新15『美作の野は晴れて』第一部、春一番2

2014-10-13 18:48:08 | Weblog

15『美作の野は晴れて』第一部、春一番2

 小学校の頃、夜は「早く寝ろ」ということで早く寝ていた。何もすることがなかったというのではない。「おてんとうさまと三度の飯は付いて回る」と言われたように、食べることに不安はなかった。夜なべ仕事をひとしきり手伝った後は早く寝て、朝早く起きる。親たちは仕事に取りかかる。それが我が家の生活スタイルであった。いまと違って父親の命令は絶対であった。家族の庇護を受けられないなら、生きていけない。このことは、単なる言葉としてよりも、体全体の感覚で身に付いていた。
 健康面では概して恵まれていた。学校にお医者さんが来ての検診で引っかかることはなかった。検便とかは当日持って行った。低学年の頃は、男の子も女の子も分け隔てなく、パンツひとつで順番を待っていた。口を大きく開けてのどを見てもらった後は、聴診器を胸と背中にあててもらう。それで何の異常もなければ、服を着てよいことになる。
 しかし、あるとき風邪をこじらせたことがある。最初は地元の上村の個人病院で診てもらった。ところが、一向に良くならない。顔が赤くなるほどせき込むし、息苦しくなるばかりである。
 ついに母に連れられ上村からバスに乗って、町内で一番大きな日本原病院に行った。そこでは森先生の診察を受けた。診察室の壁には、理科の教室にあった教材用のものとは違った、等身大の半分くらいはありそうな、詳しい人体の図があった。細かい骨の細部まで、血管は身体の隅々まで放射状に広がっている。いろいろな検査を受けて母と一緒に結果が出るのを待った。
 診察室に戻ってから、先生は母に肺炎になりかけていることを伝えた。僕の体の中を重たい風が吹き抜けたように思った。これから大変なことになるんだろうかと、怖かった。しかし、大柄な先生の赤銅色の顔を見上げていると、「大丈夫だよ」と仰っているようで、何かしら落ち着いてきた。何があっても、この先生にすがるしかないと思っていた。いまでも、あのとき早く名医のうわさが高い森先生に診てもらって有り難かった。
 季節がもう少し暖かくなると、村々は野や田圃の畦道に出て若菜摘みに興じた。田圃の畦などにも、アメリカからの外来種であるセイタカアワダチソウや白いヒメジョオン、薄桃色のハルジョオンなどの雑草が領分を広げつつあった。その間隙をついてというか、その畦のそこかしこに「つくし」が生えていた。それは、童謡にある「つくし誰の子、すぎなの子」と里の人々に歌われていたあの植物に他ならない。
 この頃、春の日差しはまだ柔らかい。たまに雷鳴とともに雨が降ることがあるものの、長くは続かない。再び顔を出した陽光の下で、つくしたちはまるでアンデスのモヤイ像のように他の草の中にすっくと立っている。可憐さは窺えない。しかし、自然の絶妙な風情がほのかに漂う。目を凝らすと、茶色の皮のようなものが茎からせり出して上へと伸びており、その上の胞子嚢の緑の部分には白い粉が吹き出しているではないか。おそらく、風に乗って奉仕を飛ばすことによって自分の子孫を残そうとしているのであろう。
 母や兄と一緒に小駕籠を手にして採りにいった。茎をポッツンと手折って駕籠に入れる。自然があり、母が寄り添ってくれた。とりとめのない話をしながら草を摘むのが嬉しかった。幸せだった。どのくらいいただろうか。家路につくと、それを母が和え物にして甘辛く煮てくれた。苦く、それでいてほの甘い味がしたのをいまだに忘れられない。
 春は野山の食菜が成長する。わらび、ふき、ぜんまい、山うどなどを採取して歩いた。フキは家の周りにも自生していたが、西の田圃に坂を下って行く途中に群生地があったので、採種は容易だった。わらびやぜんまいは田圃に続く低い山とか丘陵に分け入り、ちらほら見えるのを竹かごに入れた。採取したフキは、茎を茹でると皮を剥き易くなる。皮をむくのはかなり根気のいる仕事である。それから、母が醤油と砂糖で甘辛く煮てくれた。
 山うどはウコギ科タラノキ属の多年草本で、たらの芽を採るたらとは近親の関係にあるらしい。山ウドがいいのは、直射日光が余り当たらないようなところでないと、なかなかお目にかかることができなかった。かといって陽が当たらないのも困るようで、我が家に近い野原では、水こそ流れていないものの、山の沢のような斜面に沿って山うどが自生していた。採取した山うどは、そのまま食べるとえぐい。だから水に浸けてアク抜きをしなければ食べられない。まずは皮を剥いて白いところと芽の部分を残し、それを竈に湯を湧かして茹でる。母は茹で上がった山うどを大きめに刻み、すり鉢のなかで手漕ぎを使って酢、自家製の味噌、それに砂糖や胡麻と混ぜ合わせる。山椒の葉をとってきて、これもすりつぶしてから加えると、鉢からえもいわれぬ香りがただよう。口にほおばると、シャキッとした歯ごたえの上に独特の風味があった。
 ほかにも、ミョウガやフキノトウやミツバも家の付近の涼しい場所に群生していた。中でも一番重宝していたのはミツバで、家の直ぐそばの窪地で群生していた。これを和え物にして食べるとおいしいし、その香りはなかなかのものであった。
 それから、蓬(よもぎ)摘みが楽しかった。母が農作業の合間によもぎ餅を造ってくれる時期になると、母と一緒に鎌と竹網のかごを携え、西の田圃のある方に出向いた。目指す田圃の畦道(あぜみち)に着くと、あの黄色い福寿草の花も咲いていた。蝶やてんとう虫の類が行き来していた。母と一緒の、ひとしきりの労働で紡いで来た蓬の新芽はアルミの鍋に入れて湯がいてから手で丸めて揉んで、暖かい餅にまぶす。特有の香りと緑の繊維が餅の中に染み込んで、おいしい蓬餅が出来た。それに、砂糖を溶かしてなじませたりして母が作ってくれた。
 「ちまき」もしくは「笹餅」は、蒸した餅米で作った下地で小豆のあんこを包み込み、それを笹の葉に包んでから、もう一度蒸し直して作っていた。私の小学校の低学年までの頃、我が家ではまだガスが入っておらず、薪を主体とした燃料を使って煮炊きをしていた。竈の上に二つの穴が開けられていた。料理をつくるときは、その穴にアルミニウム製の鍋を載せ、お茶を沸かすときは鉄釜を載せて炊いていた。饅頭をつくるときは、その鍋の中で湯が煮えたぎっており、その上に蒸し器が載っている。蒸し器の底板には穴が開いていて、そこから蒸気が立ち上りせいろに達する。せいろには竹で編んだ「すのこ」がが張ってあり、その上に餅米をつぶして丸く形を整えた下地を載せて蒸す仕掛けが施してある。新潟あたりでは、蒸した餅米で作ったちまきの下地を笹の葉で三角に巻いたものを蒸して仕上げているらしいが、我が家のは違う葉っぱで下地の饅頭を包んで蒸していた。
 「柏餅」が「ちまき」と異なるのは、実を包むのが柏の葉っぱであることなのではないか。我が家の西のとある田圃の岸に蔦葛があり、その葉っぱを摘んだ。柏の木の葉も枝からもいだ。できたての餅を掌で丸く広げて餡を包み、それを葉でくるむ。よもぎ餅の場合は、餅を作って、そこでよもぎを餅肉になじませた。それを砂糖汁とか自家製の小豆を蒸し潰して作ったあんを含ませて食べていた。桜餅というのは、その色が桃色で、雅な雰囲気のある食べ物に違いない。葉っぱは「ちまき」や「柏餅」でよいが、実の方を桃色の「もちとり粉」で染めて作るもので、「おひなさま」を飾るときに母が作ってくれていたのではなかったか。ちなみに、店売りの丁寧な仕上げでは、薄紅色に色づけした餅で軟らかな餡を包み、塩漬けした桜葉と桜花をしつらえ、あたかも「おひな様」のような見立てになるのだとか、芸もここまで来ると、素人離れしているようだ。
 これらに対して、ぼたもちとおはぎとは、どう違うのだろうか。つい最近まで区別できなかったが、ひょっとしたら、この二つは実は同じものなのかもしれない。というのも、春の彼岸の頃につくるのは「春はボタンの花が咲く」から「ぼたもち」といい、今度は秋の彼岸の頃につくるのが「秋はハギの花が咲く」から「おはぎ」という、つまり、季節によって呼び名が変わるようになっている。ちなみに、私はこれを最近になるまで知らなかった。その作り方はといえば、まず餅米にうるち米を混ぜて炊き、すりこぎ棒で上から軽く突きつぶしてから、ひとつかみを掌にとってまるめる。それに自家製のあんこをまぶしたり、きなこをまぶすと出来上がりとなる。
 当時の我が家では、「あんこ」も「きなこ」も自家製であった。小豆を蒸してから、細かな目の「そうき」と呼ばれる細かい金属の丸い網に上げて、その下にぬか袋を張ったたらいを受け皿にしておき、上からへらを使ってすり潰していく。ぬか袋の中に残った固形のものがあんこの原料となる。きなこは、煎った大豆を石臼を使って作り出す。手で取っ手を握りしめ、グルーリグルーリと石臼を回してやると、下の臼と下の臼との合わせ目に掘られている360度の溝から、すり潰された粉が出て来て、臼の外部に押し出されてくる。この作業にはなかなか力が必要で、しかも時間の割に生産性は上がらず、よなべの手伝いで取り組んでいた。さらに「桜餅」というのは、小麦粉で作った薄焼きの皮にあんこをはさみ、さらに塩づけの桜の葉で包んだものだが、我が家では作るのを見たことはなく、どこかの親戚にうかがったおりに茶菓子として出されていたようだ。
 それに、狐尾池のそばの我が家の小さな竹林があるところに、筍(たけのこ)を掘りに出かけることがあった。当時、我が家には竹藪は一か所しかなかった。きのこ採りや山菜取りには所有権は関係がなかったが、竹の子のように大きくなると、無断で採るといけないということで、自然と村の掟を学んでいったようである。竹の子の掘り方には工夫を凝らした。おしまいに根っこに鍬を入れて、「ボコッ」とした鈍い音とともに、竹の子を地下に這う根から引き離す。とってきた筍で厄介なのは、「下ごしらえ」が必要なことだ。穂先の上之ところ数センチを切り落とし、ごわごわの皮の部分に縦に包丁を入れておく。大きな鍋に湯を沸かして筍に加えて水と米ぬかを入れる。およそ30分くらい火にかけていただろうか。薄茶色い「あく」が湯の上面に出尽くすまでゆでる。途中、煮立ってきたら、湯がふきこぼれないように火加減を調整しながらやらないといけない。こうして筍がゆであがったら、竈の火を引いて1時間ほどそのままにして冷ましておき、冷えたら鍋から取り出して、逆さまにして水気を絞ったら、切り込みから手を入れて皮を剥いて出来上がりだ。ここまでできたら、炊込みご飯の具になったり、そのまま煮たりして我が家の食膳に上がっていた。
 初春には、「待ってました」とばかりに木の芽や草花の花々が芽吹く。野や山の切り株や木の根元からは青々と、あるいは赤々とした新芽が出てくる。これを「ひこばえ」という。もくれんのつぼみが膨らむ。水仙や福寿草が出てくる。菫(すみれ)やたんぽぽが道の端や田圃の畦道や、到るところに顔を出してくる。こうして花々が地面一杯を彩る。お花畑の出現だ。一足前に蕾んでいた椿は大輪の花を咲かせた。その花をめがけて蜂やいろいろな小動物たちがやってくる。みどりの補色は赤である。植物たちの葉緑素は太陽エネルギーを取り込んで盛んに光合成を行っている。赤系統の色の光線を吸収して緑色を反射している。緑が輝いている。
 一番愛らしいと思っていたのはスミレだった。手元にあるポケット版の植物図鑑を見ると、次から次へと瞼の裏に当時の植物たちとの出会いが浮かんでくる。植物図鑑を見て当時の記憶をたどると、何種類かのスミレが瞼の裏に浮かんでくる。普通の菫、タチツボスミレ、フモトスミレ、ムシトリスミレといったたぐいである。普通の菫とは、正式には、「ビオラ属マンドシュリカ種」(種名は「満州の」という意味なのだそうで、今日の中国北部三省に自生していたと意味だろうか。いずれも可憐で小さい。その曲がった花首と花首をひっかけ、引っ張って遊んだ記憶がある。引っ張り合いといえばもうひとつ、二人でオオバコの茎を引っかけ合って、どちらが先にちぎれるかを競っていた。今から思えば、植物たちには随分かわいそうなことをしてしまった。片方で自然の美しさを褒め称え、もう一方でその自然の華を摘み取ることは、本当は不自然なことなのかもしれない。「四つ葉をクローバ探し当てると幸せになれる」という諺に、半信半疑ながらも興味を持っていた。とはいうものの、その幸せ探しには相当の根気がいる。願い事がかなうという触れ込みを受けて、やっていた時期があった。学校の帰り道で女の子たちはよくそうして遊んでいた。誰かと一緒に探したときがあったような気がするのだが、どうしても思い出せない。今の子供達はやっているのだろうか。
 先祖の墓の前の下り道で一人で探していたとき、一度探し当てた記憶もあるが、定かではない。「あるかなあ」 、「いや、ないに決まっている」と気持ちには揺り戻しがつきものだ。「それなら、どうして探しているんだろうか」と、さまざまに自問しながら丹念に集落の中に指を入れ込んでは、目を皿のようにして探し続ける。いくら差がしても探せないから、誰かに「見つけたのか」と聞かれたら、とまどいを隠せないだろう。でも、胸がわくわくしてくる。息使いはあくまでも静かなままだ。しかし、心は探し当てたことを考えている。指の腹でより分けるようにして目当ての葉を探していくときの、あのひんやりした、心地よい感触は忘れていない。
 やや涼しい道ばたにはツユクサが愛らしい群落をつくっている。これは油で揚げたり、ゆでた上で和え物したりして食べられるのだと最近知った。ほかにも、薄い青紫色をしたワスレナグサが所々に見えている。蜜を吸い出したのはアヤルリトラノオであったのか。小さく黄色いサワオグルマ、ナズナ、オミナエシも花を咲かせている。日本タンポポは、春を告げる花の代表格の一つだ。天気のよいときは、その花の丸い花粉が日差しを浴びている。私たちは大きく息を吸ってその花粉を吹き飛ばしたり、山側に生えているつつじの蜜を吸った。中腹では紅紫色のミツバツツジ、ヤマツツジは淡い紅色をしている。白色のシロヤシオは、田舎では野生のものを見かけることは稀であった。
 そんな中、子供らは蜜を吸いながら花から花へ渡り歩く。まるで昆虫だ。湧き水があると、両手ですくって喉を潤す。そうして夢中になっているうちに、自分が蝶であるかのように思われることがあった。しかし、蝶はを吸うために花自体を奪い去ることはしない。
小鳥たちのさえずりも増してくる。池や小川に行くと、生き物の活動を観察することを通じて自然との密接な関わりが見えてくる。茶色い雀たち。白と黒のコントラストのモズ、少し大きくて、せわしなく動いてにぎやかに啼くひよどり、流線型のスマートな姿をしたツバメたちがさまざまな音色でさえずっている。かれらのほとんどは、「チッチッ」とか「チュツッツ」などと囀っている。話している間も、やたらと歩きまわる鳥がいる。電線に留まって二羽で頭をふりふり嘴を動かす。雀たちは群を作って動く。何を話しているんだろうか、と漠然と思ったこともある。彼ら小型の鳥たちの好物といえば、小さい虫とかみみずの類である。ツバメはトンまでくわえるときがある。ここ小川町の鳥とされるメジロはよく見かける。最近モズが食べ物を木の枝に突き刺して蓄える姿をテレビを見たが、かなたの映像をとらえる文明の力とカメラマンの執念はすごい。そこまで観察することはなかった。
 ちなみに、春先には、ツバメがやってきていた、南方のフィリピンとかインドネシアとかの辺りから、日本列島が春になると、彼らはやって来る。自分が巣立ったところを覚えていて、それで地理を目やなんかでたどりながら、もと来た道を探してくるのではないかと言われている。やってきてツバメは家の中にも入って巣を作って、つがいで子供を産み、そこで育てる。だから、かれらが出入りするための空間が造られていた。学校では、ツバメは「神様の使いだ」とも言われていた。巣に帰ってきたツバメが、子供のふんを加えて家の外に出しているのは、天敵にそこに巣があるのを気取られないようにするためとの説もあるらしい。
 ツバメのほかにも、「ホーホケキョ」とうぐいすのさえずりも聞こえてくる。
「心から 花のしずくにそぼちつつ うくひずとのみ鳥の鳴くらん」(藤原敏行(『古今集』10・四二二))
 この歌の大意は、「自分で好きこのんで花のしずくに濡れておきながら、どうして「憂く干ず」(つらい、乾かない)と鳴くのだろう」(織田正吉『「古今和歌集」の謎を解く』講談社選書メチエ、2000より引用)しかし、姿は緑の森に隠されていたので、肉眼ではめったにお目にかかれない。その鳴き声を耳にして立ち止まり、その場にいて、じっと声の聞こえた方角をみつめているうち、もう一鳴きあって、どうやら緑がかった茶色いその姿を目に捕らえることができたときのうれしさは、忘れない。
 そうこうしているうちに春の野菜作りが始まる。農家には農協から「野菜歳時記」のようなものが配られていて、絵入りでわかりやすくなっている。4月から5月にかけてが一番の植え時となる。かぶは春と晩秋に収穫できる。種まきから50日程度で収穫できる。

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