【100分 de 名著】「ブッダ最期のことば」#3
1つの作品を25分×4回の計100分で読み解く番組。自分の興味がある作品の時だけ見て、気になったところをtweet、備忘メモとしてblogに記事書いて残している。今回は「ブッダ最期のことば」で、いわゆる「涅槃経」を読み解いていく。今回はその3回目。いよいよ佳境へ!
ブッダはアーナンダに、あなたが望めば自分は生きていると話すが、アーナンダの反応が薄い。これはアーナンダにマーラ=悪魔(仏教を妨害するもの)が憑りついたのだ。自分は3か月後に死ぬ。諸行無常である。 #100分de名著
大病を患ったが回復し、旅を続けていたブッダは、自身の死を不安がっていた(前回記事参照コチラ)アーナンダに、あなたが望めば自分の寿命を延ばすことが出来ると告げるが、アーナンダの反応は薄い。アーナンダにマーラ=悪魔(
Wikipedia)が憑りついたことに気づいたブッダは、弟子たちに自分は3か月後に死ぬこと、そしてこれは諸行無常であることを説いた。
ブッダが死ぬことは必要か? ブッダが亡くなったことは事実。でも、ブッダほどの人が寿命が尽きて亡くなるのだろうか? マーラによって妨害され涅槃に向かったのだと考えた。ブッダが亡くならないと、人々は諸行無常を実感できない。 #100分de名著
ブッダが死ぬ描写は必要なのか? ブッダ自身の死を持って諸行無常(Wikipedia)を説いている。ブッダはあくまで人間として亡くなった。このことは事実であるけれども、当時の人々はブッダの死を受け入れることが出来ず、これはマーラによって涅槃に向かわされたのだと考えた。ブッダ自身は"自分"ではなく、自分が見つけた"仏教"を貴んで欲しいと考えていた?
諸行無常=一瞬一瞬に全てのものが生まれて消えていくこと。新しい鉛筆も1万年後にはボロボロになるが、"いつ"ボロボロになったか?と聞かれば、一瞬ごとに変化して1万年分でボロボロになった。一瞬一瞬変化している 今苦しくても明日は苦しくないかも? #100分de名著
「平家物語」(Wikipedia)の冒頭にあることなどからイメージして、ずっと繁栄してきたものも滅びる時が来ると考えがち。そういう側面もあるけれど、"滅びる"というよりも、一瞬毎に変化しているということ。伊集院光氏の例えによれば「老舗のお店が廃業してしまうということではなく、今日の営業を終えて、明日新しい店として開店するイメージ」 なので、"滅びる"という負のイメージではなく、あくまで変化した結果ということ? なので、逆に今の苦しみは、明日は苦しみではなくなっているかもしれないとも考えられる?
仏教で扱うのは"苦しみ" 苦しみの原因は現実を正しく見れないこと。現実と"思い"にギャップがある。現実は諸行無常だが、自分たちはそれを諸行無常とは思っていない。 #100分de名著
自分の感性を変えることで、苦しみのない環境を作って行く #100分de名著
前回(記事はコチラ)で触れたように、仏教は今苦しんでいる人のための教え。何故、苦しいのかといえば、現実と"思い"にギャップがあるから。そのギャップを埋めるためには、現実は諸行無常(一瞬ごとに全てのものが生まれて消えて行く)ことを受け入れればよい。要するに、見方を変えて、一瞬一瞬良い方向に生まれ変わるよう努力をすればよいということ?
余命三ヶ月となったブッダの言葉。三十七菩提分法を、よく実践せよ。それが利益と安楽に役立つ。三十七菩提分法とは37種類の修行の方法。煩悩を消し去り悟りを開くまでのステップ 基本的な8つが八正道で8つの正しい行い。 #100分de名著
正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定。正=煩悩が消えて苦しみが無くなって行く方向性。反対は自我。例えば、100万円拾う。正の人は交番へ届ける。我の人は自分の物と考える。うーん、でも普通交番へ届けないか? #100分de名著
自らの余命を悟ったブッダは、弟子たちに三十七菩提分法(三十七道品|Wikipedia)を実践するように説く。37種類の修行の方法を実践し、煩悩を消し去り悟りを開く。その基本的なステップが八正道(
Wikipedia)。正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つからなる(詳細はWikipediaで!)が、この場合の正(しょう)とは、正しい行いということだけでなく、煩悩が消えて苦しみが無くなって行く方向性であり、その反対は自我。自我が強いと苦しくなる。
例えば東日本大震災の時、被災地の方々が店を襲うなどの暴動を起こすどころか、雪の中きちんと列を作り、自分たちの必要な分だけ買物をして行く姿を見て、海外の人たちから驚嘆の声が上がった。日本人にとってみれば当たり前のことに思ったし、tweetにもあるとおり、自分が普通交番に届けるでしょうと自然と思えるのは、日本人の中に自我を捨てるという考えが根底にあるからなのかな? 仏教を学んだことはないけれど、親や先生に言われてきたことの中に、その教えが入っていたのかもしれない・・・
鍛冶屋のチュンダに食事に招かれ、自分だけに出すように言ったスーカラ・マッダヴァ(きのこor豚肉)を食べ食中毒に。これを食べて死ぬことを予知。酷い下痢に苦しみつつクシナガラの沙羅双樹の下で横になり、最期の食事を供物したのだから、チュンダには果報があると告げる。#100分de名著
さて、いよいよブッダ最期の食事。旅を続けるブッダは果報(果報(かほう)とは|コトバンク)を期待した鍛冶屋のチュンダ(
Wikipedia)から食事に招待され、お布施としてスーカラ・マッダヴァを食べる。この食事が原因で命を落とすことを悟っていたブッダは、弟子には出さず自分のみに出すよう言い、これを食べて食中毒になる。寿命が尽きて亡くなることは分かっているので、最期の食事は自分で選んだとも言える?
酷い下痢に苦しみながらクシナガラ(Wikipedia)の沙羅双樹(
Wikipedia)の下で横になり、最期の時を迎える準備をする。その際、チュンダを気遣い、如来が供養の食事を食べて涅槃に入られた、その食事には優れた果報があるのだから、チュンダには大いなる果報があると言い残した。
チュンダは果報を期待してOK。ただし涅槃ではなく一般の果報。出家修行者=僧侶は、在家信者=一般社会のお布施によって支えられる。出家修行者は立派な修行の姿を見せる。上下関係ではない。例えば研究者と研究費のような形。ただし、研究費を得るために研究してはダメ! #100分de名著
今までと違う文化を生み出せる人は、今までの文化の外にいる人たち #100分de名著
チュンダが期待した果報というのは、いわゆる健康を手に入れたいとか、お金が儲かるようにというような、普通の人としての願い。これは一般人=在家信者としての果報であり、そのためのお布施なので、果報を期待するのはOK。在家信者によって支えられているのが、出家修行者(サンガ)。彼らが特別な生き方をして、在家信者を導く。立派な姿で修行をしている人たちにお布施をすると、大きな果報が与えられるという考え方。そこに上下関係はない。例えば、研究者と研究費用。研究をして新たな物質を生み出す、研究費用を出した人々(国民)は、その恩恵に与る。ただし、研究費が欲しくて研究をするのは本末転倒。
仏教の考え方としては、まず在家信者があって、出家修行者(サンガ)がある。世の中と別の見方をする人々にしか、新しいものは生み出せないし、社会を動かしていくことはできない。その果報に与るために、在家信者はお布施(寄付、税金?)をしているということ?
100分 de 名著:毎週水曜 23:00~@Eテレ