サマセット・モーム「人間の絆(中)」(行方昭夫訳、岩波文庫、2001年)を読んだ。
上巻は図書館で借りてきて読んだのだが、ぼくは読書をするときは「お菓子と麦酒」のドリッフィールド(≒モーム?)と同じで、鉛筆をもって傍線を引いたり書き込みをしたりしながらでないと読んだ気になれない。当初は「人間の絆」を読み通す自信がなかったので、まずは図書館から借りた本で試し読みをしたのだが、意外に面白くてどんどん(さくさくと)読むことができた。そこで借りてきた数種の翻訳のなかで一番しっくり感じた行方訳を買ってきて(また断捨離違反!)、線を引いたり書き込んだりしながら読んだ。
中巻では、あの嫌みな女ミルドレッドが登場する。読んでいても不愉快になるばかりなので読み飛ばそうかとも思ったが、何か重要な場面を読み飛ばしてしまうのではないかと心配で、結局中巻も全部読んだ。
ミルドレッドは中巻で初登場し(119頁)、いったんはフィリップを捨て他の男と結婚してフィリップの周辺から消えるのだが、結局はその男に捨てられ、生まれた赤ん坊まで連れて厚かましくもフィリップのもとに戻ってくる(247頁)。それを彼は受け入れてしまうのだが、しばらくすると今度はフィリップの親友グリフィスと遁走して(359頁)、ロンドンの群衆の中に消えてしまう(386頁)。中巻ではこれ以降は登場しないが、どうもまた再々登場しそうな気配がした。
フィリップはなぜミルドレッドの虜になってしまったのか。フィリップには「自虐癖という悪魔」がいつも心の奥に潜んでいるいうが(344頁)、他方では心が痛むというよりは「プライドが傷ついた」という(378頁)自尊心の持ち主でもある。そんな自尊心の持ち主が何ゆえに、あのようなミルドレッドの仕打ちに自虐的に対応できるのか、がぼくにはまったく理解できず、ページの余白に「アホ!」と何度も書き込んだ。
フィリップが自由になれる道はたった一つ、ミルドレッドが「彼に身体を許すこと」だったというが(185頁)、それはただの「劣情」や(225頁)、「性本能」だけでもなさそうである(362頁)。フィリップのミルドレッドに対する心情を説明するモームの言葉はぼくには届かなかった。中野好夫によると、モーム小説の究極にあるテーマは「人間の不可解性」だというが(行方解説、上433頁)、フィリップの言動はぼくには不可解というより「不愉快」でしかなかった。
ミルドレッドは育ちが悪く、言葉遣いも品がなく、知性のかけらもないただの男好きなウエイトレスにすぎないことはフィリップも分かっている。それでも彼女に惹かれてしまうというのである。容貌も貧血症のように蒼ざめた顔をしていると書いてある。美人とも書いてあったが、ぼくは「痴人の愛」でミルドレッドを演じたベティ・デイビスのあの厚化粧のとても「美人」とはいえない不気味な表情が思い浮かんでしまう。リメイク版のキム・ノヴァクなら印象は違うのだろうか。
あえてフィリップの気持ちを理解しようとすれば、幼くして(といっても8歳か10歳であるが)母を亡くしたフィリップの乳母だったエマへの刷込み作用(imprinting)の影響か、あるいは伯父夫婦の家の女中だったメアリ・アンへの思慕の情が転移したとでも考えるしかない。エマもアンも(それにミルドレッドも)庶民階級出身の女である。
フィリップ(というかモーム)は、中産階級の虚栄心にまみれた人間を嫌い、田舎の朴訥で庶民的な人間を好む性情を有している。「お菓子とビール」のロウジーや「ランべスのライザ」が典型だが、「人間の絆」の下巻にも「乳しぼりの娘」という言葉が出てくる(下91頁)。しかし、ミルドレッドにロウジーのような魅力を感じることはまったくできなかった。最後に(下巻で)出てくる女のところで合点がいくのかもしれないが、それはまだ先の話である。
なお、行方訳ではミルドレッドの言葉遣いが標準日本語であることも気になった。ミルドレッドとフィリップの会話が都会の中産階級のお坊ちゃんとお嬢さんの会話のように読めてしまうのである。モームはそのような英語でミルドレッドのセリフを書いているのだろうか。
例えば、中野訳では「ああ、いっそ死んじまいたい」「いっそあのまま死んじまっていたら、よかった」となっているミルドレッドのセリフが(3巻126頁)、行方訳では「あたし、死んだほうがましよ」「子供が生まれたとき、死んでしまえばよかったんだわ」となっている(336頁)。ミルドレッドのセリフの英語がニュアンスとしては行方訳の程度なのだが、中野は文脈的にミルドレッドの出自と状況からしてこのような日本語のセリフがふさわしいと考えたのだろうか。ちなみに金原訳は二人の中間あたりで、「死んじゃいたい」「・・・死んじゃえばよかった」となっていた(下141頁)。
フィリップの懐具合も気になった。あんなにミルドレッドに貢ぐことができるほどの財産を有しているとは思えないのだ。
中巻では、例えばミルドレッドの分娩に15ギニーかかる、生まれた子を里子に出すと1週当たり7シリング6ペンスかかるとある。フィリップの預金残高は500ポンドだが、ミルドレッドに5ポンド紙幣を渡すたびに幸福感と自負心を覚えたとある(290~1頁)。こういった金額にこそ2行割注をつけて、いったいどの程度の貨幣価値だったのかを知りたいが訳注はない。※行方が中巻で割注をつけたのは2か所だけである(364頁、402頁)。
仕方なく辞書を引いて、1guinea=21shilling、1 pond=20 shilling ということは分かったが(ちなみにギニーはギニア産の金を使った金貨だという。学生時代に“Human Guinea Pigs” 「人間ギニア豚≒人間モルモット」という本を読んだ)、当時の分娩費用は庶民の(例えばウエイトレスの)給料の何日分に相当するのか、フィリップの500ポンドという預金残高は当時の中産階級(牧師の養子)の子弟の財産として多いのかどうか? 当時のオックスフォード大学の学費などはどの程度だったのか。フィリップが会計士の助手になる際にはフィリップが会計士に300ポンド支払い、5年間奉公すれば半分の150ポンドを返還するという契約が出てきたり、人気肖像画家になれば年収 1万ポンドが得られると書いてあったので(69頁)、それらから推測するしかない。
中巻でも随所にちりばめられたモームの箴言や登場人物に語らせたセリフが印象に残った。いちいち付箋を貼っていたら、ページの上部が膨らんでしまった。
中巻に出てくる箴言の中で最も至言だと思ったのは、「金銭というものは、第六感みたいなものだ」という言葉である。「金がなければ他の五感も働かない、一定の収入がなければ人生の可能性の半分とは縁が切れる」とモームは言う。さらに、「金を軽蔑する人は愚かであり、いつも生活費を気にしていなくてはならないのは屈辱的だ」とも言う(78~9頁)。
以前ぼくが読んだ「作家になる方法」だか「小説作法入門」式の本の著者が、作家になりたければまず定期収入を得る道を確保しろと書いていた。同じ趣旨だろう。
「自分の凡才を、もう手遅れになってから発見するほど残酷なことはない」というのもあった(80頁)。ぼくは編集者に向いていないことを理解するまでに3年かかり、教師になるまでにさらに10年近くかかった。脱サラした時には30歳を超えていたが、よくぞあの時に決意したと我ながら思う。40歳では手遅れだっただろう。しかも作家になりたいなどという夢は捨てて、教師への道を選んだ。フィリップが画家の道をあきらめたのと同じである(62頁)。
「人に言われたとおりにしてうまく行くより、自分の責任で犯した過りから学ぶことのほうが教訓になる」(93頁)、「意のおもむくままに行動せよ。ただし街角に警官がいるのを忘れるべからず」(96頁)、「大切なのは、自分がどういう人間なのかを発見すること・・・」というのもあった(100頁)。
スタインベック「エデンの東」のラストシーンで、死の床にある父親は息子キャル(映画ではジェームス・ディーン)に向かって「ティムシェル」と語りかける。「ティムシェル」とは古代ヘブライ語で「人は自分で道を選ぶことができる」という意味だそうだ。「ティムシェル」すなわち自己決定は長らくぼくの人生の指針だったが、ぼくは本当に自分で道を選んで生きてきたと言えるのだろうか。実際は何かに導かれていたのではないか、最近になって自信がなくなってきた。
箴言ではないが、フィリップの結婚観が書いてある。彼によれば、「結婚とは俗物たちの好む下らない制度で、永久の結びつきなど身の破滅だ」、・・・フィリップには「ウェイトレスごときと結婚するなど、とんでもない・・・低い階級の妻を持ったのでは、りっぱな医者にはなれない」という中産階級的な考えがあった(188頁)。確かに、あれほどミルドレッドの肉体を求めながら、フィリップには彼女と結婚する気はまったくないのである。
中巻ではノラという新しい女性との出会いと別れのエピソードが挿入されている(216、286頁)。そのノラを捨てておきながら、ノラが他の男と婚約したことを知ると、彼女のぼくに対する愛は思いやりのある永続的なものだった、母性愛に近いものだった、あのような愛を与えられたことに感謝すべきだったなどとほざくのである(369頁)。
ぼくはここでも「アホ!」を叫んだ。下巻を既に読み進めているのだが、下巻でミルドレッドへの思いが完全に断ち切られていることの伏線であり、あるいは下巻で最後の女性と出会う伏線なのかもしれないが、ここでもフィリップの態度には苛立ちを覚えた。
中巻で一番印象に残ったのは、ブラックステイブルの牧師の妻でフィリップを幼い時から養育してきた伯母の死の場面である。伯母死亡の電報を受けて帰郷し、伯母の亡骸と対面したフィリップは、伯母の「しなびた小さな顔」を眺める。その時胸中に浮かんだのは「無駄な一生だったな」という感想だけであったとモームは書く(83頁)。実際のモームの伯母は没落したドイツ貴族の末裔であることを自慢するような女だったらしい。しかし「人間の絆」の伯母はそのような人間としては描かれていない。血のつながりのない養子フィリップに対して戸惑いながらも優しく接しようと努めている。そのような伯母の人生を「無駄」だったとは!
モームは40歳になっても残忍な作家である。
2025年4月27日 記
※ 中巻で一か所だけ「筆者」が登場する記述があって驚いた(233頁)。なぜここにだけ筆者(モーム)が登場したのか。