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豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

サマセット・モーム「人間の絆 (上)」

2025年04月25日 | サマセット・モーム
 
 サマセット・モーム「人間の絆(上)」(行方昭夫訳、岩波文庫、2001年)を読んだ。
 
 モーム自身が圧縮した要約版「人間の絆」(大橋健三郎訳、河出世界文学全集)と、完全版「人間の絆」とどちらを読むか迷ったので、図書館で大橋訳(河出全集)と、行方訳(岩波文庫)、河合訳(光文社古典新訳文庫)、金原訳(新潮文庫)を借りてきて、冒頭部分を読み比べてみた。
 しかし、そんなことをしているくらいなら、完全版のほうを読んで、面白くない部分はぼくの判断で読み飛ばせばよいではないかと思い至った。モームだって「読書案内」(岩波文庫)で、読み飛ばす読書法もあると書いていたではないか(ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」の終わりのほうなど読み飛ばしてよいと書いてあったと思う)。
 はじめから「要約版」を読むとなると、どうしても省略された部分に何が書いてあるかが気になってしまう。以前ホッブズ「リヴァイアサン」第4部に挑戦したときも、最初は永井道雄・宗方邦義共訳「世界の名著」(中公バックス)の抄訳で済まそうとしたのだが、結局田中浩訳の「世界の大思想」(河出書房)の完訳を何度も参照することになってしまった苦い経験がある。

 完全版の邦訳は、中野好夫訳の新潮文庫版(4分冊のもの)を持っているのだが、活字が小さいのと古くなって印刷が薄れてきているため今のぼくには読みにくい。所々に挿入された訳者の2行割注も読み進める際に目障りである。図書館で借りた河合訳、行方訳、金原訳をざっと眺めると、それぞれ一長一短がある。 
 行方訳は2行割注が(上巻では)まったくないので誌面がすっきりしている。上田勤訳の「お菓子と麦酒」では2行割注が多いのに閉口した。疑問が生じたら中野訳の2行割注を見ればよいが、上巻を読み進めるうえでは訳者の注釈を参照する必要はまったくなかった。
 河合訳は注釈が脚注になっていて読む邪魔にならないのはよいが、金原訳ともども、どうも訳文がしっくりこなかった。ぼくは長年英語の本は中野好夫、阿部知二、大久保康雄、田中西二郎、龍口直太郎、野崎孝などといった人たちの訳で読んできたので、どうも最近の「新訳」というのに馴染めない。古い作品を読んでいるという気分になれないのである。

 そんなわけで、「英文読解術 Mr. Know-All」や「英文精読術 Red」(DHC)などで英語原文と訳文の対応関係が信頼できて訳文にもなじみがあり、ほどほどに古めかしい行方訳で行くことにした。
 ※ 後日行方「英文快読術」(岩波現代文庫)を読んでいたら、朱牟田夏雄「サミング・アップ」(金星堂の抄録、対訳本)の訳文を、直訳と意訳のほどよい中間と評価しているのを目にした。行方訳もまさにそのような訳文であった。
 しかも岩波文庫版は版面(はんずら)と余白の比率や、活字の大きさが程よい。中野訳の古い新潮文庫の活字が小さいと難癖つけておきながら、版面が広すぎたり(余白が狭すぎたり)、活字が大きすぎたり、行間が広すぎるとこれまた不格好で、文庫本を読んでいる気分になれないのである。この点でも岩波文庫版は現在のぼくの視力と文庫観(?)にちょうど合っていた。表紙カバーも落ち着いている。河合訳のカバーのイラスト、金原訳のカバー(特に背表紙の色とタイトルのロゴ)はどちらも馴染めなかった。

 読み始めると、完全版を選んだのは正解だった。冒頭で主人公フィリップが母を亡くし、ブラックステイブルに住む国教会牧師の伯父夫婦に引き取られて寄宿学校に上がる冒頭の描写からストーリーに引き込まれたが、同時に、その頃(19世紀末か20世紀初頭か)のイギリスの学校制度にかかわる記述にも興味が湧いたが、その辺が圧縮版では省略されていた。
 例えば、主人公フィリップが通った学校の礼拝では、聖歌隊の生徒たちは説教壇の背面のしかも一番遠くの末席に座るので、説教者はよほどよく通る声の持ち主で発声法の心得がなければ生徒たちの席まで説教は届かないのだが、牧師は学識によって選ばれるのであって、大寺院で役立つような資質(声質や声量)で選ばれるのではない(上94頁)。そのため説教者の話はほとんど聞き取れないことになるという。このエピソードなどは現代の大学教師の場合にもそのまま当てはまる。最近では教員採用に当たって模擬授業を課して話し方(や声の大きさ)を審査するところも多いようだが。

 また、フィリップの入学した学校の校長は一般教養を重視していて、試験のときにだけ無理に詰めこんで覚えたような科目の試験をしても何の意味もない、常識を重んじるという見解だったという(上116頁)。これなども最近の所謂「リベラルアーツ」教育というやつだろう。この校長は、学校というものは並の力の者のためにできている、教師は生徒の平均に合わせるので優秀な生徒は何とか周囲と和していかなければいけないとも言う(上168頁)。
 そして(優秀な)フィリップに対して、頭のにぶい生徒に物事を教えるのは退屈だが、たまにとても頭の回転のすばやい生徒がいて、こちらが説明するかしないかのうちに理解する、そういう場合は「教師というのは世界一楽しい仕事だと思う」と語る(上173頁)。ぼくは優秀な学生を相手にするときよりも、ゼミ生同士や教師との対話を楽しむことができるマインドを持った学生と議論をしている時に教師は楽しい仕事だと思った。「世界一」楽しいかどうかは知らないが、ぼくは別に「世界一」楽しくなくても十分である。

 寄宿学校(パブリック・スクール?)を終えたフィリップはハイデルベルク大学に遊学する。ハイデルベルクの教師は、オックスフォードなどに行かないで、ここで5年間学べと言う。人生で素晴らしいのは思想の自由と行動の自由だが、フランスでは行動の自由はあるが他人と同じように考えなけれならない、ドイツでは他人と同じに振舞わなければならないが好き勝手な考え方をしてよい、ところがイギリスにはこの2つともないと言う(185頁)。この英独仏の比較はぼくには理解できない。
 ハイデルベルクでフィリップは信仰を捨てるのだが、その経緯や理由の記述には説得力が感じられなかった(222~9頁)。幼いころ床に就く前に「ぼくのえび足が治っていますように」とお祈りしたが、翌朝起きてみるとやはり足は元のままだったので失望して神への信仰が揺らぐという場面のほうがよほど共感できた(97頁)。
 ぼくは、そもそもモームが自身の吃音(かつフランス訛りの英語)という「欠陥」を、自伝的小説である「人間の絆」では「えび足」という身体的障害に置き換えたことを疑問に思う。吃音かつフランス訛りの英語と「えび足」とでは、後の人生でフィリップが遭遇する苦難の度合いがかなり違うのではないかと思うのだ。寄宿学校時代に同級生や下級生のいじめに遭うのは同じだとしても、ハイデルベルクやパリで知り合った友人たちとの交流の場でのフィリップの活動的な行動は、おそらくモーム自身の経験を語っているのだろうが、時として主人公フィリップに足の障害があることを忘れさせる、逆にいえば不自然な印象をまぬかれない。

 上巻では、ブラックステイブルでの寄宿学校、ハイデルベルクでの遊学、パリでの画家修業、ロンドンに戻って会計士見習いなど、ほぼ時系列に従ってストーリーが展開しているのだが、「そろそろ読者が飽きてきただろうから、場所を変えるか」といった意図が感じられた。場面の転換、人物の登場・退場の仕方に作為を感じてしまうのである。劇作家として腕を上げてきた頃の名残なのだろうか。
 実はすでに中巻を読み終え、現在は下巻を読んでいるのだが、中・下巻になるとストーリーの展開はスムーズで、風景や気候などの背景描写や人物の性格描写や会話などもモームらしくなってくる。
 でも「お菓子と麦酒」の落ち着いた筆致、練達のストーリー展開とは違って、(日本語で読んでいながらおこがましいのだが)熱のある筆致が感じられた(といっても執筆時のモームは30代後半、発表は41歳なのだが)。学術論文の場合も同じで、ぼくは未熟で勉強不足だったとしても、若い時に書いた論文に愛着がある。

 上巻は読み飛ばす個所もなく、完訳版の全文を一気に読んだ。
 ぼくは映画化された「痴人の愛」でベティ・デイビスが演じたミルドレッドがあまりに不気味だったために、これまで「人間の絆」を好きになれなかったのだが、改めて読み始めると、フィリップが母を失う冒頭の場面からモームの世界に引き込まれた。育ての親となる伯父伯母夫婦との軋轢や寄宿学校でのいじめなども、やがて出てくるミルドレッドとの関係に比べれば穏やかなものである。上巻はまだ「嵐の前の静けさ」のうちに進行している。
 モームの人生観が暗示されるというあの「ペルシャ絨毯」が登場する手前(45章)で上巻は終わって、中巻につづくことになる。

 2025年4月25日 記