散歩の道すがら、小さな公園の一本だけの梅の木に紅梅が咲きほこっていた。
紅梅それ自体には何の思い出もないが、紅梅というと、ぼくは「紅梅キャラメル」を思い出す。
ぼくの子ども時代、1950年代後半の、世田谷の赤堤小学校時代の思い出である。
「紅梅キャラメル」は、中に入っている野球カードを集めると、10枚ごとに景品がもらえた。1組だと選手のブロマイドなど、野球関連の景品がもらえた。
豪徳寺(玉電山下)に住んでいたぼくは、景品交換にはいつも紅梅キャラメルの本社まで歩いて行った。
今は暗渠になったどぶ川沿いのお菓子屋 “うわぼ” で買ってカードを集めては、本社(というか工場)に景品交換に行った。
会社は豪徳寺駅前商店街を北に向かって10分ほど歩いたところにあった。住宅街の中のそれほど大きくはない工場の事務所のようなところでカードと景品を交換した。銭湯のような煙突が立っていたような記憶があるが、確かではない。
大量に買ってカードをたくさん集めると、小さなカメラ(ちゃんと映った。そのカメラで撮影した写真も残っているはずである)や、裏革(スエード?)製のキャチャー・ミットなどの景品をもらったこともある。経費節約のため本革など使えなかったからだろうけど、スエードのキャッチャー・ミットなど、昔も今も市販されたことなどなかったのではないか。
澤里昌与司『さようなら紅梅キャラメル』(東洋出版、1996年)によると、紅梅キャラメルは昭和22年の創業、昭和25年に社名を紅梅キャラメルに改めたが、小学生の万引き事件などをきっかけにPTAの不買運動が起こり、昭和29年に廃業。しかし4か月後に新紅梅製菓として、旧工場跡地の世田谷区松原町で再開し、昭和34年(1959年)に最終的に解散したとのことである。
「紅梅キャラメル」が発売されていたのはわずか6年間だけだった。「紅梅キャラメル」の記憶を共有するのは、ぼくたち団塊世代前後の僅かな人だけのようである。
ぼくの思い出は「新紅梅製菓」時代のものだった。
町名も松原町である。住宅街の庭先にあったそば屋 “稲垣” や、「ルイジアナ・ママ」の飯田久彦の自宅なども近くにあった。
ちなみに「紅梅キャラメル」は「紅梅」と名のっていたものの、キャラメルの箱は紅梅というよりは梅干しに近いような真っ赤だったと記憶する。「紅梅」というネーミングは箱の色ではなく、会社のあった松原町の住宅の庭先にも植えられていただろう紅梅に因んだものなのかもしれない。
2022年3月14日 記