ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

ガタカ:ジュードロウの美しさと優生学を超えるもの

2011年05月10日 | 映画♪
物悲しい音楽が物語を否が応でも静謐なものにする。屈折したエリートを演じるジュード・ロウの美しさが物語をより一層切ないものにする…おそらくSF映画の中でこれだけ何度も見直しているものもないだろう。1997年に製作されたSF映画。スターウォーズや魔法使いものが苦手な人にこそ見てもらい良質のSF作品。

【予告編】

Gattaca - Movie Trailer


【あらすじ】

近未来。遺伝子工学の進歩で胎児の間に劣性遺伝子を排除することが出来るようになった。自然の形で生まれたヴィンセント・フリーマン(イーサン・ホーク)は、心臓が弱く30歳までしか生きられないと宣告されていた。遺伝子排除されて生まれた弟アントン(ローレン・ディーン)と比べ、自分を遺伝子的に劣った「不適正者」であると思っていたヴィンセントだが、遠泳でアントンに勝った彼は家を出る決心をする。宇宙飛行士になるため、宇宙開発を手掛ける企業・ガタカ社の就職試験を受けたヴィンセントは、「不適正者」のため、DNAブローカーにジェローム・ユージーン・モロー(ジュード・ロウ)を紹介してもらう。最高級の遺伝子を持つ超エリートの水泳選手だったユージーンは、自分の優秀さゆえに悩み、自殺未遂を図り、下半身不随になっていた。(「goo映画」より)


【レビュー】

そう遠くない未来。この作品ではそう予言される。そう遠くない未来、出生前の遺伝子操作により、問題のある「遺伝子」を排除し、生まれながらにして優れた知性と能力をもった子供を宿すことができる世界が登場する。そこでは自然分娩で生まれた(遺伝子操作をされていない)人間は、潜在的な能力も劣り、身体的な問題を抱えていることも多く、職業などで「不適正者」として差別されるようになる。

物語の舞台となる「ガタカ(Gattaca)」とは、DNAの基本分子であるguanine(グアニン)、adenine(アデニン)、thymine(チミン)、cytosine(シトシン)の頭文字を組み合わせたもの。

この物語はそうしたDNA操作が当たり前になった世界を舞台に、自然分娩で生まれた「不適正者」であるヴィンセントが、挫折したエリート・ジェロームの協力をえながら、「適正者」しかいない「ガタカ」で宇宙飛行という夢に挑むというもの。しかしそこにはそれぞれの葛藤がある。

ヴィンセントは自然分娩の結果、30才までしか生きられない「不適正者」として生まれた。彼の弟・アントンは「適正者」として理想的ない遺伝子を持ち、兄・ヴィンセントよりも常に高い能力を示していた。兄弟がともにそれぞれの遺伝子によって、互いの能力を規定していた。

しかしある時、奇跡が起こる。遠泳の途中、アントンが足をつり、ヴィンセントに助けられる。その経験は、ヴィンセントに「限界」を超えるという可能性を示す。

ジェロームは競泳界でNo1が約束されたような超エリートだった。しかしその「潜在能力」は彼自身のプレッシャーとなる。他者とは違うエリート中のエリート、そのプライドと裏腹にNo1になれない自身の弱さや不遇さから、彼は自殺を図る。――しかしそれも失敗。そして彼はヴィンセントに「自分」を売ることにする。

ガタカの職員にも選ばれているアイリーンもまたエリートでありながら、わずかな劣性遺伝子に悩んでいる。自分が抱えている「心不全」の可能性がなければ、木星飛行のメンバーに選ばれたかもしれない――その想いは持てる者・ジェロームへの嫉妬へと向かう。

ヴィンセントと別れた後、アントンはエリートとして出世している。殺人事件の調査でガタカを訪れたアントンは、そこで「不適正者」のヴィンセントの影を見る。ありえないことだからか、兄弟としての親愛からか、ヴィンセントを「個人」として追いかけようとする。

対峙する2人。しかしその奥底には「ヴィンセントに負けた」ことを否定したい気持ちが隠せない。


遺伝子操作の結果、「適正者」として、エリートとして生まれた3人。3人の抱えたコンプレックスはそれぞれ別物だ。しかしそれぞれが「持つ者」としての、テクノロジーの幻影それによってもたらされる可能性という制約に縛られている。潜在能力が高くともそれが全てを決めるわけではない。

自らの正体を明かしたヴィンセントはアイリーンに言う。

 何が不可能か君にはわかるはずだ
 欠点を探すのに必死で、気づかなかったろう。
 こんな言葉は慰めにならないだろうが「可能」なんだ。

情熱や努力やそうした精神的なものによって人間の可能性は開かれていくのだという、そのシンプルなことをこの物語は伝えてくれるのだ。

その想いはガタカの人々にとってもそうだったのかもしれない。70年に7日という機会を活かすために、あるいはヴィンセントの努力をしっているからこそ、彼らは彼を送り出す。ジェロームもまたヴィンセントが戻ってきてからも「ジェローム」として生きていけるように手はずを整える。

誰もが「不適正者」である彼を応援しているのだ。

しかしその結末は悲しい。ジェロームとして相応しく生きていけるのが仮にヴィンセントだったとして、そうとしかできなかったのか。それは未だ「遺伝子」というテクノロジーや制約に縛られ続けているだけなのではないか。そんな気がするのだ。


と、この作品では遺伝子操作によって新たなる時代の「差別」が起こりうる可能性を描いているのだけれど、これはどのように見ることができるだろうか。

この問題は俗に言う「優生学」の延長として考えることができる。

優生学というのは、人間の遺伝的特性を改良することで優れた遺伝形質・性質を持った子孫を残していこうとする学問。しかし実体としては、ナチス政権下のドイツでは、精神病患者や障害者など「不適格」とみなされた人々に対する強制断種が行われたり、民族浄化の名の下でユダヤ人やジプシーに対するホロコーストが実施されるなど、本来の思想を超えて残虐な行為と結びつくこととなった。

それはアメリカでも例外でなく、多くの州で白人と有色人種間の混血が禁じられたり、知的障害者に対する強制断種が行われたりもした。

現代では公に「優生学」を支持する者がいないのも、こうした残虐行為との結びつきによるためだろう。

しかしその一方で、出生前診断などで胎児に障害や病気が確認された際の堕胎が認められており、これなどは個人の権利の追求なのか、優生学的な考えによるものなのか判断が難しくなりつつある。

この映画では、両親が子供のためにも問題のある遺伝子を排除しようとする。

これは「両親」の自己決定権、権利の追求、子供の幸福を願う行為だと言っていいのだろうか。この行為とは反対に「ロングフル・ライフ訴訟」というものが存在する。

ロングフル・ライフ訴訟とは、重篤な先天的障害をもって生まれた人が、その苦痛に満ちた生そのものを損害であるとして、親に中絶することを促さなかった医師に賠償を請求する訴訟のこと。彼らの心根には、障害のある人生になるくらいなら生まれてこなければよかったという想いがある。

遺伝子操作という行為はこうした問題を解決してくれる。

しかしこの作品に登場した3人のエリートたちがそれゆえの悩みや屈折を抱え、「不適正者」とされたヴィンセントが困難を乗り越えながら夢を実現していけたことに、僕らはメッセージを感じとらねばならないのだろう。

もちろん生まれながらにしての「差異」や「困難さ」は大きな問題となりうる。それでも与えられた環境を引き受けて、僕らは生きていかねばならないのだ。


【評価】
現実にありそうな感:★★★★☆
音楽の物悲しくも美しさ:★★★★☆
兎にも角にもジュード・ロウが美しい…:★★★★☆


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〈個〉からはじめる生命論 / 加藤秀一 - ビールを飲みながら考えてみた…



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