○○72『自然と人間の歴史・日本篇』東西文化の交流

2016-11-29 21:23:17 | Weblog

72『自然と人間の歴史・日本篇』東西文化の交流

 ここに「シルクロード」というのは、この道を通って中国産の絹や綿(織物を含む)などの名産が遠くインドや西アジア、さらにローマ帝国にもたらされたことによる。その逆に、ローマ、そして西アジアの方から中国などにもたらされたのに羊毛や綿(織物、絨毯を含む)などに加え、ガラスなどの工芸品もあった。特に、西に向かった絹は、パミール高原を越えて更に延々西アジアを横断したり、一旦南に下ってインドの西海岸の港を経て、地中海世界へと向かったことが知られている。 

 こうした東西世界の物資流通のそもそもの始は、西の地域は1~3世紀に現在のアフガニスタン、パキスタンの相当領域を占めていたクシャーン王朝、東は中国の漢の時代に遡り、これ以降王朝が変遷していくうちにも、莫大な利益が得られることから、東西の世界を行き交う商人達の力は引き続き発揮されていった。この道が、世界史の表舞台に登場するのは、中国に国際国家としての唐王朝が現れ、東西文化の一大交流地となってからのことであった。
 双方を東西につないでいたこの道の名の由来は、ドイツの地理学者リヒトホーフェンがドイツ語で「ザイデンシュトラーセ」(Seidenstrasse、南の道)と命名したのが淵源。その後、スウェーデンの考古学者ヘディンが著作に用いてから、徐々に一般化していった。広い意味では、北方の草原ルート、そして南方のインドからの海上ルートも含めて言われるものの、通常は、中国の長安(現在の西安)を西に向かって発し、嘉谷関(かこくかん)、敦煌(とんこう、現在の甘粛省))からタリム盆地(現在の中国の新疆(しんちゃん)ウイグル自治区にあたる、パミール高原の東、天山山脈と崑崙山脈に南北を挟まれた盆地のことで、その大部分がタクラマカン砂漠という乾燥地帯))を経由するルートの方を指しており、別名で「オアシスの道」と呼ばれることもある。
 さて、こちらの主たる東西回廊には、およそ三路が通じていた。まず、敦煌の北方に位置するハミを起点に天山山脈の北側を横断して、ウルムチ、イリへと進んで西トルキスタンに至る。西トルキスタンは、パミールなどの高原地帯から砂漠を経てアラル海に祖続アム河、シル河流域を中心とする地方のことだ。この地を南下すれば天山南路に、西進すれば草原の道に合流する。
 これに続く東西交易路が、天山山脈の南側を通るコースを「天山南路」である。この道は、北と南の二手に分かれる。前者を「天山南路北道」といい、タリム盆地の中心にあるタクラマカン砂漠の北を通っていく。こちらは、敦煌西方の玉門関(ぎょくもんかん)を発ち、トルファンから天山山脈の南縁に沿って西に向かい、コルラ、クチャ、アクスを経てカシュガルに、さらにそこからパミール高原を西に渡っていく。フェルガナからの道は二手に分かれる。一方は、アラル海やカスピ海の南側を通ってコルガン、テヘラン、バクダットへと進む。さらにシリア砂漠の中のオアシスであるパルミラを経て、レバノンまでつないで地中海、そしてヨーロッパに通じ、もう一方はサマルカンドを経由して、西域南道に合流する。
 もう一方の南を通る道は、「天山南路南道」(西域南道)と呼ばれる。この道については、玉門関から楼蘭(ろうらん)を経由し、タクラマカン砂漠の南縁に沿って、チェルチェン、ホータン、ヤルカンドを経てカシュガルに、そこからはパミール高原の麓を経由してタシュクルガンへと出ていく。さらに下ってはインドへ向かう道と、イランを経てローマに向かう道とに分かれていた(以上の詳細なルートの図解は、NHK取材班編「写真集シルクロード・西域南道」、日本放送出版協会、1981、平山郁夫「シルクロードをゆく」講談社1995所収の「シルクロード主要路」など)。
 このシルクロードを通って、およそ1~9世紀の間に東の世界に伝わった物は、種類、物量とも多い。中国へ伝わった物の中には、それから朝鮮や倭・日本に伝えられたものも含まれる。
(中略)
 次に、中国から更に東の地域への品々、より大きくは文化の流れであるが、こちらもかなり旧くに遡る。例えば、3世紀に著された『魏志倭人伝』によれば、魏の明帝の時代、倭の邪馬台国女王・卑弥呼の使節が朝貢してきたのに対し、女王には「親魏倭王」の金印を、使節には「率善郎中将」、「率善校尉」の銘の入った銀印を与えたことになっている。さらに織物も与えていて、それにはこうある。
 「制詔 親魏倭王卑弥呼 帶方太守劉夏遣使 送汝大夫難升米 次使都市牛利 奉汝所獻 男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈以到 汝所在踰遠 乃遣使貢獻是汝之忠孝 我甚哀汝 今以汝為親魏倭王 假金印紫綬 装封付帶方太守假綬 汝其綏撫種人 勉為孝順 汝來使難升米 牛利 渉遠道路勤勞 今以難升米為率善中郎將 牛利為率善校尉 假銀印靑綬 引見勞賜遣還 今以絳地交龍錦五匹 絳地縐粟罽十張 蒨絳五十匹 紺青五十匹 答汝所獻貢直 又特賜汝紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠鈆丹各五十斤 皆装封付難升米牛利 還到録受 悉可以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也。」
 書き下し文:「制紹、親魏倭王卑弥呼。帯方太守、劉夏が使を遣わし、汝の大夫、難升米、次使、都市牛利を送り、汝が献ずる所の男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈を奉り、以って到る。汝の在る所は遠きを踰(こ)える。すなわち、使を遣わし貢献するは、これ汝の忠孝。我は甚だ汝を哀れむ。今、汝を以って親魏倭王と為し、金印紫綬を仮し、装封して帯方太守に付し、仮授する。汝は其れ種人を綏撫し、勉めて孝順を為せ。汝の来使、難升米、牛利は遠きを渉り、道路勤労す。今、難升米を以って率善中老将と為し、牛利は率善校尉と為す。銀印青綬を仮し、引見して、労い、賜いて、還し遣わす。今、絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹を以って、汝の献ずる所の貢の直に答う。又、特に汝に紺地句文錦三匹、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤を賜い、皆、装封して難升米、牛利に付す。還り到らば、録して受け、悉く、以って汝の国中の人に示し、国家が汝を哀れむを知らしむべし。故に、鄭重に汝に好物を賜うなり。」
 現代訳:「制詔、親魏倭王卑弥呼。
 帯方太守、劉夏が使者を派遣し、汝の大夫、難升米と次使、都市牛利を送り、汝の献上した男の生口四人、女の生口六人、班布二匹二丈をささげて到着した。汝の住んでいる所は遠いという表現を越えている。すなわち使者を派遣し、貢ぎ献じるのは汝の忠孝のあらわれである。私は汝をはなはだいとおしく思う。今、汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を仮し(与え)、装封して帯方太守に付すことで仮(かり)に授けておく。汝は種族の者を安んじ落ち着かせるそのことで、(私に)孝順を為すよう勉めよ。汝の使者、難升米と牛利は遠くから渡ってきて道中苦労している。今、難升米を以って率善中郎将と為し、牛利は率善校尉と為す。銀印青綬を仮し(与え)、引見してねぎらい、下賜品を与えて帰途につかせる。今、絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹を以って、汝が献じた貢ぎの見返りとして与える。また、特に汝に紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤を下賜し、皆、装封して難升米と牛利に付す。帰り着いたなら記録して受け取り、ことごとく、汝の国中の人に示し、我が国が汝をいとおしんでいることを周知すればよろしい。そのために鄭重に汝に好物を下賜するのである。」
 これにある「絳(あか)地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹」と続くのは、いかにも大国からの返礼を匂わしており、品数の多さでも圧倒されたのであろうか。そのほかにも、紺地勾文錦、細班華○(おりもの)五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠(朱)、鉛丹各五十匹」(同)をあげている。これと同様の「親魏大月氏王」が、当時の大月氏の国王波調に与えられていることから、こちらも少なくとも同程度の品々が授けられたであろうことは、想像に難くない。
 また、正倉院に保管されている品々の種類は、天皇や有力貴族が使っていたあれこれの生活用具、楽器、遊び道具から楽人( がくじん )や役人の服、さらにシルクロード諸国のものまであって、その数は9000点を超える、とも言われる。

(続く)

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