45の1の3『岡山の今昔』戊辰戦争と岡山藩(1868~1869)
さて、1868年2月10日(明治元年1月17日)には、岡山藩にも、総督府から、徳川慶善の「反状が明白であるから追討すべし」旨の命令が下りる。これより前の8日には、藩当局による次のような惣触(そうふれ)が出ており、それにはこうある。
さて、1868年2月10日(明治元年1月17日)には、岡山藩にも、総督府から、徳川慶善の「反状が明白であるから追討すべし」旨の命令が下りる。これより前の8日には、藩当局による次のような惣触(そうふれ)が出ており、それにはこうある。
「徳川家三百余年来の信義といい、前内府公(慶善)は兄弟の間柄にあるので、まことに心苦しい立場にあるが、今日にいたっては情誼をすてられて、一途(いちず)の勤王(きんのう)の思召(おぼしめし)ですでに人数を東西にくりだされ、近国諸藩の向背・去就をさだめ、名分を正し、忠節を立てるように心得るべきである。」(谷口澄夫「岡山藩」の訳に従う)
こういう次第であったことから、もはや猶予ならぬということになり、津山藩その他の幕府方の諸藩を糾問するための出馬することに決する。そしての2月28日(2月6日)には、東海道を征討して進む新政府軍の本隊に加わることを命じられたことから、家臣570人と耕戦隊212人が出陣するのであった。
それからは、討幕軍の一翼として活躍するとともに、道途中での近隣の佐幕派の諸藩を討伐ないしは鎮撫(ちんぶ)するために各方面に赴く。そして本隊は、東海道から関東へ、江戸の無血開城を得てからは、さらに奥羽へと進んでいく。
奥羽での激戦を制してからは、続けて箱館(函館)に4000の兵を出すように命じられる。新政府軍のうちの岡山藩兵は、まずは奥羽山田湊に上陸した後、野辺山地に移動、そこに6か月ほど滞在の上、翌1869年(明治2年)を期して青森を出船し、北海道の江差(えさし)に上陸する。
一方、新政府軍を迎えうとうと、反政府軍は、箱館の五稜郭を要塞とし、これへの道を塞いでいた。幕府海軍を率いていた榎本ら幕府兵や、奥羽列藩などの軍兵の士気には、なおかなりのものがあったのではないだろうか。
話を戻して、攻撃軍のうち岡山藩兵はといえば、江差から五稜郭への要所を防備する反新政府軍と戦いながら箱館目指して進撃を続け、矢来台場攻撃や、最終局面での五稜郭攻撃にも参加する。
そしての反政府軍の降伏をうけ、約2年にわたる内戦(「戊辰戦争」)が終息するのであった。なお、戦後に岡山藩が新政府に提出した報告によれば、箱館まで出ばってかかる戦いに参加した者480人、奥羽日本松攻撃に参加した者か200人、備中松山を平定するための出張に50人、東京在勤者が400人、京都在勤が340人の、合わせて1470人が出向いていた。併せて、岡山藩の「戊辰戦争」における戦死者は計55人であったという。
(続く)
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
(続く)
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます