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豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

金沢周遊バスの旅 “広坂”

2009年11月23日 | あれこれ
 
 “城下まち金沢周遊”バスの旅、次の下車駅は「兼六園下(石川門向い)」の隣りのバス停、「広坂(石浦神社)」である。

 僕の遠い親戚(といっても祖母の弟)は、この広坂(祖母はよく「広坂小路」と呼んでいたが)で“びっくりや”という店を出していた。
 福井の“びっくりや”で修業し、やがて暖簾分けをしてもらい、金沢で開業したという話だった。
 祖母のことを「ねえさん」と呼び、祖父のことを「にいさん」と呼んでいた声が今でも耳に残っている。

 大学時代に訪ねた時の記憶では、金沢大学から山を下ってぶつかった交差点の2、3軒目で、九谷焼の店の隣だったように思う。
 広坂のバス停周辺にはそれらしい店もないので、隣りの「本多町」まで歩いたが、やはり見つからなかった。
 見つかったら、ちょうど昼飯時だったので立ち寄ろうと思ったのだが・・・。もう孫の世代に移っているだろうから、見つかっても話すこともあまりないけれど、曾祖父母は共通なのだから、血はつながっている。

 * 写真は、「広坂」バス停から兼六園方向を振り返って眺めた景色。

 2009/11/23

金沢城 “石川門”

2009年11月23日 | あれこれ
 
 “ひがし茶屋街”を歩いてから、ふたたび浅野川大橋たもとのバス停に戻り、「兼六園下(石川門向い)」で下車。

 兼六園だけはこの2月の入試監督で来た時に同僚と一緒に歩いたのでパス。2月というのに、雪ではなく雨が降る最悪の天候だった。
 途中で立ち寄った喫茶店の女将さんの話では、ここ数年金沢では雪が降っても根雪になることはないという。数年前に福井に学会に行ったときも、タクシーの運転手が同じことを言っていた。

 さて兼六園の向かいの金沢城側(金沢城公園というらしい)に入るのは初めてのこと。
 学生時代に訪れた時は金沢大学が城内にあったように記憶している。歴史的建造物を壊すことはなかったのだろうか?

 場内の風景には圧倒される。さすが「加賀百万石」である。城内の案内掲示板には加賀藩は1200万石だったと書いてあった。
 高松の玉藻城だの、松本城だの、小諸城だの、行ったことのあるお城がどれも田舎侍の居城に思える。そのおこぼれに預かった武士や町人たちもいい生活ができたのだろう。名古屋城クラスに匹敵する。

 金沢城はその石垣の組み方の多彩さに特徴があると案内板にあった。
 ぼくの女房は香川県の小豆島の出身だが、女房の実家のあたりだけは讃岐弁に金沢弁が混じっている。
 もともとこの地域は、大阪城の築城を命じられた前田藩の武士や人足たちが移り住んでできた町だと、物知りの親戚が言っていた。30年以上前にはじめて小豆島を訪ね、女房の祖母と話をした時、金沢出身のぼくの祖母と訛りが似ていたので驚いた。

 * 写真は、金沢城の石川門。兼六園側から眺めたもの。

 2009/11/23

金沢周遊バスの旅 “ひがし茶屋街”

2009年11月23日 | あれこれ
 
 11月21日(土)から昨22日(日)まで、医学系の学会で金沢に行ってきた。

 金沢には、今年の2月にも入学試験の監督で行ったので、今年2度目。2月のときは、試験ということもあって観光などしている余裕はなかったが、今回は半日空いたので、“城下まち金沢周遊1日フリー乗車券”(500円)というのを買って、街を回ってきた。

 金沢は、実は祖父の育った町なのだが、いまでは親しい親戚もなく縁遠い町になってしまった。
 祖父は1898年に新潟で生まれたが、やがて金沢に移り、長町小学校、師範学校付属を経て、金沢一中から四高に進んだ。
 苦学生だった祖父にとって金沢は懐かしくはあるが、封建的、商人的な雰囲気にはなじめなかったらしい。

 そんな金沢の街を歩きながら、祖父はどんな思いでこの風景を眺めていたのだろうか、としばしば思った。

 廻ったコースは、金沢駅前を出発して、ひがし茶屋街浅野川大橋の袂でまず最初の下車。
 浅野川は、浚渫工事中で景色は酷いもの。浅野川を背中に東に向かうと、すぐに細くてまっすぐな路地の両脇に古い家並みが並ぶ「ひがし茶屋街」にでる。
 貧しい祖父には縁のない街だったろう。
 裕福な四高生のなかには、この手の町で遊ぶ者もあったらしい。酔って“つば甚”の大屏風を蹴破ったことがあるなどという武勇伝を語った先生もいる。
 “つば甚”が東茶屋町にあるのかどうかも知らないが…。

 * 写真は、金沢の“ひがし茶屋街”の街並み。小柳ルミ子の歌のように(?)どの家の玄関も格子戸になっているが、格子戸の中にクルマをとめてある家などがあるのは興ざめである。

 2009/11/23