった。それも、戦闘力のみでねじ伏せたというよりは、権威という得体の知れないものが被さっての、相手に正当性の上での、秀吉に従わないことでの恐怖を与える「合わせ技」のような成り行きであったろう。
秀吉にとっては、この九州平定で、もはや日本の天下は我が物、との心境てあったのではないだろうか。残るは関東、その中核としての小田原征伐は、北条氏と真田氏への「沼田領裁定」に北条氏が違反した名胡桃(なぐるみ)城(現在の群馬県みなかみ町)奪取が契機となった。
これより前の1589年(天正17年)に秀吉が下したく沼田裁定の内容とは、いわゆる沼田領の帰属につき、「3分の2を北条氏が、3分の1は真田氏が所領とする」というもの。しかも秀吉は、氏政、氏直親子のどちらかが上洛するという一筆を提出したら、上使を派遣して当該の沼田領を北条氏に渡すといい、北条氏への一定の配慮を匂わせる。
おりしも、天下をほぼ手中にしつつある秀吉とすれば、こうなったら北条氏を征伐するより仕方がない、ということであったのだろうか。1590年(天正18年)、秀吉は京都の聚楽第(じゅらくだい))を出発する。
その軍勢の数は、14万人以上もいて、東海道を行き、まずは山中城(三島市)を陥落させる。やがて、先鋒の徳川家康らと合流し、小田原城の包囲網を敷く。
一方、迎え撃つ側の北条氏政、氏直父子は、秀吉がかくも迅速、積極果敢に小田原目指して攻めてくるとは考えていなかったのではなかろうか。
結局、小田原城からうって出るのではなく、小田原城への籠城を中心として態勢を整えようとする。城域だけでなく、城下町全体を大規模な障子堀と土塁で包みこむ総構え、総延長9キロメートルに及ぶ外郭を設けて、守りを固める。
だが、この戦略たるや、それ以外の諸城との連携をもって敵と戦う道は閉ざされていく。しかも、籠城により負けることのない代わりに、友軍の城や拠点が次々と落とされていくのを阻止し、支援することもできない。持久戦略にしては適当であったのかどうか。
かくして、秀吉軍は、その支軍を関東各地の北条方に送り、個別に撃破というか、鉢形城などでは徹底抗戦が見られたものの、やすやすと小田原の城を丸裸にしていく。
秀吉軍としては、小田原城は難攻不落にして、長期戦を予測し、どうすれば向こうの戦意を挫けるかを考えた。それに、小田原城内での氏政、氏直父子の間で、氏直が籠城をやめ秀吉に折れるべきと主張するなど、今後を巡り「小田原評定」の有り様となっていたのを、もちろん知っていたのだろう。
あわせるに、秀吉軍は市箱根山中に道を開き、小田原城の西4キロメートル地点に石垣山城」を築いて本陣とした。その完成には、80日間ほどかかった。
それからの黒田官兵衛らによる調略の結果、さしもの「名家」の北条氏も、城門を開き、秀吉に事実上の降伏をするに至る。だが、秀吉はすでにその後を決めていたようで、氏政に責任をとらせるとともに、氏直は許して、北条氏の家紋だけは残す形にて、関東の雄たる北条氏を幕引きにするのであった。
(続く)
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