豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

モーム『作家の手帳』(新潮社)

2021年03月20日 | サマセット・モーム
 
 久しぶりに、サマセット・モームのネタを。
 モーム『作家の手帳』(新潮文庫、1974年4月5刷)をパラパラと読んだ。
 かれの70歳の誕生日の雑感が記されていた。1944年1月25日の日記である。
 ちなみに、この本は今から20年近く前に水道橋駅前の古本屋の店頭で100円均一で見つけて買った。丸沼書店の隣りの日本文学専門の店だった。かなり傷んでいるが、この絶版本を古本屋で見たことはその一回だけである。
 2007年5月27日に読み終えたようだ。日付けとともに、「天才を探して・・・」という鉛筆書きのメモがある。何を探していたというのだろうか。

 モームは、「老年になるのを考えると恐ろしくなる」という娘ライザに向かって、以前はこんな風に答えていた。
 「老年には老年のつぐない(「埋め合わせ」くらいの意味か。“compensation”では)がある。・・・つまり、自分がやりたくないと思うことは、やらなくてもすむようになる。・・・自分の身につまされるようなことのなくなった事件の経過を観察していて、十分たのしめるものだよ。たとえ自分の喜びはなまなましい(「生き生きとした」か。“vivid”では)ものではなくなるにせよ、同時に悲しみも、刺すような痛みではなくなるからね」、と(504頁)。
 しかし、70歳になったときには考えが変わったという。
 モームは老年最大の利益は「魂の自由」である、それは、「人が盛りの時代には重大に考えることがらにたいして、ある無関心さをもつようになることから生じるものだと思う。・・・羨望、憎悪、悪意から解放されることである」という(同所)。 

 きょうは、ぼくの誕生日である。
 残念ながら、ぼくは今のところ70歳のモームの境地には達していない。若いころに比べれば、穏やかになったかもしれないが、羨望もあれば、憎悪も悪意も消えない。
 おそらく、死ぬまでこれらから解放されることはないような気がする。しかし、他方で、モームと違って、生き生きとした喜びはまだ感じることができているような気がする。

 モームの諦念は70歳という年齢の故ではなく、長年執事として(?)彼に連れ添ってきた20歳も年齢の若いパートナーを亡くしたためだったのではないかと思う。訳者の解説で知ったことだが。
 ただし、70歳を過ぎてからも、なお長編を2、3本(『昔も今も』と『カタリーナ』、さらに『世界の十大小説』ほか)を書き上げたというモームの創作意欲と筆力の旺盛さには感心する。世事に対して無関心と言いながら、よくもそんなに書けるものだと思う。

 裏表紙に、訳者の中村佐喜子さんの死亡記事(読売新聞1999年10月14日)が挟んであった。「赤毛のアン」を翻訳という見出しで、その月の10日に89歳で亡くなったとある。

 2021年3月20日 記

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