豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

平野謙「昭和文学私論」

2024年10月06日 | 本と雑誌
 
 平野謙「昭和文学私論」(毎日新聞社、昭和52年、1977年)を読んでいる。

 川本三郎さんの講演会をきっかけに永井荷風に関する本を何冊か読んだが、どうしても荷風という人物がぼくの中で納まりが悪い。
 先日別件で物置の中を漁っていたら、断捨離を免れて残っていた平野謙のこの本が目にとまった。ほとんど読んだ形跡はなかった。とくに荷風も登場する昭和初期の部分はまったく読んでいなかった。荷風の部分だけを読もうと思ったが、せっかくなので冒頭の横光利一から始まる第1章「昭和初年代の潮流」までを読んだ。
 旧制中学時代から文学青年で、文学雑誌を何種類も定期購読していた著者自身の読書遍歴を披歴しながら、昭和の各時代を象徴する作家や作品、関係事件を回顧する。

 昭和初期の時代は、平野によれば、円本ブームという社会現象よりも、「文壇」が「文学者集団」から「文学サロン」に変質していった時代と総括される。
 「文学サロン」というのの雰囲気は、筒井康隆「文学部唯野教授」、映画「騙し絵の牙」の文学賞発表会などを読んだり見たりしたぼくにも了解できる。さらに、数日前にどこかのテレビ番組で北方謙三を特集していたが、その中で直木賞発表会か何かのパーティーの場面があった。選考委員の浅田次郎の隣りの席に元委員の北方がふんぞり返って座っていると、大沢在昌が近寄ってきて「委員でもないのに何を偉そうな顔して座ってんだ」と因縁をつけて笑っていた。次の場面では川上未映子と嬉しそうに立ち話をしていた。あれが「文学(?)サロン」なのだろう。
 あんな「文学サロン」が昭和初期にもう成立していたのだ。あれでは、荷風が「文士」や「文壇」を忌み嫌う気持ちがよく分かる。

 無駄話はさておいて、平野の荷風論である。
 荷風は、谷崎潤一郎のデビュー作「刺青」を三田文学の文芸評で激賞したという。この雑誌を買った谷崎は、両手をぶるぶる震わせながら神保町の電車通り(!)を歩きながら読んだという。明治43、4年のことである。谷崎はこれで確実に文壇に出られると思ったという(72頁)。 
 谷崎には、荷風と自分を比較した随筆があるそうだ(「雪後庵夜話」所収)。荷風にならって自分も結婚してはならないと一時は決意した谷崎だったが、それを実行できなかった理由を分析した内容である。その理由として谷崎は、荷風のような独身、孤立主義を貫くためには豊かな資産が必要だが、自分には養うべき両親や幼い弟妹があり、荷風のような「放縦な性生活」を営むには制約が多かったこと、自分はフェミニストで恋愛に関してはファナティックだが、荷風は常に女性をみおろし、玩具物視するきらいがあること、などを挙げているという(74、5頁)。
 谷崎の小説は何も読んでいないので判断できないが、荷風については納得できる。

 荷風の女性関係について、平野は秋庭太郎「考証永井荷風」に依拠して論ずる。大震災から昭和改元までの数年間に発表された荷風の随筆考証(という文人趣味)を「昔の美人が皺の目立った顔に白粉を塗っているような感じ」で、鴎外の行った考証に遠く及ばないと評した正宗白鳥の言葉に激怒し、また、山形ホテルのボーイを怒鳴りつけ、タイガーに3時間居座り女を虐待した云々という「文藝春秋」掲載のゴシップに怒って、「濹東綺譚」のなかで文藝春秋に一矢報いたりしたが、昭和5年頃の荷風はもはや過去の人であったと平野は書く(77、8頁)。かつて荷風に激賞されて文壇デビューした谷崎と荷風の地位は昭和6、7年頃には逆転していて、谷崎が書いた荷風「つゆのあとさき」(昭和6年)を褒める書評を、平野は「過褒」であるという(78頁)。

 「濹東綺譚」についても、平野は荷風の錯誤を指摘する。すなわち、荷風はこの小説の作者を「大江匡」として、「失踪」という小説を執筆するために玉の井を探索すると設定しておきながら、荷風自身がしゃしゃり出て、自分が小説で苦心するのは背景となる場所の選定であるとか、実はそれが書いてみたいためにこの一編(「濹東綺譚」)の筆を執ったなどと書いていることを指摘する。
 平野は、これらを私小説的手法のゆきすぎによる手法上の破綻と断罪する(83頁)。60歳近い老人が海千山千の私娼に言い寄られ、彼女の真情を弄ぶに忍びないのでそっと身を引くというストーリーを「いまどき阿呆らしい話」とまでいい、この小説が一般読者に受けたのは、日中戦争勃発前の悪気流にたいする作者と読者の狎れあいによるものだったと解釈する(84頁)。
 ぼくは大江匡が荷風本人であり、「濹東綺譚」には「失踪」の作者種田某と大江と荷風自身という三人の「作者」が登場することに何の違和感も感じなかった。といより大江匡に存在感がなさ過ぎて、作者荷風(時々大江匡)と荷風の筆に翻弄される種田某の二人しか印象に残らなかった。それより、ぼくには「濹東綺譚」最終章の大江匡(荷風)の「身の引き方」は、ただの男というか小説家の狡さにしか感じられなかった。

 幸徳秋水の大逆事件に対する荷風の(「花火」に書かれた)真情についても、平野は疑問視する。大岡昇平は「花火」を、事件にかこつけて自己の無為を正当化したものであり、その後治安維持法の犠牲者には何の同情も示さなかった荷風は花柳界の他に自己の表現対象を見い出せなかったのだと批判したそうだ。平野は、その後の荷風を私娼とそのヒモに月給を与えて「実演」に興ずるような性的デカダンスに陥っていったと評する(~87頁)。
 荷風が当時の政府や軍部に協力、迎合しなかったことは間違いないが、さらに治安維持法の被害者に対する同情を示すことまで要求できるだろうか。ぼくは、その筋のお達しによりすべての「男は糞色服にゲートル」と、国民服のことを「糞色服!」と言い放って(「断腸亭日乗」昭和18年3月10日。半藤一利「荷風さんの昭和」172頁)、政府や軍部だけでなく国民服にゲートルなど巻いた一般国民をも冷ややかに見る荷風の眼差しも忘れられない。

 平野謙のこの本は、ぼくが生れ育った昭和の時代をふりかえる一書として、残りの第2章以下も読むことにした。断捨離しないでおいてよかった。

 2024年10月6日 記
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