75に合併『岡山の今昔』久米南条・北条郡村々江戸越訴
(1813)
1813年(文化10年)には、(略しては、美作において、久米南条・北条郡村々江戸越訴(略しては、「北条17か村江戸越訴」)が勃発する。
そこで、この地域の支配の前史から起こすと、1603年(慶長8年)から1697年(元禄10年)までは、森藩領であった。その後、松平領、幕府領(天領)支配を経て、1747年(延享4年)から1812年(文化9年)にいたる66年間は、他の作州35か村とともに、関東を本拠地とする小田原藩(大久保氏)領となっていた。
それが、次の年になると、どういう次第なのだろうか、かかる飛び地が、大坂代官所管下の幕府領に組み入れられる。これをきっかけとして、旧小田原藩となった村々が、同代官所・幕府を相手に起こした嘆願闘争である。
その願いの主な筋としては、当該の村落においては、かねての慶長の頃から、「大庄屋山崎家そのほか中庄屋たち、これらと特別の関係のある村々庄屋たちは、自分たちだけで一切の支配関係ーとりわけ年貢納入関係を処理して、一般の庄屋ないしは小前百姓ー農民大衆には何ひとつしらせなかった」(大林秀弥「「文化十年久米南条、北条17か村江戸越訴事件」)ことがあるという。
その実は、この領地替の噂のあった前年に、当該地域の農民たちによる、「一丸となって」の運動が展開されていた。具体的には、代表の4人が江戸に行き、これを思い止まるように、幕府当局や小田原藩に上申したものの、相手側は彼らの願いをはねつける。
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そこで、当該52か村中17か村落民になっての嘆願参加の村の内訳は、久米北条郡の中では、宮部下村は81名、神代村は72名)、戸脇村は55名)、桑上村は32名、桑下村は60名、福田下村は24名、里公文下村は29名、宮部上村は64名、中北下村は77名、中北上村は80名、油木下村は19名、油木上村は36名となっていて、以上が2000年時点では久米郡久米町内に属する。
そこで彼らとしては、次の戦略・戦術を考えざるをえない。改めて相談した結果は、西川陣屋支配の拒否と、大坂代官所の直支配をうけるようにさせてもらいたい、ということになる。同時に、当地伝来の家格による庄屋制度(前述)を廃止してもらいたい。つまり、これにかわって、近隣の幕府領並みの地域運営、すなわち「組合村一惣代による庄屋制」を施行してほしいというのである。
また、同久米北条郡のうち、下打穴中村は67名、下打穴西下村は54名、下打穴西上村は12名、下打穴下村は55名となっていて、以上が2000年時点でいうと久米郡中央町に属する。
それに、久米南条郡の中では福田村が47名となっていて、こちらは2000年時点でいうと、津山市に属する。
そこで彼らとしては、次の戦略・戦術を考えざるをえない。改めて相談した結果は、西川陣屋支配の拒否と、大坂代官所の直支配をうけるようにさせてもらいたい、ということになる。同時に、当地伝来の家格による庄屋制度(前述)を廃止してもらいたい。つまり、これにかわって、近隣の幕府領並みの地域運営、すなわち「組合村一惣代による庄屋制」を施行してほしいというのである。
これに対し、既存の村権力をあずかる「17か村大・中庄屋」一派は、猛然と反対するのであったが、村民側も、飛躍的惣代の名前で願書を大坂代官所・幕府当局に提出して、あくまでも要求貫徹をめざす、そのまま双方がにらみあっているうちに(約3か月というところか)、大坂直支配実現の願意は達成されないままに農閑期を過ぎ繁忙期にさしかかってしまう。
そうしたところへ、迎えた秋の採り入れ後、闘争の第2幕が上がる。それが、江戸への「越訴」(今度は正式なもの)なのであった。この時、江戸へ向けて出発したのほ、多三郎、貞助の二人、急ぎ足で江戸へなんとか到達、月番の勘定奉行に届くように嘆願書を、公事方曲淵甲斐守に欠込(かけこみ)訴訟を決行したという、だが、当該の嘆願書の細かな内容は現代に伝わっていないなど、その周辺の事情についても今日にいたるまで大して判明していないようなのが、今更ながら気に掛かる。
明けての1814年(文化11年)には、丸3年にわたる、この事件の一応の決着となる。それまで及びその中では、農民たちの大坂直支配の実現と、庄屋との関係の改定との、うち、前者の願いは、倉敷代官所支配への移管扱いとなったことから、前進。また後者の願いについて芳(かんば)しい改善は得られなかったものの、以前のような剥き出しでの村支配はできなくなったものと推察されよう。
とはいえ、以上の結末にいたるまでの間には、これら農民の闘いの先頭に立った者の中では、17名が入牢(にゅうろう)し、年貢納入延期の首謀者と目されている2名が拘禁中に死亡していることがあり、あくまでも陳情・嘆願から始めた運動(ただし、後段の越訴については非合法)にあっても、農民側は当面の苦難の道のすべてを犠牲なしに乗り越えられなかったことがわかる。
とはいえ、以上の結末にいたるまでの間には、これら農民の闘いの先頭に立った者の中では、17名が入牢(にゅうろう)し、年貢納入延期の首謀者と目されている2名が拘禁中に死亡していることがあり、あくまでも陳情・嘆願から始めた運動(ただし、後段の越訴については非合法)にあっても、農民側は当面の苦難の道のすべてを犠牲なしに乗り越えられなかったことがわかる。
(続く)
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