豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

サリンジャー「フラニーとズーイ」

2024年06月19日 | 本と雑誌
 
 サリンジャー/鈴木武樹訳「フラニーとズーイ」(角川文庫、1969年)も断念。昔買ってあったので「ナイン・ストーリーズ」につづけて読みだしたのだが、読み進めることはできなかった。

 1969年に野崎孝訳で読んだ「ライ麦畑でつかまえて」(白水社)は、ぼくの人生に影響を与えた10冊の本の中に入るだろう。同じ年に読んだマルタン・デュ・ガール/山内義雄訳「チボー家の人々(全11巻?)」(これも白水社だった)、樺美智子「人知れず微笑まん」(三一新書)も10傑に入るだろう。
 そう言えば、6月15日は樺さんの命日だった。2、3週間前のNHK「映像の世紀」(だったか?)で、60年安保闘争のドキュメントをやっていたが、その中で、樺さんの遺体が無造作に警察かどこかのベンチに布をかけて置かれている(一輪の花が添えられていたが)映像が写っていた。ショックだった。

 「ライ麦畑・・・」は良かったし、最近になって読んだサリンジャー選集(荒地出版社)の「若者たち」と「倒錯の森」に収められた初期の短編集、鈴木の分類に従えば「初期短編物語群」に分類される短編も良かったが、「グラス家物語」ないし「グラッドウォーラー・コーフィールド物語群」といわれるグループに含まれるらしい短編は、どうやらぼくには縁のない話ばかりのように思えてきた。ただし後者の中でも、「フランスの少年兵」「最後の休暇の最後の日」「マディソン街外れのささやかな反乱」など数編はよかった。
 しかし「フラニー」は最初の16頁で限界に達した。野崎訳(新潮文庫)だったらどうだろう・・・、とも思ったが、おそらく駄目だろう。せっかくなので、きょう病院の待ち時間の間に、巻末の武田勝彦解説だけを読んだ。そして、いよいよぼくには縁のない本に思えてきた。この解説は、ぼくのように、サタデー・イブニング・ポストに載るような小説のほうが面白いと思う凡人にとっては役に立ったが、まさにサリンジャーが自著に解説をつけることを拒絶する気持ちがわかるような解説だった。

 「ズーイ」などの作品は、初期の習作時代の作品に比べて、象徴主義、前衛的手法がまさってきているそうだ。ぼくは根が単純なので即物的なストーリーでないと理解できない。彼によれば “Newyorker” 誌は、大学教授などのインテリたちには軽く扱われているが、「都会的センスを求める知的大衆」にとっては「生活のバイブルである」そうだ。サリンジャーの解説で、よくぞ「知的大衆」などという言葉が使えたものである。
 「知的」ではない「大衆」の1人であるぼくにとっては「生活のバイブル」ではないが、ニューヨークの若者の生態を知ることができるところだけは確かに良かった。
 武田の解説で、「フラニー」の中には、マーティーニのオリーブの実は食べるべきか否かという会話が出てくるとあった。オリーブを添えたマーティーニは「ライ麦畑・・・」の中にも出てきた。いかにも美味そうな描写だったので、サラリーマンになってから行きつけのバーで注文したことがあった。不味かった。オリーブの実を食うか否か以前の問題である。何でアメリカ人はこんな不味い酒を有り難がるのか分からなかった。あまりに不味かったので、口直しにバイオレット・フィズを注文した。サントリーの各種カクテルがトリス・バーの棚に並べてあった時代である。

   

 実は、野崎孝訳「大工よ屋根の梁を高く上げよ シーモア序章」(新潮文庫)を1週間ほど前に amazon で注文したのが先日届いた。しかし、これもだめだろう。到着と同時に未読書コーナー行きになってしまった。「1924年ハプワース16日」も持っていないが、どうせ読めないだろうから買わないでおこう。 
 サリンジャーは、1969年の「ライ麦畑・・・」と、2022~4年の「若者たち」と「倒錯の森」(荒地出版社)、そして先週の「ナイン・ストーリーズ」(新潮文庫)で打ち止めにしよう。
 2021年の末頃に、娘の書いた「我が父サリンジャー」と、スラウェンスキー「サリンジャー」を近所の図書館で見つけて読んだときから始まったぼくの「サリンジャー復興」はどうやら終焉を迎えたようだ。

 2024年6月18日 記
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